「一部を全部」体系的に


最近特に思うことだけれども、人間の原理について一部を説明できても、実質的にはその一部さえも説明不完全となる。あたりまえなんだけどね。例えば「思考」の原理を説明するとしよう。思考するには概念が必要不可欠になる。思考についてのみ完全に説明できたとしても、概念の原理を説明できていなければ思考原理についての説明は不完全だ。思考には直観原理も価値観原理もある。身体性原理との関係性もあり社会と自分の関係性原理もある。関係性原理はネットワークのように網羅的に存在している。つまりだ。全部の原理を体系的に説明しなければ、一部の原理の説明も不完全となるというわけだ。

これは、もしかすると趣味の問題なのかもしれない。過去の哲学者をみていっても、全部の原理を体系的に説明しようとしたのはアリストテレスくらいしか頭に浮かばない。しかし他にも同じ趣味の哲学者はいたと思う。ただ、彼らが生きていた時代にはインターネットで情報収集することができなかったし、人工知能を使って、例えばChatGPTと365日24時間いつでも自分の都合で議論を始められる環境もなかった。

現代では、こうして自分のウェブサイトを創ることができ、キーボードで素早く文章を作成し修正も簡単にできる。議論は、人工知能という知能だけとれば千人の天才アシスタントが相手をしてくれているようなもので、100年前と比較すれば100倍以上の効率性があると思う。すごく恵まれた時代にいる。

ゆえに、人間原理の全部の仕組みとダイナミズムを精緻に哲学し、体系的な原理論を独りで創造できると確信している。

私には日本人の特質である職人気質の一面があって、何かを創る際には妥協を許さずに完璧さを追求する。どこまでも精緻であることが美しく価値のあるものだという価値観がある。日本の職人がつくるものには、伝統工芸品や建築物、農業生産品、料理、時計、精密機械、時刻通りに動く電車の発着などがある。それらの創作過程における完璧主義には、創造性が必ず要求される。哲学理論の創造にも、日本人らしい職人気質の精緻で美しさを求める完璧主義があっても良いだろうし、今までなかったことが不思議ですらある。

私は、共創ではなく独創でなければ流麗な《すがた》にならない、アーティスティックなフィロソフィカル・セオリーというのがあると思っている。

 

 

 

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