八十にして成る
次の文章は日本人ならばほとんどの方が知っていると思われる、孔子が自分の人生を振り返り年代別に表した言葉とされています。
子曰、
「吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩。」子曰(いわく)、
「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従い、矩(のり)を踰(こ)えず。」
世間では一つの優れたロールモデルとして捉えることも多いように感じますが、あくまで上記は孔子の人生です。学ぶことはするが参考に留めておく程度で良い。自分は自分固有の言葉でおのれの人生を表現すべきだと考えます。
『淮南子(えなんじ)』には次の言葉があります。
「蘧伯玉年五十而知四十九年非。」
「蘧伯玉(きょくはくぎょく※賢人の人物名)は五十にして四十九年の非を知る」
五十歳にして四十九年間すべてが間違いだったと知る潔さ、そして新しい一歩を踏み出そうとする意志。
八十にして成るは晩成ではない
晩成という言葉があるけれど、自分で自分が晩成するなどと恥知らずなことを言うつもりはない。
「成功者」とは何者か。
社会や他者に賞賛されることをもって「成る」「成功」とするならば、その際におのれの胸に去来する満足感は陳腐なものに違いない。
ところで、「成る」とはまさに自分自身のみによって自分を「成った」と認めることであるが、なにをもって「成るのか」「成ったのか」は自分固有の価値観であり、他の誰のそれでもない。
「成る」ということについて考え続けねばならない。
これは一生涯の課題です。
「八十にして成る」というのは八十歳にして成功するという宣言ではない。
少なくとも八十歳となるまでは「成らない」という宣言です。
八十まで生きられなくても関係ない。その途上にあるという意識が大切だと思うわけであります。
「成るとは何か」について八十までには見つけたい。
八十を目前にしたならば、「百にして成る」に言い替えるかもしれない。