「どのように生きればよいのか?」「どう生きようか?」
この問いが頭のなかを駆けめぐるという経験をしたことがない人は滅多にいないだろう。誰もが考えること。高齢になってもこの問いを考える人がいるかもしれない。一方で、ある程度の年齢を超えると「どう死のうか?」を考えるようになる。このことを考えない人考えることを避ける人もなかにはいるだろう。
「どう死のうか?」は人生において最も重いテーマであり、これを考えるとき、人は孤独である。生物の生命の終焉は独りであり、死の旅に同伴者はいない。みずからの人生物語の終幕をどのようなものにするのかは、いわゆる「老」の期間にどのように過ごすのか、自分の「老」にどのような価値を自分が与えるのかということと、ほぼ同義である。
なかには、「老」など関係なく、若い人と老いた人を年齢で差別するのはエイジズムであり、人間として平等であるという価値観に反すると言う人もいる。なるほど、よほど自分の変わらぬ能力に自信があるのだろう。しかし反省的に自分を見つめれば、十代のころの頭の回転の速さは明らかに鈍り、頭脳と肉体の疲労からの回復力が落ちていることに無自覚であってはならない。
「若」と「老」は人生全体の長さのうち、既に過ごした年月と、今から過ごす年月の割合が大きく異なり、それは、心理的に言えば主観的時間経過の認識に影響を与え、自身に残された時間的可能性にたいする価値観にも影響を与える。ゆえに、「どう死のうか?」という重いテーマと真正面から対峙する機会が到来し、それはネガティヴではなくむしろポジティブに捉えるべきテーマだと私は思う。
ところで、昨今の世相を鑑みるに、少子高齢化社会が進む未来に絶望感を抱く人たちが増加しているように感じる。特に生産性を要求される社会経済面や支出が膨らんでゆく医療福祉面において、高齢者は若者の足を引っ張る厄介者とする言説を目にするようになった。世代の分断化である。老人を敬うという文化は消滅しかかっている。なぜかと言えば、功利主義的価値観がまるで唯一の真理であるかのように現代社会を覆っているからにほかならない。役に立つか立たないかだ。そして高齢者自身も「老」に価値を見出せないでいる。人生フィナーレの思想が欠如しているのだ。
「老」に明確な価値を与える例として、世阿弥の『花鏡・奥の段』を挙げよう。ここには三つの「初心忘るべからず」がある。是非の初心、時々の初心、老後の初心がそれだ。人が老いてゆくときには老いるという初めての経験をする。今まで一度も経験したことのない「老い」を新鮮な未熟さとして捉え、「芸の底を見せないで生涯を送る」ことを芸道の奥儀として子孫を導く秘伝とせよと喝破する。世阿弥の能には、人生フィナーレの思想がある。
最後に、「老成」ということについて触れたい。辞書をひくと「人生経験を積んで人格に円熟味がそなわっていくこと。」というイメージになる。老成は目指すものではなく自然に成るものであろう。老成には功利主義的価値は無いかもしれないが、他者の心に良い影響を与えるであろうことは容易に想像でき、「老」のロールモデルとして壮年者の希望にもなり得る。老成に価値を見出す社会は、世代の分断を修復する可能性があるのではなかろうか。
老成はどのように確認できる概念だろうか。例を挙げよう。古い禅師の言葉に「古教照心、照心古教」がある。古典に心が照らされ、心が古典を照らす。特に大事なのは心が古典を照らすほうで、古典を正しく解釈して学ぶことよりも、自らの人生経験で培った心をもって古典に接し、味わい深い独自の解釈を可能にすること。このように私は「照心古教」を解釈する。どのような古典も新鮮なものとして生き返る。これが老成に至る学問の仕方だと思う。
私自身はまだまだ老成とは言えず80歳までは「成らない」と決めているが、老成に至る可能性のある学問は続けている。昨日の記事に書いたように私にはライフワークの事業がある。その知的創造事業のためには生ある限り学問をし続けていかねばならない。そして、ライフワークに生涯をかけることは、人生フィナーレの思想があるということだ。それだけで私は十分に幸せな者であり、それだけで幸せな「老」の道を歩むことができるという確信がある。
以上は、この断想記事の読者である貴方にたいして、「老」にかんする一つの価値観を提案するものでもあります。