新生、すなわち偶然の物語へ


2025年 元旦。

多くの人は一年の抱負を考え決める日である。一年のうち、心機一転を図り昨日までの過去をできる限り断絶し、新たに心を切り替える日の代表は元旦と誕生日である。しかし心機一転と言っても一カ月もたてば忘れてしまう人が殆どのような気もする。そうならないように、元旦ということもあるので「新生」について考えてみよう。

 

ハンナ・アーレント

女性の哲学者として最も光を放ったドイツ生まれのハンナ・アーレントは、人が生まれることに人間たる本質があると述べている。人の生は不可逆的であり死をもって終わる。誕生した瞬間、その子には何の目的もなく予測可能性も一切ない。人生において最も可能性の自由度が高い瞬間が出生時である。やがて自由度は失われていき雁字搦めとなる。そんな自縛を解き再び新生することは可能だろうか。アーレントの言葉を引用してみよう。

新たに始めるというこの力能なしには、つまり中断し干渉するという力能なしには、人間の生のように誕生から死へと「急ぐ」生は、特異に人間的なことの一切を、何度も繰り返し引き裂いては朽ちさせ没落に追いやるべく宣告されている、ということになろう。(略)しかしだからといって人間は、なにも死ぬために生まれてきたのではない。そうではなく、何か新しいことを始めるためにこそである。生まれてきた人間とともに世界にもたらされた真に人格的人間的な基層が、生のプロセスによって摩滅してしまわないかぎりは、これが事実なのである。(みすず書房 『活動的生』34節)

アーレントは死が目的であるかのようなニヒリズムを力強く否定する。人間が主体的に社会へ「行為」することは、網の目のような関係性を構成している人間社会に波紋を広げ偶然性を生成する。そうでなければ人間も人間社会も機械のように閉じた必然性の中で無意味な活動を繰り返すだけになる。偶然性の象徴である出生は人間の奇蹟であり、一人の子の偶然の出生によって人間社会に別の力動が生まれる。これこそが人間の実存の現れだとアーレントは述べる。

なるほど。それならば人生のある時点で、中断し新しく始めることで死への一直線の機械的プロセスから解放され人間らしさを取り戻すことが出来るのではないか。もちろん出生時のような最も高い可能性の自由度はないにせよ。或いはどれほど老いたとしても。

例えば、これまでに全く経験のないボランティア活動に参加することも、新しい道を切り拓く一歩となるかもしれない。アーレントが指摘するように、私たちには「中断し新しく始める」力が備わっている。

 

目的と手段の価値転換

「手段が目的になってしまっている」という批判がよくある。これは本来の目的を忘れ、手段それ自体が目的となってしまった状態である。例えば、教育の本来の目的は、個人の知識やスキルを深め、思考力や創造性を育むことにある。しかし、しばしば「テストで良い点を取ること」が目的化されることがある。結果として、生徒がテストで問われる知識に偏り、本質的な学びや創造性を失ってしまうという問題が生じる。

私の新たな発想は、上述のような手段の目的化ではなく、手段を目的化するために目的をつくって新たに始めるというものだ。例えば、良い人との出会いを求めたい、良い縁をもちたいと、多くの人は望んでいるだろう。そのために出会えそうな場へ自らが踏み込んでいこうとする。しかしなかなかそうはいかない。なぜなら、良い出会いは意図的よりも偶発的に起きることがほとんどだからだ。

仮に、世界中の貧しい子どもたちに教育的な絵本を創るという目的でボランティアで参加してくれる人を集めるとしよう。または参加することにしよう。そこでの偶発的な出会いに良縁が生まれる可能性が考えられる。この場合は手段が目的化され、本来の目的は目的かつ手段になる。これにより、一生の親友となった人と出会えたり、やがて結婚し子どもを授かった人と出会えたならば、結果的に本来の目的は手段となり、手段は目的となったという逆転現象が起きる。

そのようにして新しいことを始める、自分自身を新生させることは、アーレントが「行為」として述べているとおり、偶然性と予測不可能性の海にみずからを投げ入れることであり、真に人格的で人間的な活動であると言えよう。

大きな偶然性が期待できること、過去の自分の経験が通用しない予測不可能性が高い道を目指すことが新生となる。必要なのは能力ではなく、固い信念と逞しい勇気だけである。

2025年が新生した。彼はこれから一年間、時間の場を提供してくれる。この場に、現存する人類全員が自分自身の物語をつくる。私は、上述の目的と手段の価値転換を応用し、2025年という場の全体をプロセスとして、偶然性の物語化を新春の抱負として考え、実践することにした。

もしあなたが共感してくれるのならば、
これからの一年間、あなたはどんな偶然を探しに行きますか?
どのような新しい挑戦を始めますか?
偶然の波紋を広げるために、まず一歩を踏み出す場所はどこでしょうか?

 

 

思想について


今日は2024年の大晦日。
最近は日々の断想を書くことを怠っていた。思いついたことはSNSプラットフォーム (エックス:旧Twitter)に独り言として書くことが多かった。手軽である一方、ここにしっかりと残す作業がわずらわしく感じていた。また、「人類哲学の独創」と「私の美学建設」というライフワークの本論に注力していたことも一因である。
せっかくの大晦日なので、久しぶりに断想を一稿したためてみたいと思う。

 

テーマは「思想について」

まず、思想と哲学の違いについて述べてみる。この二つは、それぞれの言語から連想される観念上の概念であり、私の個人的なものである。他者とは異なることがあって当然だということを前提に置く。

私にとって、「哲学」は価値判断を一切含まない。善悪、優劣、損得、美醜といった色付けを排除した、無色透明の純粋な論理であり、根本原理を考え抜く学問である。一方で「思想」は価値判断を含む。「良い」という色付けが加わり、それを基盤に体系化されたものだ。個人では実存主義や倫理学、社会では自由平等主義やナショナリズム、さらには宗教も「思想」に含まれる。

哲学の本質は考えることであるから動的であり、思想は既に出来上がったものとして静的である。しかし近年では、単に論理的に一貫した理屈や態度を示す人を「彼には哲学がある」と表現するのをよく見かける。「政治哲学がある」といった言い回しも同様だ。これには「良い」という価値判断や「こうすべきだ」という信念が伴っている。私にとってこれは哲学ではなく思想信条である。

 

思想とは何か

宗教信条を含め、思想信条なくして人間は生きていけるのだろうか。この疑問が最初に思い浮かぶ。思想の根本から考えてみよう。

幼児は価値を覚え、親や社会から多様な価値観を学びながら、自己の価値観を形成する。しかし価値観が混在したままでは安定せず、他者や社会と関わる中で「社会的信用」の重要性を学び、それを獲得するために「変わらないこと」を社会の側から求められることに気づく。

言動が整合性を欠いたり、態度を容易に変えたりする者は信用を失う。一方、柔軟に価値判断を行う人間も、ときに疎まれる。人は他者に一貫性を要求し、それによって自身の内的世界の安定を図るのである。こうして社会的信用を重視することが、自分に統一的な思想信条を欲する理由の一つになる。思想信条は、自己を律する基準として有益であるが、同時に柔軟性を失い固陋となるリスクも忘れてはならない。

思想は個人が自己を形成するための重要な基盤ともなる。特に若年期において、人は外部から取り入れた価値観や思想信条を通して、自らのアイデンティティを模索し、自分が社会の中でどのように位置づけられるべきかを考える。しかしこの過程では、外部から与えられる思想に依存する一方で、それに批判的視点を持つこともまた必要である。思想は、個人が無意識的に従属してしまう罠となり得るが、自分自身の思考による訓練を通じて、外部の影響を超えた「自己の思想」を構築する力となる。人間が自己の思想を持つとは、外部の価値観に影響されつつも、それを咀嚼し、自らの内的世界で再構築する能力を指す。

 

思想の多様性

人間は苦悩し、恐れ、迷う存在だ。宗教は教義によって迷える人々を包み込み、苦悩や死への恐れを軽減する。また、同じ信仰をもつ者同士で価値観を共有し、共感の世界を提供する。しかし、宗教共同体の同調圧力や洗脳、精神的依存が生じることも忘れてはならない。

ところで、思想は社会基準を提供し、治世的秩序を構成する道具としての側面もある。民主主義、資本主義、社会主義、ヒンズー教のカースト制、儒教思想、プロテスタンティズムなど、歴史上さまざまな思想が生まれては消え、残り続けている思想がある。今後も人類は理想の社会像を追求し、その手段として思想を活用し続けるだろう。

思想の世界を哲学として捉えれば、それはプラグマティックに創造された観念上の空間である。本質的には想像的世界であることに留意しておこう。

最後に、私のライフワークである「人類哲学の独創」の「思想」にかんする項目については、さらに熟考を重ね原理論構造の中にまとめていく旨を誓い、本年の断想は筆を擱くこととする。

 

 

自由な思考への哲学的な旅


7年ほど前にリベラリズムについての論考を書いたことがある。「リベラリズム考(1)―多義性」から連続11回。今回は「思考」という違った角度から「自由」について少し掘り下げてみたい。哲学的思考の旅を楽しもう。

リベラルという言葉の第一イメージには「自由」がある。しかし言葉の概念イメージは、個々によって異なる。リベラリズムは多義的であり「自由」も多義的だ。前者にはイズムが付いているので理念的であり、その理念を善しとする思想である。一方で「自由」は理念でも思想でもなく、形容表現である。

形容表現を本質とする「自由」概念については、私は、まだ哲学的に取り組むことをしていない。今日のタイトルは「自由な思考への哲学的な旅」だが、本来は「自由」概念を明らかに、否、ある程度は「私は定義として自由という言葉をこのように使う」ということを先に提示すべきだろう。他者に文意を伝えるためには。今回はそれを飛ばし、自由な思考について自己の探究の一部として考えてみたいと思う。

というのも、私は本当に自由な思考をしているのかという疑問を強くもったからだ。そこには根本的なテーマである自由意志がある。これは一つ前の断想で「偶然性と自由意志」について書いた続きでもある。ただし今回は思いつくまま、エッセイのごとく徒然に綴ってみたい。

 


日本に暮らす私たちには、自由と民主主義の価値観に基づいてさまざまな「自由権」が憲法の基本的人権として保障されている。表現の自由、言論の自由、移動の自由、判断の自由などがそれである。もちろんここには思考の自由も含まれている。良い国に、良い時代に生まれたことに感謝しよう。

では、思考する材料はどこにあるのだろうか。外部世界の情報の真偽を判断し、真実を取り込み虚偽を捨てる。しかし巧妙に情報を操作され、虚偽情報を真実としてインプットしてしまうリスクについては認識しておくべきだろう。特に「物語化」された情報の真偽判断には注意すべきであるし、自分で情報を組み合わせて虚偽の物語を創作してしまう危険性もある。

これらも自由だと言えばそれらしいが、本当は不自由に強制されているかもしれず、思い込みによって頑迷に思考の自由を閉じてしまっている状態かもしれない。無反省であってはならない。

ところで、私たちが真偽判断に使う自身の機能には、頭脳と心、身体的感覚、第六感などがある。それらは身体内にある。外部情報についても身体内に入力される。記憶や価値観、感情をもとにして、私たちの内面である観念世界にそれを再創造する。この創造には想像力がたぶんに含まれる。

そのように考えると、ニーチェが述べていたように、私たちの内的世界には事実はなく、解釈と考察、想像によって創造された観念世界があるだけだ。外部世界に観点を転じればカントのいう「もの自体」を措定することも可能だが、今回はそこに立ち入らない。私の観念世界には実体験を基にした「私の人生の物語」がある。任意の誰かの観念世界には「その人の人生の物語」がある。

「人生の物語」が創造される基となる実体験は、意識上で思い出せないことを含め、記憶にその全体が存在する。無数の実体験により価値観形成が行われ、価値観は別の実体験によってその都度書き換えられる。実体験には身体的な感覚や感性的なクオリアも含まれる。知性的および感情的、身体的な価値観はその都度欲求や感情を生じさせ実体験化される。知性的には人間のもつ想像力が観念世界を創造し、創造した観念世界が実体験化される。また、社会や他者と自己との関係性や相互作用は人間的に喜怒哀楽を生じさせ実体験化される。そうした実体験のすべては、結果として「人生の物語」に豊饒な意義を与えている。

ひと一人の「人生の物語」は唯一無二の物語であり、人類全体に広げても誰一人として同じ「人生の物語」は存在しない。

個人の内面に創造された観念世界は個々それぞれ唯一無二の「人生の物語」に依拠するが、その「人生の物語」の些細な全てを言語で表現することは到底かなわない。99%以上が言語から欠落する。しかし、身体性を含めた私たちの観念世界、いわば「自己本体」には100%内蔵されているはずだ。だが意識はそれを知り得ない。

さて、このように意識上での自分はこの構造と力学を知り得ない状況のなか、私たちは自由に思考し判断を下していると思い込んでいる。実際には、自分の「人生の物語」と自分の「観念世界」に基づいた価値観と訓練された思考方法によって意識上の思考を行っている。ということは、意識上の思考に自由意志はない。そうではなく、「自己本体」にこそ、唯一無二のオリジナルな自由意志があるのではないか。

批判的に吟味してみよう。

「人生の物語」も「観念世界」も、外部情報の影響を受ける。社会的価値観と倫理観、あらゆる人間関係、生活活動をする環境の文化的価値観、成育時の教育環境、宗教や思想の情報、精神美学的憧憬の的となるような対象との接触、そのような環境は、ある時は必然的に、ある時は偶然的に、ある時は目的的に、自己の周囲に形成される。身体性もそうで、栄養は外部から摂るほかない。遺伝的気質や先天的能力について言えば、親や先祖の遺伝子はもともと私の外部に有ったものだ。

そう考えてゆくと、私の本性である「自己本体」のすべては、外部を因として形成されていると言えるのではないか。すべてが外部を因として形成されているにもかかわらず、私の「自己本体」に自由意志があると言えるのか。

 

結論もまとめもない。何度も繰り返し深く考え続けることで、意識上の私が知らない私の「自己本体」では自由な思考が展開されていると信じ、哲学の旅を続けよう。旅路をする知の窓は、いつでも広く開け放っておこう。

 

 

偶然性と自由意志


 

1.偶然性と必然性

私はこれをまず、自分が主体として捉える場合と客体として捉える場合とに分解したい。偶然性の議論をする上で、偶然と必然の対照性について考えることが糸口になると考えるからである。対比構造の議論によって理解が深化し、新しい本質的な知見が得られるのではないかという期待もある。

そしてこのテーマの向こう側に、自由意志の有無の議論があることを見据えている。世界決定論的な世界観ではすべてが必然であり人間に自由意志はない。一方で偶然性を有する未来について予測不可能な世界観では、人間の自由意志によって思考し判断する。よって自由意志を考察する上で、偶然性と必然性の議論は有意義である。

 

2.客体として

主に現代物理学からの科学的見地であれば、この宇宙の活動すべてが必然であると考えることができる。偶然性はないとするのが科学的な立場になる。例えばサイコロを振って「3」の目が出る事象について考えてみよう。サイコロを転がすときの手と指の角度や力加減、気温、気圧、ミクロの空間状態、テーブルの凹凸と摩擦などすべてが影響し、それらが物理法則にしたがう結果、必然的に「3」の目が出ると考えることができる。例外はない。

私たちはこうした科学的見地からものごとを思考し判断する知性をもつ。この観かたを客観と呼ぶ。客観を使って自分自身を客体として捉えれば物理法則に包摂される人間としてのあらゆる活動は必然になる。身体的な活動、例えば血液の流れや呼吸、内臓のはたらきも病気も必然であり、思考や感情、理性も倫理判断も、人間のあらゆる精神活動も必然であり、人間には自由意志がないとなる。

但し、自由意志を考察していくうえでは「意志」という概念と、その本質的な生成原理を明らかにしなければならないため、現在の私の知的力量では手に余る。自由意志についての詳論は後日、あらためて取り組んでみたい。

 

3.主体として

私たち人間は、科学に対するように客観としてものごとを捉える観点をもつが、現実を理解する上では主に主観によって捉えることが多い。身体に熱や痛みがなければ体内で癌細胞が育っていることは認識できない。自分を客体として検査をしなければわが身の詳細な健康状態はわからない。また、サイコロを振って「3」が出るのを必然として捉えることはできない。ミクロの物理現象を認識できないからだ。主観として論理的に説明できない交通事故に偶然性を感じるのも、天気予報にない突然の雷雨を偶然と感じるのも、人間主体としては自然な解釈である。客観的に論理をもって推測しても、自分のなかにそれを裏付ける根拠をもたない場合に、偶然性が混入された解釈が生じる。

他方、仮説として「これは運命で必然である」というふうに非論理的に幻想の必然性をつくりだし信じることもできる。運命の出会いや運命の赤い糸を必然であったかのように語り、それが非論理的であることを承知で夢見ることにロマンを感じることもまた、人間ならではの想像的世界を楽しむ情緒的ワンシーンである。

このように、論理的か非論理的かにかかわらず、私たちは客観の必然性をさも理解しているかのように主体として捉えることもできる。しかし論理的な正しさを徹底的に重視するのならば、周囲の環境変化や事象、自分自身の生命活動すべてについて完全な論理性を証明する能力が一人間にはないため、解釈に非論理的な偶然性を補完し、必然性に偶然性が伴って起きていると認識するほうが精確である。偶然性が伴えば、その事象は偶然となる。

主体として主観のみをはたらかせての認識は、すべて偶然であると言えよう。よって主体としての自由意志は有る。否、すべての思考と判断は自由意志だと言える。

 

4.自由意志について

ここで自由意志について少し掘り下げ、触れておくことにする。通常、私たちは必然性を考えながら計画や予定を立てたり危険を回避したりしながら生活している。必然性によって未来の事象を推測する能力が人間にはある。犬や猫、カラスにも推測する能力を認めることができる。しかし何もかもが計画や予定どおりには行かないことも知っている。買い物に出かける予定を立てていたが、家を出る直前におなかが痛くなったり、急用の電話が入ったり、買い物に行ったはいいが店が閉まっていたり、店に目当ての商品が無かったりなど、計画どおりに行かないことは日常茶飯事だ。

そうした主観的必然性を超えて生じる事象について必然だと解釈せず、私たちは偶然にそうなったから仕方ないとか、他者や自分に対して腹を立てるとか、今後はこういうことのないようにしようとか、計画の論理的欠落部分および偶然性を認識し、学習し、頭脳と心を整える。そのような習慣から、世界は必然性だけではなく偶然性が伴っていると認識しているからこそ、選択に迷い、判断に迷い、その上で意思決定を行っている。自由意志によって生じた責任の大半は自分にあると。

おなかを壊さないように朝食は何にするか、愛する人の誕生日プレゼントに何を贈ろうか、他人の迷惑にならずに電車に乗ること、社会のために何かをしたいので自分にできることをしよう、などを自分で思考し自分で判断するのは自由意志によると私たちは考えている。

しかし一方で、客観的な視座によって科学的に世界の解釈を試みれば、先天的な遺伝的要因と後天的な社会環境がもつ価値観の学習要因によって、自らの価値観や性格が自動的に形成され、すべては人間の心的欲求を原理とした必然であると解釈することもできる。

偶然性と必然性を対照的に捉え、両者が同時に存在することで生じる論理矛盾を積極的に受け容れることで、新たな知的パラダイムへの転換が可能になるのではないだろうか。

 

5.偶然性と必然性のアウフヘーベンと融合

偶然性と必然性を企図的にコンフリクトさせることでアウフヘーベンが起き、新しい第三の何かが生成される予感がある。偶然性と必然性は対立はしていても、相互に影響を与え合っている。私たち人間の認識における解釈は通常、主観と客観を無自覚的に混在させて行う。このとき、主観と客観は行ったり来たりを繰り返し、相互に関係しあう状態にある。関係は反発しあう場合もあるが、融合する場合もある。主観は偶然性を感じ非論理的解釈を生じさせ、客観は必然性を基に論理的解釈を追求する。

私たち人間は意識上では、一度に一つの文脈でしか思考することができない。同時に別々のことを並行して思考することができない。主観で事象の解釈に偶然性を介入させ、次に客観の必然性を考え解釈する、というふうになる。ところが意識上ではなく自己本体では、同時に複数の思考を並行して行っている。だから突然の閃きが起きる。自己意識では認識できない活動結果そのものを、自己本体の自由意志と定義することは可能だと思う。

難問であるので、引き続き考察を深めていきたい。

 

6.時間の不可逆性

さらに、自由意志を考える上で、時間の不可逆的性質を議論に含める必要がある。過去の出来事が未来の出来事に影響を与えるのは因果律によって当然だが、時間の不可逆的性質は未来に起きる事象が過去の事象に影響を与えることはないことを示している。物理的に、過去から未来へとエントロピーが増大することで時間の不可逆性が生じるのか、時間の不可逆性によってエントロピーが増大するのか、いずれにしても、時間の不可逆性によって過去と未来は非対称となる。

未来の事象によって人間の過去解釈は変わることがあるが、事象そのものは変わらない。現在の事象は過去の結果として必然的に決定されたと解釈することができるが、現在以降の未来の事象は現在において決定論的世界観をもって予測することはできず、偶然性が常に存在すると言える。

偶然性が常に存在するのであれば、思考し判断する自由意志は、必要不可欠と言えるのではないだろうか。

 

まとめ

偶然性と必然性、主体と客体、主観と客観、自由意志と世界決定論、自己本体と意識体、これらのテーマについての考察を深めることは、私の自己本体の中で閃きと洞察の化学反応が起きることに繋がる可能性があると考えている。

 

 

『正法眼蔵』から学ぶ


道元の大著『正法眼蔵』。今までは気が向いたとき断片的に、原典に軽く触れるだけだった。しかし原典は難しい。もし任意の一巻だけでも真剣に自力で解釈しようと思えば2-3日では済まない。解釈も日々変わる。

今回、思うところがあり、現代語訳の書物の手を借りながら真剣に読んでいくことにした。巻の数え方は諸説あるが「七十五巻」として進めていく。第一巻から読み始めるということではない。各巻には題が付いているので、その時々に興味を感じた巻を読んでいく。『正法眼蔵』だけにかかりきりにはなれないので、週に最低一度は触れる予定とし、サイトコンテンツ《断想》に、考察したものを著述していくことにする。数巻まとまってきたら、サイトコンテンツ《研鑽の足跡》の《「こころ」と「すがた」の涵養》に整理していく。

『正法眼蔵』の原典は、岩波書店『日本思想体系13 道元(上)/同14 道元(下)』を使用する。(上)には『辯道話』が、(下)には『十二巻 正法眼蔵』が所収されている。
『正法眼蔵随聞記』にあたる場合の原典は小学館『日本古典文学全集27 正法眼蔵随聞記』を使用する。

現代語訳として参考にする本は、河出書房新社 石井恭二訳『正法眼蔵 全四巻』、理想社 高橋賢陳訳『全巻現代訳 正法眼蔵 上下巻』、角川書店 増谷文雄訳『現代語訳 正法眼蔵 全八巻』、誠信書房 中村宗一訳『全訳 正法眼蔵 全四巻』、佼成出版社 木村清孝訳『『正法眼蔵』全巻解読』を使用する。

 

 

《断想》はプラクシス


《断想》を書くのはひさしぶりだ。約三か月ぶり。最近はインプットがほとんどでアウトプットが出来ていなかった。サボりだ。インプットは楽だからねえ。でもインプットだけでは全然身につかない。忘れてしまう。あまり意味がない。本来、アウトプットのためのインプットのはずだ。読書で学んだことを使っていくことで、はじめて身についていく。そういうものだろう。

ところで、このウェブサイト全域をリフレッシュしようと思い立ち、ひとつひとつの記事について見直しをしている。今ここに書いている《断想》は「投稿ページ」になり、サイト全域の記事は「投稿ページ」と「固定ページ」の二種類に分かれる。この一週間で、「投稿ページ」のすべてにチェックを入れ、リンク切れや誤字脱字の修正、文字の大きさやカラーの統一、ページURL統一のための変更、ごみ記事の削除などを行いすっきりした。「固定ページ」のほうは創造と変革が随時行うことになり自然に修正される。

「投稿ページ」コンテンツは《断想》であり、その日その日に想ったことについて書く。《断想》がブログと異なるのは、ブログの場合は日常の具体的な日記のような感じになるのに対し、《断想》は主に抽象的で論考的な文章になるか、詩作的文章になる。ほとんど詩はまだ書いていないけれど。コラムは社会的なことにたいする論考なのでこれも違う。とはいえ、今日のようなブログ的なエッセイを書くこともあるし、コラム的なことを書くこともある。それも含めて《断想》ということで。

過去7年間での《断想》は250記事でそれほど多くはない。でも一記事ずつチェックを入れていく作業はけっこうハードだった。集中したので時間を忘れフロー状態となりいつのまにか朝になっていた日が何度もあった。数年前に書いた記事は、未熟な見識のものもあったが熱意に溢れていた記事もあり、概ね、よく頭を使って書いていたなと過去の自分に感心したりもした。リベラリズムや subject の連作は力が入っていたし、日本の個性や日本文化の連作も忘れていたことを思い出させてくれた。星の王子さまの連作は「固定ページ」に移そうかなと考えている。「固定ページ」は現在150記事。どちらのページも増え続け、減ることはないだろう。

言うまでもなく、私の集大成は「固定ページ」にまとめられる。「固定ページ」全域を「人生の作品」とすることがライフワークである。

《断想》は「人生の作品」を創造するためのプラクシス(練習的実践)だと言ってよいだろう。どんどんプラクシスを行っていこうと改めて思う。

 

 

巨人の肩の上には乗らない


知の創造にはオリジナルなどなく、先人たちが積み重ねてきた業績を土台として展望を開いてきたという思想がある。進歩主義思想である。先人たちを「巨人」として喩え、我々は巨人の肩の上に乗って遠望することができるなどと言う。ニュートンが述べた言葉とされる。

ゼロから知の創造を立ち上げることなどできないと、まるでそれが真理かのように語る人がいるが、自分が進歩主義思想のドグマに飼い馴らされていることに気がつかない。

外山滋比古氏の『ライフワークの思想』に良い喩えが二つある。一つは花。花を切り花として花瓶に飾るのか、それとも種から育てるのかの違い。もう一つは酒。ジンだとかウイスキーだとかワインだとか、それらを組み合わせてカクテルを作るバーテンダーなのか、それともゼロから地酒を創ろうとするクリエイターなのかの違い。

ゼロから創造した人は極めて稀であり、創造を試みようとする人でさえ希少である。ゼロからの創造を試みた哲学者でいえば、デカルトとタレス、フッサールくらいしかすぐには思い浮かばない。老子もそうかもしれない。彼らはゼロからオリジナルの地酒を創ろうとした。他の哲学者や思想家は、釈迦にせよ孔子にせよ、プラトン、アリストテレス、スピノザ、カント、ヘーゲルら大哲人は、皆バーテンダーとしてカクテルを作ろうとした人たちである。

デカルトは進歩主義思想に立たなかった。すべての先人の知を疑った。「今、自分は考えている。考えている自分がいるのは確かなことだ」ここから哲学を始めようとした。ゼロから哲学体系を創ろうとしたのだ。哲学どころか学問すべてをゼロから体系化しようとした。そのライフワークが結実したとは言い難いが、ゼロから創ろうとするその姿勢に感銘を受けた哲学者は僅かながらいた。例えばフッサールは老年期に入る頃『デカルト的省察』を書き、以降、ゼロから認識論を創ろうとし間主観性と他我の理論化をライフワークとした。

巨人の肩の上から降りて、ゼロから独自の地酒を創ろうとした哲学者は稀ではあるが、いた。

もちろん、巨人の肩の上に乗って、効率的に展望を開こうとする大多数の人たちを批判するものでは無い。先人の知見の良いとこ取りをし、既に存在する酒を組み合わせカクテルを作ることは普通の人なら誰もが考えることだろう。

あくまで趣味の問題だ。私はどれほど非効率であっても、ゼロから地酒を創りたい派なのである。ライフワークとして創り始めている『人間原理論』はまさにゼロからの理論創造である。デカルトと同じように進歩主義思想には立たず、先人の叡智は常識を固めてしまう「重力の精」として最終的に退ける。

私は、巨人の肩の上には乗らない。

 

 

人生フィナーレの思想


「どのように生きればよいのか?」「どう生きようか?」

この問いが頭のなかを駆けめぐるという経験をしたことがない人は滅多にいないだろう。誰もが考えること。高齢になってもこの問いを考える人がいるかもしれない。一方で、ある程度の年齢を超えると「どう死のうか?」を考えるようになる。このことを考えない人考えることを避ける人もなかにはいるだろう。

「どう死のうか?」は人生において最も重いテーマであり、これを考えるとき、人は孤独である。生物の生命の終焉は独りであり、死の旅に同伴者はいない。みずからの人生物語の終幕をどのようなものにするのかは、いわゆる「老」の期間にどのように過ごすのか、自分の「老」にどのような価値を自分が与えるのかということと、ほぼ同義である。

なかには、「老」など関係なく、若い人と老いた人を年齢で差別するのはエイジズムであり、人間として平等であるという価値観に反すると言う人もいる。なるほど、よほど自分の変わらぬ能力に自信があるのだろう。しかし反省的に自分を見つめれば、十代のころの頭の回転の速さは明らかに鈍り、頭脳と肉体の疲労からの回復力が落ちていることに無自覚であってはならない。

「若」と「老」は人生全体の長さのうち、既に過ごした年月と、今から過ごす年月の割合が大きく異なり、それは、心理的に言えば主観的時間経過の認識に影響を与え、自身に残された時間的可能性にたいする価値観にも影響を与える。ゆえに、「どう死のうか?」という重いテーマと真正面から対峙する機会が到来し、それはネガティヴではなくむしろポジティブに捉えるべきテーマだと私は思う。

ところで、昨今の世相を鑑みるに、少子高齢化社会が進む未来に絶望感を抱く人たちが増加しているように感じる。特に生産性を要求される社会経済面や支出が膨らんでゆく医療福祉面において、高齢者は若者の足を引っ張る厄介者とする言説を目にするようになった。世代の分断化である。老人を敬うという文化は消滅しかかっている。なぜかと言えば、功利主義的価値観がまるで唯一の真理であるかのように現代社会を覆っているからにほかならない。役に立つか立たないかだ。そして高齢者自身も「老」に価値を見出せないでいる。人生フィナーレの思想が欠如しているのだ。

「老」に明確な価値を与える例として、世阿弥の『花鏡・奥の段』を挙げよう。ここには三つの「初心忘るべからず」がある。是非の初心、時々の初心、老後の初心がそれだ。人が老いてゆくときには老いるという初めての経験をする。今まで一度も経験したことのない「老い」を新鮮な未熟さとして捉え、「芸の底を見せないで生涯を送る」ことを芸道の奥儀として子孫を導く秘伝とせよと喝破する。世阿弥の能には、人生フィナーレの思想がある。

最後に、「老成」ということについて触れたい。辞書をひくと「人生経験を積んで人格に円熟味がそなわっていくこと。」というイメージになる。老成は目指すものではなく自然に成るものであろう。老成には功利主義的価値は無いかもしれないが、他者の心に良い影響を与えるであろうことは容易に想像でき、「老」のロールモデルとして壮年者の希望にもなり得る。老成に価値を見出す社会は、世代の分断を修復する可能性があるのではなかろうか。

老成はどのように確認できる概念だろうか。例を挙げよう。古い禅師の言葉に「古教照心、照心古教」がある。古典に心が照らされ、心が古典を照らす。特に大事なのは心が古典を照らすほうで、古典を正しく解釈して学ぶことよりも、自らの人生経験で培った心をもって古典に接し、味わい深い独自の解釈を可能にすること。このように私は「照心古教」を解釈する。どのような古典も新鮮なものとして生き返る。これが老成に至る学問の仕方だと思う。

私自身はまだまだ老成とは言えず80歳までは「成らない」と決めているが、老成に至る可能性のある学問は続けている。昨日の記事に書いたように私にはライフワークの事業がある。その知的創造事業のためには生ある限り学問をし続けていかねばならない。そして、ライフワークに生涯をかけることは、人生フィナーレの思想があるということだ。それだけで私は十分に幸せな者であり、それだけで幸せな「老」の道を歩むことができるという確信がある。

以上は、この断想記事の読者である貴方にたいして、「老」にかんする一つの価値観を提案するものでもあります。

 

 

 

本格的なライフワークとして


このウェブサイトの二つの柱である『人類哲学の独創』と『私の美学建設』を創っていくことは、私のライフワークとなった。ライフワークにしようと目的化したのではなく、いつしか自然にそうなった。

「ライフワーク」[ lifework ] を辞書でひくと次の意味が出てくる。

    • 一生をかけてする仕事や事業。畢生の仕事。(広辞苑第六版)
    • 一生をかけた仕事や作品。畢生の事業。(大辞林第三版)
    • 一生をかけてする仕事。畢生の事業。また、個人の記念碑的な業績とみなされるような作品や研究。(大辞泉)
    • 一生の仕事。生涯の中で主要な仕事。一生かかる仕事。(ジーニアス英和大辞典)
    • 畢生の仕事。(ランダムハウス英和大辞典第二版)
    • 一生の仕事。畢生の仕事。(新英和大辞典第六版)

日本語では「畢生の仕事(事業)」ということなので「畢生」を辞書でひく。

    • 命の終わるまでの間。一生涯。終生。(広辞苑第六版)
    • 生まれてから死ぬまでを通じた全部の期間。一生。生涯。(大辞林第三版)
    • 一生を終わるまでの期間。一生涯。終生。(大辞泉)
    • 一生を畢るマデノ意。一生。生涯。終生。(大言海)

畢生の「畢」は「終える」意とのこと。(大漢語林)

一生涯をかけた(終生の事業)と言える仕事や事業。裏を返せば死ぬまで終わることのない、一生のすべてをかけた仕事や事業ということになる。

他者から客観的な評価によって「畢生の事業」と承認されることがライフワークなのだろうか?いやいやそうじゃないだろう。みずからの矜恃に照らして、「これが俺のライフワークだ。命尽きるまでの生涯をかけた仕事だ。終生の大事業だ。」と言えることがすべてだろう。そうだ、ここで肝心なのはみずからに対するみずからの矜恃であって、他者や社会に対し胸を張るプライドや誇りではない。

本格的なライフワークとして、やり遂げる。

令和6年 元旦。

 

 

ミンスキー『心の社会』


この本では、心がどうはたらくかを説明しよう。知能は、知能ではないものからどのようにして現れてくるのだろうか。この問いに答えるために、この本では、心がたくさんの小さな部分を組み合わせて作れることを示そうと思う。ただし、それぞれの部分には心がないものとしよう。

このような考え方、つまり、心がたくさんの小さなプロセスからできているという考え方を、《心の社会》と呼ぶことにする。また、心を構成する小さなプロセス一つひとつを、エージェントと呼ぶことにする。心のエージェントたちは、一つひとつをとってみれば、心とか思考をまったく必要としないような簡単なことでしかない。それなのに、こうしたエージェントたちがある特別な方法でいろいろな社会を構成すると、本当の知能にまで到達することができるのである。

(産業図書版 安西祐一郎訳 マーヴィン・ミンスキー『心の社会(The Society of Mind』)』

 

ミンスキーの大著『心の社会』は上記の文章から始まる。

ひとことでいえば、この本との出会いに大感謝である。最近、出会うことができた。どこかで、ギルバート・ライル『心の概念』に対してミンスキーが『心の社会』を書いたというような内容の文章を読んだのがきっかけだった。ライルの『心の概念』は私の愛読書のひとつなので。ふたりとも「心」をタイトルに入れているがライルは哲学者、ミンスキーは科学者であり、心理学者ではない。

マーヴィン・ミンスキー(1927-2016)は、マサチューセッツ工科大学(MIT)で長く教授を務めていたユダヤ系アメリカ人。数学の博士号をもつ。バリバリの理数系の人で、同大学の人工知能研究所創設者のひとりである。コンピューターサイエンスを専門とする科学者が、1987年に『心の社会』という本を著した。日本での翻訳書は1990年に出版され現在21刷。574ページでしかも二段組の大著だというのに4300円+税は安い。

しかし、いわゆる「読書家」が好むような本ではない。一冊を完読して内容を理解しようとしても、たぶんほとんどの一般読書家は挫折するに違いない。仮に読了できたとしても完読に意味はない。

この本は、私が人間の原理を哲学的に解剖していくことと同じように心の解剖を行っている。思考する論理構造の志向性が私と同じなのだ。だから一冊をとおしてこういうことだ、というのではない。断片的に読める。上記引用にあるとおり、「エージェント」たちが《心の社会》を創造する、なぜ創造できるのかはわからない。でも、原理としてそうなっているじゃないか。ならば、「エージェント」ひとつひとつについて精緻に分析してみよう、という試みだ。心理学臭は一切ない。科学者が人工知能をつくるために哲学をしている、という見かたが相応しい。

「エージェント」は多岐にわたり、全部でいくつあるかまだわからないが、章立ては第30章まである。興味を惹かれる章のタイトルを抜き出してみると、第2章「全体と部分」、第3章「争いと妥協」、第4章「自己」、第6章「洞察と内省」、第8章「記憶の理論」、第11章「空間の形」、第12章「意味の学習」、第13章「見ることと信じること」、第15章「意識と記憶」、第16章「感情」、第18章「推論」、第20章「文脈とあいまいさ」、第22章「表現」、第24章「フレーム」、第28章「心と世界」、第29章「思考の領域」、第30章「心の中のモデル」。30章全部が魅力的だが、特に魅力的な章タイトルを抜粋してみた。私がライフワークとして取り組んでいる『人類哲学の独創』と重なる部分が半分程度ありそうだ。

章タイトルが魅力的だけでなく、ぱっと任意のページをめくってそこの項目を5分ほど読むと、必ず哲学的なインスピレーションが得られる。私が独創するためのインスピレーションを与えてくれる、今まで出会った本の中で最高の本と言ったら褒め過ぎだろうか。いや、褒めているのではなく、私との相性が最高の本なのだ。なにしろ私は古典的な哲学書を「事典」のように扱う。そのなかの一文が何らかのインスピレーションを与えてくれることが最大の期待であり、プラクシスやテオリアよりもポイエーシスを好む。

内容については、別の固定ページに研鑽のひとこまとして綴っていく予定。

というわけで、もし私と同じようなポイエーシス的な哲学クリエイター志向の人がいらっしゃれば(滅多にいないと思うけれど)、この本を強くお勧めしますし、一方で、研究者タイプの人にも参考になるかもしれません。

 

 

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