このページでは、道元禅師の『正法眼蔵』からさまざまな言説を引用し、現代語訳を通じて学んでいきます。まず、道元禅師や『正法眼蔵』をご存じない方にも親しんでいただけるよう、簡単にご紹介いたします。
道元禅師の紹介
道元禅師(どうげんぜんじ)は、鎌倉時代初期の禅僧で、日本における曹洞宗の開祖として知られています。1200年1月26日に生まれ、1253年9月29日に没しました。諡号は仏性伝東国師、承陽大師です。宗門では高祖承陽大師と尊称され、日本仏教史上、最高の哲学者とも評される人物です。主著『正法眼蔵』は、禅の思想を深く探求した書物として、後世に大きな影響を与えました。例えば、哲学者の和辻哲郎や作家の川端康成、アップル社の故スティーブ・ジョブズは、間接的に道元の教えの影響を受けています。
道元の生涯は、幼少期の喪失と出家への決意から始まります。京都の公卿・久我家(村上源氏)に生まれ、幼名は信子丸や文殊丸とされます。父は内大臣源通親、母は太政大臣松殿基房の娘藤原伊子とする説が有力ですが、諸説あります。3歳で父を、8歳で母を失い、異母兄堀川通具の養子となりました。神童として知られ、4歳で『倭詩綽』を諳んじ、7歳で『春秋左氏伝』を、9歳で『阿毘達磨倶舎論』を読みこなしたといわれています。母の死をきっかけに無常を感じ、母方の叔父松殿師家の養嗣子誘いを断り、出家を志しました。14歳で比叡山延暦寺で出家し、天台教学を学びますが、修行上の疑問(「本性は仏性であるのに、なぜ修行が必要か」)を抱き、1214年に建仁寺の栄西に師事して禅宗に入門しました。
1223年、24歳で宋(中国)に渡航。栄西の弟子明全とともに危険な航海を乗り越え、天童山景徳寺で参禅します。そこで出会った天童如浄禅師のもとで大悟し、「身心脱落」(心身の束縛から解き放たれる境地)を体得。1227年に帰国後、京都の深草に興聖寺を開き、禅の布教を開始しました。しかし、天台宗からの迫害を受け、1243年に越前(福井県)に移り、翌年大仏寺(後の永平寺)を開山。ここで弟子を育成し、晩年を過ごします。1253年、病のため京都に戻り、西洞院高辻の俗弟子宅で没しました。享年54歳でした。永平寺は現在も曹洞宗の大本山として存続しています。
道元の業績は、曹洞宗の確立と著作にあります。宋から伝えた曹洞禅を日本に根付かせ、永平寺を拠点に僧堂制度を整備しました。弟子の懐奘や孤雲懐弉らを育て、教えを継承させました。主な著作に『正法眼蔵』(87巻以上)、『永平広録』(説法集)、『普勧坐禅儀』(坐禅の指南書)、『永平清規』(寺院規律)があります。弟子の懐奘が編纂した『正法眼蔵随聞記』は、道元の日常説法を記録した貴重な資料です。また、在宋中の問答をまとめた『宝慶記』も重要です。
思想の核心は、「只管打坐」(ただひたすら坐禅に打ち込む)です。悟りは修行を通じて顕現する「修証一等」を主張し、成仏は無限のプロセスだと説きました。末法思想を否定し、誰でも仏法を実践可能と強調。『法華経』を重視し、自然や日常に仏法を見出す視点も特徴的です。この教えは、現代のマインドフルネスや哲学に影響を与え続けています。
道元禅師は、厳格な修行者として知られつつ、慈悲深い指導者でした。生涯を通じて仏法の純粋性を守る禅僧であったと同時に、日本の思想史のなかで独創的な認識論哲学を築いた哲人でもありました。
『正法眼蔵』の紹介
『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)は、道元禅師の主著で、日本仏教思想史上最高峰の書物の一つです。鎌倉時代に執筆され、禅の核心を深く探求した仏教思想書です。タイトルは「正法眼蔵」という仏教用語に由来し、仏法の端的な肝心要、つまり正しい仏法の眼(洞察力)を蔵(宝庫)とする意味です。道元はこれを、宋から伝えた曹洞禅の教えを基に、独自の解釈でまとめました。初めての方には、禅の哲学書としてお考えください。日常の坐禅を通じて悟りを体得する指南書であり、単なる宗教書ではなく、存在論や時間論を扱った深い思索の産物です。
道元禅師は、1231年から没する1253年まで、20年以上をかけて執筆。当初100巻を予定していましたが、病のため未完となりました。現存するのは主に75巻本と12巻本で、合計87巻。後に拾遺として4巻が追加され、別巻やその他編を加えると90巻以上になります。75巻本は主に禅の理論を、12巻本は実践的な戒律や在家向けの教えを扱っています。たとえば、75巻本の「現成公案」は今この瞬間の現実が悟りの公案(禅の問答)であることを、「弁道話」は坐禅の方法を詳述したものです。12巻本の「出家功徳」は出家の利点を、「受戒」は戒律の重要性を説きます。
構成の特徴は、漢文の禅語録から公案を抜粋し、道元禅師独自の注釈を加える形です。真字版『正法眼蔵』(300則の公案集)が基盤で、道元禅師はこれを仮名で書き直し、日本人向けにわかりやすくしました。当時の仏教書が漢文中心だったなか、仮名使用は革新的で、仏法を広く伝える意図がありました。巻ごとに独立しつつ、全体として一貫したテーマを形成しています。たとえば、「摩訶般若波羅蜜」は般若心経の解釈、「仏性」はすべての存在に仏性があること、「山水経」は自然界に仏法が現成することを論じます。
テーマの中心は、曹洞禅の実践と思想です。道元禅師は「只管打坐」を強調し、坐禅そのものが悟り(修証一等)であるとしました。悟りは段階的に達成するものではなく、修行の過程で無限に現成する「本証妙修」です。「身心脱落」は師如浄から得た悟りの境地で、心身の執着を捨て、ありのままに生きることを意味します。また、無常・無我の立場から、存在を縁起(相互依存の関係性)として捉え、言語の限界を指摘。たとえば、「而今の山水は、古仏の道現成なり」(山水経)のように、日常や自然の中に仏法を見出す視点は、現代のエコロジー思想にも通じます。末法思想を否定し、誰でも仏法を実践可能と説く点も特徴的です。
曹洞宗の聖典として、歴史的意義は大きいです。道元禅師の死後、弟子らにより書写され、75巻本、12巻本、60巻本など6系統が存在しています。現在、旧稿75巻+新稿12巻が標準とされ、95巻本には異本も混入しました。真筆として「山水経」(全久院所蔵)や「嗣書」(駒澤大学所蔵)などが残り、国宝級の価値があります。関連書に『正法眼蔵随聞記』(懐奘編)、註釈書『正法眼蔵直解』もあります。江戸時代に禁書扱いされた時期もありましたが、明治以降研究が進み、現代語訳(例: 岩波文庫全4巻、河出書房新社全4巻、誠信書房全4巻)などでアクセスしやすくなりました。
『正法眼蔵』は、約780年前の仏教用語や概念を含み、かつ当時の言葉で書かれています。哲学的な認識論の内容が多いため、現代語訳者の方々も難解な解釈に苦労されたことと思われます。当然、解釈が分かれる箇所や解釈の困難な箇所も存在します。
現代の一般読者は現代語訳を読むことがほとんどだと思いますが、原文も日本語ですので理解できる部分もあります。現代語訳の手を借りつつも、古文の趣を感じながら原文に挑戦してみてはいかがでしょうか。もしかすると、独自の解釈を発見できるかもしれません。
このページにおける原文の引用および現代語訳は、私個人が蔵書している以下の文献を参考にさせていただきました。
【参考文献】
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- 岩波書店編『日本思想体系12・13 道元』上下巻、岩波書店、1970-1972年
- 道元著、高橋賢陳訳注『正法眼蔵』上下巻、理想社、1971-1972年
- 道元著、中村宗一訳注『正法眼蔵』全四巻、誠信書房、1971-1972年
- 道元著、石井恭二訳注『正法眼蔵』全四巻、河出書房新社、1996年
- 木村清孝著『正法眼蔵・全巻解読』佼成出版社、2015年
道元禅師『正法眼蔵』から学ぶ
但惜身命(第六 行仏威儀)
こゝに為法捨身あり、為身捨法あり、不惜身命あり、但惜身命あり。法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり。
ここに、法のために身を捨てることがあり、身のために法を捨てることがあり、身命を惜しまないことがあり、ひたすら身命を惜しむことがある。法のために法を捨てるだけでなく、心のために法を捨てるところに仏教の本懐がある。
不惜身命は法華経「譬喩品」の出典です。
若人精進、常修慈心、不惜身命、乃可為説
もしある人が仏道に精進し、常に慈悲の心を修め、身命を惜しまないのなら、その人のために法華経を説きなさいという意。
道元禅師は若い頃に法華経を学んでいます。仏道の精進に身命を惜しまない不惜身命も立派な心構えですが、それだけでは足りないと考えました。仏道をきわめることは目的です。しかし、その目的のためには身命があるという手段が最低限必要です。身命があってこそ仏道に精進できる。そこが足りないと発見したのは道元禅師の慧眼です。ここに、但惜身命という概念が生まれました。

