思想について


今日は2024年の大晦日。
最近は日々の断想を書くことを怠っていた。思いついたことはSNSプラットフォーム (エックス:旧Twitter)に独り言として書くことが多かった。手軽である一方、ここにしっかりと残す作業がわずらわしく感じていた。また、「人類哲学の独創」と「私の美学建設」というライフワークの本論に注力していたことも一因である。
せっかくの大晦日なので、久しぶりに断想を一稿したためてみたいと思う。

 

テーマは「思想について」

まず、思想と哲学の違いについて述べてみる。この二つは、それぞれの言語から連想される観念上の概念であり、私の個人的なものである。他者とは異なることがあって当然だということを前提に置く。

私にとって、「哲学」は価値判断を一切含まない。善悪、優劣、損得、美醜といった色付けを排除した、無色透明の純粋な論理であり、根本原理を考え抜く学問である。一方で「思想」は価値判断を含む。「良い」という色付けが加わり、それを基盤に体系化されたものだ。個人では実存主義や倫理学、社会では自由平等主義やナショナリズム、さらには宗教も「思想」に含まれる。

哲学の本質は考えることであるから動的であり、思想は既に出来上がったものとして静的である。しかし近年では、単に論理的に一貫した理屈や態度を示す人を「彼には哲学がある」と表現するのをよく見かける。「政治哲学がある」といった言い回しも同様だ。これには「良い」という価値判断や「こうすべきだ」という信念が伴っている。私にとってこれは哲学ではなく思想信条である。

 

思想とは何か

宗教信条を含め、思想信条なくして人間は生きていけるのだろうか。この疑問が最初に思い浮かぶ。思想の根本から考えてみよう。

幼児は価値を覚え、親や社会から多様な価値観を学びながら、自己の価値観を形成する。しかし価値観が混在したままでは安定せず、他者や社会と関わる中で「社会的信用」の重要性を学び、それを獲得するために「変わらないこと」を社会の側から求められることに気づく。

言動が整合性を欠いたり、態度を容易に変えたりする者は信用を失う。一方、柔軟に価値判断を行う人間も、ときに疎まれる。人は他者に一貫性を要求し、それによって自身の内的世界の安定を図るのである。こうして社会的信用を重視することが、自分に統一的な思想信条を欲する理由の一つになる。思想信条は、自己を律する基準として有益であるが、同時に柔軟性を失い固陋となるリスクも忘れてはならない。

思想は個人が自己を形成するための重要な基盤ともなる。特に若年期において、人は外部から取り入れた価値観や思想信条を通して、自らのアイデンティティを模索し、自分が社会の中でどのように位置づけられるべきかを考える。しかしこの過程では、外部から与えられる思想に依存する一方で、それに批判的視点を持つこともまた必要である。思想は、個人が無意識的に従属してしまう罠となり得るが、自分自身の思考による訓練を通じて、外部の影響を超えた「自己の思想」を構築する力となる。人間が自己の思想を持つとは、外部の価値観に影響されつつも、それを咀嚼し、自らの内的世界で再構築する能力を指す。

 

思想の多様性

人間は苦悩し、恐れ、迷う存在だ。宗教は教義によって迷える人々を包み込み、苦悩や死への恐れを軽減する。また、同じ信仰をもつ者同士で価値観を共有し、共感の世界を提供する。しかし、宗教共同体の同調圧力や洗脳、精神的依存が生じることも忘れてはならない。

ところで、思想は社会基準を提供し、治世的秩序を構成する道具としての側面もある。民主主義、資本主義、社会主義、ヒンズー教のカースト制、儒教思想、プロテスタンティズムなど、歴史上さまざまな思想が生まれては消え、残り続けている思想がある。今後も人類は理想の社会像を追求し、その手段として思想を活用し続けるだろう。

思想の世界を哲学として捉えれば、それはプラグマティックに創造された観念上の空間である。本質的には想像的世界であることに留意しておこう。

最後に、私のライフワークである「人類哲学の独創」の「思想」にかんする項目については、さらに熟考を重ね原理論構造の中にまとめていく旨を誓い、本年の断想は筆を擱くこととする。

 

 

偶然性と自由意志


 

1.偶然性と必然性

私はこれをまず、自分が主体として捉える場合と客体として捉える場合とに分解したい。偶然性の議論をする上で、偶然と必然の対照性について考えることが糸口になると考えるからである。対比構造の議論によって理解が深化し、新しい本質的な知見が得られるのではないかという期待もある。

そしてこのテーマの向こう側に、自由意志の有無の議論があることを見据えている。世界決定論的な世界観ではすべてが必然であり人間に自由意志はない。一方で偶然性を有する未来について予測不可能な世界観では、人間の自由意志によって思考し判断する。よって自由意志を考察する上で、偶然性と必然性の議論は有意義である。

 

2.客体として

主に現代物理学からの科学的見地であれば、この宇宙の活動すべてが必然であると考えることができる。偶然性はないとするのが科学的な立場になる。例えばサイコロを振って「3」の目が出る事象について考えてみよう。サイコロを転がすときの手と指の角度や力加減、気温、気圧、ミクロの空間状態、テーブルの凹凸と摩擦などすべてが影響し、それらが物理法則にしたがう結果、必然的に「3」の目が出ると考えることができる。例外はない。

私たちはこうした科学的見地からものごとを思考し判断する知性をもつ。この観かたを客観と呼ぶ。客観を使って自分自身を客体として捉えれば物理法則に包摂される人間としてのあらゆる活動は必然になる。身体的な活動、例えば血液の流れや呼吸、内臓のはたらきも病気も必然であり、思考や感情、理性も倫理判断も、人間のあらゆる精神活動も必然であり、人間には自由意志がないとなる。

但し、自由意志を考察していくうえでは「意志」という概念と、その本質的な生成原理を明らかにしなければならないため、現在の私の知的力量では手に余る。自由意志についての詳論は後日、あらためて取り組んでみたい。

 

3.主体として

私たち人間は、科学に対するように客観としてものごとを捉える観点をもつが、現実を理解する上では主に主観によって捉えることが多い。身体に熱や痛みがなければ体内で癌細胞が育っていることは認識できない。自分を客体として検査をしなければわが身の詳細な健康状態はわからない。また、サイコロを振って「3」が出るのを必然として捉えることはできない。ミクロの物理現象を認識できないからだ。主観として論理的に説明できない交通事故に偶然性を感じるのも、天気予報にない突然の雷雨を偶然と感じるのも、人間主体としては自然な解釈である。客観的に論理をもって推測しても、自分のなかにそれを裏付ける根拠をもたない場合に、偶然性が混入された解釈が生じる。

他方、仮説として「これは運命で必然である」というふうに非論理的に幻想の必然性をつくりだし信じることもできる。運命の出会いや運命の赤い糸を必然であったかのように語り、それが非論理的であることを承知で夢見ることにロマンを感じることもまた、人間ならではの想像的世界を楽しむ情緒的ワンシーンである。

このように、論理的か非論理的かにかかわらず、私たちは客観の必然性をさも理解しているかのように主体として捉えることもできる。しかし論理的な正しさを徹底的に重視するのならば、周囲の環境変化や事象、自分自身の生命活動すべてについて完全な論理性を証明する能力が一人間にはないため、解釈に非論理的な偶然性を補完し、必然性に偶然性が伴って起きていると認識するほうが精確である。偶然性が伴えば、その事象は偶然となる。

主体として主観のみをはたらかせての認識は、すべて偶然であると言えよう。よって主体としての自由意志は有る。否、すべての思考と判断は自由意志だと言える。

 

4.自由意志について

ここで自由意志について少し掘り下げ、触れておくことにする。通常、私たちは必然性を考えながら計画や予定を立てたり危険を回避したりしながら生活している。必然性によって未来の事象を推測する能力が人間にはある。犬や猫、カラスにも推測する能力を認めることができる。しかし何もかもが計画や予定どおりには行かないことも知っている。買い物に出かける予定を立てていたが、家を出る直前におなかが痛くなったり、急用の電話が入ったり、買い物に行ったはいいが店が閉まっていたり、店に目当ての商品が無かったりなど、計画どおりに行かないことは日常茶飯事だ。

そうした主観的必然性を超えて生じる事象について必然だと解釈せず、私たちは偶然にそうなったから仕方ないとか、他者や自分に対して腹を立てるとか、今後はこういうことのないようにしようとか、計画の論理的欠落部分および偶然性を認識し、学習し、頭脳と心を整える。そのような習慣から、世界は必然性だけではなく偶然性が伴っていると認識しているからこそ、選択に迷い、判断に迷い、その上で意思決定を行っている。自由意志によって生じた責任の大半は自分にあると。

おなかを壊さないように朝食は何にするか、愛する人の誕生日プレゼントに何を贈ろうか、他人の迷惑にならずに電車に乗ること、社会のために何かをしたいので自分にできることをしよう、などを自分で思考し自分で判断するのは自由意志によると私たちは考えている。

しかし一方で、客観的な視座によって科学的に世界の解釈を試みれば、先天的な遺伝的要因と後天的な社会環境がもつ価値観の学習要因によって、自らの価値観や性格が自動的に形成され、すべては人間の心的欲求を原理とした必然であると解釈することもできる。

偶然性と必然性を対照的に捉え、両者が同時に存在することで生じる論理矛盾を積極的に受け容れることで、新たな知的パラダイムへの転換が可能になるのではないだろうか。

 

5.偶然性と必然性のアウフヘーベンと融合

偶然性と必然性を企図的にコンフリクトさせることでアウフヘーベンが起き、新しい第三の何かが生成される予感がある。偶然性と必然性は対立はしていても、相互に影響を与え合っている。私たち人間の認識における解釈は通常、主観と客観を無自覚的に混在させて行う。このとき、主観と客観は行ったり来たりを繰り返し、相互に関係しあう状態にある。関係は反発しあう場合もあるが、融合する場合もある。主観は偶然性を感じ非論理的解釈を生じさせ、客観は必然性を基に論理的解釈を追求する。

私たち人間は意識上では、一度に一つの文脈でしか思考することができない。同時に別々のことを並行して思考することができない。主観で事象の解釈に偶然性を介入させ、次に客観の必然性を考え解釈する、というふうになる。ところが意識上ではなく自己本体では、同時に複数の思考を並行して行っている。だから突然の閃きが起きる。自己意識では認識できない活動結果そのものを、自己本体の自由意志と定義することは可能だと思う。

難問であるので、引き続き考察を深めていきたい。

 

6.時間の不可逆性

さらに、自由意志を考える上で、時間の不可逆的性質を議論に含める必要がある。過去の出来事が未来の出来事に影響を与えるのは因果律によって当然だが、時間の不可逆的性質は未来に起きる事象が過去の事象に影響を与えることはないことを示している。物理的に、過去から未来へとエントロピーが増大することで時間の不可逆性が生じるのか、時間の不可逆性によってエントロピーが増大するのか、いずれにしても、時間の不可逆性によって過去と未来は非対称となる。

未来の事象によって人間の過去解釈は変わることがあるが、事象そのものは変わらない。現在の事象は過去の結果として必然的に決定されたと解釈することができるが、現在以降の未来の事象は現在において決定論的世界観をもって予測することはできず、偶然性が常に存在すると言える。

偶然性が常に存在するのであれば、思考し判断する自由意志は、必要不可欠と言えるのではないだろうか。

 

まとめ

偶然性と必然性、主体と客体、主観と客観、自由意志と世界決定論、自己本体と意識体、これらのテーマについての考察を深めることは、私の自己本体の中で閃きと洞察の化学反応が起きることに繋がる可能性があると考えている。

 

 

価値観原理論の更新


価値観原理の理論化は、どこまでも続く広大な地平を眺めるような気分ではあるが、千里の道も一歩からと、モチベーションを維持しながら進めてゆく。犀の角のようにただ独り歩みつづけよう。

今日は、私たちの価値観はどのようなところから影響を受け形成され、修正され、変容していくのかについて。また、私たちはどのような価値観を自己内に立てているのかについて。価値観をカテゴライズし、更にそれを項目に細分化した。暫定的なものではあるけれど、数日間の熟考のうえ全ての網羅を目指して分類した。叩き台にはなっていると思う。

【価値観原理】の固定ページから一部を転載しておく。

 

第8章 価値観のカテゴリーと項目

価値観が形成され変容していく過程で、私たちは社会の側から多大な影響を受ける。或いは逆に社会へ影響を与えることを欲求する。また、私たち個人のなかで価値観は常にストックされ変容している。価値観をカテゴライズし、それぞれのカテゴリー内を更に項目に細分化する。各カテゴリーおよび細分化された項目の内容について議論を深める。

1.思想的価値観

(1)宗教
(2)政治思想
(3)社会思想
(4)人間思想
(5)ヒューマニズム

2.文化的価値観

(1)民族
(2)習俗
(3)教養
(4)芸術
(5)文学
(6)教育
(7)食文化
(8)住文化
(9)服飾文化
(10)性文化
(11)産業
(12)メディア
(13)インターネットコミュニティー
(14)エンターテインメント

3.文明的価値観

(1)科学
(2)技術
(3)言語
(4)学問
(5)医療
(6)法
(7)情報
(8)公共性
(9)移動

4.論理的価値観

(1)真偽判断
(2)正誤判断
(3)整合性
(4)法則性
(5)直観
(6)思考
(7)可能性

5.人間倫理的価値観

(1)善悪観
(2)死生観
(3)人生観
(4)公正
(5)福祉
(6)使命感
(7)道理
(8)人間としての筋道
(9)気概・心意気・人情

6.感性的価値観

(1)美しさ
(2)味わい深さ
(3)クオリア
(4)音楽
(5)美術
(6)文芸

7.感情的価値観

(1)悲哀
(2)幸せ
(3)喜び
(4)安心
(5)驚き
(6)怒り
(7)憎悪怨嗟
(8)不安

8.身体的価値観

(1)健康全般
(2)運動能力
(3)自律神経およびホルモン分泌
(4)内臓
(5)栄養と睡眠
(6)体験
(7)外見
(8)清潔感

9.生活習慣的価値観

(1)朝昼夜の個人的サイクル
(2)仕事
(3)趣味と娯楽
(4)運動
(5)食生活
(6)睡眠
(7)リラックス

10.環境的価値観

(1)自然環境
(2)気候
(3)植物と動物との共生
(4)社会環境
(5)経済的環境
(6)住生活環境
(7)家庭環境
(8)戦争と平和
(9)自然災害

11.アイデンティティ的価値観

(1)帰属
(2)同一性
(3)存在意義
(4)自己の連続性
(5)他者との共有観
(6)他者からの承認
(7)自己統合

12.功利主義的価値観

(1)有用性
(2)有益性
(3)経済
(4)名誉

13.志向的価値観

(1)好奇心
(2)創造
(3)生の欲求
(4)権力欲求
(5)目的志向

14.共感的価値観

(1)友人
(2)愛する人
(3)グループ
(4)共同体
(5)孤独志向

15.空間的価値観

(1)周辺地理
(2)世界地理
(3)建物空間
(4)自然界空間
(5)地球空間
(6)宇宙空間
(7)空間的世界観

16.時間的価値観

(1)歴史
(2)連続性
(3)瞬間
(4)今
(5)永遠
(6)多様な時間スパン認識
(7)主観的時間と客観的時間

 

 

 

存在論の解決へ


最近では物理学者が「時間は存在しない」と言っているし、「世界は存在しない」と言った哲学者もいるし、科学者の多数派のなかでは「自由意志は存在しない」というのが定説になっているらしい。

哲学には古くから「存在論」がテーマとしてある。近代ではハイデガーが有名ではあるが、彼の著書『存在と時間』は未完に終わった。「存在論」にかんしては解明できたとは言えないという評価が一般的だ。

ところで、「~とは何か?」といういかにも哲学的であるような問いの「~」に抽象概念名詞を入れ、それを言語で説明することは、問答自体が誤りだということを私は何度も主張している。わざわざ難しい複雑な論理をつくり、一般の人々をけむに巻くような問答というほかない。この論理については、今後明らかにする『概念原理論』のなかで詳しく書こうと思っている。私の頭の中では概念原理論のロジックについての青写真が描かれている。その青写真を言語にすることが面倒なのだが。

端的に言えば「存在とは何か」という問いは誤りだということである。これは「幸福とは何か」「哲学とは何か」「自由とは何か」などにも同様のことがいえる。名詞を入れて成立するのは、例えば「りんごとは何か」などである。

では、存在論についてはどう考えれば良いかというと、「ある(在る、有る)」とはどういう状態のことを言うのか、である。哲学的に考えるということは、難しく考えることではない。できるだけシンプルに考え、シンプルな美しい解答を出すということであり、数学に似ている。デカルトやスピノザにしても著名な哲学者に数学者出身が多いのはそのためかもしれない。数学は数字と記号を使った精緻な論理であるから。ハイデガーも《sein》「ある」(英語では《be》の語感が近い)とはどういうことかを考えた。

「ある」がどういう状態なのかについて考えるには、まず、【どこに】「ある」のかをはっきりさせよう。実在世界に物質として具象が「ある」状態の場合はわかりやすい。例えばりんごのように。ところが「時間」「世界」「自由意志」は物質ではない。人間の観念上に描かれる抽象概念である。つまり、観念世界に「ある」。では、どのような状態で「ある」のか。この考察の本質としては、どのような状態の概念の一面を、我々は「ある」と言語化しているのか、となる。

冒頭の「~は存在しない」などとけむに巻くような言葉について言えば、「時間はない」「世界はない」「自由意志はない」というシンプルな表現を使えば良い。シンプルにすることによって日本語が活躍できる。時間(世界、自由意志)という〈もの〉がないのではなく〈こと〉がないという思考の展開へと発展する。

10月1日からの4日間に断想記事で述べてきた内容に当てはめれば、「存在論」の半分以上は解決したようなものである。残りは、今回の「実在世界と観念世界」の理論の最終盤に書く予定をしている「観念世界が実在世界を創る」を加えることによって、「ある」の全容について明らかにできると思う。

 

 

人間知バイアス


一般的な人がもつ人間知バイアスの一つについて書いてみよう。人間知バイアスの全部ではなく、ごく一部である。

「~のために」をほとんどの人は考えるだろう。私も考える。しかし多くの一般的な人は「~のために」が必ずあると考える。因果関係を単純に目的論に重ねてしまう。原因があるから結果がある。それを動機と目的に重ねて考える。例えば何のために生きるのかとか、その人のその行動には自己利益目的があるはずだとか、必ず目的が原理としてあると思い込んでしまう。

一般社会に流通している常識のなかには、目的論の論理で誤って信じさせられていることが幾つもある。例えば「人間には生きる本能がある」とか、「生物には生きようとする本能がある」とか。このことをちょっと難しい言葉に変えて「自己保存本能」などと呼称する人もいる。そして「生存を目的としているから」ということを論拠として論を立てるが、人間だけでなく生物に、生きようとする本能があるという原理の証明はない。仮説の議論のなかでそう見立てているだけである。そう見立てているだけなのに論拠にしてしまうのは知性が低い。これが人間知バイアスである。そして、雰囲気だけの説得力で他の知性の低い人をそう信じさせてしまう。

同じようなことに「種族保存本能」がある。生物には自分の種を子孫に残そうとする本能があるという仮説だ。これも原理の証明はない。人間知バイアスでそう見立てているだけだ。この「本能」とやらが事実かのように、大手を振って俗世でデカい顔をしてのさばっている。それでも、この種の話に振り回され自らも振り回す人々を上から目線で、知性が低いのだから仕方ないと突き放せばいいだけなので、寛容な人であれば問題はないのだが、どうしても、「めちゃくちゃな論拠ででたらめなこと言うな」と、人間ができていない私はそう思ってしまう。

上記の目的論で見立てるケースのように、人間は、人間知性のバイアスをかける。先入観がなければ実在世界の何も認識できないという議論もある。そして、このバイアスはすべて人間の観念世界に生じている。私は上記の「本能仮説」については判断保留として、とてもじゃないが論拠に使えるたぐいのものではないと気づいたけれども、私の観念世界の中にも、このバイアス以外の誤った固定観念が幾つか形成されていることは確実だと思っている。自分でそれに気づかずに、人間知バイアスをかけている。

ただ、「人間知バイアス」があるということを知っているか知らないかでは全然違うということは言える。

 

 

観念世界の視点と視座


前の記事のように、人間は個人固有の想像力によって、観念世界に幾つもの空間を創造する。そして、それぞれの空間内に自分と他者など個々の「視点」をつくり、その視点から空間内を見つめる。一方では空間の外からその空間全体を俯瞰し把握する「視座」をつくる。つまり「異なる私」が空間の数だけ創られる。その空間の広さは「視角」によって「視野」が変わり、思索と想像の奥行きと議論の掘り下げによって「視界深度」が変わる。視野と視界深度は遠近法によって主体が動かす。個人差は大きい。

ところで、視点と視座は、「主観」と「客観」で表現することもできる。しかし、この二つの言葉は定義が個々によって違うことがある。特に日本人が使う「主観」という概念は、本来の西洋哲学用語である subject の概念から離れた意味が付加され、混乱が生じている。私は、本来の西洋哲学概念での「主観」「客観」をここでは使用する。

さて、実在世界での視点や視座について語られることがあるが、それはすべて、実在世界を自分の観念世界に焼き直し再現しており、観念世界に自分が創造した各種空間(小世界)に設定した視点や視座のことで、実在世界に視点や視座があるわけではない。ここは勘違いしてしまっている人が多いのではないだろうか。実際には、視点と視座は仮想視点と仮想視座であり、想像的観念空間のなかにある。つまり全盲のかたにも当然、仮想視点と仮想視座がある。物理的な実在の「目」は一切使わない。

これらの観念世界における視点や視座で思考し判断した内容を実在世界に投影する。簡単に言ってしまえば、この投影に自分の「動き」を加えたものが「表現」の本質である。

冒頭の視点についての説明として、具体例を挙げてみよう。

目の前にA君がいる。私に相談話をしている。この時点で「私」は存在しない。私の観念空間上で「私」を対象化しない。話をしているA君しか存在しない。まだA君の視点にも立たず、二人が形成する言論空間も創っていない。「私」「自分」〈私〉などに主体を対象化しない場合にのみ、主観(機能)を使った主観(判断)が成立し、私はこれを「純粋主観」と名付けている。

次に、私がA君の相談に答えようとする際に「私は」というふうに主語を発し、「私」を対象化する。このとき私は初めて、A君と「私」が、私の観念上に二人が存在することを自覚する。つまり「私は」という言葉を発する直前に、自分という概念を意識し、かつ対象化し、「私」という代名詞を使う。このこと自体、客観という機能を使っている。しかしあくまで観念上では私の視点で話すので、客観(機能)を使った主観(判断)ということになる。例えばA君に対して「もし私だったらこうするああする」は主観(判断)である。一方で、A君の視点でA君の価値観や性格を私の想像力によって加え、「A君だったら(私と違うので)こうしたらどうかな?」とアドバイスをした場合は、客観(機能)を使った客観(判断)となる。

そして、A君の価値観と性格を加えたA君の視点から、私を見る。私が、A君にはどう映っているかを推測などの想像によって判断することも、客観(機能)を使った客観(判断)である。

この説明で私の論考における「視点」を直ちに理解できる人はごく少数かもしれない。

次に、A君と私の二人が存在し対話している空間をメタ認知し、私を私ではない第三者のようにとらえる。二人の関係性や対話のやり取り全体を把握し判断しようとする見地が「視座」である。

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上記の具体例は、一対一の最も単純なコミュニティ空間である。コミュニティ空間は人類レベルに至るまで、多種多様であり構造は非常に複雑である。また、例えば抽象概念空間など、他の種類の空間もまた複雑である。しかしどれほど構造が複雑になろうとも、「視点」と「視座」の根本原理は上記の具体例の応用であるので、メカニズムとしてはシンプルである。

 

 

観念世界の空間創造


前の記事を少し補足しておこう。実在世界なくして観念世界はないと書いた。なぜなら、観念世界に意味と価値をもとに表象を形成するには、「概念」「言語」「価値観」「論理」といった材料が必要であり、材料についての十分な理解も必要であるからだ。これらの材料と、その理解を手助けしてくれる他者は文献を含めて、自分の環境としての実在世界に存在している。観念世界は随時更新されるが、自分の知らない新しい材料は実在世界から提供を受ける。ゆえに、観念世界は実在世界から創られると言える。

そのようにして創られた観念世界に、私たちは幾つもの「空間」を想像力によって創造している。無自覚に創造しているから気づいていないだけだ。その幾つもの空間は小世界と言い換えても良いかもしれない。どのような「空間」を創造しているのかについて分析し以下に分類する。但し、空間の種類、空間の形象、空間の広さや奥行きなどについては、個人の想像力に全面依存するため個人差は非常に大きい。

 

観念世界の創造空間

1.物理的空間

三次元的な停止している空間。物理的な環境や場所を想像し、地理的な特徴、建造物、風景などを観念世界に再現する。このような想像空間は地図、風景画、建築設計などに関連する。

2.時間軸的空間

まず過去を見つめ、研究者の文献などをもとに歴史空間を想像する。その歴史の時間が経過していくなかでの物語を想像力を駆使して創造する。「今」においても時間経過の「流れ」を意識し、「今」起きている物語を推理し想像する。過去から「今」の延長上に未来に起こることを想像する。時間軸的な想像空間は、他の空間と複合的に創造されることが多い。

3.社会的空間

地球人類全体を俯瞰する空間から1対1の対人空間まで、コミュニティー内における人間関係やコミュニティー全体的な状況を把握し表現するための空間を創造する。国家や地域共同体、会社などの法人、趣味の集団、思想など価値観的集団、友人、家族などが含まれる。コミュニケーションや対人関係の想像に関連する。

4.自然環境空間

大自然の営み、気温や気圧、太陽、月、大気、海水、雲や雨、地震や台風などの自然災害、ウイルスや細菌、植物を含めたあらゆる生物、そうしたあらゆる大自然のダイナミズムを自分の環境としてとらえ空間を創造する。

5.抽象概念的空間

哲学に代表されるすべての学問における抽象的な概念を、視覚的に把握し展開し、表現するための想像空間を創造する。数学的な概念、哲学的なアイデア、科学の理論、複雑なプロセスなどを含む。例えば、このウェブサイトにおける断想記事のほとんどは、抽象概念的空間をつくり考察を展開している。

6.経済的空間

個人としては自分の仕事としての経済活動上、あるいは家計上、収入と支出や資産と負債の数値と時間経過における流れを把握し、経済的空間を想像する。或いは会社や取引先など全体の経済空間や、国家レベルの経済空間、地球レベルのグローバル経済空間、それらを推測し推定する判断によって、経済的な空間とダイナミズムを想像力と使ってあらゆる経済空間を創造する。

7.心象的空間

感情や感性によって空間を創造する。心象的な想像空間では、幸福、悲しみ、緊張などの感情や、アイデアや記憶の状態を表現する。

8.仮想空間

インターネット上でのオンラインゲームやメタバース、テキストでやりとりされるSNSなど、バーチャルリアリティーの仮想環境を想像力によって空間を創造する。ここでは仮想の場所やキャラクターを観念世界に作り出す。

9.空想空間

架空の世界やファンタジーの領域を創造する空間。既に他者によって創作された小説、制作された映画などの世界観に没入する。或いは自分の空想によって物語を創作し、空想空間を創造する。

10.宗教的空間

ひとつの宗教内で創作されている物語や宗教教義を、自分の観念世界にそのまま再現することを試みる。そうして世界観空間を創造する。信仰者はその空間が実在するということを信じる。既に創造されている世界観ではあるが、概念の言語化であるため完璧はなく、多くの欠けている部分や誤っている部分については自分の想像力によって世界観を補正する。みずから新しい宗教を立ち上げる宗教家は、自分の想像力によって既存の宗教を改変したりゼロから組み立てるなどして宗教的世界観を創造する。

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次の記事では、創造された空間における視点と視座について検討する。

 

 

実在世界が観念世界を創る


実在世界がどのように形成されるのかについては、観念世界を分析していく後半にその場面がくる。まずは観念世界がどのように生成され、形成され、変容し、主体によって活用されているのかについて考えてみる。

観念世界は、実在世界からの信号を私たち人間が受け取るところから始まる。生後、実在世界なくして観念世界はない。実在世界は、無限空間と無限時間か、またはそれに近い膨大な時空を形成している。しかし、私たち人間ひとりが直接信号を受け取り可能なのは、個々におけるその時々の「知覚空間」しかない。代表的な五感感覚だけではなく、10~20種の身体性感覚によって、実在世界の知覚空間から信号を受け取り、「感知」する。

感知だけでは何も生じない。感知から「認知」へのプロセスがある。スピードの速さに応じて、第一に「身体性感覚」による判断、第二に「直観」と心性的な「勘と感性」による判断、第三に「思考」による解釈と理解による判断が行われる。私はこの「身体性感覚」「直観」「勘と感性」「思考」の四つを、判断するための「機能」と位置付ける。思考機能には「技術」がある。

これらの機能を生かすには知識と知恵、価値観が必要である。生後まもない赤ちゃんのときから人間は、睡眠時以外、認知を常に繰り返すことで学習経験を積む。経験によって知識と知恵、価値観を獲得する。

ところで、これらの機能が何について判断するのかの種類については、9月23日の記事『「判断する」ことの種類分解』に書いた。上記の四機能については、詳細を後日、別記事に書く予定をしている。

四機能のいずれか、または重複の判断によって、実在世界のごく小さな一部である私的知覚空間の感知から認知までの知的作業が、人間の観念世界内で行われる。

以上は認知プロセスを表したもので、観念世界に一歩足を踏み入れた程度であり、ここからが観念世界の本番である。次の記事では、観念世界の100%を形成する「想像」について考えていこう。「想像」は、推測や推理、推論によって「想定」や「予想」「構想」にもなり、創造力によって「理想」「幻想」「妄想」「空想」にもなる。他者のこころを推し量るなど、共感や感情的想像にも関連する。

この想像に使われるのは、上記四機能のうち「身体性感覚」を除いた、「直観」「勘と感性」「思考」の三機能となる。

 

 

実在世界と観念世界


1.「実在世界>観念世界」

物理的な宇宙空間は、物理的な私よりもはるかに大きい。塵以下の極小である。顕微鏡を使っても存在を確認できないほど極小だ。その極小な私の中に展開している観念世界は宇宙全体のことをどれだけ知っているだろうか。1%どころか0%に限りなく近い値となるだろう。よって実在世界は観念世界よりもはるかに大きい。

2.「観念世界>実在世界」

人間の観念世界は、物理的な空間をとらえるだけではない。私は想像する。宇宙空間を想像するし、人間社会の空間で関係性や価値観地図を想像する。過去を歴史や経験から想像し、その延長上から未来を想像し、「今」の流れをつかむという時間軸空間を想像する。インターネット上で仮想空間を想像する。哲学や思想を考える際には抽象概念空間を想像する。あるいはまったくの空想の、例えば小説や映画などのコンテンツからファンタジー世界を想像する。想像は無限であるので、観念世界は実在世界よりもはるかに大きい。

3.「実在世界=観念世界」

実在世界と比較してどれほど私が極小の物理的存在で、宇宙空間のすべてをほとんど何も知らないとしても、私は観念世界で知らないということを知っている。知る知らないは基準にならない。一方、私の想像は無限であり観念世界が無限であるとしても、私は実在世界に存在する物質であり、物質から観念が生じている過程を考えれば実在世界を超えることはできない。実在世界が私に投影され、私が観念世界を実在世界に投影しているので、二つの世界は等価である。

このように視点をずらせば、実在世界と観念世界を比較すること自体、私の観念ゲームである。これが本質であることは自明ではあるけれども、これを言い始めると終着点はニヒリズムになる。せっかく生きているのだから、知的活動をいきいきとやっていこう。

実在世界と観念世界の関係を明らかにしていくとともに、観念世界の構造とダイナミズムについての原理を精緻に分析し、人間原理の全容を網羅的に体系化する。この数か月間で、青写真はできている。

 

 

 

「判断する」ことの種類分解


「判断する」とはどういうことか。判断を行うことは、人間が生きる上で最も重要な行為の一つである。判断は単なる「判る」にとどまらず「決定する」という行為を含意する。私たちは、あらゆる情報を判別し決定する。常にジャッジしているんだ。判断保留も判断に含めるとすれば、判断の連続によって生きることができていると言える。例えば、その情報は正しいのか誤りなのかとか、幾つかの選択肢を相対評価して行動や言動を決定するとか、日常全て、自分自身が判断したことによって人生が成立している。

子どもは未だ判断能力が未熟だからという理由で親の保護下にあり、自由な意思決定と行動の制限を受ける。子どもを危険から回避させ、彼らにとって安全な環境を整えるためには当然だ。では、子どもの判断能力はどのようにして向上していくのか。「判断すること」は極めて重大なテーマであるが、子どもの教育において「判断する」という概念を、いったい誰がロジカルに教えているのだろうか。教えることができる人が、たった一人でも日本に存在しているのだろうか。

最も重要な点は、判断が意志に直結するということだ。自由な意志は自由な判断からしか生成されない。意志について語るのならば、まず判断について語らねばならない。もっとも、ここでの「自由な」という形容概念については精緻な哲学的議論が必要になり、しかし、今回は「自由」には踏み込まない。

まず、”何を” “どのように”「判断する」のかについて分解してみよう。

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1.真偽判断

その情報について真実か虚偽かの判断をする。その情報以外の情報を活用し、論理的な推論と客観的な認識によって事実か否かを判断する。

2.正誤判断

因果関係を成立させるロジックが、落ち度なく形成されているかどうかを判断する。相対関係から因果関係を推論した場合に正確性はどの程度あるかを判断する。専門知識や統計データなどのエビデンスの裏付けをとる。思考技術も必要。

3.時間的判断

過去の出来事や経験に対する評価と反省を行って判断する。 未来の出来事や結果を予測し、緻密な推論の仮説を立てて判断する。未来の可能性に対して、広く開いた視野をもつこと。

4.自己価値観判断

自己の価値観基準によって主観的に判断する。身体的健康上の判断、安全と危険の判断、功利的な損得判断、道徳的判断、美的および美学的判断、信念的判断など。

5.社会価値観判断

社会の価値観基準に沿って客観的に判断する。社会利益的判断、倫理的判断、人間関係的判断、社会秩序的判断(公平や公正)、自然科学のロジックによる判断など。

6.感情的判断

感情はその時々の環境状況や身体状態によって変化する。好悪感情による判断、楽しいか気乗りがしないかの判断、他者それぞれ個々に対する愛情や友情または嫌悪感情による判断、その時の幸不幸の感情による判断、不安や恐怖感情による判断、憤怒や義憤による判断、悲哀感情による判断、他者の感情に配慮した感情判断など。

7.目的的判断

問題解決、創造、自己実現、自己成長、社会貢献、社会実現、自然環境保全などに関連して判断する。目的へ向かう動きのある判断。

8.判断保留判断

早急に判断しなければならないこと以外の場合、1~7の判断項目を検討した上で、現時点では判断を保留するという判断をおこなう。

9.意思決定判断

可能な行動オプションから適切な行動を選択し判断する。1~8を統合して意思決定し、意志へと昇華させる。

 

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以上が、「判断理論」を独創するための、現時点での「判断種類」についてのアウトライン。考え付いた概観を書いてみただけなので、まだまだ原案もいいところ。

 

 

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