経験よりも体験


【人類哲学の独創】ー『人間原理論』の核心部分の基本設計は十分にできたけれども、そこから派生する各論については今日もだいぶ変更した。思考や思想、意志、倫理なども各論となるので、これらを原理論全体のどの階層のどこに組み込んでいくのかについて、毎日が試行錯誤の連続である。

そうして真剣に考えていると、気づくことが幾つも生まれてくる。まず、ChatGPTが私にとって大きな力を貸してくれていることは以前から述べているとおりだが、どれほど人工知能が進化しても人間とは違うということに気づく。そのカギは身体性にある。人間の知性は脳だけにあるのではない。五感に代表される人間の感覚的直感は、身体全体で感じ取り体験として蓄積してゆく。重力も平衡感覚も振動も、内臓の痛みなどは当然だが、胸の痛みや茫然自失で頭が真っ白になる体験も身体性が為している。ChatGPTは知的学習経験を限りなく積んでいくが、彼には体験はできない。

昭和の女性歌手が演歌を歌っているとしよう。彼女の声質の良さや歌いかたの技巧が最高レベルになくても、なぜかその歌詞に全身全霊をこめて心から歌っていることが伝わってきて感動するものだ。それは何故だろう。表情だろうか。身体性の振る舞いだろうか。いやそうではない。歌を聴いている私自身の身体的な人生体験が、全身全霊をこめて歌う彼女の心に共感を抱かさせるのである。

感情や価値観を微塵も混入しない無色透明な理知によって哲学理論体系を独創している人がこんな話をするのはおかしいと思うかもしれないが、これは私の幾つもある多面的人格のうちの一面であるにすぎない。

 

ところで、「体験」というキーワードをもとに、もうひとつ今日気づいたことを書いておこう。知性的行為の王様は「思考」である。思考理論をつくるのにも思考を使う。君は、思考の本質は何だと思う?

思考して解ることがある。解らないこともある。判断するための思考は日常的無自覚に行っているはずだ。目的という成果物を得るために思考することがほとんどだろう。そうすると、思考の結果がすべてのようになってくる。獲物を得られたかどうかの結果は大切である。ここでプロセスのほうが大切だとベタな意見を言うつもりはない。

体験として思考をとらえてみよう。この体験はその場では実感できない。しかし思考もまた身体的体験にほかならない。思考体験はおそらく脳だけの活動ではない。これは人間原理論をつくっている私の仮説的な直感だけどもね。(だから精緻な哲学として理論化するつもりはない)

少し前にSNSでは「筋肉は裏切らない」という言葉が流行っていた。私は、「思考の体験は裏切らない」とでも言っておこうか。思考の本質を体験だととらえるのならば、多様な体験が長い熟成期間を経て、《実》となることは確かだろうと君は思わないか。

 

 

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