永遠の未完成


永遠の未完成


 

「永遠の未完成」

 

「永遠に未完成」と「永遠の未完成」の違いから説明します。前者は永遠に未完成である何かであり、後者は未完成そのものが永遠であるという意味です。当サイトのタイトル「永遠の未完成を奏でる天籟の風」とは、天籟の風によって永遠の未完成が音楽的に奏でられるというイメージです。

「永遠の未完成」にしても、「奏でる」や「天籟の風」にしても、言葉の意味で理解しようとせずに、概念のイメージを描いてほしいと思います。

 


 

永遠について

 

永遠と似た言葉には、永劫や永久、久遠、万古、悠久、恒久などがあります。永劫は限りなく無限に近いが有限の時間を表します。永久は自然科学的な時間のニュアンスを強くもちます。久遠は仏教用語ですが真理とともに使われることが多いことばです。万古にも永遠の意味はありますが過去のニュアンスを強くもちます。悠久は連続性の性質のニュアンスを強くもちます。恒久は変化しない物理状態のニュアンスを強くもちます。これらと比較すると永遠は、時間概念を超越し、時間的な長さとは無関係なイメージをそなえ、精神や心の無限性にロマンティックを感じられる概念だと感じて、永遠という言葉を使っています。

日本語の発音で「えいえん」という音質と形容表現として「えいえんの」が五音であることが、耳に心地よさそうという理由もあります。

 


 

未完成について

 

完成しないことを良しとする思想に基づいています。私たちは子どもの頃から目標や目的をもつことを教わります。そしていつしか、「何のために」が無くてはならないような固定観念に縛られます。しかし宇宙に何かの目的があるのでしょうか。或いは、人間は何の目的でこの世に登場しやがて消滅していくのでしょうか。「何のために」という目的志向は、当然そのための完成を目指します。そしてその目的は成就するしないにかかわらず終わります。

ところが、そもそも目的など必要ない、なにごとも未完成のほうが完成よりも優れているという発想の転換をしてみるのです。中途半端で終わることではなりません。永遠に続く未完成状態です。変化し続けることが未完成です。一時的に目標や目的をもったにせよ、目指すものをも変化させていって、永遠に達せられることはないことのほうが優れていると私は考えました。

よく言われる「ひとつのことをやり遂げること」が世間では推奨されますが、あれもこれもどれもこれも、一切やり遂げることなしに未完成のまま続けていくこと。おそらくそれが大自然の、宇宙の原理でもあるのではないかと思うわけです。

 


 

宮沢賢治の「永久の未完成」

 

「・・・われらに要るものは銀河を包む透明な意志、巨きな力と熱である・・・

われらの前途は輝きながら嶮峻である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大な深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である

理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる
畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである」

(青空文庫 宮沢賢治『農民芸術概論綱要』結論より)

嶮峻・・険峻(けんしゅん) ※四次芸術・・時間概念を三次元空間に加えた芸術 ※了(しま)へば・・終了すれば ※斯(かか)る・・このような ※畢竟(ひっきょう)・・つまるところ

この小論の初めのほうに「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」とあり、上記冒頭文をイメージする助けになる。賢治のこの芸術論は、人の生を芸術的イメージとして捉えたものだと私は解します。

永久の未完成これ完成である」 これは銀河のイメージと四次芸術のイメージから、終わることのない巨大な深さとなる苦痛をも楽しんでこそ、永久の未完成が完成するというのが私の解釈。そして理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる」この一文がふるっている。この芸術論も、このように書いたのち自分のなかに腹落ちしたのならさっさと捨ててしまうと言うのだ。瞬間の中に永久がある。今のこの考えは瞬間的かつ永久的であり、しかも未完成という完成であると。

37歳で早逝した賢治がこの小論を、故郷の岩手花巻の生徒たちに講義したのは30歳のときである。思考の深さと志の高さがうかがえる。