日本古来からの価値観 「きよきあかきこころ」 における究極のすがたの前に、最終的に立ちはだかる最強の敵を私は、「自己欺瞞」だと考えている。清らかで明朗なこころが自分のすべてであるようにと希求する意志と主張、その裏に、無自覚に、無意識的に、密かに潜む自己欺瞞に私はうすうす気づいている。自己欺瞞との対決は、おそらく、仮に数百年生きたところで終わることはないと思う。
人間の欺瞞と自己欺瞞を徹底的に憎んだ哲学者ニーチェの、無意識心理にかんする心理学的評価は非常に高い。
ルートヴィッヒ・クラーゲスはニーチェを、一八八〇年代における支配的傾向、すなわちドストエフスキーとイプセンとが文学において展開していた“暴露的”すなわち“仮面略奪的”心理学のすぐれた代表者と規定した。
ニーチェの関心は、ヴェイルを破って、人間がいかに自己欺瞞的存在であり同時に他者をたえず欺瞞する存在であるかを示すことにあった。
「人が外に見せているものすべてについてこう問うてよい。それは何を隠したいのだ、何から目をそらそうとするつもりなのだ、いかなる偏見を生み出そうとするつもりなのだ? どこまで この微妙な 虚飾を通すのだ? 何のためにこの行為で自らを欺くのだ?」(※ニーチェ著『曙光』)
人間は自分以外の人間に対してよりも、はるかに多く自分自身に対して嘘をつくものであるから、心理学者は人が語り為すところよりもむしろ人の真の意図から結論するべきである。
(中略)
ニーチェは、倦まずたゆまず、およそ考えられうる限りの感情、意見、態度、行為、美徳がいかに自己欺瞞か、無意識の嘘に根ざすものであるかを示している。
かくて「いかなる人間も自己自身から最も遠いところにある」。無意識は個人の本質的な部分である。意識は無意識の暗号化された一種の式、「無意識的な、おそらく不可知の、しかし感性には捉えうる本文(テキスト)に付された、程度の差はあれ幻想的な注釈」(※ニーチェ著『曙光』)にすぎない。
(弘文堂版 アンリ・エレンベルガー著 『無意識の発見・上』)
口から出る言葉について、文章で表される言葉について、「それは何を隠したいのだ」、「それは何から目をそらそうとするつもりなのだ」、「いかなる偏見を生み出そうとするつもりなのだ」、「どこまでこの微妙な虚飾を通すのだ」、「何のためにこの行為で自らを欺くのだ」、という問いから、私たちは目を背けてはいないだろうか。正面から向かい合うことなく誤魔化していないだろうか。
その虚飾は、いったい何のためなのだ。
実際にニーチェの文章から引いてこよう。
虚栄心の強い者は、自分について耳にするあらゆる好評を(それが有益であるかどうかはぜんぜんまったく度外視すると同時に、真偽のほども無視して)喜ぶのと同じく、あらゆる悪評に悩む。
なぜならば、彼はこの両者に屈服しているからであり、自分が、わが身にこみあげてくるあのもっとも古い屈従の本能から、この両者に屈服していることを感じているからである。
――自らについての好評へと誘惑しようとするもの、それは虚栄心の強い者の血のなかにある「奴隷」であり、奴隷の狡猾さの名残りである――そしてたとえば、いかに多くの「奴隷」が今日でもなお女のなかに残存していることだろう!
同様にまた、のちになってこれらの世評の前に、まるでそれを呼び起こしたのが自分ではないかのように、自らすぐさま跪くのも、奴隷なのである。
(白水社版 ニーチェ全集 ニーチェ著『善悪の彼岸』261番)
褒められる習慣が子どもの頃から身についた者は、褒められることが当然で貶される圧力に慣れておらず少しのことで傷つき挫折する。褒めてもらうこと自体が欲求となって他者の評価を異様に気にする。褒められれることが嘘であっても一向にかわまないのである。一方で自分にかんする悪い評価、悪い噂を耳にすれば異様に落ち込むのである。この心には奴隷の血が流れている、奴隷のずる賢さの名残りだとニーチェは言うのである。
自分がいかに優れているか、いかに善人であるか、いかに社会で活躍しているかなどについて、遠回しに、微妙なニュアンスを使って誘導しようと励む。言葉の端々に、相手に気づかれないように虚栄の罠を仕込む。
虚栄の罠は、彼女(彼)の属性やアクセサリーにいろいろと仕込まれている。
自分が育った家柄(良し悪しは無関係)、学歴、知識、職歴、活躍歴、幸福歴、苦労歴、不幸歴、社会的地位、肩書、趣味の高尚さ、著名人や有名人の知り合いがいるなど人脈的なもの、妻にかんすること、夫にかんすること、子どもにかんすること、他にもまだまだあるだろう。このような社会的属性や自分のアクセサリーにこっそりと自慢を仕込むのである。およそ中高年になればなるほど、このテクニックに磨きがかかる。
多くの人はニーチェの暴露心理学から目を逸らす。聞こえないふりをする。
「いったいなぜ聞こえないふりをするのだ」
「私には逃げる権利がある」とでも言うのだろうか。
「人には多様性があり私が何を思うかは自由だ」とでも言うのだろうか。
一つの種が発生し、一つのタイプが固定して強くなるのは、本質的に等しい不利な諸条件との長い戦いのもとにおいてである。(同)
多様性に基づく自由は、みずから自由になろうとすることを欲せずに、何の努力もせずに、自由であることの結果を主張しているだけで、それは〔自由〕ではない。
負荷がかかる、抵抗の圧力がかかる、これが成長の必須条件であり、その不利な諸条件に負けずに、踏まれても踏まれても強く生え伸びる雑草のごとく、崖から谷へ叩き落されても這い登ってゆく獅子の子のごとく、自己を克服してゆくことが自由な精神であり人間の高貴さである。
自己価値を正当化するために、自論正当化へ誘導するために、自己承認欲求を満たすために、他人に気づかれないように虚飾を張り巡らせ、他人を欺き、その欺いていることさえ正当化して自分をも欺く。なぜそうまでして承認されたいのだということに対し正面から向き合い、まずは認めなくてはならない。無自覚に、無意識的に現れ出でてしまっている欺瞞と自己欺瞞を発見し認めなくてはならない。
勇気をもって欺瞞と自己欺瞞が自分にあることを認めることができれば、それを克服していくことは自分の伸びしろでもあり、高貴な精神に近づくことでもある。
私は、生の力が尽きるまで、自分に潜む欺瞞と自己欺瞞と対決してゆこうと思う。
徹底的に己が心の純粋性を追求してゆこうと思う。
これは他人は全く関係ない。社会も関係ない。自尊心でもない。
自分が自分自身の「心」に誇りをもてるかどうかだけにかかる、自己矜恃という名の石碑の建立である。
ニーチェは人間に、透明な純粋性を求めた。
それは、日本人が目指してきた心情の純粋性の追求に酷似している。
ひたすら心情の純粋性を追求する日本人の倫理意識は、諸民族との比較においてきわめて特殊なものであることが理解される。
(ペリカン社版 相良亨著作集 『日本人論』 第三章 純粋性の追求)
It is the icy purism of the sword-soul before which Shinto-Japan prostrates herself even to-day. The mystic fire consumes our weakness, the sacred sword cleaves the bondage of desire. From our ashes springs the phoenix of celestial hope, out of the freedom comes a higher realization of manhood.
今日でも、神道日本がその前にひれふすのは、剣の魂の氷のような純粋主義である。その神秘の火はわれわれの弱点を焼きほろぼし、その聖なる剣は欲望の奴隷を斬る。われわれの屍灰(しかい)から天上の希望の不死鳥が翔(と)び立ち、欲望から解き放たれた自由から、より高い人間らしさの自覚が生まれる。
(講談社学術文庫版 岡倉天心著 桶谷英昭訳 『茶の本』)