おまえがやらねば誰がやる


モチベーションをつくるために、内心で自分を叱咤する。俺がやらねば誰がやるではなく、おまえがやらねば誰がやるとするところがポイントで、天の声が自分に刺さるようにする。

世のなか捨てたもんじゃないと思うことがある。何の得にもならないのに誰かのためにと一所懸命に尽くしている人や、残りの人生を日本の将来のためにと無私の精神で身を削っている人を見ることがある。そういうすがたを目の当たりにすると、「おまえは何をしてるんや?」「おまえがやらへんかったら誰がやるねん?」という天の声が聞こえてくる。

俺ができることは、日本のためにとか世界平和のためにとか、困っている人のためや社会のためということではない。そういうことはマジョリティーの皆さんにお任せします。それぞれに使命感をもって身を尽くすのであれば内容は何でもいいじゃないかと思う。そうした行動に出ている皆さんは素晴らしい。

将来の日本を憂う気持ちは俺にもあるけれど、それを直接的に目的化して行動する人たちとは別行動をとる。俺は俺にしかできないことを、誰にもできないことを間接的に死ぬまで目立たないようにやる。使命感だけは誰にも負けない。ろくでもない人生を歩んできたツケがたまっているから、誰にも負けないほどに返さなあかん。

情熱の炎が消えるときは俺自身が消えるとき。そのときは生きててはいられない。とりえがそこしかないからねえ。

「使命」というと、誰かにやらされる感をもつ人がいるかもしれない。義務に似た語感のイメージ概念を使命に重ねる人がいるかもしれない。俺には、それは一切ない。なにしろ天の声だから。ところで、「何のために生きるのか」を考える人は山ほどいるだろう。答えがなかなか見つからない人もいるだろう。どうせ死ぬのにと、ニヒリズムに陥る人もいるだろう。

その問いかけには、「俺には使命があるから」と答えたい。

 

 

人生美学の生成のされかた


子どもの頃には人生美学など考えもしなかった。成人するまでも大人になってからも、自分が何かになりたいとか、自分はどうあるべきかとか、自分の行動指針だとか、あるいは信念だとか、私の場合は一切考えたことがなかった。エネルギーが内側の自分へと向かわないのだ。心理学でいえば極端に典型的な外向性タイプである。自分が何かになりたいのではなく、何をしたいかだ。それは今も変わらない。

だから、意志をもって、目的的に人生美学を生成しよう、こう生きるんだという指針をみずから創ろうと思ったことは一度もない。つまり、私の場合は「私の美学建設」というテーマの内容は、すべて自然生成的につくられたものとなる。

これは実に日本的なのだな。欧米的や中国的であれば、みずから意志をもって主体的に創造しようとなるだろう。私には、そういう目的も意志もなく、ありのままの自然体の内部で、矛盾と混沌を抱え込みながら蛹の内部のような液状状態から「人生美学」が客体的に創られてきたし、今も創られ続けていると言える。つまり私が人生美学のコンテンツを創るには、既に私の観念世界に生成されている美学規範と生成されつつあるそれを言語化すればよい。もちろんその中には未だ不完全で「こうなる感じがいいな」という憧憬も含まれる。

今日、このウェブサイトの構造を整理し直していて、「私の美学建設」コンテンツの内容も少し見直した。主に構造の整理をやっていて、サイドにナビゲーションメニューを付けたり多言語翻訳を外したりした。ナビゲーションを付けた手前、やらなくちゃという気持ちが芽生え、時間を忘れるほどに集中していろいろやった。

私の美学について客観的にカテゴリーと項目の整理をすることによって、明らかな自分の傾向に気がついた。やはり、私という人間の本質は主に情熱から生成されている。

 

 

人生意義のセオリー(8)侠


「共感」から生成される心として「愛」と「情」がありました。いずれも重要な心で人生の意義に直結します。今回の記事では「侠」を扱います。「愛」がどちらかと言えば女性性の「思い」だとすれば、「侠」は男性性の濃い「人のために立ちあがる心」です。前の記事で扱った「情」を水の精とすれば「侠」は火の精と言えるかもしれません。

 

4.侠

〇 定義

「侠」という文字は「俠」の略字です。「俠」には「人」という字が4つも入って何をかいわんやですね。(俠はパソコン環境依存文字ということなので侠をここでは使っています)

侠気は「きょうき」と読みますが「おとこぎ」とも読みます。侠の入る熟語はその他に、義侠心、勇侠、侠骨、任侠、仁侠などがあり、強きをくじき弱きを助ける男気という意味が辞書には掲載されていますが、「強きをくじき」と「義(ただ)しい」の意味は補助的に扱います。

主旨としては、困っている人たちや弱っている人たちを見て、居てもたってもいられず、或いは頼まれて、「よし!」と、人のために立ち上がる心の「侠」です。

 

〇 ひと肌ぬぐ心意気

心意気はとても大切だと思っています。正しさの理屈じゃなく、損得勘定一切なく、なんだかよくわからないが勝手に心が動く。歯切れの良さがある。さっぱりと潔い感じの「よし!」という心映えが立ち上がってくる。色々考えてみたのですが、今のところ原理はよくわかりません。しかし心意気を失うことは自分の生命力を失うことと同じことのような気がしてなりません。

「侠」の心意気は、自己犠牲の精神だとか献身性だとか、そういった「善性」の理(ことわり)のたぐいではありません。表面上の意味としては似ているのですが。

 

〇 ありのままの「勇」

新渡戸稲造の『武士道』では、「義」と「勇」がセットで語られます。

「義」――武士道の光り輝く最高の支柱
「義」は「勇」と並ぶ武士道の双生児である

新渡戸の論拠としては『論語』の、

義を見てせざるは勇なきなり

「勇気とは正しいことをすることである」というふうに捉えるわけです。

(引用は三笠書房 奈良本辰也訳 新渡戸稲造『武士道』)

新渡戸はアメリカでアメリカ人に対して日本の「BUSHIDO」を紹介しましたが日本へ帰国したのちに日本版の武士道については書きませんでした。だからということでもないのですが、日本文化の宣伝的な「きれいごと」の粉飾が全編に見られると言っても言い過ぎではないと思います。

「勇」には大義の勇と匹夫の勇があり、武士道の「勇」は大義の勇でなければならないというわけです。「義」とは孟子曰く「人の正路なり」ですから、人の道として正しいこと、公けにも正しいことであり、義しいと書いて「ただしい」とも読みます。「正義」は「ただしい」を重ねた熟語です。

 

ところで、倫理学者の相良亨著『武士道』では、新渡戸の武士道を(儒教的)「士道」とし、『葉隠』や『甲陽軍鑑』のそれを(古典的)「武士道」として分け、両者の根柢に流れる何かを浮かび上がらせようと試みています。後者においては「ありのまま」が推奨される。

将たる者はあなどられているのではあるまいかという意識、あなどられまいという意識をつきぬけて、ありのままの自己を以って、内の者の前に立つべきなのである。勿論それは気儘に地金のままにという意味ではない。ありのままとは、いわば一つの境地であり、きびしく自己をみがきあげる努力をふまえてはじめてありのままたりうる。人の前を飾り偽ることなく、ひたすら自己自身をきびしくみがき上げつつ、そのありのままの自己を以って勝負をするというのが、ありのままをよしとした戦国武将の姿勢である。

(講談社学芸文庫版 相良亨著『武士道』)

 

相良の論を借りるならば、ありのままの「勇」とは、既に十分に自己を磨き上げたのちに自然と生まれる「勇」なのであるから、いざその段になって「義」だとか正しい理だとかを考えるようではならない、となります。

この「ありのまま」は前の記事で扱った本居宣長の「物のあはれ」論に通底するところがあり、宣長は「あはれ」の重要性を語る際、儒教や仏教の正しい理屈などは「さかしら(賢しら‥※利口そうに振舞うこと)」であると退け、また歌論においては「本情のありのままに詠む」ことを是としました。

そもそも正しいこととは何でしょうか。何をもって正しいとするのか、何をもって善とするのか、そこに独善の正義がはたらくこともある。

であれば、「義」をさっぱり抜き切った相良の言うところの「ありのまま」の「勇」こそ、(結果的にたとえ間違いや失敗だったとしても)腹を切る覚悟のある「勇」ではないかとなってくる。今日のタイトルを「義侠」とせずに「侠」としたのは、純粋な「心の侠」そのものを捉えたかったからです。

 

つまるところ、無意識下の深層でなんらかの化学反応が継続して起きており、生得的(遺伝子的)なものも絡み、「共感」が中核となってそこから純粋な「侠」が立ち上がってくる。「よし!」という心意気が生成される。「愛」と「情」にしても共感が核となって生成されている。

しかし共感だけではない。おそらく、無意識下に押し込んだ多様な理性的価値観が混合され、「侠」にせよ「愛」「情」にせよ、常に洗練され続けているのではないか。私たちはそのために、洗練されるに相応しい理性的価値観を学ぶことを継続し、考察と刺激を習慣化しているかどうか、このことに無反省であってはならない。

明確となった構造は、「共感」→「侠」「愛」「情」「心意気」+「共感系刺激の習慣化」「理性的考察の習慣化」→「志」→「企画実践」+「継続性」です。この連続要素すべてが(たとえ一部でも)「人生意義」となる。

無意識内での化学反応のメカニズムについては、仮説を立てるにしても現在の私の能力ではいささか手に余りますので、今後の課題として常に意識しておきたいと思います。

「侠」や「心意気」を立ち上げましょう。

「人生勝負」の気概を失ってはならない。

 

考察をつづけます。

 

 

人生意義のセオリー(7)情


「共感」と「愛」についてと同様に、「情」もまた、これから深く考察していこうとしている段階で、未だ十分に「情」を定義することさえできておらず準備不足は否めないのですが、アウトプットしながら考えていこうと思います。

 

3.情

〇 定義

まず、「情とは何か」との普遍的意味への問いは持ちません。「情」は「共感」や「愛」以上に多義的で文脈によって語義は変化しますが、普遍的意味を統一しようとすることに何ら意義を感じないからです。かと言って膨大な語義語感の「情」を視野に考えるのでは「愛」や「共感」との区別もつかなくなります。そこで、私の捉える「情」のイメージを元に定義づけてゆくことにします。

西洋思想で考えられてきた情は、emotion や feeling の「感情」、patos(ギ) , passion にあたる「情念」の二種に収斂されます。こうした、驚き、喜怒哀楽等の感情は当然、自我で覚知できるものです。

私は、上記の「現象・表現の情」ではなく、もっと無意識の深くに根源的にある「情」についてここでは扱います。言ってみれば「日本古典的な無意識下の情」です。自我で覚知できない「情」です。この無意識下の情から演繹的に西洋思想的な感情・情念を説明できると考えています。

以下は相良亨著『日本人の心』からの孫引きになります。

ただ人は情(なさけ)あれ 朝顔の花の上なる露の世に 『閑吟集』
たゞ人は幾度も情あるべきは浮世なり 『義経記』
たゞ人は情あれ、情は人の為ならず 『山中常盤』
去る程に、人は只(ただ)情あれ 『三河物語』

古典では「情」を「こころ」「なさけ」と読みますが、「じょう」でも良い。要はどのような文脈でどのような語義・語感として「情」が使われていたのかが肝心です。相良は上記を引用しつつ「ただ情(なさけ)あれ」という心情が日本の古典にはあったと述べています。私の定義する「情」は上記文脈での「情」=「こころ」とほぼ同義とします。

 

〇 「あはれ」と「情」

本居宣長の思想「物のあはれ」の「あはれ」は、長らく「ああ」と「はれ」を繋げたものとして語の成り立ちが考えられてきました。日本語言語学の権威であった大野晋が主として編纂した『岩波古語辞典』にもそうあります。しかしその大野が晩年、現地の学者らの協力を得て入念に調査したところ、日本語の起源(音感)が南インドのタミール語にあることを発見しました。以下に「あはれ」についての大野の最終見解を引用します。

私は以前、これを感動詞アと掛け声ハレの複合と考えていた。何故なら、日本語の単語の根本的な部分はおよそは二音節から成るもので、三音節の単語は二つの部分に分けられるからである。(略)

ところがタミル語に avalam という単語がある。『タミル語大辞典』には、それに「苦悩、苦痛、貧乏、窮乏、泣くこと、悲しむこと、幻想、心配、欠点、病気」という訳をつけてある。その最後に「悲哀の情」とあり、その後に「身体の八種の表現の一」」と書いてある。インドでいう身体の八種の表現とは「笑い、泣き、軽蔑、驚き、恐れ、剛毅、怒り、喜び」である。(略)

avalam は「悲哀の情」を意味するが、それは、1.自分自身についてのavalam、2.他人についての avalam(共感の情)をいうとある。(略)

日本語 afar-e とタミル語 aval-am とは、はじめの四音節が正確に対応し、意味も基本において共通である。アとハレとの結合とする私の見解は、日本語の中だけで考えていた結果であったことが明らかになった。賞賛の意味のアワレ、アッパレは、共感の意から展開したものと考えなくてはならない。

(岩波新書版 大野晋著『日本語の起源』)

 

大野晋氏は間違いなく昭和随一の日本語言語学の権威のひとりでした。彼がみずから著した「古語辞典」の内容を撤回する。己の権威に傷がつくことを恐れず、大きな反発や影響が予想されたにもかかわらず、自分の解釈は間違いであったと認めた学問的姿勢に感服します。

少し寄り道をしてでも私が言いたかったことは、その言葉の成り立ちを推理し、そこからの意味を正しい語義として扱ってしまうことの危うさです。『古語辞典』を何の疑いもなく信じ、語義や概念の根拠として使うことは避けた方が良いと思うに至りました。

ここで「あはれ」は「共感」を元にしていると解釈できるという大野の発見は私にとって大収穫でした。点が線で繋がっていきます。

本居宣長の「物のあはれ」についても、共感を元にしていると考えれば理解しやすくなります。

たゞ人情の有りのまゞを書きしるして、見る人に人の情はかくのごとき物ぞといふ事をしらする也。是れ物の哀れをしらする也。(本居宣長『紫文要領』)

 

宣長は紫式部『源氏物語』の愛読者でした。この『紫文要領』ではさまざまな角度から「あはれ」が語られます。全編にわたって「哀れ」「あはれ」のオンパレードです。物語登場人物の心情の哀れ、作者である紫式部の心情の哀れ、そして宣長みずからの心情の哀れ。この哀れは共感で繋がっていると考えることができます。

では、この「あはれ」は、例えば紫式部と宣長とで正確に一致しているかといえばそうではなく、そこに唯一普遍的正しさをもつ「あはれ」はありません。言ってみれば、宣長の個人的な「情」なのです。

前の記事でみたとおり「愛」は結びつきでした。人と人との愛は双方向の志向性を求めるものでした。「情」は一方通行ですみずからの無意識下に根ざす「情」が、おのずからの心のはたらきとして、対象とするものへと映りこむのです。

 

〇 「無常」と「はかなさ」

「無常」は仏教思想の概念です。すべては移ろいゆくものである、そうしたまなざしで世界をみることを「無常観」と言います。理性的達観とでも言いましょうか。

「無常観の理(ことわり)」に「哀感のはかなさの情」を織り交ぜながら表現してきた日本の中世文学は多々あります。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり 『平家物語』
ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず 『方丈記』

つづいて、竹内整一著『かなしみの哲学』からの孫引きになりますが引用します。

はじけては消える夏の夜の花火を見ていると、ふと、そこはかとない悲しみがただようことは事実である。日本人は昔からそういう「はかなさ」に心ひかれ、人生の無常に耽溺して来たと信じられている。それはたしかにその通りなのだが、しかしその同じ日本人が、ふしぎに一方で極端なニヒリズムに走らなかったことも事実なのである。人生の無常をかこちながら、われわれの先祖はそのなかにけっこう安定した自然を見出していた。(山崎正和著『混沌からの表現』)

 

上記に語られているように、日本人は「はかなさ」の哀感に酔い痴れてきたのかもしれない。そこに美学さえ感じとれます。ところで「はかなさ」の正体とは仏教の無常観なのだろうか。それとも「感」主体の無常「感」なのだろうか。いや、私はここで「無常」を思いきって除いてみたい。時代をさかのぼると萬葉集の「はかなさ」のおもむきは少し異なります。

世の中は 空しきものと知る時し いよよますますかなしかりけり (大伴旅人)

この和歌は妻を亡くした旅人の心情を表現したものです。世の中は常にうつり変わりつづけるという仏教の理法ではなく、世の中は空しきものと知ると言う。愛する人は消えてしまった。心にぽっかりと空白ができた喪失感。妻のみならず世の中すべてが消えてゆく。過去を「今」とを同じ「今」に置いたとき、ひたすら悲しくなる。対象としての「世の中」の喪失が悲しい。この悲しみに無常の理が入りこむ隙間などありません。理で納得しようとしない、否、理では絶対に納得できない亡き妻への情がある。愛する人を亡くしたとき、仏教の理法、無常観はむしろ心を傷つける凶器にさえなり得ます。深い悲しみの情は理に対し無自覚に反感を覚え牙をむく。

 

本居宣長は次のようにも述べています。

おかしき事、うれしき事などには感(うご)く事浅し、かなしき事、こひしき事などには感くこと深し。故にその深く感ずるかたを、とりわきてあはれという事あるなり。俗に悲哀をのみあはれといふも、この心ばへなり。(『石上私淑言』)

楽しさや嬉しさの心は浅く悲しさの心は深い。故に悲哀のことを「あはれ」と言うことが多いと述べています。しかしなぜ悲哀が深いのかについては掘り下げていません。

楽しさや嬉しさがやがて想い出に変わったとき、「はかなさ」に転化されるからではないかと思うのです。むしろ楽しかった故人との想い出のほうが悲しく辛いものです。愛する子どもを喪ったときには、ずっとずっと子どもの笑顔が想い出として残ることでしょう。この辛さは尋常ではない。

年齢を重ねていけば数多くの別れを体験します。身近な死別も多くなります。親、恩人、夫、妻、友人。彼らとの想い出はずっと残り続ける。私たちが過去を土台に今と未来を生きるということを考えれば、過去の楽しさや嬉しさは悲哀へと転化され、悲哀のはかなさが人生の土台として次から次へと積み重なっていると言える。

 

悲哀の体験は、幾重にも積み重ねられた人生の地層に濾過され、純粋に透きとおった地下水としてこんこんと無意識の深層に涌きでている、それがはかなさの「情」というものではないか。

無色透明な水ではあるけれどミネラルや栄養分がたっぷり含まれ、枯れることのないほどに満ち満ちている命の泉、それが豊かな「情」というものではないか。

 

「情」は己の人間成長の豊かさとして、人生の偉大な意義になると思います。

 

 

人生意義のセオリー(6)愛


前の記事では「共感」の重要性に気づいたことを書きました。人類の社会性のベースと言える共感から幾つかの重要な心のはたらきが誕生します。そのなかでも、とりわけ人間らしい心の「愛」と「情」について、哲学として考察してまいります。この二つは「人生意義」に十分になり得る。むしろこの心なき「志」や「自己実現」は他の誰かの胸を打つことはない。「愛」と「情」を「愛情」というふうに一括りにしなかった理由は「情」の項目で述べます。

 

2.愛

まず愛の意味について事典から引用します。

愛(〔ギリシア〕agapē, erōs, philia〔ラテン〕amor〔英〕love)

愛は人間理性の規定対象ではなく、逆に人間を根源的に定める領域にあるので定義できないが、次のような諸特徴を示す。愛はまず明らかに情緒・感情・意志・志向的性格を帯びている。したがって他者との関係性を示す。

(岩波書店版『岩波哲学思想事典』)

 

上記引用後の概説内容を参考に他者を対象に替え、対象別に分類してみます。(私見含む)

〇 対象=人間・・・肉親愛、友愛、同志愛、恋愛、性愛、師弟愛。

〇 対象=自分自身・・・自己愛、ナルシシズム。

〇 対象=超越者・・・神愛、神秘主義的愛、仏の慈悲。

〇 対象=文化・・・芸術への愛、哲学的愛、伝統習俗への愛。

〇 対象=自然・・・山川草木への愛、郷土愛、動物愛、地球愛。

〇 対象=共同体・・・家庭愛、祖国愛、チーム愛、法人愛。

〇 対象=物質・・・愛車や長年使用し続けた装飾品など愛着をもつ愛用品。

〇 対象=空想・・・幻想的愛、虚無的愛。

その他の分類について同書では、生命愛と向死愛、利己愛と利他愛、サディズムとマゾヒズム、融合愛と独占愛、甘えと自律的愛、偏愛と博愛・公正な愛、などを愛の対置の方法例として挙げています。続いてもう少し引用します。

こうした愛の多様な関係性・志向性は、精神科学・人間科学・社会科学などの対象としてその属性が記述されようが、愛はむしろ関係を創ったり破綻させたりする意味で言語行為論的に働く。特に愛は他者との関係の中で働きつつ、人間存在の存在論的に特別な在り方を開示する哲学的意味をもつ。(上記同書)

 

約2000頁の大著である『岩波哲学思想事典』は、思想哲学にかんして高い識見を有する専門学者606名が担当項目を執筆し、7名の編集委員と41名の編集協力者によって編纂されている。当然、編集委員らによって査読が行われているので信頼性は高い。上記「愛」の項目は神学者である宮本久雄氏が担当しています。

しかしながら正しい語義の解説との判断を私はしません。特に哲学思想事典という性質を鑑みれば、一人の学者の見識でありそれ以上でも以下でもない。いえ、けっして「間違っている」と言いたいのではないのです。

上記引用冒頭に「愛は人間理性の規定対象ではなく、逆に人間を根源的に定める領域にあるので定義できないが、」とありますけれど、「人間理性の規定対象ではない」「根源的に定める領域にある」の意味がよく解りませんし主観が入り過ぎている気もします。或いは、愛の哲学的定義を不能とする学問的態度というのは、直截に言って私には哲学からの逃避あるいは怠惰に思えます。ただし、「事典」の執筆であること、ご担当の宮本氏がカトリック教会司祭であることなどを勘案し、一つの見識としては参考にしたいと思いますし分類のヒントはいただきました。

私は「愛」の原理の解明、つまり愛は人間のどこから生まれてきたのか、そのメカニズムの全容を明らかにすべく沈潜してまいります。「共感」の重要性に気づいた今の時点では、それは十分に可能だとの確信めいたものもあります。

 

ところで、上記の対象別の分類をしばらく眺めていたところ、幾つかの構造的な法則性に気づきました。

1.愛は対象との「結びつき」に大きな価値を置いていること。その結びつきを強化したいという欲求、手放したくないという欲求が愛にはあること。

2.「結びつき」を強くしたい志向性は陽性であり、歓び、成長等への目的的欲求が内在していること。

3.「結びつき」以前に、対象に対しての共感があり、好意から始まっていること。知覚的、理性的、感性的、感情的、いずれかの好意。

4.人を対象とした場合、対象である他者と自己との相互共感性によるある程度の強い「結びつき」が愛には必須であること。

5.愛に客観性はなく、自我による主観性がすべてであること。

 

とりあえず以上ですが、これらの構造から何かが言えそうだとか、何かの原理が見えてきてるなとか、「情」との対比がわかりやすくなった等、今日の「愛」の哲学的考察は有意義でした。

「愛を哲学すること」はまだ始めたばかりで、「共感」「情」についても同様ですが、ここからが大切。光の届かない深淵への沈潜です。次は「情」についてです。

中段の対象別分類を見てもわかるとおり、人間を対象としての愛、家庭愛、郷土愛、芸術への愛…、「愛」は十分に人生意義になります。例えば、志や自己実現ではなく、「家族愛」に生き甲斐の最重点を置いて生きることも立派な人生だと思います。また、「家族愛」「素晴らしい家庭を築くこと」への啓蒙が(時間はかかるでしょうけれど)、現代日本の社会問題である少子化の最も強力な対策になると私は考えています。

 

 

人生意義のセオリー(5)共感


人生意義のセオリーとして「志」と「自己実現」を掲げました。この二つに集約できると考え、次は「何を」するのか「企画」の段階へ入ろうと計画していたのが約一ヶ月前。しかしこの一ヶ月のあいだに現代社会の問題点(少子化や「自由」について)のさまざまな考察を行った結果、この二つだけではいけないと思うに至り、考えを改めることにしました。

「志」と「自己実現」はいずれも外へ向けて形づくられるものです。一つの、或いは複数でも良いのですが、目的に照準が合わされます。ある程度、遠い未来に。ある程度、大きな社会を世界として視野に。自己実現はもちろん、志が社会善を志向するものだとしても個人的価値観(延長)上の人生意義の範疇です。

しかし人類が皆、この二つだけを人生意義として生きたらどうなるでしょう。

おそらく人類は絶滅します。というのは、子どもをつくらなくなるからです。結婚もしなくなる。志にせよ自己実現にせよ、自分の時間と労力を自分のためにのみ使う方が圧倒的に有利であり、守るものを抱えないほうが有利です。精神的なストレスも減りますし自分の自由度がなんといっても大きい。

外形上は志も自己実現も華々しく映り、誰もが憧れをもちます。目に見えるはっきりとした実在があるのでわかりやすい。けれどそれと引き換えに、「偏向した自由社会や自己実現を標榜する人たち」は子孫を遺さなくなり絶滅へ向かいます。現代日本を見ても欧米先進国の“白人”の急速な減少化を見ても、この端緒が現れているように思います。

 

今回の記事のテーマに掲げた「共感」は、主に内面において大きな人生意義となることに気づきました。いや、哲学者のマックス・シェーラー(1874-1928)が主張したように、むしろこちらを土台とすべきかもしれません。

以下では、内面的にはたらく「共感」「愛」「情」について考察します。

 

1.共感

おそらく人類の最も原初的な価値感覚のひとつです。

人類は社会を形成しました。猿人、原人、古代人の時代、一人で生きるより、一家族で生きるより、集団を形成した方が生存に有利だと、数万年数十万年をかけて気づいたのだろうと思います。敵となったのは獰猛な動物だけでなく、人間の他の集団も敵となることが多かった。食べ物の争い、なわばりの争い。

集団を形成するために、その形成された集団の一員になるために、共感を必要とした。

共感理論は、ほぼ同質の理性的価値観の共有、ほぼ同質の感情的価値観の共有、この二つに収斂されると考えています。

哲学者二人の見解を含め事典から引用します。

共感(sympathy)

共感は人間の自然的情緒であり、人間社会の基礎である近親感情や友交を生み出すものである。人間はその生存において他者に依存せざるを得ぬため、生活のごく初期から他者の動作や表情の意味を解釈することを学ぶ。

【ヒューム】人間は他者の行為を観察し、自己の経験と想像力によってその行為の動機である感情を感知する。(…ヒュームの)共感原理の説明は極めて画期的であり、共感はもはや同情や憐憫を意味するものではなく、道徳的判断を行う重要な心の作用を意味し、さらに自己の利益と直接関係しない社会的利益を是認し、正義の規則を敬重する感情も共感によって生み出されるとされる。共感は道徳的判断に際し、利己的な判断に対する被害者および第三者の非難の感情を知覚し、次第に理性に類似した穏やかにして強力な情念へと転化し、大きな変動を許さぬ公正な判断基準となっていく。

【シェーラー】共感とは通常「共歓および共苦と呼ばれる過程」、つまり他者と共に喜び、共に苦しむ体験、その限りでまた、われわれにとって他者の諸体験が直接に理解されるように見え、その諸体験にわれわれが直接に〈参与〉するような過程のことである。こうした共感は、一方では〈追感得〉、つまり感情移入の経験から区別され、また他方では単なる一体感とも区別される。直観的にいえば、死児を前にした父母の悲痛の共有、そこに見られる〈相互感得〉が、その典型的な場面の一つであるともいえよう。

(岩波書店版『岩波哲学思想事典』)

 

共感論にかんしては他にも、マクドゥガル、ボダン、シャフツベリ、ハチスン、ハートリ、スミス、カントら諸学者の研究による見解があります。

ヒュームの言説を読む限りにおいて、共感は自然感情(情緒)を基にし、社会的に協働して生活を営むためには相互の感情を損ねないことを必要とした。その共感が道徳化し、社会秩序や正義となって理性としての価値が定着した。理性としての価値が定着すると、属する共同体の一員となるために理性的価値観の共有が求められ、その共有を阻害する「悪」の価値に対し悪感情をもち、その悪感情の価値を共有することが求められる。こうして感情的価値の共有と理性的価値の共有が共感として固められてゆき、安定した社会秩序を形成する。要約すればこのような思想構造だと思います。

マックス・シェーラーは哲学者として異彩を放っています。子どもの頃に父親から推薦されたニーチェを読み、大学の卒業後はフッサールに師事し現象学を学びました。ハイデガーの兄弟子にあたります。外向的かつ社交的で、しかし何事も中途半端で放り出し次の関心事に気が向いてしまう。離婚を二回経験し結婚は三回。教授の資格を約十年間はく奪されジャーナリスト的なライターとして活動した時期もあった。いわゆる「孤独に徹する内向的な変人」といった哲学者イメージとは程遠く、ゆえに幅広い社会経験によって相互共感性の機微をよく理解していたのでしょう。

理性よりも感情を人間学の土台とするマックス・シェーラー。彼の「愛の秩序」理論について学び始めました。共感というキーワードは、私の新しい哲学的美学論において、貴重なひとつのピースとして編入されました。今まで共感について深く考えたこともなかったですし、こうして考えることになるとは思ってもみなかった。とても新鮮な気持ちです。

アイデンティティの確立にかかわる帰属欲求、社会やコミュニティで自分の存在価値を認めてもらいたいという承認欲求、社会的地位や名声を得たい、権力を得たい、金銭を得たいなどの自己実現欲求、公的な志を抱くことも含め、これらすべての土台に「社会の一員としての共感」があります。共感なくして社会的欲求は起こらず、成立しません。

 

 

人生意義のセオリー(4)自己実現


人生の意義は、「志」「野望」を達成すること、または、その目的に向かって歩み続けることで最大化されます。敢えて「野望」という刺激的な言葉を使っていますが、耳障りの良い言葉で言えば自己実現です。私的欲求とその現実化です。

「自己実現」という言葉は、現代日本の世俗の手垢がつき過ぎ陳腐化している感があり避けていたのですが、今日のこの記事では自己実現のほうを使用してみます。まず前の記事でのチャートを再掲します。

 

人生の意義に「志」と「野望」を書き添えているのは、どちらか一方ではなく、どちらもという「両立」の意味です。なぜ「志」だけでは駄目で「自己実現」が必要なのかを論理的に明確にしたい。

 


 

1.公的な「志」と私的な「自己実現」

「志」とは例えば「戦争のない世の中にする」「世界中の人たちが感動する映画を作る」「全ての癌を治せるようにする」など。

「自己実現」を上記の事がらにミートすると「世界平和に貢献したことによってノーベル賞の受賞者になる」「世界最高の映画監督になる」「癌の治癒薬を開発したことで後世に名を残す」などになります。

言語の定義や語感は人によって若干異なるかもしれませんが、私は「志」を私心のない公的なこととし、「自己実現」を敢えて角度のついた言葉でいうのならば、エゴイズムに基づく私的欲求の実現と考えています。

 

2.「志」は同志を集める

志を抱き達成を目指して歩んでいると、低い確率ですが同志とめぐりあって志を共有しコラボレーション(協働)的に動けるようになることがあります。但し、人と人は全く同じ価値観や感情をもつ人格にはなることはできません。背景に抱えること(家族の事情など)も異なり、変節は日常茶飯事ですし、死ぬまで同志であることは稀だと思います。

どれほど高い志を抱きそれを世に訴えても、多くの人は「立派なことをしてますね、頑張ってください」と励ましはすれども、同志以外の人は自分のことで手いっぱいで、けっして汗を流そうとせずお金の寄付がせいぜいでしょう。

 

3.「自己実現」はファンを集める

もしテニスプレイヤーの大坂なおみ選手が「私は世の中の人に感動を与えるためにテニスをやっている」と言い、これが第一義だとしたらどうでしょう。ちょっと白けた感じになりませんか。

「私はグランドスラムの優勝者になる」「世界一の女子テニスプレイヤーになる」という個人的な自己実現の目標があって、そこに向かって厳しい練習にも耐え、精神的圧力にも耐え、わが道を突き進んでいるのですよね、彼女は。

そうすると「大坂なおみ選手に世界一の女子テニスプレイヤーになってほしい」というファンが生まれます。「テニスを通じて世界中の人々に感動を与える」との「志」であれば、そう多くのファンは生まれないとは思いませんか。

 

4.水清ければ魚棲まず

人間の本性(ほんせい)は生きることです。生物の本性も同じです。他人が死んでも自分だけは生きのびたい(子どもや最愛の人は別としても)。自分のエゴイズムを真正面から見つめると世界のいろいろなことが見えてきます。

スポーツの優勝は他の全選手の敗北を意味します。他の選手を押しのけ倒して頂点を目指すのがスポーツです。一人だけの生き残りです。そのスポーツに人々は熱狂する。原初的な感情が揺さぶられる。

そして応援する選手の自己実現を自分の自己実現に重ね合わせる心理がはたらきます。それがナショナリティに基づくならば、ナショナルの一員である自分が誇らしい。自分のバックボーンが肯定的評価を受けることによって自分が肯定されたように感じとる。ごく普通の心理ですね。

元来、人間の本性の一部にはエゴイズムがある。

他者の自己実現が、自分のエゴイズムの代替となって刺激を受ける。ファンになって応援する。ヨーロッパのサッカーチームのサポーターには自分の人生を賭けて応援している人が大勢います。もちろん嫉妬感情の刺激もありますのでアンチも当然生まれます。自己実現の道を敢然と歩めばファンもできるが敵もできる。敵をつくることから逃れるすべはありません。

エゴイズムのないところには、なかなかファンは生まれないものです。この人の自己実現のためなら自分が汗を流そう、そうしたくなる。「水清ければ魚棲まず」です。

「志」は他者の理性に訴える。「自己実現」へ向かって頑張る姿は他者の感情を揺さぶる。

 

5.「少年よ、野望を抱け」が正しい

クラーク博士の名言に「少年よ、大志を抱け」とありますが、日本人の大人の手が入った誤訳だと思います。Boys, be ambitious の「ambitious」は「野心的な」です。

思うに、クラーク博士は野心が人間のエネルギーの根源になりやすく、多くの人々に応援されることをよく知っていたのではないかと。利己心なき公的な「志」は確かに美しく善です。直接的な社会貢献です。けれど、はたして少年は心の底から納得するでしょうか。それで納得して自己実現を考えない少年は好ましい少年でしょうか。親ならば我が子に「自分のために生きて欲しい」と願いませんか。

人は成熟し中高年に入ってくると野心が徐々に薄れてゆくものです。自分自身の「自己実現」に対する欲求が減っていく。私もそうです。自分にはもう難しいという意識もはたらくのでしょう。しかし「志」のほうは持ち続ける人は終生持ち続ける。自己実現よりも志のほうが高貴に思える。だから、利己主義はだめだ、公的に善いことを「志」とせよ、私心を捨てよと、枯れた中高年者が子どもや若者にこれを押しつけているのかもしれませんね。


 

現代の日本は全ての子どもや若者に優等生を求めます。他人を傷つけないように、傲慢にならないように、偏見を持たないように、寛容な理解者であるようにと、してはならないことがいっぱいで不自由極まりなく、一度の失敗で負け組の烙印を押される世相への恐怖心は相当なプレッシャーでしょう。インターネットで汚点は拡散され永久に残り続ける恐怖もある。そしてその道を歩むことは、その道とは異なる道をゆく人に対する批判者になってしまうということです。これではますます生き辛い閉塞的な社会になってしまうのではないでしょうか。

シャネルのオーデトワレ系ブランドの一つに「エゴイスト」があります。確か90年代に誕生した男性用なのですが、このようにエッジの効いたネーミングは日本ではまず無理でしょう。

「エゴイスト? いいじゃないか!」‥この風潮が日本にも育つといいなと思っています。

 

清らかな「志」が必要ないということではありません。「志」は必要です。「志」とは正反対の、脂ぎったエゴイズムに裏打ちされた「自己実現」の欲求を、「志」と両立、連動させることで大きなパワーアップが望める、というのが今日の記事の主張です。

 

 

人生意義のセオリー(3)全体構造


人生意義のセオリー(1)(2)の、詳細部分を完全にカットし簡略したチャートは下の図のようになります。

 

 

〇 Mind から人生の意義が生まれる。

〇 高貴な価値観をつくらなければ高貴な人生の意義とはならない。

〇 人生の意義へ向かって進むことによって Mind もまたつくられる。

〇 人生の意義に沿った企画を幾つか発案する。ビジョンをもつ。

〇 企画・作品創造は情熱と使命感をもって取り組めるものでなければならない。

〇 企画の内容とその創造が Mind の価値観を育てるものであるとなお良い。

〇 人生の意義と企画に自ら具体化したことを設定し全体を構想する。

〇 テーマが決まったら戦略を練る。システム構造を考案する。

〇 現場戦術は心理学の実践である。

 


 

価値観・人間性の醸成は生が終わるまで継続してゆかねばなりません。

人生の意義となる志(公的)と野望(私的)、および意義に沿った企画発案、それぞれに何を具体的に設定するのかが、一番のネックになりそうです。

野望はともかく、志については、他者のそれに相乗りさせてもらうことも一つの手だと思います。具体的に何を設定したら良いのか、自分の本当にやりたいことが見えてこないという人が、現代日本にはとても多いように感じます。

企画発案のセオリーについては現在熟考中です。

 

 

人生意義のセオリー(2)企画と戦略


人生の意義と欲求の関係には、テーマ(意義)を先に決定してから欲求につなげていく場合と、何かの欲求に動機づけることでテーマが決定していく場合の二方向があることを確認しました。

そしてテーマと欲求だけでは絵に描いた餅であり、具現化しようとしなければ「プロセス」に意義を感じることはありません。つまり「何を」するかの「企画」が必要になってくる。

 


 

1.意義を具現化する企画は手段

意義を形にするためには「何を」するのかをまず決めなければなりません。必須条件は人生の意義の実現に関連性のある「何か」であるということ。

意義実現の最終地点に近接した企画から今の自分自身に最も近いところにある企画まで、いろいろな企画を空想します。今思い浮かべられる企画だけで5つくらいは発案したい。

しかしあくまで企画は、人生意義実現のための手段であって目的ではありません。ですから一つの企画に固執することはあってはならないとなります。一度企画を決定し始めた後に新しい企画を加えてもいいし、最初の企画を早々に断念してもよいのです。柔軟性が大切です。

 

2.作品としての企画

企画とは作品です。作品を創造するときには強い情熱や使命感が自然に湧き上がってきます。逆を言えば、情熱や使命感をもてない作品は自分にとって創造価値のないものになる。

情熱を傾けて創造したくなる作品には必ずビジョンがあります。作品の未来の姿が明確にイマジネーションできる。

企画創造のキーワードは「作品」「情熱」「使命感」「ビジョン」。

企画発案のキーワードは「アナロジー」「趨勢(世の流れの)洞察力」「ジャンルの横断と関係性」。

後者の発案(アイデア)の能力を高めるための論考は後日書きます。

 

3.戦略とは企画を実現するためのシステム

「What」(何を)にあたる企画テーマが決まったならば、次は「How」(どのように)実現、実行していくか、これにあたるのが「戦略」です。

戦略とはシステムを造ることです。構造を構築・構成する時間的、空間的、人的、経済的、数値的、つまり「How」のなかには、「When」「Where」「Who」などが含まれます。そしてここでも「システム内企画(戦略内企画)」が生まれます。

このように最終的な大意義(大志、大望)の下に企画が位置し、企画の下に戦略が、その戦略システムの中に中意義やシステム内企画がある。同じ構造をもって下へ伸びてゆくのです。

 

4.戦略を実行するリアル現場での戦術

リアルの現場ではほとんどの場合、「人」「価値」に焦点があたります。戦略は天にあり戦術は地上にある。地上での戦術は生身の人相手に、人間心理をいかに活用していくかです。価値観は全て個々の人間心理によって決定されているものであります。

例を挙げるならば「ブランド」イメージが解りやすい。

DCブランドだけでなく家電ブランドもあれば食料品関連のブランドも、もはや数えきれないほどのメーカーブランドや商品ブランドがあります。会社などの法人もブランドになりますし、近頃ではパーソナルブランディングが言われるようになりました。ブランディングプロモーションは心理学(主に社会心理学)のジャンルに入れても良いくらいです。

戦術とは人の価値観形成に関わろうとする心理学的実践のこと。

 


 

本来であれば、上記それぞれの内容について1項目あたり10記事程度を要さなければならないところですが、大づかみの概観だけを記したのは「全体立体構造の構成」を論考の中心に置いているからにほかなりません。

次の記事では、人生の意義、欲求、価値観、感情、企画、戦略、戦術の全体構造を解りやすくするために、チャート化します。

 

 

人生意義のセオリー(1)意義と欲求


毎日同じことのルーチンを繰り返し、日常のほとんどがやらねばならないことで埋まっていて、たまに旅行へ行くことくらいが楽しみでという方も少なくないと思います。昨日までの自分の歴史を振り返ってみて、私の人生っていったい何だったのだろうかと。身近な人が亡くなっていくなかで、自分もやがてこの世から去っていく未来に置きかえ、我が一生をなぞるとき、誰のための人生だったのだろうかと。そういう思いに駆られることがあるかもしれません。

自分の「生」の「意義」とは何だろうか。いま意義がないとき、どうしたら人生の意義を自分の手で造れるのだろうか。その辺りを考えてみたいと思います。

今回の記事は、今シリーズの哲学テーマからはズレるかもしれません。ただし接点はあるのです。

 


 

1.「意義」の定義

ここで私が扱う「意義」は次のように定義します。

広辞苑 第三版より、物事が他との連関において持つ価値・重要さ。

「意味」との違いをはっきりさせるために、自分自身の価値観上で「主観的に」重要だと考える価値、を上記に加えます。人生の意義とは、自分の一生、人生との連関において自分が主観的に重要だと考える価値になります。

最も大きな意義について書いていきますが、その過程では、中程度の意義も生じてきます。しかし構造は同じセオリーになる。このことについては次の記事にまわします。

 

2.人生の意義の「タイプ」

言葉を他に変えると人生の意義にはタイプがあることがわかります。

人生の目的、夢、志、野望、宿願、理想、目標 など。

今回は、自己実現的意義と社会貢献的意義の二つに大別します。代表格として「野望」「志」の二つの観念を扱います。まとめるときは「テーマ」としましょう。

 

3.野望・志への「欲求」

欲求が生まれることで人生のテーマ(野望・志)が誕生することもあれば、逆にテーマを設定し達成しようと欲求していく、このニ方向があります。

また、テーマが変化していくこともあります。レベルアップする向上的変化、レベルダウンする劣化的変節。欲求自体が弱く、或いは欲求の持続力が弱くいつのまにか諦めてしまうテーマの消滅もあります。

 

4.欲求の根源である「価値観」

欲求は何によって生まれるか、支えられるかと言えば価値観にほかなりません。

じつはここで哲学テーマと結びつくのです。個人の価値観とはどのように造られていくのか。何を対象として絶対的価値を置くのか、何を対象として他と比較しより重い相対価値を置くのかが価値観です。

個人が自分自身で創造する価値は少なく、おおむね、自分が生まれる以前から存在する、社会的に認められている価値への個人評価です。その混合によって生じる新しい価値もわずかながらあります。

宗教、思想哲学における真理的価値。世俗色の強い相対的価値、主に人文学的な芸術や文学・エンターテインメントなどにみられる情緒的価値・虚構的価値など。

その個人の価値観によって、欲求の種類とテーマのタイプが変わりますし、欲求の強さと持続力も変わります。習慣と無意識が大きく関与しています。

 

5.欲求を恣意的に変化させる「感情」

そのときそのときによっての環境や置かれた状態、何か心に抱えこんでいる悩みの種やストレス、事前の出来事、自分のこと以外の要因、身体的な好不調、そうしたことに起因して個人の感情は常に変化しています。

価値観だけで理性的にのみ考えられるほど人間は単純ではありません。

たった一度の感情的爆発によって人生を台無しにしてしまうことがいかに多いかは報道で知るとおりです。

その都度意識上で理性的に感情をコントロールするにも限界があり、膨大な領域を占める無意識のほうに「感情をコントロールしてもらう」にはどうすれば良いのかを、これからの時代の私たちは考えていくべきだと思います。

 


 

今日の記事は「意義」および意義に関しての「テーマ」「欲求」「価値観」「感情」についての概観を考えました。どのようにして「志」を造れば良いのか、価値観を造れば良いのか、無意識内をどう整備すれば感情を正しく有効に使えるのか等については、じっくりと深く掘り下げてゆかねばなりません。ここは哲学論に戻ってからやろうと思います。

また、いくら自分の内面的なことを整備し、例えば崇高な志を抱けたとしても、それは机上の空論として頭の中に在るだけです。思うだけでは何も実現できず、人生の意義とはなりません。

次の記事では、人生の意義を実現するために必要な、欲求以外の二つの大きな要素である「企画」「戦略」について概観します。

 

 

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