『古事記』や『日本書紀』に見られる「清(きよ)き明(あか)きこころ」について、私はこの心が日本人の原点であると考えています。そして何よりも大切にしています。
清き明きこころを実践できているかどうかと自問すれば、まだまださっぱり駄目なのですが。
この言葉の中には、純粋な日本人の哲学が凝縮されて詰まっているように思います。
端的に言えば、「きよきあかきこころ」さえあればほかに何もいらない。
9文字に込められた純日本思想とはなにか、なにがこの言葉を創らせたのかを考えます。
倫理学者の相良亨(1921-2000)は次のように述べています。
キリスト教は、宇宙は神によって創造されたものであるという。そこには「つくる」論理が働いている。しかし、これとは対照的に日本の神話は、この世界を、なりゆく世界として捉える。内在するムスビ(産霊)の霊力によって不断に内発的になりゆく世界である。キリスト教的な「つくる」論理ではない、「なる」論理がここにはある。
日本人は、歴史を「つぎつぎになりゆくいきおい」とうけとる。それは、いいかえれば、「おのずからなりゆくいきおい」である。そこには、ことの本質、あるべき秩序の観念はなく、「おのずからなる」という「自然的生成の観念」が中核となっている。
(ペリカン社版 相良亨著作集 『日本人論』)
キリスト教的考えかたは、「外からこの大自然が創られた」であり、この考えかたはそのまま、「人間が自分の外に何かを創りだす」に転化され、「外につくる」という思想がヨーロッパ文明を発展させ世界のけん引役となってきました。20世紀が終わるまでは。
人間の心を創るのでも、外からの「宗教の教え」によって自分のモラルを高めてゆこうとする方向で、これはインドで生まれた仏教も、中国で生まれた儒教も同じです。
ところが古(いにしえ)の日本人(大和民族)には、大自然の中からニュートラルに人間が生まれてきたという、西洋とは全く逆方向の思想が根付いていたことがわかります。相良氏が述べているとおり、「できちゃった」んだから仕方あるまいと、その原因は常に内側にあるという思想です。
人間の心は大自然によって「成って」いるものであり、良いことをするも悪いことをするも、すべて内側から自然にそう「成って」しまうものとして捉えます。
国学者の本居宣長は、仏教や儒教の教えに対し、特に仏教批判が激しかったのですが、儒仏の教えは「大自然に摂理にそむき、外部から人間に強いるもの」であるとしました。
乱暴に言うのならば、こころにおいて結果から原因を考えるという合理性の放棄であり、内側と外側を対象化させた争い自体が無かった。例を挙げれば、「弱い自分に打ち克つ」なんていうのは全く考えられなかったわけです。
清き明きこころの成すがまま、これを最も貴い心のロールモデルとしました。
非合理ですが、清き明きこころを「つくろ」うとはしなかった。誰もがみなそうだという性善説でもありませんでした。ただ、ロールモデルがあっただけです。
その後の上代では天皇に対する臣下の忠孝の心として清明心は利用されましたが、江戸時代には「誠実(まことのこころ)」という違った形で清明心が現れています。
唯一の真理として、清き明きこころが素晴らしいと言いたいのではありません。
西洋もインドも中国も日本もいろいろ入り混じったカオス状態のなかから、新しい価値創造が無意識下で行われるのではないかと、そのように考えています。
ただ私的には、清き明きこころを核心に据えておきたい。