社会からの多様性要請は疑問


 

水の人モード

多様性(ダイバーシティ)に対応することがうるさく言われる時代になりました。
ダイバーシティはポリティカルコレクトネスを主張する運動によく表れています。

以下、Wikipedia から引用します。

ポリティカル・コレクトネス(英:political correctness、略称:PC,ポリコレ)とは、日本語で政治的に正しい言葉遣いとも呼ばれる、政治的・社会的に公正・公平・中立的でなおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。

1980年代に多民族国家アメリカ合衆国で始まった、「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的な観点から見て正しい用語を使う」という意味で使われる言い回しである。「偏った用語を追放し、中立的な表現を使用しよう」という運動だけでなく、差別是正に関する活動全体を指すこともある。

この運動は日本語など英語以外の言語にも持ち込まれ、いくつかの用語が置き換え(または言い換え)られたが、しばしば伝統的な文化や概念と対立するなど、逆差別といった問題を引き起こしている。

 

個人人格の多様性、文化の多様性、かかわり方の多様性などを理解し、差別や偏見をなくそうという運動です。この運動は、自由を尊重し他者の価値観に対してはものわかりの良い人になりましょうとの目標を私たちに植え付けています。

一方で、例えば同性の結婚の自由が尊重されるのに、結婚は1対1でなければだめだ、夫婦関係以外で子どもをつくってはだめだ、結婚後は夫婦の相手以外に恋愛関係をもってはだめだなどと社会からの強要度が高くなりました。そもそも個人間の自由であるにもかかわらずです。ポリコレは明らかな矛盾を抱えています。

同性婚を認めるならば複数婚も認めるべきだ、結婚後の自由恋愛も認めるべきだ、他の人との子作りも認めるべきだ、結婚という定義も変えるべきだというのが私の主張です。一組の男性と女性が一緒になって子供をつくり家庭を築くこと、それが争い少なく種の保存を続けようとする、生物としての人間の自然な生態です。そのための契約を結婚という制度だと社会は定義した。定義をそのままにするのならば私も同意です。それを覆すのであればそもそも結婚制度など必要ないではありませんか。

 

また、社会的弱者を尊重するあまり、弱者モンスターやマイノリティモンスターが次々と生まれています。ポリコレは良いことばかりではありません。

トランプ大統領の誕生は、ポリコレ疲れが一番の原因だと述べる有識者は多い。ものわかりの良い人になるという心理負担はけっこう大きいものだと思います。ストレスからの揺り戻しが起きているのかもしれません。

「多様性を理解するように努力しよう」から、「多様性を認めろ」「多様性は権利だ」という社会からの要請に変化してきましたが、であれば、「自由よりも秩序を重視する」「男女の個性の違いを重視する」という価値観であっても多様性として認めなければならない。

 

ここから導かれる結論は、「多様性を認める社会」ということのみをもって、一元的原理主義的に考えて運動を行うことは、逆差別に繋がったり、全体主義に繋がってしまうということです。自由を標榜したはずが不自由になっていく。自分で自分の首を絞める、自縄自縛。

全体主義というとすぐに右翼軍国主義を想像するかもしれませんが、共産主義や社会主義も全体主義へ簡単に変質しますし、ナショナリズム、グローバリズム、リベラリズムでさえも一元的原理的に社会から要請されるようになれば、全体主義へ向かいます。

今、日本を覆っている閉塞感は、「刺激的な言動など何かやらかすとインターネットで徹底的に叩かれる。吊し上げられる。全体から強い圧力がかけられる」という、ポリコレが原理主義として作用することで許容範囲が狭まり、全体主義的雰囲気が漂い出しているということがあると思います。

 

私は多様性について反対ではありません。むしろ大賛成。

個人的には社会や他者から何を要請されようとも、そもそも私は常に自由であるので意に介しません。けれど他人は自分ではないのでできることとできないことがありますよね。

いろいろと考えてみたのですが、多様性の社会を実現するには、それぞれの個人のなかに多様性を造っていくことではないかと思うに至りました。個人個人が一元的原理主義的にならないこと、一つの真理や理想を求めないこと、自分はこういう人間だと自分にレッテルを貼らないこと、柔軟性と剛直性を同時にもつこと、他にもいろいろあろうかと思います。

例えばナショナリズムとグローバリゼーションは自分のなかに共存させることができる。実在論と観念論も自分のなかに共存させることができる。自由と連帯もそうです。男女平等の思想、男女は違うのだという思想も自分のなかに共存できる。

要は自分の内側に多様な価値観と性格性を造ること、そうした人がひとりふたりと増えていくことによって、ポリコレの運動など一切することなく、社会から要請されることもなく、自然に多様性を認める世の中になるのではないかと考えます。

 

 

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