左脳と右脳の使われかたなどどうでもいいじゃないか?ってことで、ふつうは問題ない。特に生きることや社会生活上で問題となることはない。ところが、意外かと思うかもしれないが、哲学の認識論上では極めて重大な問題となる。なぜなら、言語の扱いと概念イメージと言語の関係が変わってくるからだ。私は、私を基準にして認識上の原理論をつくる。もし利き脳システムが本当にあって、私がどちらかに偏っているとすれば原理論は普遍性をもたないことになってしまう。
インターネット上で、左脳と右脳、利き脳を検索して調べると、玉石混交で色々出てくる。利き脳があるという意見では、単になんちゃって心理学のような薄っぺらい記事が大多数で、まれに大学教授の論文がある。利き脳は無い、迷信だという記事のほうは、科学的検証ができていないという理由だけを「無い」の根拠にしているので、逆に非科学的かつ単純な論理の誤りである。科学的検証ができていないという点では、有る無いのどちらとも言えないとなる。
ということで私は、有る可能性もあり無い可能性もあるとする。有る場合に冒頭で述べた哲学理論上で問題が生じるため、有るという仮説論を避けて通れない。
まず、脳梗塞などで左脳に損傷を受けると右半身に麻痺などの症状が見られ、右脳への損傷は逆になる。これは医学上で証明されているから科学的根拠がある。言語が左脳中心で感性が右脳中心というのも上記の脳梗塞の事例で証明されている。しかしこれは、利き脳があるかどうかの根拠にはならない。一方で、手足に右利き左利きがあるのは事実だ。ただし、利き手にかんしては幼いころに親が右利きへ修正した可能性がある。
利き手から利き脳を判別するロジックは仮説上で可能だ。但し、利き脳とはどういう脳のはたらきのことをいうのかについてと手足との関連性については、おそらく論拠が希薄となるにちがいない。
ところで、インターネット上によくある、自分の両手を目の前で組んでみて左親指が上にくると右脳インプット派であり、右親指が上にくると左脳インプット派であるという仮説はどうだろうか。論文のなかでは統計数値として傾向が出ているという。しかし人体メカニズムの論拠については探すことができなかった。同様に、自分の両腕を組んでみて左腕が上になる場合と右腕が上になる場合、前者は右脳アウトプット派で、後者は左脳アウトプット派だという。これも指の場合と同様で、統計根拠はあるらしいが人体メカニズムの論拠は無い。そもそも指がインプットで腕がアウトプットという理由も、今のところネット上で探し出せていない。
私の場合、指も腕も両方とも左が上なので、インプットもアウトプットも利き脳が右脳ということになる。占いを読むようなつもりでネット記事を読んでいると、感覚だけで生きている人、らしい。まるで論理力がないように書かれているし、整理整頓ができない散らかしっぱなしの人らしい。もしそうなら哲学原理論なんて創ろうと思うわけない。苦行になるだろうから。ところが私にとっては超がつくほど楽しい仕事である。部屋の整理整頓はちゃんとしているほうだと思うしね。
他方、確かにそうかもしれないと思うこともある。例えば、本を読もうとする際に、活字を読もうとする意志のスイッチを切り替えないと一文字も意味が理解できない。ふつうに歩いていたり車を運転したりする際に、景色は自然に目に入ってくるが文字の広告があっても標識以外の意味は無視される。飲食店内や電車内で他人同士の話に聞き耳を立てることも目的化しなければできない。他人の話も音楽の歌詞も、自然に言語の意味が耳から入ってこない。目の前の相手が話している内容を聞くふりをして、相槌を打ちながら意味内容をまるまるスルーする得意技まである。
もし私の利き脳がインプットもアウトプットも右脳であり、しかもそれが顕著であれば、概念原理論を創る際に障害となる。なにしろ認識論については、自分の認識感覚を基準にロジックを組み立てていくのが基本だからだ。
左脳と右脳がある以上、どちらかの脳の使われかたに偏りがあっても不思議ではない。男女の脳の違いも含め、科学者による脳機能の研究結果や過程にかんしてはアンテナを高く立てておこう。