五感という分類常識を忘れてみる


前の記事では、伊藤亜紗著『目の見えない人は世界をどう見ているのか』第一章「空間」から、目の見えない人の空間感はハイレベルな三次元世界観だということが分かってきたことを書きました。

この本が注目されたのかされなかったのかは分かりませんけれども(現在2刷)、センセーショナルな発見だと私は思います。なにより伊藤さんの観察力が素晴らしい。子どもの頃から彼女は小さな生物の観察を続けてきたようで、東大では生物学を最初に専攻しています。三年生から美学へ文転したとあります。彼女の繊細な観察力は、細かな観察を大の苦手とする私と正反対で、ちょっと羨ましいです。

一冊読み終えてからまた何度も途中を読み返しているのですが、視覚障碍者の視覚的世界観の構築は、「他」と「他」の関係性によって組み立てられているんですね。ふつう私たちは「自」から「他」を認識して解釈する、「自」「他」の相対的空間観が中心です。日の出には太陽が昇ってくる感覚ですよね。

じゃあ、視覚障碍者の方々は自分が今いる視点からの感覚はないのかと考えてしまうのですが、それは「注意」という感覚らしいです。つまり内的世界は三次元で自由に俯瞰している世界観があって、その中に自分を歩かせていて、その歩かせている自分の進行方向に注意を向ける感じだと思います。

※「注意」で思い出したのがフランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859-1941)の「注意的再認」という言葉です。次の記事では、認識論(彼独特のイマージュ論)を扱った著書『物質と記憶』を少し覗いてみたいと思います。

 


 

伊藤さんは、DID(ダイアログ・イン・ザ・ダーク)という真っ暗闇を体験できる施設に何度か行かれています。その感想が書かれている箇所があるので引用してみましょう。(現在、同施設は体験一般5000円/完全予約制)

第一章で、見えない人は相対的に道から自由である、という話をしましたが、慣れていないと、本当にどっちに進んでいいのか分からない。どっちが壁でどっちが段差だか分からないということは、自分の進むべき方向を示してくれるものがない、ということです。

進むべき方向が分からないということは、そこにあるはずの物理的な空間と、自分の結びつきが不確かになるということです。ちょっと極端な言い方をすれば、自分が体を持った存在としてこの空間の中にいるという実感が持てなくなってしまう。

もちろん、声を出すと仲間が応えてくれるので、自分が存在しているということは確認できます。けれどもそれも、実体のない魂同士の会話のように聞こえてしまう。存在はしているけれど、体がなくなったような気分です。透明人間になるってこんな感じなのか?

 

自分の体がなくなる感覚のようです。

私も体験してみたくなったので、機会をみつけて行ってくることにします。視界がない、視点がない世界に慣れている視覚障碍者の方が、上記のDIDで道案内してくれるそうです。

 


 

さて、視覚障碍者といえば「点字」を触って意味を解釈することで知られていますが、点字識字率は12%程度ということです。思っていたよりも全然少ないです。そして点字を触って意味を解釈する時に、彼らは「見ながら読んで」いるそうです。以下に引用します。

生理学研究所の定藤規弘教授らによれば、見えない人が点字を読むときには、脳の視覚をつかさどる部分、すなわち視覚皮質野が発火しているのだそうです。

つまり脳は「見るための場所」で点字の情報処理を行っているわけです。脳の可塑的な性格は近年注目を集めていますが、見えない人では視覚的な情報を処理する必要がなくなるため、視覚野が視覚以外の情報処理のために転用されるようになるのだそうです。(晴眼者ではこうしたことは起こりません)

 

点字を触って読んでいるのですが、触る=見る、という脳の回路変更が行われているようで、凄いことだなあと思いました。

 


 

私たちは常識として「五感」という知覚の分け方を信用しています。

視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚ですね。

でもこれって本当でしょうか?本当に分離しているのでしょうか?

他の人はどうか知りませんが、私は文章を目で読む時に、耳で聞いています。どういうことかというと、例えば今回取り上げた本を読む時には、伊藤亜紗さんの声で聞いているのです。伊藤さんがご活躍されている動画がYouTubeにあるのでそこから声の質や口調、ちょっと早口な感じ、顔の表情を推測して、本のなかで話を聞いています。

ニーチェを読む時には、ニーチェの声は知りませんので顔から男性的なちょっと太めの声を連想して、本を読むという感覚ではなく文章を聞いています。ハンナ・アーレントの翻訳は常体の「だ・である」調で書かれていますが、落ち着いたアルトの感じの女性の声で聞いています。ブロガーさんのブログを読む時も、LINEで子どもたちとやりとりする時も、文章は自動的に声に変換され、音として聞いているのです。

みなさんはどうなのでしょうか。

音楽を聞いて色が見えることをシナスタジアと言いますが、それは私にはありません。ですが音楽を聴くときには、言葉で表現できない聴覚以外の感覚が何かをインプットしているという不思議な感覚があります。耳が聴いているのではなく全身の細胞が聴いている感じです。振動の波動などではなく。

 


 

人間のご先祖さんを辿れば海中生物で、目がありませんでした。最初にできたのは口ではないかというのが通説だと思います。すべては触覚(皮膚感覚)から始まったと言えるのです。私は味覚も触覚の一部だと考えています。

視覚で凍てつく冬の映画を見ていると寒くなってきますし、聴覚でガラスの音を想像したときに鳥肌が立ちます。梅干しやレモンを想像すると唾液が出てきます。

「五感」という常識的分類をせずに、自分から離れているものは視覚と聴覚によって触れているというふうに考えることができる。

最後に、「触れる」ことについて伊藤さんが述べている部分を引用します。

 

たとえば子どもや恋人と手をつないでいるとき、感じるのは相手の手ではなくて、その存在全体です。相手の気持ちがどこに向いているのか、どんな気分なのか、具体的に感じることができるかもしれません。

いや、「感じる」というと対象化して距離を取るようですので、ちょっと違うかもしれません。気は流れるものと言われます。

相手と自分が気の流れを通して一つになる。気持ちが通い始める。

電池の極に電線をつけた瞬間に電気が流れるように、手と手、あるいは唇と唇が触れ合った瞬間に、流れ始めるものがあります。

 

 

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