観念世界の視点と視座


前の記事のように、人間は個人固有の想像力によって、観念世界に幾つもの空間を創造する。そして、それぞれの空間内に自分と他者など個々の「視点」をつくり、その視点から空間内を見つめる。一方では空間の外からその空間全体を俯瞰し把握する「視座」をつくる。つまり「異なる私」が空間の数だけ創られる。その空間の広さは「視角」によって「視野」が変わり、思索と想像の奥行きと議論の掘り下げによって「視界深度」が変わる。視野と視界深度は遠近法によって主体が動かす。個人差は大きい。

ところで、視点と視座は、「主観」と「客観」で表現することもできる。しかし、この二つの言葉は定義が個々によって違うことがある。特に日本人が使う「主観」という概念は、本来の西洋哲学用語である subject の概念から離れた意味が付加され、混乱が生じている。私は、本来の西洋哲学概念での「主観」「客観」をここでは使用する。

さて、実在世界での視点や視座について語られることがあるが、それはすべて、実在世界を自分の観念世界に焼き直し再現しており、観念世界に自分が創造した各種空間(小世界)に設定した視点や視座のことで、実在世界に視点や視座があるわけではない。ここは勘違いしてしまっている人が多いのではないだろうか。実際には、視点と視座は仮想視点と仮想視座であり、想像的観念空間のなかにある。つまり全盲のかたにも当然、仮想視点と仮想視座がある。物理的な実在の「目」は一切使わない。

これらの観念世界における視点や視座で思考し判断した内容を実在世界に投影する。簡単に言ってしまえば、この投影に自分の「動き」を加えたものが「表現」の本質である。

冒頭の視点についての説明として、具体例を挙げてみよう。

目の前にA君がいる。私に相談話をしている。この時点で「私」は存在しない。私の観念空間上で「私」を対象化しない。話をしているA君しか存在しない。まだA君の視点にも立たず、二人が形成する言論空間も創っていない。「私」「自分」〈私〉などに主体を対象化しない場合にのみ、主観(機能)を使った主観(判断)が成立し、私はこれを「純粋主観」と名付けている。

次に、私がA君の相談に答えようとする際に「私は」というふうに主語を発し、「私」を対象化する。このとき私は初めて、A君と「私」が、私の観念上に二人が存在することを自覚する。つまり「私は」という言葉を発する直前に、自分という概念を意識し、かつ対象化し、「私」という代名詞を使う。このこと自体、客観という機能を使っている。しかしあくまで観念上では私の視点で話すので、客観(機能)を使った主観(判断)ということになる。例えばA君に対して「もし私だったらこうするああする」は主観(判断)である。一方で、A君の視点でA君の価値観や性格を私の想像力によって加え、「A君だったら(私と違うので)こうしたらどうかな?」とアドバイスをした場合は、客観(機能)を使った客観(判断)となる。

そして、A君の価値観と性格を加えたA君の視点から、私を見る。私が、A君にはどう映っているかを推測などの想像によって判断することも、客観(機能)を使った客観(判断)である。

この説明で私の論考における「視点」を直ちに理解できる人はごく少数かもしれない。

次に、A君と私の二人が存在し対話している空間をメタ認知し、私を私ではない第三者のようにとらえる。二人の関係性や対話のやり取り全体を把握し判断しようとする見地が「視座」である。

**********

上記の具体例は、一対一の最も単純なコミュニティ空間である。コミュニティ空間は人類レベルに至るまで、多種多様であり構造は非常に複雑である。また、例えば抽象概念空間など、他の種類の空間もまた複雑である。しかしどれほど構造が複雑になろうとも、「視点」と「視座」の根本原理は上記の具体例の応用であるので、メカニズムとしてはシンプルである。

 

 

TOP