天籟の精神
「天籟」
この言葉は、紀元前4世紀の中国の古書『荘子』で使われたのが最初(荘子が創った造語)だと思われます。
『荘子』では「人籟」「地籟」については意味がしっかり書かれていますが、「天籟」については明確になっていないのです。解釈する者に意味が委ねられる。
そのため、古来からさまざまな訳者によって検討された意味づけは大いに異なっています。
辞書を引いてみます。
※天籟(てんらい)
〇 自然の音、風の音など。詩歌などの絶妙なこと。(大辞林)
〇 天然に発する響き。風が物にあたって鳴る音。すぐれたできばえの詩歌のたとえ(広辞苑)
とありますが、『地籟』 との違いがはっきりしません。
風が大地の形状に当たって発する音が「地籟」とされるが、風が鳴っているのか、地が鳴っているのか、これはどちらとも取れますが、前者としての音とその音のでる仕組みを「天籟」だと、私はそう捉えています。
■ 新風によって自由に価値を生む
あらゆる自分の価値観自体と価値解釈に固執せず、価値への執着を捨てる。
執着を捨てれば昨日と今日とでは価値観が変る可能性があります。
常に新しく価値を判断していければ理想です。
例えば金銭に対する価値。1000円の価値は今と明日とでは異なって当然。
例えば感情に対する価値。もやもやも歓喜も、今と明日とでは異なって当然。
例えば人物評価。同じ人と1ヶ月話さなければ人格の一部が変っていて当然。
例えば仕事に対する価値。同じ仕事をしても、その価値は常に変っていて当然。
このように外の世界を観察すると、自分の価値観も社会の価値観も変化して当たり前なのです。
自分が獲得した既得権も明日はゼロ評価になるかもしれない。
逆に、新しい価値が自分の中に生まれるかもしれない。
人との出会いと別れも同じで、執着せず自然に任せる。
類は友を呼ぶと言います。自分に相応しい人との出会いは必ずあるし継続する。
逆に、自分に相応しくない人とは別れがあって自然です。
周囲に集まる人や離れる人はどんどん変化する。
「天籟の精神」は世界に対する解釈を自由自在に変えることが出来、それによって自分が変わり、次に周囲が変わる、認識する世界の景色が一変することになります。
■ 天籟の精神とは
※参照 「天籟を奏でる心は空洞の楽器」
私たちは “心” という楽器を創り続けていて、音を創り続けているわけではありません。
どの価値観にどれだけの比重を置いているかによって “心” という楽器が創られる。
世界を認識し解釈するとき、何らかの情報信号が入ってくるとき(常に入り続けている)、その認識対象情報は “風” となって “心” という楽器に入り、価値解釈という “音” となって “心” から出て行く。と言えます。
“執着” は楽器の中に貯まる風が運んできた “楽器を硬直させるゴミ” であります。
“ゴミ” が貯まり続ければ同じ音しか出なくなり、良い音が出なくなるのも当然です。
常に楽器を綺麗に維持し、新鮮で澄みきった音が出せるようにしよう。
天籟の精神は、価値判断を重要視しない。
価値観を選ばない。
自他共に、人格に、寛容であることを求めず、誠実であることを求めず、高い品格を求めず、智恵を求めず、清廉であることを求めず、勿論その逆も求めず、良し悪し優劣の判断をしない。
徹底して、大自然の一部となる。
老子の言葉にこうあります。
【聖人は常に無心にして、百姓の心をもって心と為す】
また、【命に執着しなければ長生きできる】とも言っており、言葉を変えれば 【善に執着しなければ自然に善となる】、【欲求に執着しなければ自然に満たされる】 ということになります。
“天籟の精神” は、無心、無我、無徳であります。