「学問する」と「思考する」


学問をすることや思考をすることについての哲学的探究は、今後、他のテーマを哲学的探究していく際に、同時並行的に行っていくことにする。例えば前の記事で触れた「可能性」という概念。よい議論をするためには、書籍を通じて古典や先人たちの叡智に触れ、学問をすることが大切なのは言うまでもない。このときに、「学問する」ことについての哲学的探究ができる。

【古教照心】という古い言葉がある。古典(古い教え)が心を照らす、古典によって心が照らされるという意味だ。この言葉を十三世紀の臨済宗の禅僧である虎関師錬は、【古教照心、心照古教】と言い換えた。後段の言葉は、心が古典を照らすという意味である。人によって心は違う。古典の解釈や意義が人によって変わることを言っている。分析心理学的に言えば、「心の構え」が古典の価値を高めたり低くしたりするわけだ。

もし虎関禅師が、「心照古教」のほうに高い価値を置いたとすれば、わざわざ「古教照心」と書く必要はない。両方が同じように大切であると私は解釈している。古典が心を照らすほうは、自らが客体であり主体は古典である。心が古典を照らすほうは、自らが主体であり古典は客体である。主体的=善というのは偏見である。自らは常に主体であると同時に客体でもあるのだ。自らが主体であるときの価値を考え、自らが客体であるときの価値も同様に”深く”考える。

そうした視点の変更を習慣づけることによって、それを、ごく自然に無意識的にできるようになれれば素敵な知的成長だとは思いませんか?

学問をすることも思考をすることも、主体的行為ととらえることが現代では一般的ではある。一方で学問や思考をするようになった自分という視点、なぜそういう環境に今あるのかという視点、なぜ学問すること思考することが自分に可能なのかという視点、それらの視点に物語的な想像力をはたらかせ、他者に対する恩義や自分の生きる使命など環境に自分が動かされている意義を感じることができれば、感謝とともに客体的行為ととらえることが可能になる。

上記の中段に、主体的=善というのは偏見であると書いた。現に、私がそうだったのだ。今の今までというわけではないが、去年くらいまでは、主体的=善という独善的な思い込みにとらわれていた。今年に入ってからか、本当にそうかなと疑問をもつようになった。「主体として」と「客体として」は、自分を含めたあらゆる対象において、常に同時に存在しているのではないかと考えるようになった。そんななかで、先日の思考の方法論の一部として、分解・分類について考え整理することにより明晰となった。

もちろん個人的価値観として、主体的と客体的を徹底的に議論したうえで、「私は個人的に、主体的=善だと価値づける」という言いかたはできる。しかし、それを客観的な普遍価値のように言うのは独善の偏見である、とはっきり言っておこう。

「学問する」「思考する」という動詞的な概念の哲学的探究は、学問と思考という名詞的概念の探求とはひと味もふた味も違う。なぜならそこには必ず、「いきいきとした人」がいるからだ。

 

 

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