徳の講壇


Von den Lehrstühlen der Tugend

(The Academic Chair of Virtue)


 

 

 


1.この章のテーマは「眠り」


 

その賢者はこう語った。

「眠りに対する敬意と羞らい! これが第一のことである! よく眠れずに、夜も目覚めている者は遠ざけること。

(中略)

十度あなたは昼のあいだにおのれ自身に克たなければならない。それが快い疲労を生んで、魂を眠らせる阿片となるのだ。

十度あなたは、昼のあいだにおのれ自身と和解しなければならない。というのも、克己は辛いことであり、おのれと和解しない者はぐっすり眠れないからだ。

十の真理を、あなたは昼のあいだに、見つけ出さなければならない。さもなくば夜になっても、あなたは真理を探し求め、魂はいつまでもひもじい思いをすることになる。

十度あなたは、昼のあいだに笑い、快活にならねばならない。さもなくば、憂愁の父たる胃袋が、夜にあなたを煩わせるという羽目になる。

知る人ぞ知る。よく眠るには、あらゆる徳を身に具えなければならない。

(中略)

神との平和、そして隣人との平和、と、よき眠りは要求する。さらには、隣人のうちに潜む悪魔とも平和であれ、と! さもなくば、夜になってその悪魔が、あなたの所に出没する。

お上には、敬意を表し、服従すること。たとえお上が曲がっていても! こう、よき眠りは要求する。」

(薗田宗人訳 白水社版ニーチェ全集 『ツァラトゥストラはこう語った』 p43-44)

 

 

この『徳の講壇』という章が何をテーマにしているかについて、ちくま学芸文庫版『ツァラトゥストラ』で翻訳者の吉沢伝三郎は訳注で次のように述べています。

徳の問題に関する功利的な議論を批判することが、この一章のテーマであり、批判の焦点は非創造性という点に置かれているが、その点を象徴するのが「眠り」である。(中略)超克をすら眠りのための技術的手段として説く立場の批判がなされ・・・(以下略)

功利主義批判というふうにこの翻訳者は捉えていますが、私は的外れだと思います。「よく眠るために~~をする」という功利主義的な一面に翻訳者は焦点を合わせています。徳の講壇を行う賢者に焦点が当たってしまっている。

確かにニーチェは功利主義には批判的で、〔第四部〕『高級な人間』第11章においては、「~のために」を捨てることが創造する精神であることを述べています。

しかし、前章の『三段の変化』、次章の『背後の世界を説く者たち』の繋がりを考えると、この章で功利主義批判がテーマになることには違和感を抱きます。

〔第一部〕のテーマは、神の教義によって家畜化された「まだら牛」という名の町におけるツァラトゥストラの啓蒙活動であり、『三段の変化』における駱駝の精神におかれた人々の実情を自分の目で見ること、どのようにしたら人々に獅子の精神を呼び起こせるだろうか、超克できるだろうかというツァラトゥストラの考察の場であります。

他の翻訳書を見てみると、岩波文庫版の翻訳者・氷上英廣によればこの章のテーマは「市民道徳のイロニー」であり、新潮文庫版の翻訳者・竹山道雄は「道徳説への批判」としています。前後の章の関係を考えても、功利主義批判よりもこちらのほうが自然です。

 

私は、この章でのテーマを、「眠り」という比喩を使った「平穏で安寧な心」の価値に対して、一つのニヒリズムからの逃避場所であることを認めるとともに、これを超克していくことこそがツァラトゥストラの目的であることと受け止めます。

そして、平和なことなかれ主義で忍耐することを善とする、キリスト教教義に奴隷化され牙を抜かれた人々(登場する賢者も含め)に対する緩やかな批判であり、課題を浮き上がらせてゆく段階であると考えます。

 

 

 


2.平穏を消極的善として肯定


 

賢者がこのように語るのを聞いて、ツァラトゥストラは心の中で密かに笑った。というのも、それを聞いているうち、ひとつの光明が彼の心に輝いたからである。そして彼は、われとわが心に向かってこう語った。

四十の思念を後生大事にしているこの賢者は、どう見ても阿呆者だ。だが彼が、眠りについてよく辨(わきま)えていることは確かだ。

この賢者の近くに住む者は、それだけでも果報なものだ! こうした眠りは感染する。厚い壁をも貫き通して感染する。

彼のこの講壇そのものに、ひとつの魔力が潜んでいる。若者たちが、徳の説教者の前に居並んだのも無駄ではない。

彼の知恵は、よく眠らんがために目覚めてあれ、ということだ。そしてまことに、もし人生に何の意味もなく、わたしが無意味を選ばねばならないのなら、わたしにとっても、これこそが最も選ぶに値する無意味であろう。

(薗田宗人訳 白水社版ニーチェ全集 『ツァラトゥストラはこう語った』 p45)

 

このようにツァラトゥストラは、賢者のことを阿呆としながらも、人々を平穏・安寧に導こうとすることについて悪くない評価を下しています。

実際に、現代世界に生きる私たちの中でも、平穏・安寧を求める女性的な精神は悪いように言われることは有りません。現代の温室化されひ弱な精神でも生きて行ける社会を築こうとする女性的風潮は、敢えて苦難の道を選ぼうとする男性的なツァラトゥストラの哲学とは対置されます。が、平穏・安寧が悪いとはひと言も述べていません。

ニヒリズム(虚無主義・無気力主義)を選ばなければならないのであれば、その中でもマシな、平穏・安寧を求めるキリスト教的価値観のほうを選ぶと、ツァトゥストラ自身も言っています。もちろん既にニヒリズムを克服したツァラトゥストラにとっては無意味なキリスト教価値観は選択肢には入っていないうえでの、少し皮肉をこめた語りになっています。

 

 

 


3.眠り以上に価値ある知恵


 

名声高きこれら講壇の賢者たちすべてにとって、知恵とは夢なき眠りであった。彼らは、それに勝る人生の意味には無知であったのだ。

今の世にも、今日聞いた徳の説教者のような手合いが、それも、必ずしもこれ程正直でないのがかなりいる。彼らは最早、そう長いあいだ立ってはいない。直きに彼らは横になる。

眠気をもよおしているこれらの者は幸いなるかな。やがて彼らは、こくりこくりと居眠りを始めるだろう。――

(薗田宗人訳 白水社版ニーチェ全集 『ツァラトゥストラはこう語った』 p46)

 

賢者たちにとって、平穏・安寧を求めることが知恵であり、その知恵を人々に向かって説いていたのは、平穏・安寧に勝る人生の意味を知らなかったからだと述べます。知らない人には選択の余地はありません。

 

ここは読者の人生観によって意見が分かれるところだと思いますが、心が平穏・安寧であることによって「幸せ」を感じ人生満足だとするならば、眠りが目標で良いのだと思います。

どれほど理不尽な扱いを受けようとも従い、禁欲的に生きることを旨として、それで幸せであれば、良い人生です。

しかしもし夢や希望をもって自立しようとしたり、誰かのために気概をもって立ち上がろうとしたりするときには、他者と争うことや神の教えに抗うことを覚悟せねばならず、対価として心の平穏や安寧を差し出さなければなりません。

平和で安心できる現実的な「今、ここ」に幸せを求めるのか、それとも、未来の可能性を信じ冒険的を楽しんでゆくのか、どちらの生きかたにも正解はありません。このツァラトゥストラは、いやニーチェの人生そのものが、後者の、可能性を求めて世界を開いてゆこうとするものだと考えられ、私はそのことに共感します。

 

最後に、この章を深層心理学での「自己創造」として読み解くならば、ツァラトゥストラは自我で明らかにできない無意識内(眠りの中)の住民になりたくはない、自分は眠りのすべてを白日の下に開放し一体化したい、という側面があると思います。