巨人の肩の上には乗らない


知の創造にはオリジナルなどなく、先人たちが積み重ねてきた業績を土台として展望を開いてきたという思想がある。進歩主義思想である。先人たちを「巨人」として喩え、我々は巨人の肩の上に乗って遠望することができるなどと言う。ニュートンが述べた言葉とされる。

ゼロから知の創造を立ち上げることなどできないと、まるでそれが真理かのように語る人がいるが、自分が進歩主義思想のドグマに飼い馴らされていることに気がつかない。

外山滋比古氏の『ライフワークの思想』に良い喩えが二つある。一つは花。花を切り花として花瓶に飾るのか、それとも種から育てるのかの違い。もう一つは酒。ジンだとかウイスキーだとかワインだとか、それらを組み合わせてカクテルを作るバーテンダーなのか、それともゼロから地酒を創ろうとするクリエイターなのかの違い。

ゼロから創造した人は極めて稀であり、創造を試みようとする人でさえ希少である。ゼロからの創造を試みた哲学者でいえば、デカルトとタレス、フッサールくらいしかすぐには思い浮かばない。老子もそうかもしれない。彼らはゼロからオリジナルの地酒を創ろうとした。他の哲学者や思想家は、釈迦にせよ孔子にせよ、プラトン、アリストテレス、スピノザ、カント、ヘーゲルら大哲人は、皆バーテンダーとしてカクテルを作ろうとした人たちである。

デカルトは進歩主義思想に立たなかった。すべての先人の知を疑った。「今、自分は考えている。考えている自分がいるのは確かなことだ」ここから哲学を始めようとした。ゼロから哲学体系を創ろうとしたのだ。哲学どころか学問すべてをゼロから体系化しようとした。そのライフワークが結実したとは言い難いが、ゼロから創ろうとするその姿勢に感銘を受けた哲学者は僅かながらいた。例えばフッサールは老年期に入る頃『デカルト的省察』を書き、以降、ゼロから認識論を創ろうとし間主観性と他我の理論化をライフワークとした。

巨人の肩の上から降りて、ゼロから独自の地酒を創ろうとした哲学者は稀ではあるが、いた。

もちろん、巨人の肩の上に乗って、効率的に展望を開こうとする大多数の人たちを批判するものでは無い。先人の知見の良いとこ取りをし、既に存在する酒を組み合わせカクテルを作ることは普通の人なら誰もが考えることだろう。

あくまで趣味の問題だ。私はどれほど非効率であっても、ゼロから地酒を創りたい派なのである。ライフワークとして創り始めている『人間原理論』はまさにゼロからの理論創造である。デカルトと同じように進歩主義思想には立たず、先人の叡智は常識を固めてしまう「重力の精」として最終的に退ける。

私は、巨人の肩の上には乗らない。

 

 

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