日本の未来へ百五十年間の自己批判


 

谷の人モード

九月の初めにあたっての所感。

 

来年2018年は明治維新から150年の節目の年にあたる。大きなスパンで世の趨勢を捉えることなしに、我々が本来向かうべき希望ある未来への光の道をあきらかにすることはできない。

開国、明治維新、文明開化、富国強兵、民主主義政治、日本の近代化のすべては西洋を手本にした。わが国の国民性を失いたくはないために「和魂洋才」という言葉までできた。魂は日本古来のものを引き継ぎ、西洋からは実用的な文明の才を借りてくるというものだった。

 

■ 「日本を取り戻す」と言って5年前に自民党が政権を奪い返し、バブル崩壊後の失われた20年と言われる経済停滞を打開するために、「日本人の自信を取り戻す」ということが盛んに言われるようになった。

■ 日本人は自信を持っていたというのである。エコノミックアニマルと世界から批判されながらも高度経済成長の時代を突き進み、1980年代にはジャパン・アズ・ナンバーワンと言われるようになった。企業はニューヨークで摩天楼を買い漁り、国民は団体ツアーでルイヴィトン本店を占拠した。これが自信なのか。

■ ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた頃でさえ、国民一人当たりGDP(PPPベース)では最高が世界13位である。それにしても、「金をたくさん持っていて金をたくさん使えるぞ」ということに自信を持っていたとすれば、そしてその自信を取り戻そうとするのが日本政府の方針であるとすれば、なんと軽佻浮薄な国民文化なのだろう。

■ いったい国民の自信とはなんなのか。ここ数年のマスメディアはこぞって日本礼賛記事を書く。世界の人たちから見て、日本人は礼儀正しく、几帳面で、清潔で、献身的で、規律を守り、要するに民度が高いというわけだ。なぜマスメディアがそれを書くかと言えば売れるからである。自画自賛の日本人礼賛記事を読んで喜びに浸る、いい気持になる、愚かで貧しい心の国民がいかに多いかを如実に表わしている。つい最近まで中国人団体ツアーと同様の日本人団体ツアーが海外で爆買いし、はては東南アジア各国や韓国での買春ツアーまであったのにもかかわらずだ。

■ 超一流のアナリストとしてゴールドマン・サックスで役員まで昇りつめた、英国人で二十数年日本在住のデービッド・アトキンソンはデータのエビデンスを示しながらこう言う。「日本の高度経済成長は急激な人口増加による“人口ボーナス”だった」と。勤勉で有能な日本人の能力によって高度経済成長があったのではない。団塊の世代に象徴される人間の数の急増という「質よりも量」が国全体のGDPに繋がったのだ。欧米や日本の近代化に学んだ、今の中国がまさにその状態ではないか。

■ 浅薄な「経済の自信」なんか捨ててしまえ。われわれがみずからを誇りに思うことが「金持ち」であったならば、穴の中に入りたくなるほど恥ずかしい下劣な価値観だったのだ。我々に必要なのは空疎な日本人礼賛によって自信を取り戻すことではなく、真剣な自己批判である。過去に鉄槌を下すことなしに臭いものに蓋をすべきではない。過去の臭いものをつまびらかにし、厳しく自己批判しよう。そうしてから前を向こう。これからは「量よりも質」を目指そうじゃないか。

 

■ 明治維新と開国は日本人の主体的な革命ではなく、外圧によるものだった。美化してはならない。長きにわたって文明の最先端を歩むヨーロッパでは外圧という他律によって変革や革命が起きたことはない。常に内発的なものだった。

「われわれの場合には、危機は外から襲ってきたのである。危機の自覚は、具体的には黒船の到来であり、心理的には、他文明に先を越されているという恐怖感と競争意識と防衛本能であった。だが、ヨーロッパでは、危機はまず内側からはじまったのである。すでに十九世紀にボードレールやブレークやニーチェらが内発的に意識化した西洋文明の危機の主題が、ヨーロッパの一般の人々の目にもはっきり顕在化したのは、ヨーロッパを戦場とする第一次世界大戦の破壊のあとの、大規模な幻滅においてである。シュペングラーがニーチェの主題を受けて、危機の自覚を文明論の形で地球的な規模で図式化したのも、ちょうどこのときにあたる。大戦のあとの幻滅感に反響して、『西洋の没落』の出版は異常ともいえるセンセーションをまき起こした。(西尾幹二著 『個人主義とは何か』 p68 )

■ われわれ日本人は、自主的に、主体的に、内発的に、自己批判をしたことがあっただろうか。常に世界の顔色を窺い、世界の中での日本を相対化し、「ここが日本は遅れている」あるいは「ここが日本は進んでいる」という相対評価ばかりであって、自分を軸とした自律性や主体性の欠落は現代に至るまでつづき、それは、日本人としてあるべき独立自尊の精神の障壁となっている。

■ 日本は西洋に追いつき肩を並べたのか、追い越したのか。かような他律的相対評価のなかで、「進んでいる」ことや「進化する」「発展する」ことを、深く熟考することもなく手放しで「是」とし「善」であると盲信してはいないか。同書のなかで西尾氏は、ヨーロッパでは「進んでいる」ことなど価値として歯牙にもかけないと述べている。

■ ヨーロッパから日本人が学んだことは、合理性であり効率性であり論理性であるが、その表面だけを物真似しただけだ。現代日本の世俗的価値観をみれば、富や名声を得ることが成功者のモデルであり、その根っこに哲学的思惟など一片のかけらもない。「生」と「幸福」、「生」と「成功」を繋ぐ最も重要で根源的なもの、ロジカルな哲学的動機がない。あるいは自己正当化のために行っている後付けの理屈しかない。哲学的に根本から考える習慣を身に着けようじゃないか。

 

「いわゆる“和魂洋才”というモザイク的文化観は、西洋への劣等感がそのまま優越感にすりかわる、例の「開国」か「攘夷」かという日本人の心理的パターンのはしりをなしたものである。それは西洋近代に自己を合わせて、同化的にこれを受け入れるか、それとも、この異質の文明に抵抗するために自分のこれまでの価値観を消極的に死守するか、という平面的な次元の問題にすぎず、受け入れるか、防衛するか、あるいはその両方をどうやって折衷するかの問題であって、西洋近代を批判的に摂取するという姿勢ではありえなかった。(中略)明治の先覚者たちが犯した過ちは、西洋にただ「才」だけを期待する実用主義か、さもなければ西洋の「魂」をも無批判な連続性において、自己同化的に受け入れるか、若干の違いはあるにしても、いずれにしても「洋魂」との対決を欠いていたことでは共通している。」(上記同書 p76-77 )

「ニーチェやキルケゴールに代表される内面的な危機の自覚も、マルクスやエンゲルスに代表される社会的な危機の自覚も、すでにヨーロッパ文明の土台骨をゆさぶりはじめていたのであるが、単に「外発的」な文明への恐怖や競争意識に発しただけの日本の「近代化」の出発は、ただひとえにヨーロッパ文明の堅牢さ、雄大さ、華麗さに幻惑され、その奥にあるものを見とどける余裕をまったくもっていなかったのである。」((上記同書 p78-79 )

■ ニーチェやキルケゴール、スペインのオルテガのように、その時代の価値観、祖国の価値観を自己批判できる強さは日本人には無かった。現代でもご覧のとおり、近代的な価値観である、「自由」や「平等」、「民主主義」、「資本主義経済」などに無批判であるばかりかこれこそが「善」であると、信仰のごとく反知性的に自己正当化しているのではあるまいか。「現代的自由」や「現代的平等」に対し、根源からのロジックをもって真っ向から自己批判できる日本人など、現代ではついぞ見たことがない。

■ 明治維新から百五十年間をトレースして、日本の国民性をしっかり批判することなしに前へは進めない。近いところで言えば、高度経済成長期の自己批判の欠如、91年の不動産バブル崩壊、08年の金融バブル崩壊の自己批判となかなか立ち直れないことの自己批判の欠如、少子高齢化を筆頭に政治経済が悪いからだと社会に責任を押しつける自己批判の欠如、どうしてこれほどまでに個人が甘やかされた社会になったのか。厳しさを取り戻そうじゃないか。

 

■ 好きなことをして生きてゆけばいい、楽しいことをして生きてゆけばいい、学校が嫌なら行かなくていい、苦痛なこと嫌なことからは逃げたらいい、男同士でも女同士でも結婚すればいい、なんでも自由だ。これが我々の求めた自由な社会像なのだろうか。寛容な社会像なのだろうか。否、この自由の正体は「不自由」だと断ずる。

「自由に自由を重ね、無制限に自由を求め、なおそれに満たされず、いつも自由に憧れているのは、快楽の原理である。快楽には反覆があるのみで、発展はなく、結果的には、不自由の一形式でしかない。(中略)完全な自由は、けっして自由とはいえない。束縛や桎梏(しっこく)を打ち破って自由になったというだけでは、人間は自由にはなれない。自由があり余って、不自由に陥れば、人間はいっそうの自由を求めて、自由を放棄し、不自由な観念に隷属したがる。」(上記同書 p16 )

■ 引用している 『個人主義とは何か』 という書は、1969年に『ヨーロッパの個人主義』というタイトルで出版された西尾幹二氏の処女作である。副題は『人は自由という思想に耐えられるか』となっている。16万部のベストセラーとなり35年後に絶版になった。2007年に『個人主義とは何か』というタイトルで48年前の書を復刊し、最後に第四章『日本人と自我』が加えられている(現在は欠品中)。現代価値としても内容は全く色褪せていない。現在は80歳を超え好々爺の西尾氏であるが、1969年当時は33歳。まさに俊才のデビューであった。いったいこのハイレベルの内容の書を、33歳で書けるものなのか。上記を正しく解釈できる現代人読者はどれくらいいるのだろうか。いや、上記の自由と不自由にかんして、深く掘り下げ熟考することさえ出来ない現代人が多いのではなかろうか。

■ パリを訪れた人ならシャンゼリゼ通りや中心街の古い建物が、低層ビルとして百年以上のあいだ補修され続け、今も堂々と使われている街の景色に見惚れたことがあるに違いない。フランス国内に限らずヨーロッパでは古い建物の評価が非常に高い。前衛的、先鋭的な芸術の数々を生み出してきたフランスの「自由」は「堅牢な保守」の上に築かれている。否、「堅牢な保守」の上でこそ「自由」がいきいきと躍動する。

■ おそらく日本人は、「生」と「自由」を哲学によって繋ぐことができないだろう。表面上の自由を目指し、自由となったことを喜んでいるだけではないのか。「自由」とはあなたにとって何かを問おう。「自由」はあなたの生のどの位置を占めているのかを問おう。その問いに答えようとしたとき、自己批判を伴っているか否かを問おう。

 

■ 日本に対する自己批判とは、朝日新聞や東京新聞がやっているような政府批判、否、韓国や中国の立場からの政府攻撃ではもちろん無い。かつては、戦前生まれの左派知識層には確固とした日本批判、日本の国民文化批判ができる力量の賢人がいた。右派右翼の人たちよりも愛国心に満ちた左派リベラルの文人がぞろぞろいた。今や日本のリベラルと言えば、社会主義的立場に寄った政治家やその徒党を表わす概念に堕落した。

■ リベラルとは、リベラリズムすなわち自由主義のことを言う。現代日本人で自由主義社会の恩恵を受けていない人などただの一人もいない。リベラルを否定することなどできない筈だ。社会が自由を保障していることに無自覚となり、自由に対して無責任となってはいないか。

■ 太古の時代。人類が群居性活を始める以前、個のヒトには完全な自由があっただろう。弱肉強食で凶暴な肉食獣にヒトが捕食されることと引き換えに完全な自由があったに違いない。弱者だったヒトが生命を繋ぐために、その自由を大幅に制限し、人類は共同体生活を始めた。共同体での掟を作った。人類文明の始まりである。安全で安心な共同体生活を営むためには、共同体の秩序を保持しなくてはならない。個人が負う最低限の責任である。

■ 現代でもそれは変わらない。ところが共同体秩序を保持する責任を忘れ、国家共同体が秩序の上の自由を国民に保障しているからこそ自由主義社会の恩恵を受けられていることを忘れ、自分勝手に好きなように生きればいい、楽しく自由に生きればいいとは何事だ。戦争に巻き込まれて国家の安全保障が揺らいでも、自分だけが助かりたいために戦わずに逃げると宣言するような男まで今の日本にはいる。自由に対する責任、自由を支える秩序に対する責任をしっかりと背負おうじゃないか。それが国民主権ということだ。

 

以上は私個人の自己批判もしくは過去の自己批判でもあり、または内心に無自覚に潜む無責任性へのくさびでもある。

そして前を向く。

 

 

 

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