毎日同じことのルーチンを繰り返し、日常のほとんどがやらねばならないことで埋まっていて、たまに旅行へ行くことくらいが楽しみでという方も少なくないと思います。昨日までの自分の歴史を振り返ってみて、私の人生っていったい何だったのだろうかと。身近な人が亡くなっていくなかで、自分もやがてこの世から去っていく未来に置きかえ、我が一生をなぞるとき、誰のための人生だったのだろうかと。そういう思いに駆られることがあるかもしれません。
自分の「生」の「意義」とは何だろうか。いま意義がないとき、どうしたら人生の意義を自分の手で造れるのだろうか。その辺りを考えてみたいと思います。
今回の記事は、今シリーズの哲学テーマからはズレるかもしれません。ただし接点はあるのです。
1.「意義」の定義
ここで私が扱う「意義」は次のように定義します。
広辞苑 第三版より、物事が他との連関において持つ価値・重要さ。
「意味」との違いをはっきりさせるために、自分自身の価値観上で「主観的に」重要だと考える価値、を上記に加えます。人生の意義とは、自分の一生、人生との連関において自分が主観的に重要だと考える価値になります。
最も大きな意義について書いていきますが、その過程では、中程度の意義も生じてきます。しかし構造は同じセオリーになる。このことについては次の記事にまわします。
2.人生の意義の「タイプ」
言葉を他に変えると人生の意義にはタイプがあることがわかります。
人生の目的、夢、志、野望、宿願、理想、目標 など。
今回は、自己実現的意義と社会貢献的意義の二つに大別します。代表格として「野望」「志」の二つの観念を扱います。まとめるときは「テーマ」としましょう。
3.野望・志への「欲求」
欲求が生まれることで人生のテーマ(野望・志)が誕生することもあれば、逆にテーマを設定し達成しようと欲求していく、このニ方向があります。
また、テーマが変化していくこともあります。レベルアップする向上的変化、レベルダウンする劣化的変節。欲求自体が弱く、或いは欲求の持続力が弱くいつのまにか諦めてしまうテーマの消滅もあります。
4.欲求の根源である「価値観」
欲求は何によって生まれるか、支えられるかと言えば価値観にほかなりません。
じつはここで哲学テーマと結びつくのです。個人の価値観とはどのように造られていくのか。何を対象として絶対的価値を置くのか、何を対象として他と比較しより重い相対価値を置くのかが価値観です。
個人が自分自身で創造する価値は少なく、おおむね、自分が生まれる以前から存在する、社会的に認められている価値への個人評価です。その混合によって生じる新しい価値もわずかながらあります。
宗教、思想哲学における真理的価値。世俗色の強い相対的価値、主に人文学的な芸術や文学・エンターテインメントなどにみられる情緒的価値・虚構的価値など。
その個人の価値観によって、欲求の種類とテーマのタイプが変わりますし、欲求の強さと持続力も変わります。習慣と無意識が大きく関与しています。
5.欲求を恣意的に変化させる「感情」
そのときそのときによっての環境や置かれた状態、何か心に抱えこんでいる悩みの種やストレス、事前の出来事、自分のこと以外の要因、身体的な好不調、そうしたことに起因して個人の感情は常に変化しています。
価値観だけで理性的にのみ考えられるほど人間は単純ではありません。
たった一度の感情的爆発によって人生を台無しにしてしまうことがいかに多いかは報道で知るとおりです。
その都度意識上で理性的に感情をコントロールするにも限界があり、膨大な領域を占める無意識のほうに「感情をコントロールしてもらう」にはどうすれば良いのかを、これからの時代の私たちは考えていくべきだと思います。
今日の記事は「意義」および意義に関しての「テーマ」「欲求」「価値観」「感情」についての概観を考えました。どのようにして「志」を造れば良いのか、価値観を造れば良いのか、無意識内をどう整備すれば感情を正しく有効に使えるのか等については、じっくりと深く掘り下げてゆかねばなりません。ここは哲学論に戻ってからやろうと思います。
また、いくら自分の内面的なことを整備し、例えば崇高な志を抱けたとしても、それは机上の空論として頭の中に在るだけです。思うだけでは何も実現できず、人生の意義とはなりません。
次の記事では、人生の意義を実現するために必要な、欲求以外の二つの大きな要素である「企画」と「戦略」について概観します。