人品


 

山の人モード

「人品骨柄(じんぴんこつがら)卑しからぬ…」という慣用表現がある。「人品」は中国から渡来した言葉で「骨柄」は日本で生まれた言葉らしい。

前の記事で触れた「日本人の自信を取り戻す」であるが、安倍政権は「経済の自信」の文脈で自信を取り扱っている。それについての批判は既に書いた。私は、「人品」について自信をもてるようになることが、成熟した国家の国民性として求められるのではないかと考えている。英国人、ドイツ人、フランス人などヨーロッパの中流家庭以上での子どものしつけは、まさに「人品」を高めることが主たる目的となっているのではないかと思う。

「人品」とは人の品位、品格、気品などと言い換えることもできる言葉で、気高い精神に裏打ちされた、人の身なり、顔だち、表情、姿勢、礼儀正しい態度、普段の立ち居振る舞い、言葉遣い、他者への心配りや思いやり、身体の風格、毅然として公正な心もちなどを言う。

 

もちろん、日本にも「人品」教育はあった。

「武士道」「日本男児」「やまとなでしこ」は代表的な概念だが、孔子の儒学を日本型に改良した朱子学、陽明学などによって、「君子」や「聖人」のあるべき姿をロールモデルとして実生活のなかに組み込まれていた。それは、道徳よりもワンランク上の最上質な人間モデルであり、日本では特に「立派な人」と呼ぶことが多い。

西洋や中国の人品と異なる日本人の人品の個性とは、社会性の倫理観よりも「美しさ」を追求してきたところにある。西洋の論理的モラルに対して、中国の儒教的教訓に対して、日本人は感性的な美しさをベースにした。外観に現れる美しさだけでなく、一生の生きざまが美しいかどうかを重要視した。その根底にあるモデルは大自然である。

日本人の道徳が美意識に繋がっている強さと弱点について、西尾幹二氏はこう述べる。

外国人が感じる日本のよさは、もちろん技術力の高さも関係してくるだろうが、同時に日本人の審美観が強く影響しているのではないか。日本人の道徳は美意識である。いわゆる精神的道徳にはとどまらない。逆に、教訓や精神や原理からくる戒律が強い文明というのは、それだけ乱れている証拠なのである。

(中略)

美徳ということばがあるが、やはり日本人にとって美意識がすなわち道徳なのではないだろうか。それが日本人の強さでもあるが、美は政治的な批判力にはなりにくい。美を基本とする道徳は、どうしても戒律や原理を基本とする道徳よりは弱いのである。

美徳は本来、外へ主張する理論をもたない。日本人の美徳や美質は輸出できない。

(西尾幹二著 『個人主義とは何か』 p248-249 )

 

家に爺ちゃん婆ちゃんがいた時代は家族によるしつけが行き届いていた。道徳の授業などなくても、家庭での機会教育によって子どもたちは自然に「してはならぬこと」「したほうが良いこと」「立派な人を目指すこと」を身に着けていった。

西尾氏は本居宣長の『道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり』ということばをひいて、口で言わなくても、口で教えなくても道徳的に正しい道があって、それを体感的に身に着けてゆくことを原則とした日本の道徳観念は世界的に特殊だという見解である。

続けてこうも述べている。

宣長が現代に生きていれば、同様に、西洋の合理性や学問の体系性、説得力、理論的緻密さといったものをすべて認めるはずである。われわれも認めざるをえない。それとはちがうわれわれの特性を守るために、いかにして鎧なきものに鎧をつけるか、戦う手段をもたぬ世界が武器をもたねばならないのか。その矛盾は、われわれが国際人として生きるという問題にも通じる。国際人になってはいけないこの国の人間が国際的に生きなければならない矛盾であるといいなおしてもいいのかもしれない。

(上記同書 p253 )

西洋の良さと日本の良さを合体させれば良いのではないかという考えは短絡である。西尾氏が述べているように、西洋の良さを取り入れれば日本の良さは死ぬ。逆もまたそうだろう。ゆえに我々は二者択一を迫られる。日本の良さを守って国際人となれば必ずそこには矛盾が生じる。けれど、よく考えてみれば「矛盾の美しさ」を日本人は美学として昇華し、数寄屋造りの家を建て、いびつな湯飲みや器を作り、床の間の生け花の位置をずらしてきたではないか。まさに、不整合や矛盾の美しさを生かすことにかけては日本人の右に出るものはいない。と、ポジティブに考えることもできる。

加えて言うならば、日本人の哲学的感性とは、哲学者の西田幾多郎が述べた「哲学の動機は悲哀でなければならぬ」に象徴されるように、感情が染み入った美学にその淵源がある。

そのようにして日本人の人品は、「わびさび」「いき」「あはれ」「幽玄」「秘すれば花」「美しい死への憧憬(武士道)」を創造した。逆に人品のほうが、それらによって創造されてきたとも言える。

 

人品を大切に扱う日本文化は死に絶えたのだろうか。

私はそうは思わない。

一時的に、西洋文化に浸潤されただけだ。それも表面上の欧米だけを物真似した質の悪い価値観を取り入れてしまった。

日本国民の一部は、人品を忘れ「がさつ」となり、気楽にずる賢く生きることを覚えた。

 

しかしこの「がさつ」で作為的な現代文化は、大きな揺り戻しにあうだろう。

既に揺り戻しの端緒はある。

「男らしさ、女らしさ」 の記事でエビデンスを示しながら述べたように、18~34歳の人たちの感性は、男らしい男が好き、女らしい女が好き、男らしい男になりたい、女らしい女になりたい、という方向にシフトしている事実がある。

グローバリズムやポリティカルコレクトネスに対する反動として、世界的にナショナリズムへの回帰という揺り戻しが起こっている。

大自然のようにありのままに生きること、まこころの純粋性を追求すること、人品を強く意識し立派な人になろうとすること、まだまだあるけれども、そうした、数千年つちかってきた日本人のいきかたの根本にある美徳を見直す、その時代の扉が、今ようやく開かれつつある。東京五輪が近づくにつれ、見直しの機運は高まるにちがいない。

 

もちろん半世紀も経てば、次はグローバリズムとリベラリズムへの揺り戻しが起きることは必定だ。

歴史を振り返ってみても、人類は振り子のように右へ揺れ左へ揺れ、そうしながらより良き道を探そうと意欲する。常に、最も理想的な道は何かを探す、この人類の意志は、永遠に未完成のまま続く。