「日本人」をテーマにするとき、よく引用される加藤周一の論考に『日本人とは何か』がある。有名な論文なので知っている人も多いだろう。まずは書き出しの文章から。
日本人とは、日本人とは何かという問を、頻(しき)りに発して倦(う)むことのない国民である。(筑摩書房版『現代倫理講座』一九五八年)
なお、私の引用元は講談社学術文庫版の加藤周一著『日本人とは何か』1976年7月10日刊行の文庫本。同書には『日本人とは何か』の他に、『日本的なもの』『日本の芸術的風土』『外からみた日本』『近代日本の文明史的位置』『天皇制について』『知識人について』『戦争と知識人』の八論文が収録されている。また『日本人とは何か』というタイトルの本では山本七平の祥伝社版が有名。
さて、上記の理由を著者は、自分が日本人であるというアイデンティティについて、はっきりと定めることが難しいからとしている。これを私自身の主観としてとらえてみよう。
俺は日本人であると言えるのか。両親の血統を遡れば、たぶん一般的には日本人と言える。しかし血の流れだけで日本人というアイデンティティへと還元できるものなのかどうか。日本という国家に帰属しているから国民として日本人、先祖代々が日本国の領地内に暮らしているから血統的に日本人、日本語を母語として読み書き会話が十分にできるから日本人、日本の環境と文化や慣習が骨の髄までしみ込んでいるから日本人、いろいろな日本人の定義がある。そのうちのどれかを選んで、或いは全部を選んで、俺は日本人だと言っているのだろう。それに何の意義があるのか。自分に「日本人」というレッテルを貼り表明することで、他の日本人から色眼鏡で見られないとか、異質の不安を感じさせないとか、そういう群集心理的な利益が意義なのかもしれないとふと思った。
「日本人」というレッテルは、日本人以外の人々との相対化によって生じているものであり、世界に日本人しかいなければ日本人というレッテルは存在しない。ここでいったん「日本人」という概念の意義については横におく。
次に「私」という概念について考えてみよう。著者は次のように述べる。
もし他人の眼のなかに自分を映す鏡を見出すことができないとすれば、どこに自分の姿を客観化する動機があるだろうかということである。自己を観察するのは、他人を観察するのとはちがう。私はこういう人間であるという結論に私が到達した瞬間に、その結論は必然的に誤りとなるだろう。なぜなら私はこういう人間ではなく、私がこういう人間であると考える人間だからである。しかし実は、そういった瞬間に、私は、もはや私がこういう人間であると考える人間ではなく、私がこういう人間であると考える人間だと考える人間だろう。この過程にはきりがない。「私」は無限に観察と分析の過程を逃れる。他人を観察する場合と同じように「私」を観察することはできない。従って二つの観察の結果を比較することもできないだろう。比較の問題がおこるまえに、他人の眼のなかで「私」自身が客観化されていなければならないということになる。
(講談社学術文庫版 加藤周一著『日本人とは何か』)
ここでの問題は、「私」を対象として指し示している「私2」がいて、その「私2」を対象として指し示している「私3」がいて、それは「私∞(無限)」というふうに続く鏡の世界の自己観察にある。要するに著者が言いたいのは、他人の眼のないところでの自己の対象化は機能不全になるということである。「俺は」という主語を発するとき、それが心の中であっても、他人があっての俺であって、俺しかいない俺ではない。この一人称による自己対象化については、「日本人の個性」について今回の小論を終えたのちに、別の断想としてもう一度探究してみよう。
日本人の特性、日本人の個性を考える場合には、日本人以外との相対化が不可欠であり、且つ日本人以外から日本を見つめる他者のまなざしが必要なのである。日本人以外の他者のまなざしがあってこそ「日本人としてどう見られているか」の想像が可能になるのだ。ところが日本国の地政学的な条件もあいまって、日本人以外からのまなざしはほぼなく、無視された透明な存在であったのだという意味のことを著者は述べている。他国の人々にとって透明な存在であったから、日本人は「日本人とは何か」について明確な説明をもたず、不安定なアイデンティティとなってしまったと。なお、これは「私」についてもいえるはずだ。
しかし時代は変わった。
インターネットの登場によって、「日本人」という個性の情報が世界中に拡散され、多くの日本人以外の人々が「日本人」にまなざしを向けるようになった。ところが肝心かなめの日本人自身にその自覚が薄い。「日本人とは何か」について、その個性を客観視した立場で明瞭に説明できる日本人はどれだけいるだろうか。誤った自画自賛の日本人論ばかりが蔓延ってはいないだろうか。
次の断想ではChatGPTを使って、客観的な日本人像に近づいてみよう。