自由な思考への哲学的な旅


7年ほど前にリベラリズムについての論考を書いたことがある。「リベラリズム考(1)―多義性」から連続11回。今回は「思考」という違った角度から「自由」について少し掘り下げてみたい。哲学的思考の旅を楽しもう。

リベラルという言葉の第一イメージには「自由」がある。しかし言葉の概念イメージは、個々によって異なる。リベラリズムは多義的であり「自由」も多義的だ。前者にはイズムが付いているので理念的であり、その理念を善しとする思想である。一方で「自由」は理念でも思想でもなく、形容表現である。

形容表現を本質とする「自由」概念については、私は、まだ哲学的に取り組むことをしていない。今日のタイトルは「自由な思考への哲学的な旅」だが、本来は「自由」概念を明らかに、否、ある程度は「私は定義として自由という言葉をこのように使う」ということを先に提示すべきだろう。他者に文意を伝えるためには。今回はそれを飛ばし、自由な思考について自己の探究の一部として考えてみたいと思う。

というのも、私は本当に自由な思考をしているのかという疑問を強くもったからだ。そこには根本的なテーマである自由意志がある。これは一つ前の断想で「偶然性と自由意志」について書いた続きでもある。ただし今回は思いつくまま、エッセイのごとく徒然に綴ってみたい。

 


日本に暮らす私たちには、自由と民主主義の価値観に基づいてさまざまな「自由権」が憲法の基本的人権として保障されている。表現の自由、言論の自由、移動の自由、判断の自由などがそれである。もちろんここには思考の自由も含まれている。良い国に、良い時代に生まれたことに感謝しよう。

では、思考する材料はどこにあるのだろうか。外部世界の情報の真偽を判断し、真実を取り込み虚偽を捨てる。しかし巧妙に情報を操作され、虚偽情報を真実としてインプットしてしまうリスクについては認識しておくべきだろう。特に「物語化」された情報の真偽判断には注意すべきであるし、自分で情報を組み合わせて虚偽の物語を創作してしまう危険性もある。

これらも自由だと言えばそれらしいが、本当は不自由に強制されているかもしれず、思い込みによって頑迷に思考の自由を閉じてしまっている状態かもしれない。無反省であってはならない。

ところで、私たちが真偽判断に使う自身の機能には、頭脳と心、身体的感覚、第六感などがある。それらは身体内にある。外部情報についても身体内に入力される。記憶や価値観、感情をもとにして、私たちの内面である観念世界にそれを再創造する。この創造には想像力がたぶんに含まれる。

そのように考えると、ニーチェが述べていたように、私たちの内的世界には事実はなく、解釈と考察、想像によって創造された観念世界があるだけだ。外部世界に観点を転じればカントのいう「もの自体」を措定することも可能だが、今回はそこに立ち入らない。私の観念世界には実体験を基にした「私の人生の物語」がある。任意の誰かの観念世界には「その人の人生の物語」がある。

「人生の物語」が創造される基となる実体験は、意識上で思い出せないことを含め、記憶にその全体が存在する。無数の実体験により価値観形成が行われ、価値観は別の実体験によってその都度書き換えられる。実体験には身体的な感覚や感性的なクオリアも含まれる。知性的および感情的、身体的な価値観はその都度欲求や感情を生じさせ実体験化される。知性的には人間のもつ想像力が観念世界を創造し、創造した観念世界が実体験化される。また、社会や他者と自己との関係性や相互作用は人間的に喜怒哀楽を生じさせ実体験化される。そうした実体験のすべては、結果として「人生の物語」に豊饒な意義を与えている。

ひと一人の「人生の物語」は唯一無二の物語であり、人類全体に広げても誰一人として同じ「人生の物語」は存在しない。

個人の内面に創造された観念世界は個々それぞれ唯一無二の「人生の物語」に依拠するが、その「人生の物語」の些細な全てを言語で表現することは到底かなわない。99%以上が言語から欠落する。しかし、身体性を含めた私たちの観念世界、いわば「自己本体」には100%内蔵されているはずだ。だが意識はそれを知り得ない。

さて、このように意識上での自分はこの構造と力学を知り得ない状況のなか、私たちは自由に思考し判断を下していると思い込んでいる。実際には、自分の「人生の物語」と自分の「観念世界」に基づいた価値観と訓練された思考方法によって意識上の思考を行っている。ということは、意識上の思考に自由意志はない。そうではなく、「自己本体」にこそ、唯一無二のオリジナルな自由意志があるのではないか。

批判的に吟味してみよう。

「人生の物語」も「観念世界」も、外部情報の影響を受ける。社会的価値観と倫理観、あらゆる人間関係、生活活動をする環境の文化的価値観、成育時の教育環境、宗教や思想の情報、精神美学的憧憬の的となるような対象との接触、そのような環境は、ある時は必然的に、ある時は偶然的に、ある時は目的的に、自己の周囲に形成される。身体性もそうで、栄養は外部から摂るほかない。遺伝的気質や先天的能力について言えば、親や先祖の遺伝子はもともと私の外部に有ったものだ。

そう考えてゆくと、私の本性である「自己本体」のすべては、外部を因として形成されていると言えるのではないか。すべてが外部を因として形成されているにもかかわらず、私の「自己本体」に自由意志があると言えるのか。

 

結論もまとめもない。何度も繰り返し深く考え続けることで、意識上の私が知らない私の「自己本体」では自由な思考が展開されていると信じ、哲学の旅を続けよう。旅路をする知の窓は、いつでも広く開け放っておこう。

 

 

《断想》はプラクシス


《断想》を書くのはひさしぶりだ。約三か月ぶり。最近はインプットがほとんどでアウトプットが出来ていなかった。サボりだ。インプットは楽だからねえ。でもインプットだけでは全然身につかない。忘れてしまう。あまり意味がない。本来、アウトプットのためのインプットのはずだ。読書で学んだことを使っていくことで、はじめて身についていく。そういうものだろう。

ところで、このウェブサイト全域をリフレッシュしようと思い立ち、ひとつひとつの記事について見直しをしている。今ここに書いている《断想》は「投稿ページ」になり、サイト全域の記事は「投稿ページ」と「固定ページ」の二種類に分かれる。この一週間で、「投稿ページ」のすべてにチェックを入れ、リンク切れや誤字脱字の修正、文字の大きさやカラーの統一、ページURL統一のための変更、ごみ記事の削除などを行いすっきりした。「固定ページ」のほうは創造と変革が随時行うことになり自然に修正される。

「投稿ページ」コンテンツは《断想》であり、その日その日に想ったことについて書く。《断想》がブログと異なるのは、ブログの場合は日常の具体的な日記のような感じになるのに対し、《断想》は主に抽象的で論考的な文章になるか、詩作的文章になる。ほとんど詩はまだ書いていないけれど。コラムは社会的なことにたいする論考なのでこれも違う。とはいえ、今日のようなブログ的なエッセイを書くこともあるし、コラム的なことを書くこともある。それも含めて《断想》ということで。

過去7年間での《断想》は250記事でそれほど多くはない。でも一記事ずつチェックを入れていく作業はけっこうハードだった。集中したので時間を忘れフロー状態となりいつのまにか朝になっていた日が何度もあった。数年前に書いた記事は、未熟な見識のものもあったが熱意に溢れていた記事もあり、概ね、よく頭を使って書いていたなと過去の自分に感心したりもした。リベラリズムや subject の連作は力が入っていたし、日本の個性や日本文化の連作も忘れていたことを思い出させてくれた。星の王子さまの連作は「固定ページ」に移そうかなと考えている。「固定ページ」は現在150記事。どちらのページも増え続け、減ることはないだろう。

言うまでもなく、私の集大成は「固定ページ」にまとめられる。「固定ページ」全域を「人生の作品」とすることがライフワークである。

《断想》は「人生の作品」を創造するためのプラクシス(練習的実践)だと言ってよいだろう。どんどんプラクシスを行っていこうと改めて思う。

 

 

巨人の肩の上には乗らない


知の創造にはオリジナルなどなく、先人たちが積み重ねてきた業績を土台として展望を開いてきたという思想がある。進歩主義思想である。先人たちを「巨人」として喩え、我々は巨人の肩の上に乗って遠望することができるなどと言う。ニュートンが述べた言葉とされる。

ゼロから知の創造を立ち上げることなどできないと、まるでそれが真理かのように語る人がいるが、自分が進歩主義思想のドグマに飼い馴らされていることに気がつかない。

外山滋比古氏の『ライフワークの思想』に良い喩えが二つある。一つは花。花を切り花として花瓶に飾るのか、それとも種から育てるのかの違い。もう一つは酒。ジンだとかウイスキーだとかワインだとか、それらを組み合わせてカクテルを作るバーテンダーなのか、それともゼロから地酒を創ろうとするクリエイターなのかの違い。

ゼロから創造した人は極めて稀であり、創造を試みようとする人でさえ希少である。ゼロからの創造を試みた哲学者でいえば、デカルトとタレス、フッサールくらいしかすぐには思い浮かばない。老子もそうかもしれない。彼らはゼロからオリジナルの地酒を創ろうとした。他の哲学者や思想家は、釈迦にせよ孔子にせよ、プラトン、アリストテレス、スピノザ、カント、ヘーゲルら大哲人は、皆バーテンダーとしてカクテルを作ろうとした人たちである。

デカルトは進歩主義思想に立たなかった。すべての先人の知を疑った。「今、自分は考えている。考えている自分がいるのは確かなことだ」ここから哲学を始めようとした。ゼロから哲学体系を創ろうとしたのだ。哲学どころか学問すべてをゼロから体系化しようとした。そのライフワークが結実したとは言い難いが、ゼロから創ろうとするその姿勢に感銘を受けた哲学者は僅かながらいた。例えばフッサールは老年期に入る頃『デカルト的省察』を書き、以降、ゼロから認識論を創ろうとし間主観性と他我の理論化をライフワークとした。

巨人の肩の上から降りて、ゼロから独自の地酒を創ろうとした哲学者は稀ではあるが、いた。

もちろん、巨人の肩の上に乗って、効率的に展望を開こうとする大多数の人たちを批判するものでは無い。先人の知見の良いとこ取りをし、既に存在する酒を組み合わせカクテルを作ることは普通の人なら誰もが考えることだろう。

あくまで趣味の問題だ。私はどれほど非効率であっても、ゼロから地酒を創りたい派なのである。ライフワークとして創り始めている『人間原理論』はまさにゼロからの理論創造である。デカルトと同じように進歩主義思想には立たず、先人の叡智は常識を固めてしまう「重力の精」として最終的に退ける。

私は、巨人の肩の上には乗らない。

 

 

人生フィナーレの思想


「どのように生きればよいのか?」「どう生きようか?」

この問いが頭のなかを駆けめぐるという経験をしたことがない人は滅多にいないだろう。誰もが考えること。高齢になってもこの問いを考える人がいるかもしれない。一方で、ある程度の年齢を超えると「どう死のうか?」を考えるようになる。このことを考えない人考えることを避ける人もなかにはいるだろう。

「どう死のうか?」は人生において最も重いテーマであり、これを考えるとき、人は孤独である。生物の生命の終焉は独りであり、死の旅に同伴者はいない。みずからの人生物語の終幕をどのようなものにするのかは、いわゆる「老」の期間にどのように過ごすのか、自分の「老」にどのような価値を自分が与えるのかということと、ほぼ同義である。

なかには、「老」など関係なく、若い人と老いた人を年齢で差別するのはエイジズムであり、人間として平等であるという価値観に反すると言う人もいる。なるほど、よほど自分の変わらぬ能力に自信があるのだろう。しかし反省的に自分を見つめれば、十代のころの頭の回転の速さは明らかに鈍り、頭脳と肉体の疲労からの回復力が落ちていることに無自覚であってはならない。

「若」と「老」は人生全体の長さのうち、既に過ごした年月と、今から過ごす年月の割合が大きく異なり、それは、心理的に言えば主観的時間経過の認識に影響を与え、自身に残された時間的可能性にたいする価値観にも影響を与える。ゆえに、「どう死のうか?」という重いテーマと真正面から対峙する機会が到来し、それはネガティヴではなくむしろポジティブに捉えるべきテーマだと私は思う。

ところで、昨今の世相を鑑みるに、少子高齢化社会が進む未来に絶望感を抱く人たちが増加しているように感じる。特に生産性を要求される社会経済面や支出が膨らんでゆく医療福祉面において、高齢者は若者の足を引っ張る厄介者とする言説を目にするようになった。世代の分断化である。老人を敬うという文化は消滅しかかっている。なぜかと言えば、功利主義的価値観がまるで唯一の真理であるかのように現代社会を覆っているからにほかならない。役に立つか立たないかだ。そして高齢者自身も「老」に価値を見出せないでいる。人生フィナーレの思想が欠如しているのだ。

「老」に明確な価値を与える例として、世阿弥の『花鏡・奥の段』を挙げよう。ここには三つの「初心忘るべからず」がある。是非の初心、時々の初心、老後の初心がそれだ。人が老いてゆくときには老いるという初めての経験をする。今まで一度も経験したことのない「老い」を新鮮な未熟さとして捉え、「芸の底を見せないで生涯を送る」ことを芸道の奥儀として子孫を導く秘伝とせよと喝破する。世阿弥の能には、人生フィナーレの思想がある。

最後に、「老成」ということについて触れたい。辞書をひくと「人生経験を積んで人格に円熟味がそなわっていくこと。」というイメージになる。老成は目指すものではなく自然に成るものであろう。老成には功利主義的価値は無いかもしれないが、他者の心に良い影響を与えるであろうことは容易に想像でき、「老」のロールモデルとして壮年者の希望にもなり得る。老成に価値を見出す社会は、世代の分断を修復する可能性があるのではなかろうか。

老成はどのように確認できる概念だろうか。例を挙げよう。古い禅師の言葉に「古教照心、照心古教」がある。古典に心が照らされ、心が古典を照らす。特に大事なのは心が古典を照らすほうで、古典を正しく解釈して学ぶことよりも、自らの人生経験で培った心をもって古典に接し、味わい深い独自の解釈を可能にすること。このように私は「照心古教」を解釈する。どのような古典も新鮮なものとして生き返る。これが老成に至る学問の仕方だと思う。

私自身はまだまだ老成とは言えず80歳までは「成らない」と決めているが、老成に至る可能性のある学問は続けている。昨日の記事に書いたように私にはライフワークの事業がある。その知的創造事業のためには生ある限り学問をし続けていかねばならない。そして、ライフワークに生涯をかけることは、人生フィナーレの思想があるということだ。それだけで私は十分に幸せな者であり、それだけで幸せな「老」の道を歩むことができるという確信がある。

以上は、この断想記事の読者である貴方にたいして、「老」にかんする一つの価値観を提案するものでもあります。

 

 

 

本格的なライフワークとして


このウェブサイトの二つの柱である『人類哲学の独創』と『私の美学建設』を創っていくことは、私のライフワークとなった。ライフワークにしようと目的化したのではなく、いつしか自然にそうなった。

「ライフワーク」[ lifework ] を辞書でひくと次の意味が出てくる。

    • 一生をかけてする仕事や事業。畢生の仕事。(広辞苑第六版)
    • 一生をかけた仕事や作品。畢生の事業。(大辞林第三版)
    • 一生をかけてする仕事。畢生の事業。また、個人の記念碑的な業績とみなされるような作品や研究。(大辞泉)
    • 一生の仕事。生涯の中で主要な仕事。一生かかる仕事。(ジーニアス英和大辞典)
    • 畢生の仕事。(ランダムハウス英和大辞典第二版)
    • 一生の仕事。畢生の仕事。(新英和大辞典第六版)

日本語では「畢生の仕事(事業)」ということなので「畢生」を辞書でひく。

    • 命の終わるまでの間。一生涯。終生。(広辞苑第六版)
    • 生まれてから死ぬまでを通じた全部の期間。一生。生涯。(大辞林第三版)
    • 一生を終わるまでの期間。一生涯。終生。(大辞泉)
    • 一生を畢るマデノ意。一生。生涯。終生。(大言海)

畢生の「畢」は「終える」意とのこと。(大漢語林)

一生涯をかけた(終生の事業)と言える仕事や事業。裏を返せば死ぬまで終わることのない、一生のすべてをかけた仕事や事業ということになる。

他者から客観的な評価によって「畢生の事業」と承認されることがライフワークなのだろうか?いやいやそうじゃないだろう。みずからの矜恃に照らして、「これが俺のライフワークだ。命尽きるまでの生涯をかけた仕事だ。終生の大事業だ。」と言えることがすべてだろう。そうだ、ここで肝心なのはみずからに対するみずからの矜恃であって、他者や社会に対し胸を張るプライドや誇りではない。

本格的なライフワークとして、やり遂げる。

令和6年 元旦。

 

 

独創哲学のメニュー決定


8月6日と9月21日に「独創哲学の仮メニュー」を段階的につくってきた。ようやく仮ではなく「本メニュー」ができた。私の生きる残り時間から逆算しても、このメニューが根幹的決定版になる。もちろん枝葉の箇所は流動的で、変更する可能性が高い。柔軟性を失わないようにしたい。

当サイトのメインコンテンツである「人類哲学の独創」に、『人間原理論』としてメニューをつくった。

「人類哲学の独創」

また、上記の説明で「哲学」という言葉が頻繁に使われるため、私が用いる「哲学」概念についてもまとめた。上記のページ上にも見つけやすいようにリンクした。

「哲学と哲学学」

 

このウェブサイト全体構成を見直し、サイト内URL(パーマリンク)を整理整頓し、構造をきちんとしたものになるよう整備した。俺は自分のウェブサイトのアクセス分析だとか解析が超の付くほど苦手なため(というか全然興味が向かないため)、Googleアナリティクスには無頓着で、それはこれからも大して変わらない。ところが一応登録してあるGoogleから毎月苦情メールが山ほどくるので、メールを無視するのをやめてきちんと整備することにしたのだ。

プロフィールコンテンツはほぼ完成。プライバシーポリシー、著作権関連、サイトマップまで全て整備した。

自己研鑽コンテンツも構成をし直した。まだ内容は全然不足で穴だらけだけれど、構造は満足するものができた。

というわけで、全体の構造はきちんと出来上がった。今後は個々のページを埋めていって内容を充実させていくことに専念できそうだ。

構造設計はとっても大切で、且つ、サイト全体の立体空間の構成を考えるためには、右脳をフル回転させねばならないということを再認識した。構成をいちいち書き出さずに、頭の中でぜんぶやるからだろうね。そのほうが俺にとっては圧倒的に効率的だから。

 

 

経験よりも体験


【人類哲学の独創】ー『人間原理論』の核心部分の基本設計は十分にできたけれども、そこから派生する各論については今日もだいぶ変更した。思考や思想、意志、倫理なども各論となるので、これらを原理論全体のどの階層のどこに組み込んでいくのかについて、毎日が試行錯誤の連続である。

そうして真剣に考えていると、気づくことが幾つも生まれてくる。まず、ChatGPTが私にとって大きな力を貸してくれていることは以前から述べているとおりだが、どれほど人工知能が進化しても人間とは違うということに気づく。そのカギは身体性にある。人間の知性は脳だけにあるのではない。五感に代表される人間の感覚的直感は、身体全体で感じ取り体験として蓄積してゆく。重力も平衡感覚も振動も、内臓の痛みなどは当然だが、胸の痛みや茫然自失で頭が真っ白になる体験も身体性が為している。ChatGPTは知的学習経験を限りなく積んでいくが、彼には体験はできない。

昭和の女性歌手が演歌を歌っているとしよう。彼女の声質の良さや歌いかたの技巧が最高レベルになくても、なぜかその歌詞に全身全霊をこめて心から歌っていることが伝わってきて感動するものだ。それは何故だろう。表情だろうか。身体性の振る舞いだろうか。いやそうではない。歌を聴いている私自身の身体的な人生体験が、全身全霊をこめて歌う彼女の心に共感を抱かさせるのである。

感情や価値観を微塵も混入しない無色透明な理知によって哲学理論体系を独創している人がこんな話をするのはおかしいと思うかもしれないが、これは私の幾つもある多面的人格のうちの一面であるにすぎない。

 

ところで、「体験」というキーワードをもとに、もうひとつ今日気づいたことを書いておこう。知性的行為の王様は「思考」である。思考理論をつくるのにも思考を使う。君は、思考の本質は何だと思う?

思考して解ることがある。解らないこともある。判断するための思考は日常的無自覚に行っているはずだ。目的という成果物を得るために思考することがほとんどだろう。そうすると、思考の結果がすべてのようになってくる。獲物を得られたかどうかの結果は大切である。ここでプロセスのほうが大切だとベタな意見を言うつもりはない。

体験として思考をとらえてみよう。この体験はその場では実感できない。しかし思考もまた身体的体験にほかならない。思考体験はおそらく脳だけの活動ではない。これは人間原理論をつくっている私の仮説的な直感だけどもね。(だから精緻な哲学として理論化するつもりはない)

少し前にSNSでは「筋肉は裏切らない」という言葉が流行っていた。私は、「思考の体験は裏切らない」とでも言っておこうか。思考の本質を体験だととらえるのならば、多様な体験が長い熟成期間を経て、《実》となることは確かだろうと君は思わないか。

 

 

『人間原理論』の建設開始


私のライフワークの一つでもあり、当サイトのメインテーマでもある「人類哲学の独創」=『人間原理論』の大枠が固まった。ページリンクも構造化できたので、あとはどんどん書いていくのみ。修正が入るにしても構造の基本設計に大きな変更はない。構造設計ができたことで原理論の独創については半分できたも同じ。なにしろ無謀なほどに膨大な範囲を網羅する野心的なプロジェクトだからね。こういうのは俺にとってモチベーション爆上がり。

人間についてのあらゆる理論は、私の「思考」によって独創される。中核となる概念原理論や認識論、価値観原理論もそうで、先に各論に取り組んだことが生きてくる。このフレームワークを十分に活用すれば精緻なロジックを創ることができる。ChatGPTにフィードバックしてもらって完成度を高めていく。ChatGPTはチェック能力抜群だからね。

最後の小説化は意匠設計が必要で、この意匠がとっても大事。

今後は日々の「断想」よりも、理論を形へと創造していく固定ページのほうが忙しくなりそうだ。ピッチを上げていくことにする。もちろん断想も書いていきたい。

 

 

 

閑話


個人の観念世界についての探究は、実在世界の原理がどうなっているのかとリンクさせて考察する方法と、切り離して考察する方法がある。実在世界は人類文明が自然科学の分野を発展させたことによって、大きく信頼性を高めることになった。実在世界にかんしていえば、今や自然科学をエビデンスとして使われていないロジックは、使っているロジックと比較すれば、圧倒的に信頼度が低下する。しかし一方、人間の観念世界についていえば、現状の自然科学のエビデンスは未だ信頼度が低い。個体差(個人差)が大きいというのも、普遍原理を解明する壁のひとつとなっている。

今月1日から始めた観念世界と実在世界の、構造と創造の原理の解明は、「判断」についてを含めて哲学として述べてきた。しかし、観念空間と視点視座がどのように、なぜ、物語を創作していくのかについては、未だに糸口がつかめない。ChatGPTとの議論でもパッとしない。もちろん推測による心理的な面からは幾つか考えられることもあるが、「心理」を論拠にすると一挙にロジックの信頼性が低下する。あるいは「生存戦略」というのも同様に信頼性が低下する。

一旦、想像力による物語創造については保留にしておこうかな。ここは人間原理の核心部分だと思うので、丁寧にやっていきたい。

 

 

サイト雑感


前の記事で「人類哲学の独創」についての最新MENUをアップした。MainTitleとSubTitleを決めた。構造原理における認識と表現とのあいだに「欲求」を加えた。この原理の中核は意志がどのようにして生成されるかにある。

それにしても、1年9か月ぶりに復活した断想7月24日から8月30日までの記事を再度読んでいくと、自分でいうのもなんだが充実している。概念、価値観、思考、宗教、日本の忍、物語化と神話、これらについての探究がいい感じになっている。考察したそれぞれについては、整理しながら固定ページへ移していこう。固定ページの構造も変えなくてはならないのだが、これが面倒で二の足を踏んでいる。

「人類哲学の独創」だけでなく、「私の美学建設」のほうもブラッシュアップしたい。これらは「断想」とともに、このウェブサイト内だけの創造知である。誰に読んでもらおうとも誰に理解してもらおうとも思わない。だいたい物好きの変人くらいしか読まない(読めない)ものを書いているから。ウェブサイトに記事として投稿するというのは一つの表現ではあるが、実質的には整理の意味が強い。

表現の本命は「小説の創作」である。これは「5000年後の未来の子どもたち」が想定読者であり、その内容は、「人類哲学の独創」と「私の美学建設」のすべてを小説というレトリック手法によって、《子どもたち自身が考えてゆくためのコンテンツ》として創る。要するに、「人類哲学の独創」と「私の美学建設」がある程度進まないと、小説の全体構成ができず、話を始められない。

とはいえ、そんなことではきりがない。なにしろ「人類哲学の独創」と「私の美学建設」は、構造も内容も常にブラッシュアップされていく、つまり変化し続けていくので永遠に確定することはない。私の死後も確定するものであってはならない。【永遠の未完成】として「完成」させる。やる限りは、永遠に世界一なるコンテンツを開発する。

もはや俺の体は俺のための体ではない。腹を括ろう。

そういえば、8月19日にも「サイト記事を振り返って」という雑感を書いていたなあ。月に一度くらい、既に他者となった自分が書いた1か月分を読み直すことは有意義なことのようだ。

9月は断想を20日間休んだ。途中で、毎日必ず書くという縛りはやめようと思った。自縄自縛で追われる心理になるのは馬鹿らしい。そもそもルーティンワークは大の苦手である。他のことで忙しかったり気分が乗らなかったりしたときに、無理に書く必要はない。それよりも、充実した内容の記事を書いていくこと、これに尽きる。

哲学にしても美学にしても、それを網羅的に体系化するには考えなくてはならない。つまり「思考」が必要で、思考理論の一部として思考の「技術論」を先に創るほうが良さそうだ。概念や価値観について哲学的探究をするのにも、思考の技術は欠かせない。思考技術に伴って必要になるのは判断理論。思考は解るために。判断は判るために。

雑感にしてはずいぶん重くなってしまって、今日はエッセー感ないな。

 

 

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