リベラリズム考(6)―個人主義(ⅱ)


 

水の人モード

リベラリズム考(5)―個人主義(ⅰ) からのつづき。

 

同一日の2記事掲載ですので、個人主義(ⅰ)を先にお読みください。以下、まずは事典の引用から入ります。

 

(3)規範的主張

規範的主張としての個人主義は、何をもって良き生とするかの決定を個人に委ねよ、という個人の自律・自己決定を主張する。

この規範的な個人主義は、理論的には、社会の存在性格についての存在論的な個人主義とは独立であって、社会を超個人的な主体=実態の自己実現とみる全体論の立場からも主張可能である。

(岩波哲学思想事典 p523-524 )

 

いよいよ、個人主義のリベラリズム的側面のコアな部分に入る。

まず、一人の人間の個人的側面からの主観的な一生の目的や価値について、自己決定する権利が人間にはある。

一方、社会を超個人として扱い、社会が(個人の複合体として)自律的に理想を求めるという、全体主義の視点から主張することもできる。

規範的に個人主義を権利として、主体には必ず自由があるとするのならば衝突が起きるのは言うまでもない。ではどのように折りあいをつけていけば良いのか、ここが個人主義の今なお答えの出ていないテーマである。

 

しかし、ひとたび社会が近代化し、個人の自律的な価値選択の多元性の承認が、社会システムの再生産の条件となると、普遍的な価値の主張は「非寛容」と紙一重になる。(同書同ページ)

それぞれが勝手に個人主義を規範として掲げ、多様な価値観を承認し合うことを暗黙的にでもルール化すれば、社会から多様性であることの圧力がかかり、それは非寛容になりかねない。例えば、「保守的な秩序と伝統を守ることが私の自律した個人主義であり、秩序と伝統を破壊する人を自分は許さない」という人に対し、「あなたは間違っている。多様な価値観を認めなさい」という矛盾した非寛容を生み出しかねない。社会からのその非寛容的圧力が強まれば、リベラルが嫌悪した、言葉狩りなどによって表現の自由が大幅に限定され、不自由で閉塞的な社会へ突き進んでゆく。

現在の世界的風潮は、ポリティカル・コレクトネス運動による多様性の尊重による寛容が、実は上記の非寛容であったという欺瞞が暴かれ、欧州やアメリカでのナショナリズム運動に結びついている。下手なことを書いたりしゃべったりすれば吊し上げられ身の破滅を招くほど、表現に厳しい時代になった。黙って何も表現しない方が安全な世相である。

私自身は破天荒に生きているのでリベラリストであることを自他ともに認めるところであるが、リベラリズム運動には反対で、社会はある程度の秩序を堅持し保守的傾向が強いほうが良いと考えている。ニーチェも超の付くほどのリベラル哲学者であったが、19世紀の、まさにリベラリズム運動が始まっていた時点において、これを徹底的に批判した。この件については本シリーズの別記事で触れる。

さてどう考えてゆくべきか。つづけよう。

 

したがって、規範的な個人主義は、普遍主義的な価値論を棚あげしたうえで、「個人が何を選ぼうと、その適否を論じ合う共通の基準はない」という一方の極と、「それぞれの価値選択の適否を語りあい合意しうる共同性において、個人は自己決定の主体たりうる」という他方の極に分裂する。

一方の極は、政治思想においては、社会関係を自己実現の手段・素材と見切る自由主義と親和的であり、ひいては公共財のみならず教育・治療・行政・司法・治安の全てにわたって、必要なサーヴィスは金を払って購入する社会システムこそが個人の価値選択を尊重する、と主張する個人至上主義(リバタリアニズム)を強化しうる。

もう一方の極は、語り合い合意をしうるための高階の価値の共有の不可欠性を騙る共同体主義(コミュニタリアニズム)と親和的であり、ひいては実定的な共同体の伝統を強調する保守主義を強化しうる。(同書同ページ)

共通な基準は無いのだから、「個人主義にあたかも普遍性があるように、外へ向けて語ってはならない」という最低限のルールは守らなくてはならない。

そのうえで、「自分は個人主義の自由と権利を行使する」と主体的に主張し行動すれば、リバタリアニズム=新自由主義(個人を軸とした主観的自由を徹底して主張する主義)へ向かうことも有り得る。

一方では、個人が主体的に共同体にかかわり、それぞれの個人が「自分の自由を自律的に制限する個人主義」という理性をはたらかせ、共同体に重心を置くコミュニタリアンとして保守主義へ向かうことも有り得る。

「個人」という日本語の表層的意味に囚われてしまえば西洋のインディヴィデュアリズムへの理解は深まらない。個人主義は全体主義的視点があり、新自由主義とも保守主義とも親和的になり得るのである。

リベラリズムの根幹とも言える個人主義が上述したとおりであるので、リベラルと保守、リベラルと全体主義を対義概念として二元論に閉じ込めることが、いかに反知性的(思考停止)で頑迷固陋(私は昭和の亡霊と呼んでいます)の思考回路であるかお解りいただけるだろう。

 

個人主義の締めくくりとして、なぜ西洋は個人主義に成熟し自律への意識が高いのかについて。

自律とは、ギリシア語で autonomos と記述され、auto(自己)のnomos(立法)である。

ヨーロッパは、自己による立法をせざるを得なかったのだ。

宗教的対立は共同体の破壊を生み、国家的対立による戦争も共同体の破壊を生み、経済的対立もまたしかりで、基本的にヨーロッパの人たちは国家共同体も会社組織も信用していない。教会さえも。

ヨーロッパには社会の安定が長く続かなかった歴史がある。そうした環境下におかれれば、自己という個人の主義を規範として打ち立て、自己を主張して他者に負けないようにしなくてはならない。共同体が自己を守ってはくれないのだから(ある程度は守るとしても)、社会へ依存できないのである。自分と愛する人、家族の運命と安全、安心、経済的安定および精神的安定を、国家や会社などの社会共同体への依存に委ねることができないのだ。

アメリカの銃規制が進まない根本原因はここにある。

 

日本は幸せな国だ。

東アジアでは中国を含め唯一、世界的にも珍しいことに他国から侵略されることがなく、会社は終身雇用で社員を守り会社自体を長く存続できていた。世界的に長寿企業が日本に多いのは、会社が社員を守ってくれるという信頼感があり、社員の生活基盤が安定し精神的にも良好な状態で暮らせてきたからである。

なによりも、国民みなが社会に信用を築き上げてきた。

社会が個人をしっかり守ってきた。ゆえに、個人主義の台頭は必要なかった。

自分たちが築いてきた信用のおける社会に、自分たちが依存できるように組み立ててきたのだ。日本人の道徳観は、神仏宗教や人徳的善、生き方の美意識からも説明でき得るけれど、社会をいかに信用できるものにするかを暗に目的に置いてきたのかもしれない。

人を人間と呼び、人間の集合体である社会を世間と呼び、「世間様」という観念が尊重されてきた。世間という語は仏教語として場所の意味でサンスクリット語から漢語に翻訳され、中国を経由し日本に輸入されたが、後に、世(移ろいゆくもの)の間(空間)として、時空間上に動きのある実体観念として日本社会に根付き、日本人はこれを大切に扱ってきた。毀誉褒貶と同調圧力の負の部分を自覚しつつも。

 

いま、日本はグローバリゼーションの濁流のなかに混沌の時代を迎え、尊重してきた世間様というよりどころを無くしかけ、社会が信頼を失いつつある。欧米文化の光ばかりを見て影を見ようとせず、まるで信仰のように「ヨーロッパの進歩」に憧憬を抱き善としてきた日本人が、欧米流のリベラリズムと個人主義、能力主義の影の部分に気づき始め、自由を求めた代償として心理的反撃に出会い、これをどのように消化し乗り越えてゆけば良いのかというテーマと格闘している時期だと思う。

 

さて、次の記事ではもう少し「自律」について掘り下げておく。

 

リベラリズム考(7)―自律 へつづく。