矛盾こそ自然に生きるということ


 

土の人モード

私は宗教にかんして無信仰ではありますが、「家」的には臨済宗円覚寺派の檀家でありその当代でもあります。お寺さんにはお墓を守っていただき大変感謝しています。故人の何回忌かの法要に代表として出向く以外は、盆暮お彼岸も伺わない不義理者でございます。稀に気が向いた何でもない日に立ち寄ったりはします。

それでも、宗教は人の心を救うものとして価値があると考えています。恥ずかしい話ですが愛猫が亡くなったときには、宗教に頼ろうかと書店をうろついたことが一度だけありました。両親が亡くなったときには何ともなかったのに、愛猫のときにはどうしてああなってしまったのか説明がつきません。と言いますか、あの心の「感じ」は言語化できるものではない。

そんなことを想起しつつ、西田幾多郎の『善の研究』第4編第1章の〈宗教的要求〉のページを開いていると、次の言葉が目に留まりました。

 

個人的生命は必ず外は世界と衝突し内は自ら矛盾に陥らねばならぬ。ここにおいて我々は更に大なる生命を求めねばならぬようになる、即ち、意識中心の推移に由りて更に大なる統一を求めねばならぬようになるのである。

かくの如き要求は凡て我々の共同的精神の発生の場合においてもこれを見ることができるのであるが、ただ宗教的要求はかかる要求の極点である。

我々は客観的世界に対して主観的自己を立しこれに由りて前者を統一せんとする間は、その主観的自己はいかに大なるにもせよ、その統一は未だ相対的たるを免れない、絶対的統一はただ全然主観的統一を棄てて客観的統一に一致することに由りて得られるのである。

(西田幾多郎著 岩波書店 『善の研究』 p225)

 

「哲学の動機は深い人生の悲哀でなくてはならない」と有名な言葉を残した西田は、かわいいさかりの娘を亡くしました。その後に『善の研究』が書かれたのですが、その前の著書に次の記述があります。

若きも老いたるも死ぬるは人生の常である。(中略)人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親にとっては耐え難き苦痛である。時はすべての傷を癒すというのは自然の恵みであって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめてわが一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。(中略)この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。(『思索と体験』)

西田の場合は「子を亡くす」ということでしたが、誰でも本当に愛した者を失ったときというのは同様の体験をするのではないかと思うわけです。深い悲しみのなかで、苦痛の体験は辛過ぎるほど辛いのでありますが、その苦痛よりも忘れてしまうことのほうが辛い、というか恐ろしい、否、けっして忘れてはならないという魂の叫びが心の底から湧きあがるのです。

魂の叫びに順じて生きることが人間の「おのずから」の自然体です。自我の理屈によって悲しみの苦痛を制御しようとするのであれば、それは、大自然の摂理に適っていないのではないか。人間にはそうした「魂の聖域」が確かにあると実感するものであります。

本居宣長は「悲しむべきときは悲しめばいい」と述べましたが、まさに、純粋に悲しむということに何の理屈も必要ない。ただただ悲しむ。西洋思想では悲しみは負の心だとされ、インド仏教では悲しみは苦悩であり煩悩だとされた。しかし、日本の古典的思想では悲しみに是非はなく、「魂の聖域」を全面的に信頼し自我を委ね、純粋に「在って」、純粋に「成って」、それが何よりも貴いことだった。と私は考えます。

 

西田の「絶対的統一」は客観世界の中に自我が溶け込んでゆく方向の一体化で、宗教的要求はその極点だと言います。私は「絶対的統一」が目的化するのなら、それは違う、不純ではないかと感じます。

この宗教的要求という言葉は、ある一つの宗教ということではなく「宗教的」というぼやけた概念で表現していますが、私が「魂の聖域」を実感することも「宗教的」の範疇に入ってくるのだと思います。

冒頭に、「内は自ら矛盾に陥らねばならぬ」と述べていますが、人間は肉体も心も、まったく矛盾だらけで一個のカオスであるとも言えます。正しく善く生きようと思いながら生きてゆく人がほとんどだとは思いますが、なのに、利己的な損得勘定や打算、自己欺瞞を抱え込む。無意識に嘘をついている、或いは利己へ誘導しようとしているということに、みずから気がつかない、魂は知っているのに自我は気がつかないふりをしている、そしてそれを直視しようとしないのが人間の愚かさです。

矛盾と言えば人間だけでなく植物もそうで、なぜ木のすがたは前後左右対称ではなく不規則に枝分かれしてゆくのでしょう。科学やデジタルでは内的に矛盾を孕んでいる生命体をゼロから創れないのではないかと思います。

地球は確かに球体ですが完全な球形ではなく、更に、陸地や海の在りかたは出鱈目と言っていいほど整っていない。人間の論理や合理性では到底量ることのできない大自然の矛盾があります。

 

理屈や理性による心の整理や心のコントロールというのは空想であって、魂の少しの抵抗にあってもろくも崩れ去るものです。

心は矛盾していて、それでこそ、生きていると言えるのではないでしょうか。

 

とりとめもなく宗教的なことについて書き始め、結局何を言いたかったのだか自分でもはっきりしませんが、このまま記事にします。