心魂を磨く涵養
1.心魂の定義
魂というとまず先に霊魂を思い浮かべるかもしれない。
しかし私が使う「心魂」という言葉はそうではなく、ひとりの人間の、心の深奥に息づく根源的な精神を言う。
学問について
学問は子どもの義務ではない
『論語』において孔子は「吾十有五にして学に志す」と述べたとされる。子どもの頃に大人から「頭が柔らかく吸収力や記憶力の良い子どもの頃に学ぶべし」と言われた経験はほとんどの人があると思う。そのように子どもに語る大人は、既に学問に対して諦め、怠惰になっているのではあるまいか。
若い頃の学問
子どもの頃を思い浮かべれば確かに頭の回転が速く、記憶力が良く、頭脳を活性化させるためにも学問に励むことは良いことであるし奨励すべきだとも思う。
中年以降の学問
学校を卒業し社会人として活動するようになると、学問から解放されたように感じるのは多くの人が体験するところだろう。学んだことを生かしてゆく時期なのは言うまでもないが、中年以降に学問に手を付けない人と、社会活動と並行して学問に打ち込む時間を作る人では、おそらく人生の豊かさという面で圧倒的な差異が生まれるだろうと思う。
学問とは体験である
若い頃は知識そのものを学び、知識を組み合わせて考察してゆくことになる。社会人になるとさまざまな経験を積む。中年以降の学問は、そうした体験の記憶が連想に立ちのぼる体験と、学ぶ相手である先人著者の思考体験が重なりあう、自己人生の重体験となる。頭脳の体験だけではなく、心に深く沁みいる体験ができることも中年以降の学問が優れている点だろう。
学問に志す時期に早い遅いはない
若い頃に学問に志せば、学歴にせよ知性の形成にせよ、その後の人生において社会的に有利となることは多い。一方、中年以降に学問に志せば、仮にそれが老年期に入っていたとしても、頭も心も新鮮さを取り戻し、心魂が晩熟し実りある自分の一生を実感できるだろう。