人生の目的とは何かについて少し考えました。
「人間にとって」ではなく、「私にとって」です。
しかも今の私にとってであって、過去の私にとってとは違いますし(価値観の変遷があります)、また未来においてこれがどう変わっているのかは、まったくイメージできません。
人生の目的とは、人生そのものである。
何かに成りたいだとか、何らかの明確な目標をもって結果を求めるだとか、そうしたものではなく、いや、かつては私もそうしたものを人生の目的に見出していたのですが、今は、人生全体が目的であるように思っています。「過程」に近いかもしれない。
生きることは生物にとって宿命です。人間にとっても。
そこに何らかの意味を見い出しても、結果的には、目標が達成されようともされなくても死んでしまうのです。死んだ後に他人さまが私の人生に価値を付けてくれたとしても、所詮、人類自体が消滅してしまう日が来ます。太陽に寿命がある限り。
人生における「何か」を目的とするのではなく、「どのように」が目的となりました。
私は生きる。どのように? です。
どのように? が、生きる意義であり、動機であり、同時に目的でもある。
例えば仕事においても、収入を得るために労働する。その労働の内容においては、嫌なことでも辛抱しながら忍耐強く続けることに、今までの社会は「美徳」という価値を与えてきました。会社から定められた、月の日数、時刻から時刻への時間、労働した時間が労働者にとって、自分の自由と引き換えに得られる対価です。
或いは、個人の業務受託や会社経営をしている人にとっては、時間の代わりが成果になるのですが、ここでも、苦悩しながら精神と肉体をすり減らして、収入のために仕事をしている人が大多数のように思います。
しかし、一方で、収入の得やすい自分の得意とする分野や評価される分野の仕事には目もくれずに、自分の好きなことを楽しみながら仕事にしている人が少ないながらも存在します。
ここでの「楽しさ」とは何か。
嫌なことでも辛抱しながら収入のために働く人と、楽しく仕事をする人と何が違うのか。
心理学者チクセントミハイが、著書『クリエイティヴィティ』において、創造する人の「楽しさ」について9つの項目を挙げておりますので引用します。
1.過程のすべての段階に明確な目標がある
2.行動に対する即座のフィードバックがある
3.挑戦と能力が釣り合っている
4.行為と意識が融合する
5.気を散らすものが意識から締め出される
6.失敗の不安がない
7.自意識が消失する
8.時間間隔が歪む
9.活動が自己目的的になる
(世界思想社版 チクセントミハイ著『クリエイティヴィティ』)
それぞれの項目について詳細に述べていますが、引用し自分の意見を書くにはボリュームが大きすぎますので(それぞれの項目ひとつにつき3日分くらいのブログ量になりそうなので)やめておきます。
西洋人らしい考えかたで、反論異論と付け加えたい事項も4つか5つあるのですが、そこには立ち入らないことにします。
著名な心理学者だけあって、相当に研究されている専門家としての上記の著述は、私にとって、非常に参考になりました。
チクセントミハイは、我を忘れるほど、時間の経過を忘れるほど、その活動に没頭してしまうことを「フロー」と呼んでいます。
フロー状態には、その個人に秘められた「楽しさ」が必ずあることを、彼は、例を交えながら論証していきます。説得力のある分厚い仮説です。
我を忘れるほどの楽しさは、動機であると同時に、目的でもあると思います。
一度味をしめた、「あの没頭する楽しさ(の過程)」を目的として活動する。
そこには明らかに、「欲求」があります。
消費者としてではなく、創造者として、フロー状態に喜びながら仕事をしたとすればどういうことが言えるのか。
生きる。どのようにして? の、「どのように?」が、フロー状態への欲求がおのずから生まれるように、自然にその欲求に「成っていく」のであれば素晴らしいと思うのです。
意識的に、その欲求を「みずからが造る」のではなく、無意識的に、「そう成ってしまった」ができるレベルが最高だと思うのですが、それはたぶん、成り行きに任せるほかはない。自分自身を信頼して、「私は生きる。どのように?」をテーマとして持ち続けることではないか。
倫理学者の竹内整一は、「みずから」と「おのずから」の「あわい」にこそ価値があると述べています。
私にはまだ、「あわい」が実感となって立ち現れてこないので、「おのずから」のほうを優先価値にしているのですが(昔は完全に「みずから派」でした)、竹内さんが力説する「あわい」を感じられるようになれば、また、人生観が変わるのかなと自分に期待を寄せております。
言葉を頭で理解しても、それが実感となって感性的に立ち現れてこなければ納得できないのです。それでも、頭で理解することはヒントになると思っているので書物を読むわけですけれども。
水のように、融通無碍に、創造的にどんどん変わってゆきたい。