「らしさ」の是非を問う


「らしさ」について。

「らしさ」は、名詞や形容動詞の接尾語である「らしい」から派生した形容詞を、その「い」を「さ」に変えて名詞化し、「ふさわしい様子」や「特徴の現れ」を表現するものである。たとえば、「男らしさ」は、男性らしい特徴がよく現れていることを指し、「君には男らしさがある」と言えば、その人には男性らしい特徴がよく現れており、男性としてふさわしいということを意味する。

では、「その特徴」は誰によって決定されるのだろうか。客観性がなければ、多くの人々による価値共有は可能にならず共感は生まれない。科学的な方法によって客観性が確立される場合もあるが、人間の営みに関連する主観的な特徴については、個人の主観が集合して相互主観性が関与し、多数派の意見によって客観性が形成されることがある。要するに、「その時代を生きる人々によって」や、「その地域で生活する人々によって」、「らしさ」が設定され、変容していくのだ。「らしさ」に普遍的な不変の意味はなく、状況や文脈によって変わる。

次に「らしさ」についての是非と必要性について少し考えてみよう。

「男らしさ」や「女らしさ」を現代のリベラルな時代において声高に主張することは、批判を浴びる可能性がある。なぜなら、このような「モデル」が設定されることによって、人々は不自由さや差別を感じることがあるからだ。逆に、トランスジェンダーを含む多様な性自認を尊重する気運も存在し、これもまた性自認そのものが「らしさ」を意識するスタート地点であると言える。この点で、トランスジェンダーを認める社会とジェンダーフリー社会の対立が見られる。

話が逸れた。このような「モデル」は文化を形成する。その時代や地域の男性や女性の「モデル」は芸術作品や文学作品に表現され、人々の憧れや理想が形成される。男女や父母に限ったものではない。「かわいらしい子どもらしさ」や「成熟した老人らしさ」にも当てはまり、「日本人らしさ」や「現代人らしさ」、そして「人間らしさ」、更に言えば「自分らしさ」という観点にも言える。こうした「モデル」が個々人の志向性を生み出し、社会には価値観の秩序が構築される。秩序が整い、初めて「自由の拡張領域」が生まれるのだ。人間においては、秩序のない混沌状態では極小領域の自由しか得られない。

今回の記事での私の主旨は、「らしさ」についてネガティブな側面のみが強調される現代社会において、「らしさ」のポジティブな側面についても一度考えてみたほうが良いのではないか、という提案である。

人々や子どもたちは、モデルや理想なしに成長することはできるのだろうか?多くの人々は、自分自身の理想モデルや目標を持ち、自己実現を追求することを考えたり、「自分らしく生きたい」と考えたりするのではないか。「自分らしさ」は曖昧な表現だけれども、最も基本的で個性的な自分のアイデンティティだと言えはしないか。

 

 

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