人生美学の生成のされかた


子どもの頃には人生美学など考えもしなかった。成人するまでも大人になってからも、自分が何かになりたいとか、自分はどうあるべきかとか、自分の行動指針だとか、あるいは信念だとか、私の場合は一切考えたことがなかった。エネルギーが内側の自分へと向かわないのだ。心理学でいえば極端に典型的な外向性タイプである。自分が何かになりたいのではなく、何をしたいかだ。それは今も変わらない。

だから、意志をもって、目的的に人生美学を生成しよう、こう生きるんだという指針をみずから創ろうと思ったことは一度もない。つまり、私の場合は「私の美学建設」というテーマの内容は、すべて自然生成的につくられたものとなる。

これは実に日本的なのだな。欧米的や中国的であれば、みずから意志をもって主体的に創造しようとなるだろう。私には、そういう目的も意志もなく、ありのままの自然体の内部で、矛盾と混沌を抱え込みながら蛹の内部のような液状状態から「人生美学」が客体的に創られてきたし、今も創られ続けていると言える。つまり私が人生美学のコンテンツを創るには、既に私の観念世界に生成されている美学規範と生成されつつあるそれを言語化すればよい。もちろんその中には未だ不完全で「こうなる感じがいいな」という憧憬も含まれる。

今日、このウェブサイトの構造を整理し直していて、「私の美学建設」コンテンツの内容も少し見直した。主に構造の整理をやっていて、サイドにナビゲーションメニューを付けたり多言語翻訳を外したりした。ナビゲーションを付けた手前、やらなくちゃという気持ちが芽生え、時間を忘れるほどに集中していろいろやった。

私の美学について客観的にカテゴリーと項目の整理をすることによって、明らかな自分の傾向に気がついた。やはり、私という人間の本質は主に情熱から生成されている。

 

 

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