subject(3)宗教哲学からデカルトへ


今回の記事では解り易くチャートを活用することにしました。本来は「裏に隠されたロジックの構造」にだけ目を向ければ良いのですが、哲学論の表面上にはそれを覆い隠す難解な言語があります。加えて、面倒な言い回しの数々が難解さに拍車をかける。派生する枝葉の論や歴史的背景は極力そぎ落として、「ロジックの構造」特に subject にフォーカスしてゆくことにします。

まずは、前記事の古代ギリシャ哲学のおさらいです。

 

単純に上記だけで良いのです。簡単でしょう?

外の世界のさまざまな事象を対象化して、それについて、普遍的なものは何か、真実のものは何か、法則性は有るのか無いのか、有るのならばどういう法則性か、などを考えること。それが「知を愛すること」として学問の頂点でまとめるフィロソフィー(哲学)でした。以前の記事でリベラル・アーツについて書きました。下のチャートです。

 

ところで、1枚目のチャートには、それ全体を「対象化」した「視座」が隠されています。この「視座」は知覚的世界を感覚する視点ではなく、価値的世界を「間接的に」把握する「一つの解釈装置および表現装置」として、人間が作為的暫定的に仮設した機能です。この間接的視座について人間は、特に日本人はほぼ無自覚です。

下記の図のように間接的視座が subject (主体)として、外部の実在世界を object として対象化し解釈しているということです。(もちろんこの考え方は現代だから言えることです)

 

古代ギリシア哲学は、上記の構図によって存在論を中心に、普遍学について研究し学ぶことが盛んでした。しかし最終的にはヘレニズム哲学をその最後として、外部からの侵入者や戦争により国は疲弊し古代ギリシア文明は終焉をむかえます。紆余曲折を経てギリシアはローマ帝国の支配下となります。

他方、西暦2世紀頃からローマ帝国全体にキリスト教が広まり、同7世紀頃からはアラビア諸国にイスラム教が立ち上がり、キリスト教にもイスラム教にも、ギリシア哲学が影響を与えてゆくことになります。その哲学のほとんどはアリストテレスの残した文献の解読によってなされ、「アリストテレス=哲学」でした。一部にネオ・プラトニズム(プラトン)もありました。

逆に言えば、哲学が宗教の影響を多大に受けた時期で、世界解釈すべての基礎が宗教になってしまった。14世紀頃にルネッサンスが起こるまで西洋文化の発展は停滞し、「暗黒時代」と呼ばれることもあるようです。およそ1000年以上にも及ぶ暗黒時代を思うとぞっとしますね。

 

14世紀から始まるルネッサンスでは、宗教を中心とした、音楽・絵画・建築等の芸術文化が隆盛となります。学問においては遡ること300年、11世紀頃から始まった神信仰を基礎とするスコラ哲学(スコラ神学)が起こり、その後のモンテーニュら人文主義者の活躍もあって、哲学の気運も徐々に回復してゆきます。しかし、あくまで創造主は神であり、人間が存在するのも世界が存在するのも神ありきであり、それに逆らおうものなら厳しい刑罰があった時代です。

宗教が学問の主役に躍り出たことで、subiectum-obiectum にも変化が生まれます。特に変わったのは obiectum のほうです。

アリストテレスのもとで「対象」を意味していた antikeimenon=obiectum が中世のスコラ哲学・近代初頭の哲学においては「知性に投影されたもの」を意味するようになる。例えばドゥンス・スコトゥスにあっては、obiectum は志向的対象つまり表象(※心の中に投影される象)を意味しているし、デカルトやスピノザのもとでも realitas obiectiva は、現実化された事象内容である realitas actualis (現実的事象内容)や事物そのものの形相として存在する事象内容 realitas formalis (形相的事象内容)に対して、単に表象されたかぎりでの事象内容、つまり可能的事象内容を意味している。したがって、中世から近代初頭にかけては、subiectum がそれ自体で存在する客観的存在者を意味し、obiectum が主観的表象を意味していたのである。

(岩波書店版『岩波哲学思想事典』)

 

少し難しい記述ですがスルーしてもかまいません。次のチャートで肝腎のロジックだけを簡略化します。

宗教哲学全盛時を思えば、上記の「間接的 subject の視座O」は、そっくりそのまま「神」に変更できてしまうのです。神の視座による object (客観視)=誰もがそう認める客観性があることとして、信仰上と学問上とで違和感がなくなってしまいました。

ルターに端を発した宗教改革が起きプロテスタントとカトリックが分かれたとは言え、キリスト教全盛期の西洋でした。

 

さて、神信仰によって思考停止してしまった西洋学問でしたが、ギリシア哲学の時代から暗黒時代を含め約1500年後の1600年代に、勇者が現れました。

「人間は創造主である全知全能の神によって存在を与えられている」がジョーシキで、逆らえば厳しい刑罰が待つ時代に、神を無視した形で、「われ思うゆえにわれあり」と書いたのがデカルトです。私が存在しているのは神によってではなく、私が思惟するから、私が考えることが可能だからだ、と述べたのです。現代で言えば某政治家諸氏の「放言」を彷彿させるような事態で、宗教による同調圧力が極限まで高まっていたキリスト教社会全体からバッシングを受けるようなことでした。学問に忠実であろうとし、真実の学問体系を建設しようとしたデカルトは偉かった。

もっともその著『方法序説』を著したときには出身国であるフランスを離れオランダに隠棲していたようですけれども。さすがに身の危険を感じていたのかもしれません。デカルト自身はカトリック教徒であり神の存在自体は積極的に認めていました。(もしかすると彼の神の存在を認めていた態度は、身を守るためのパフォーマンスであった可能性もあります)

デカルトの出現はアリストテレス以来の、現代から遡ること2000年間における人類知性の分水嶺と言っても過言ではないと思います。

 

『方法序説』のその一部を参考までに引用しておきます。

ほんの少しの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げ捨て、かくしてそのあとにまったく疑いえない何かが、私の信念のなかに残りはしないかどうかを見なければならない、と考えた。(略)そして最後に、われわれが目覚めているときに持つあらゆる思考と同じものが、眠っているときにもわれわれに現れるが、その場合、真である思考は何ひとつないということを考えて、私は、かつて私の精神のなかに入りこんでいたすべてのものは、夢のなかの幻想とおなじくらい真ならざるものだと仮定しておこう、と決心した。しかしすぐあとで、このようにすべてを偽であると考えようとしている間も、そう考えているこの私は必然的に何ものかでなければならないことに気がついて。そして「私は考える、ゆえに私はある(当初はフランス語で Je pense, donc je suis 、のちにラテン語で Ego cogito, ergo sum と記述)」というこの真理はたいそう堅固で確実であって、懐疑論者のどんな法外な想定をもってしても揺るがしえないと認めたので、私はこの真理を私が求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け取ることができると判断した。

(ちくま学芸文庫 山田弘明訳 『方法序説 ルネ・デカルト』第4部)

 

上述の後に同書では、エゴ・コギト・エルゴ・スム の吟味に入るのですが、「私は考える、ゆえに私はある」と同時に、「私が存在していなければ考えることはできない」という命題にも触れ、明瞭な真実であるとしました。後に書かれた『哲学原理』のなかでは公理だと説明しています。しかし、存在しているから考えることができるという命題は、後のカント哲学以降では「超越論的」(先験的)とされます。この命題は当然のように思うかもしれませんがロジックとしては飛躍があります。

いずれにしてもキリスト教教条主義全盛の時代にあって、その教条主義や因習から解放され、ゼロから学問の体系を建設していこうとするデカルトの姿勢について言えば、圧倒的な「知のリベラリズム」に深い感銘を受けます。また、個人的には大きな共感とともに憧憬と若干の嫉妬心を禁じ得ない。

ルネ・デカルトについてはまだまだ書き足りないのですが、今回は subject がテーマですので改めて機会を設けるとして、これ以上は立ち入りません。

 

以上のように、デカルトを嚆矢として近代認識論の地平が開かれました。もっとも、後世から歴史をながめる眼差しにおいてそう言えるのであって、当時のデカルトには、自らの論が近代認識論の端緒だという自覚はもちろんなかったことでしょう。

デカルト以降、スピノザやライプニッツ、イギリス経験主義のロック、バークリ、ヒュームらの登場があったとは言え、新しい認識論の扉は重く、それが完全に開かれるまでには、デカルトの死後130年を待たねばなりませんでした。

〈subject-object〉の価値転倒、コペルニクス的転回を実現したのは、『純粋理性批判』を著したイマニエル・カントでした。

 

 

subject(2)ギリシア哲学


前の記事で予告したとおり、西洋哲学の「基礎構造」を明らかにしてゆきます。

その前になぜ構造なのか、構造をどうやって明らかにするのかについて触れます。

哲学には難解な哲学用語がたくさんでてきて、それも哲学者によって語義が異なることもあり、その誤解を避けるために持論構造の説明用に新しい概念の造語を創り出した哲学者も多いです。「私の持論上でこの言葉はこの語義として使いますよ」という哲学者からの親切な説明はありません。

哲学にとって言語で表現されているほとんどは前景でしかありません。このことは二つ前の記事 『仮説ロジック』 の後半に「仮説ロジックの表現」として少し触れました。何を言いたいのかというと、難解な言語の語義・語感に惑わされずに、その背後にある「ロジック構造」全体にフォーカスするということです。乱暴な言い方をすれば言語などどうでもよい。記号として扱えばよい。哲学は文学ではないのだから。

 

私たち日本人が明治維新以降、先進の西洋文明から輸入した最も重要な舶来品は、物質的なモノではなく、言語の意味や概念の意味でもなく、(学問的および科学的・技術的)「思考の構造」でした。

しかしまだまだ日本人の多くは「思考の構造」に弱い。

前世紀の碩学の一人、国語学者の故大野晋氏は次のように指摘しています。

日本とは何かを考えるうえで、日本人の弱点と思われることを一つ挙げたい。
それは日本人が「体系的な思考」に弱いということである。人間界についても、自然界についても、分析を重ねていって原理・原則を求め、それを全体として観察して構造的に、体系的に把握する力が弱い。

(大野晋著『日本人は日本語をどう作り上げてきたか』/新潮選書『日本・日本語・日本人』所収)

 

短所・弱みはそのまま裏返して長所・強みになるという反論は抑えて、大野氏からの訓諭を真摯に、且つ積極的に、課題として受け止めたい。もちろん、日本人の全てがそうというのではなく、歴史上でいえば、藤原定家、契沖、本居宣長など、体系的、構造的に全体を把握する能力、表現する能力のあった先人もいると氏は述べています。

少し逸れますが、2014年にノーベル生理学・医学賞を受賞した グリッド細胞 の発見は、人間の新たな可能性を示唆しています。グリッド細胞は物理的空間を把握する能力を持ちますが、私は、「意味的世界」を全体的に把握する能力もまた、人間に内在しているのではないかと考えています。何故なら全盲の人にも空間的把握能力があるからです。グリッド細胞の展開力にかんして言えば、むしろ晴眼者よりも優れている可能性が高いと思います。彼らには「意味的世界」の立体地図しかないのです。そこに「視点」は存在しません。

頭脳内に内在している、数千万数億かはわかりませんが膨大な数の、精密なグリッド細胞に意味的世界のロジックを立体的に展開してゆくこと、それはまさに、哲学の構造を明らかにしてゆくことと同義であります。

 

話を戻します。哲学論の構築を建設に喩えると、subject 概念にかんするロジックは、土を数メートル掘り下げて鉄筋鉄骨を打ちコンクリートで固めた基礎工事にあたります。地表に現れる建築は唯物論であったり独我論であったり、或いは、自由や平等、科学や芸術、民主主義や共産主義といったイデオロギーでもあったりするのですが、肝腎かなめの基礎は subject 概念に集約されるというのが私の見立てです。

その基礎中の基礎がギリシア哲学にあるわけです。

英語の subject は、ドイツ語の Subjekt を英訳したものであり、Subjekt はラテン語の subiectum,substratum,substantia,suppositum,subjectum 等、複数の哲学的語義を統合したものと事典にはあります。ラテン語は古代ローマ帝国の公用語でした。古代ローマ帝国が古代ギリシア文明を継承した際、ギリシア哲学で使用されていたギリシア語 hypokeimenon (ヒュポケイメノン)をラテン語訳し、それが巡り巡って英語の subject になったということになります。その過程で語義の変容はありますが、哲学的構造においては西洋文明の基礎であることに変わりはありません。

 

まず哲学事典から下記に引用します。

ヒュポケイメノン [ギ] hypokeimenon

アリストテレス哲学の用語。受動の動詞「下に置かれる」(hypokeisthai)の現在分詞中性形で、「下に置かれている(もの・こと)」を意味する。また能動ないし中動の動詞「下に置く」とその分詞形、さらにその名詞形(hypothesis)との連関により、文脈に応じてこれらの語と同じものを意味する。一般に「基体」と訳されるが、これらの多様な連関とその動詞的な性格をよく映しているとは言い難い。

(略)「ヒュポケイメノン〔の「何であるか」〕について述べられる」と「ヒュポケイメノンのうちにある」という、〈本質述定〉と〈内属性〉の二規定を通じて展開されるが、とくに「任意のある人」「任意のある馬」という形で表現される〈かけ替えのある〉個体としての第一実体が他のすべての存在のヒュポケイメノンであると主張されるところから、ヒュポケイメノンとは次のようなものとして理解されることになる。

つまり、われわれが言葉によってなにごとかを語り、明からしめるとき、その言葉の発語に先立って、そのなにごとかとは別のあるものがすでに何らかの仕方で措定され、了解されている、と。これより、ヒュポケイメノンは「先言措定」と訳されよう。

(岩波書店版『岩波哲学思想事典』)

hypokeimenon とその訳語 subiectum は、古代から近代初頭までは一貫して「基体」と「主語」を意味していた。そこにはカント以降の「主観」という意味はまったくふくまれておらず、むしろ「基体」という意味での subiectum は心の外にそれ自体で自存するものである。

(同書)

 

同事典では subjectobject(和訳は客体・客観)を併せて解説を試みている部分も見受けられますが、ギリシア哲学の時点では、hypokeimenon を「下に置かれたもの」、object 概念の根源である antikeimenon (ラテン語 obiectum)は「向こう側に置かれたもの」とし、現在の主体と客体(主観と客観)のような対立関係は全くありません。

「基体」も哲学用語です。goo国語辞書によれば物の性質・状態・変化の基礎をなしていると考えられるもの」。Googleによれば「種々の作用・性質の基礎にあってそれらを支持する実体。また、主体の精神活動の基礎にひそみ、客観的存在の根源をなす実在。」

    1. 下に置かれたもの
    2. 物の性質等の基礎となっているもの
    3. 主語
    4. 心の外に自存するもの
    5. 動詞的な性格
    6. 先言措定

以上の6つがキーワードになっています。「先言措定」は難しい概念です。

 

アリストテレスは、ヒュポケイメノンは述語にはなり得ないと言い切っているのですが、それと「動詞的な性格」はどう整合させたら良いのだろう。「動詞的な性格」と「先言措定」を外した4つのキーワードからならば、全体ロジック構造における、ヒュポケイメノンの位置や役割などのイメージをつくれそうです。

上記事典の二つ目の解説文は「主観」項目のなかにあり、故木田元氏によって書かれています。一つ目の解説文は今後の課題(アリストテレス研究課題)として、今回は参考にとどめておきたいと思います。

 

ところで、現代では subject を「人間の主観」として哲学ロジックに使用することが多いなか、その淵源たるヒュポケイメノンの語義には人間の影がとても薄いのはなぜか。それは、アリストテレスが、「実体のロジック」を構築していたなかから創造制作した概念であるからだと思います。実体のロジックを構築しようとすれば、人間よりも考察固定し易い物質から入ることは当然だからです。

この「基体」概念は、アリストテレスを出発点とした存在論の基軸となり、普遍学、実在論、唯物論、現代科学全ての基礎となりました。

そして現代では、「人間その一個人の基体とは何か」について、従来からある霊魂や神の創造物といった形而上学的な思考停止ではなく、アリストテレスのような哲学的思考のロジックによって明らかにされるべきテーマになっているのではないでしょうか。

 

 

subject(1)序


アイデンティティから続くこのシリーズですが、当初の予定では「自我について」が次のテーマでした。しかし7月一か月間の自己内議論と突如の閃きによって自我問題は矮小化されました。小さな問題になったということです。それよりも大きなテーマとして【 subject 】を掲げ、その一部として自我をどこかで扱います。

subject は哲学では「主体」「主観」と和訳されますが、いずれも明治以前の日本には無かった概念です。「主語」という概念もありませんでした。なぜ無かったのかについては、subject シリーズの後に、純日本思想を深く掘り下げる予定です。

 

テーマ名を「主体」や「主観」にしなかったのは、どちらの和訳語も、歴史上多義的に使用されてきた subject の語感には相応しくない、誤解を招きやすいとの判断からです。

次の記事からは本格的に西洋哲学の根幹ともいえる、或いは西洋哲学の中核として推移してきた subject 概念の変容の歴史とその構造(ロジック)について書いてみます。subject – object の対立軸も当然含みますが、西洋哲学の基本は subject  に集約されると思います。

 

最終章では、西洋文明が subject を失うことができなかったために混沌となった西洋哲学の陥穽(※かんせい…おとしあな)を指摘したい。これは西洋だけの問題ではなく現代日本人の問題でもあります。明治以降の教育によって西洋文化的な視座が中心となってしまい、戦後教育を受けた現代日本人は特に、subject を前提とした先入見で考えるようになってしまっているという現状がある。

もちろん、subject 概念を取り入れて考察できるようになったことは、日本人にとって大きな進歩でした。しかし、subject 概念をもたなかった日本文化を捨ててしまうことはない。かたくなに一つの真理を求めようとするのではなく、一元原理主義に固執するのではなく、柔軟に、しなやかに、多元原理の不安定さのなかで認識し、解釈し、考察してゆくことは楽ではありませんが、知的能力を向上させます。当然です。

 

あらためて純日本文化の subject 抜きの視座シリーズで触れますが、哲学者の西田幾多郎の次の言説は有名です。ここではそのさわりだけ。

私は日本文化の特色と云ふのは、主体から環境へと云ふ方向に於いて何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行ふにあるのではないかと思ふ。己を空うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云ふことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思ふ。

(岩波新書版 西田幾多郎著『日本文化の問題』)

 

西田は徐々に仏教へと傾倒してゆきましたので「自然法爾」という仏教用語が飛び出していますが、淵源へと辿って行けば、国学者の本居宣長による「もののあはれ」の思想がある。宣長の思想というよりも連綿と継承されてきた日本独自の、自己が大自然の中に溶け込み一体化していたことが、ごく一般の日本人の感覚だったのではないかということです。

重ねて書きますが、純日本文化を復興させてという考えは私にはありません。西洋と日本に限らず、「常に自由なブレンド」によって新しい価値観の“ブランド”を創造してゆくという、野心的企てがメインテーマです。そのためにも西洋哲学の subject をしっかり押さえておきます。

 

 

仮説ロジック


今日は単発記事を軽い感じで書きます。ロジック (logic) とは論理であり哲学的には論理学を指す場合もあります。古代ギリシア語のロゴス(言語)に由来する言葉です。論理的な思考のことをロジカル・シンキングと言いますよね。「どういうロジックになっているか」を考えるときは、幾つもの論理的命題がどのように繋がって全体の論理を構成しているのかが焦点となります。

本題は仮説についてです。

 

1.仮説を立てる

仮説を立てるとはどういうことか、です。いろいろな仮説のタイプがあるのですが、代表的なものとしては、まず「現象」に懐疑の目を向けます。「なぜ今日の台風は少し東へ逸れたのだろう」だとか、「台風って何?」という素朴な疑問でもなんでもいいのです。物理的な現象でなくても「美しい心って何だろう」なども。

2.帰納について

台風を例に取れば、東の海上へ台風が逸れた理由を天気図を見ながら、日本周辺の高気圧と低気圧の動きや海の状態(黒潮の流れや海水温)から、後付けで理由を見つけることは案外簡単な推論で、このロジックは「帰納法」によって構成されます。現象を遡ったり掘り下げたりして法則や原理を見つけようとすることです。台風は科学での仮説ですが、人文学分野の仮説はこうは簡単にはいきません。「なぜ日本人には空気を読む国民性が定着したのか」だとかの仮説を立てることは範囲が広いですし歴史を深く掘り下げねばならず、けっこう大変です。でも楽しいかもしれない。

3.演繹について

帰納法は推論ですので完全性が要求されることはほぼありません。一方で、演繹(えんえき)という方法があって、こちらは事実と事実を組み合わせて、必然的な事実を構築することになります。数学的な考え方で、必ずそうなるというロジックですが、未来の事象について言えば可能性が100になることはあり得ません。よって「演繹“的”にロジックを組み立てる」という表現になるのが現実的です。ビジネスの未来戦略構想や新しい価値の創造は演繹的な思考によることがほとんどです。

4.帰納と演繹の合わせ技で仮説を創る

大抵はこれですね。何か新しい価値を創造しようとしたときでも、そのことの過去への延長線上で、エビデンス(複数の統計、権威ある学者の論文など)や定説(哲学で言えばカントの観念論など)を元にするなどして、原理や法則のロジックを自分で組み立てる。これだけでも仮説になりますが、新しい価値の創造仮説を立てたいとするのならば、過去から現在までは既に演繹できていますので(帰納のあとの演繹の再確認は必要)、次は、未来へ志向を延長し演繹「的」にロジックを創っていくことになります。こうして立てる未来の仮説は楽しいです。そのままそのとおりになるなんてことはまず無いし、無くていいのです。大切なことは仮説をもつことですね。

 

脳科学者の茂木健一郎さんが以下のブログを書いていました。一部引用します。

『仮説力を持とう』

「仮説」は、自分が興味が持ったことを自ら学ぶことでもいい。(中略)「仮説」という名称が大切なのは、不確実な未来に向けて、とりあえず今持っているもくろみ、計画であるということが明らかになるからである。必要ならば変えればいい。仮説は何度変えてもいい。十回変えても、百回変えてもいい。たくさんの異なる仮説があってもいい。

上記のブログは就職を前にした大学生へのメッセージが主旨ですが、誰にでも当てはまり、ただ漠然と現実に流されて生きるよりも、自分の未来について仮説を立てることで充実した人生になること、心豊かにクオリティの高い生活を営めることってあると思うんですよ。

 

ところで仮説とは、こうして自分が自力でロジックを創り、意図して立てることが一般的なのですが、もう一つ、「閃きの仮説」について述べておきます。私はこちらの方が好きで常に狙っています。誕生する仮説のレベルが違うんです。超A級の仮説はこちらからしか誕生しないと言っても過言ではありません。

5.閃きの仮説について

こちらは何の意図も目的も無いところに突如誕生します。

しかしそれには幾つもの「重要な断片」が無意識内に必要で、且つ、何か一つのことについて真剣に考えて続けていることと、先入観や固定観念を捨てた柔らかい思考が不可欠です。Aのことについて真剣に考え続ける。そのために必要なことに対し関心をもって学ぶ。学んだことが幾つもの断片となって、あるとき突然、Bの仮説が閃く。Aとは近接関係にあるBの仮説です。私の場合は睡眠中の夢の中、もしくは起床直後にそれが起こることが多いです。断片が一気に一つの塔を築くようにロジックが自然に繋がって、数秒で重要な仮説が誕生します。ただ、その仮説が果たして正しいかどうかは解らない。もちろん、修整やロジックの補強は必ず必要になってきますが。

6.仮説ロジックの表現

仮説のロジック自体の「構造」は言語的ではありません。それゆえ言語で構造を表現するのはとても大変で、その構造によって導き出される現象内容を言語表現できるだけです。一行の一文が膨大な量の全体ロジック構造の上に置いてあることもしばしばです。ロジック構造自体については、その言語表現されたものの数々から全体を推論してもらうほかないのです。チャートを使うなどすれば他者理解が深まるかもしれませんが、そもそも第三者に理解してもらうことは私にとってはほぼ無益なのですよね。ですので理解できる人に理解してもらえば充分かなと思って書いています。不親切なブログですみません。

ただ、ここに書くことによって、自分の書いたモノがまるで第三者が書いたモノのように、無自覚に自分が読みこむこともあって、そうすると新たな気づきが生まれることがあるので全くの無益とは言い難い。

 

最後に余談です。とても不思議ことなのですが、私はよく難解な哲学の言説を引用するでしょ、哲学事典に書いてあることとか。あれね、引用する前は自分でよく解っていないんです。難しくて。頭悪いし。疲れるの早いし眠くなるし。でも、引用するために、一所懸命にキーボードを触って打ち込むことの効果なのか、引用した後に、「ちゃんと引用文が”従”で自分の意見が“主”になるように書かないと著作権違反になるぞ」という内なる声が聞こえてくる効果なのか、なんとなく後者なのですが、ブログを書きつつ難解な謎が溶けてしまうことがほとんどなのです。

そういうこともあるので、これからもしっかりとアウトプットしていこうと思います。よろしくお願いします。

 

 

アイデンティティ(3)


SNSの「いいね!」やポジティブコメントをもらうことは、通常、エイブラハム・マズローの承認欲求の文脈で語られる。返報性の原理(お返しをする)も混じるがこれは横に措くとして。本記事ではアイデンティティの文脈で共感や同感について考えてみたいと思う。

共感という言葉は主に感情面・感性面に使われるが、「彼の生きかたに共感を覚える」などにも使われる。一方同感は主に意見に対しての同意など知性・理性的な価値観に対して使われる。どちらについても、承認欲求の文脈でも同一性の文脈でも大差はないのでここでは「共感」で統一しておく。

共感については自我と他我の関係性による社会倫理を中心に、哲学でも扱われてきた。

 

共感 〔英〕sympathy

倫理学上の重要概念の一つ。ギリシア語のシュンパテイア(共に感じる、共に苦しむ)が原語で、一般に仲間意識を持つという意味で用いられてきた。現在では同情・憐憫・同胞感情という意味でも用いられている。(社会科学の用語としては〈同感〉という訳語が用いられている。)

共感は人間の自然的情緒であり、人間社会の基礎である近親感情や友交を生み出すものである。人間はその生存において他者に依存せざるを得ぬため、生活のごく初期から他者の動作や表情の意味を解釈することを学ぶ。これが共感の第一歩でありマクドゥガルはこれを〈原初的受動的共感〉と呼んでいる。これは次第により高度の他者の感情の意識的な評価へと発展し、やがて彼の属する社会集団の道徳的伝統の受容に至るのである。

(略)

【ヒューム】

人間は他者の行為を観察し、自己の経験と想像力によってその行為の動機である感情を感知する。この他者の感情の観念は自我のうちで次第に強まり、彼自身の印象へと転化していくのである。(…)共感は道徳的判断に際し、利己的な判断に対する被害者および第三者の非難の感情を知覚し、次第に理性に類似した穏やかにして強力な情念へと転化し、大きな変動を許さぬ公正な判断基準となっていく。

【スミス】

他者の情念に対する直接的な共感から生じる適宜性の感が人間を道徳的行為へと指向させる。社会を存続させるために最も重要な道徳は正義であると主張し、相互に傷つけ権利を侵害しようとしている人々の間においては社会は解体するのであり、人間相互の共感によってのみ支えられると考えた。

【カント】

人間の他者に対する共感的感情(感受性)は、人間本性のうちに植え込まれているものと考えていた。彼はこうした感受性を積極的な合理的な仁愛を促進する手段として用いることは人間の義務に属するものと信じていた。

【シェーラー】

共感とは通常「共歓および共苦と呼ばれる過程」、つまり他者と共に喜び、共に苦しむ体験、その限りでまた、われわれにとって他者の諸体験が直接に理解されるように見え、その諸体験にわれわれが直接に〈参与〉するような過程のことである。こうした共感は、一方では〈追感得〉、つまり感情移入から区別され、また他方では単なる一体感とも区別される。直観的にいえば、死児を前にした父母の悲痛の共有、そこに見られる〈相互感得〉が、その典型的な場面の一つであるともいえよう。

(岩波書店版 『岩波哲学思想事典』)

 

共感という、理性的および情緒的な心のはたらきが、人間にとって非常に重要であることがわかる。哲学者たちの考察を深く真摯に捉えるならば、SNSの「いいね!」を単なる承認欲求として単純に語れなくなってくる。

上記事典からの引用では、共感が社会を前提としていることがわかる。

これを私は、同一性の文脈で、自己内の同一性への統合欲求が、自己と他者の関係へと延長したものとして共感をとらえてみたい。

他者との一部同一化を図りたい、その欲求は、自己のアイデンティティの確立を強固にし、安定させることを動機とすると考える。自分と同じように感じ考える他者がいることの確認によって心理的に安心し、自身の正当性を認識できる。

同一性の欲求が共感されたい側にあれば、感情的に自分の心に寄り添ってくれる人がいて、理性的に自分の意見への理解を示し、肯定してもらえる人がいれば心強いに違いない。

同一性の欲求が共感したい側にあれば、寄り添いたい仁愛の情は自身の幸福感情の一つと成り得る。理性的に尊敬できる共感相手はロールモデルとなって、それが一時的なものであれ、自分の成長に繋がる早道であることを無意識内の賢者は知っている。歴史上の人物でも良いし何人いてもいい。

また、同一性は属性への同一性という意味もある。社会生活を営む人間にとって、集合体や共同体(例えば国家や宗教団体なども含む)の理念や考え方に共感することは、心の内面に於いて同一性が図られるということであり、アイデンティティの確立に繋がり、社会での自分の存在価値を認識できる。

 

もし逆に同一性への欲求がありながらそれをことごとく撥ねつけられ、誰からも一切の共感を得られないとしたら、aloneのほうの(solitudeではなく)孤独感に苛まれ「小人閑居し不善を為す」のことわざの如く反社会的犯罪行為に走る可能性もある。福岡のブロガー事件の犯人がまさにこれだろう。

共感と同一性の関係についてはこの程度の論考で済むはずもなく、更に考察を深化させ、また新たなロジックを創ってみたい。

 

自己と他者の同一性については、行き過ぎた同一化への欲求によっての他者人格の“所有化”や精神を病んでしまうケースもある。精神医学者として臨床医でもあり心理学者でもあったユングは次のように述べている。

同一性とは何よりも客体と無意識的に同じ状態にあることである。(略)この同一性に基づいて素朴な偏見が、すなわちある人の心理が外の人のそれと同じであるとか、誰でも同じ動機を持っているとか、自分の気に入るものは当然他人にも満足のゆくものであるとか、自分にとって非道徳的なことは他人にとっても非道徳的であるに違いない、といった偏見が生ずる。

また、本来自分自身が変えるべきことを他人に改めさせようとする、よく見られる熱意も同一性に基づいている。さらに暗示や心理的感染も同一性に基づいている。同一性がとくにはっきり姿を現すのは病理的な場合であり、たとえば自らの主観的内容が当然他人にもあると決めてかかる偏執症的関係妄想(パラノイア)がそうである。

(みすず書房版 C.G.ユング著『タイプ論』)

 

共感、或いは同一性は素晴らしいものではあるが、一方では、大きなデメリットもあるということです。共感性が強い人、共感や同感についての意識が高い人はついつい「自分の体験的なものは誰にも当てはまる」「自分が正当と認めたものは誰にとっても正当」と考えがちになるし、他者の経験の独立性、価値観や感情の独立性について考えが及ばないことがあります。また、何らかの集合体や共同体への同一性に過度に共感し依存するようになれば、自立性と自律性が損なわれ視野が狭くなってしまいます。

他方、共感や同感について意識の低い人は(私がそうであると思う)、共感することの良い点を評価し直すべきだと思いました。しかしシンパシーを感じる相手は少ないですし、例えばここにこうして書いた主旨についての理解は多くの人にとって困難でしょうし、私にシンパシーを感じてくれる人もごく少数のマイノリティーだと思うので、なかなか難しいのですが。

 

 

アイデンティティ(2)


さて、アイデンティティももちろん上記のロジックに関係してくるのですが、これがまた難しい。なぜ人間には「同一性」が自然にはたらくようになっているのか、その原理に嵌る価値と欲求のピースを探しているところです。

アイデンティティは「同一性」と邦訳されますが、まずは心理学的なアイデンティティではなく、哲学としての「同一性の基準」の解決を図る。

 

同一性 〔英〕identity

【同一性の基準】

何をもって「一つの」個体とするかが明確である限り、同一性関係は、すべての個体が自身に対してのみもつ関係として、単純明瞭である。しかし、個体は、一般に、何らかの種類に属するとみなされ、何をもってその種類に属する一つの個体であるかの基準は異なる。同一性をめぐる哲学的問題の多くは、こうした同一性の基準に関するものである。とりわけ、時間的に持続して存在する個体に関する同一性の基準を、どう定式化するか(時間を通じての個体の同一性)という問題は、哲学的問題の主要な一角を形成してきた。物体の時間を通じての同一性には、時空的連続性が十分条件となるのか、それとも、必要条件にすぎないのか、さらには、必要条件ですらないのか。人の時間を通じての同一性(これは、しばしば「人格の同一性 personal identity 」と呼ばれる)のための条件は何か、身体の時空的連続性か、それとも、記憶の連続性か。ここで強調しておきたいことは、これらの問題は、同一性という関係そのものに関わるものというよりは、「物体」や「人」といった概念に関わる問題であることである。

(岩波書店版『岩波哲学思想事典』)

 

哲学は常に「普遍的な真理」「一つの真理」を求めてきた。時間を通じての個体の同一性の基準は普遍性のある一つの真理でなくてはならない、という西洋的な白黒デジタル判断を要求される。

しかしその上位観念において、つまりメタ的視座において二つの真理の矛盾を容認し、「メタ的視座において一つのロジック」とすれば良いと私は考える。これについては前の記事の文末で少し触れた。

 

ところで、私たちが、10年前や子どもの頃の自分と今の自分と同一である、とするのは、まず「何が」同一であると言えるのか。変わっていないモノとは何かである。

身体は変化しているだろうし、人生体験によって価値観も変わっているだろう。記憶だって変わっている。場合によっては記憶は改ざんされている。心の状態だって変わっていると言ってよいだろう。では変わっていないモノとは何か。

それは「認識する基体」である。

純粋な「基体」である。価値観や記憶などを内蔵する「コアの主体」は変容してゆくが、その「コアの主体」を無意識下に押しとどめた純粋に認識する基体がある。例えば、この基体が純粋認識を行う場合の自分の年齢について言えば、10歳の自分と20歳の自分と今の自分を比較した、時間軸における自分自身の過去と区別がつかない。私は誕生日にいろいろな人から「〇〇歳の誕生日おめでとう」というふうなメッセージを受け取るが、その際に、え?何も変わってないのに、という不思議な感覚に襲われる。この瞬間に「コアの主体」は忘れ去られているのだ。言い換えれば「コアの主体」である私はその視座(視覚的視座ではなく意味的世界の視座)に存在しない。

よって、自分自身による時間連続性におけるアイデンティティの確認は、記憶の連続性によるものでも、身体の時空連続性によるものでもない。純粋認識する基体によってア・プリオリな同一性を認めている。

 

では、他者の同一性を確認する場合はどうか。

その人を過去のその人と同一と認めるのは、〈私の〉記憶の連続性によるものか、それとも〈その人の〉身体的連続性の存在を〈私が〉認めたことによるものか。これは、前者は私の内部の観念に視座をおいた観察であり、後者は私の外部の実在を観察する視座によるもので、自分では無自覚のうちに、その二つの視座を行ったり来たりしながら確認していると考える。「モノ」の同一性も同様である。

ここまでの「純粋認識する基体の視座」と、「観念論的視座」、「実在論的視座」の三つの視座については、冒頭に書いた「基礎哲学論と視座構造」(仮称)という新しい試論のロジックのなかで詳述する。

 

哲学的な「個人の同一性」の認知と基準については、現状、以上で解決とします。

問題は、心理学的に、第四のメタ的視座で俯瞰した場合、なぜ三つの視座の同一化が無自覚に行われるのか、そのダイナミズムは一体どうなっているのかということです。

認知症になると同一性の確認に支障をきたします。主に記憶によるものだと言われています。では、同一性の確認ができないことが普通で、できるのは何故かというふうに発想の転換を図った場合に、なぜ同一化の力学がはたらくのかについては、今のところ何の手がかりもありません。

 

 

アイデンティティ(1)


いよいよ本記事から自己の根源的テーマに入ります。前記事までは帰属の意義、所属への欲求とメリット/デメリットなどについて考えてきました。それらの課題もまだまだ十分には程遠い途上にありますが、一旦寝かせます。ここからの論考は抽象論的な「自己」の解体と再建設を考察主体とする。特に「自我」や「主観」「表象」「意識」について掘り下げることになる。

まずは前記事とも関連する「アイデンティティ」について扱います。

「アイデンティティの確立」といった言葉で扱われているアイデンティティの意味を、正確に説明できる人は少ないのではないかと思うわけです。成人人格の確立みたいな、なんか一人前っぽいみたいな、自立的みたいな、そんなふうなイメージをもつ人が多いのではないでしょうか。丁寧にやっていきます。

心理学者のエリク・エリクソン(1902-1994)が精神医学用語としてアイデンティティという言葉を人間に付属した概念として再定義する前は、哲学用語として扱われていました。語義も似ています。

 

アイデンティティ〔英〕identity 〔独〕Identität 〔仏〕identité

同一性、存在証明と訳される。「変化の中にあって変わらないものは何ものか」を表す。

(1)「私」ないし自我が生の経験の全体を通して同一に保たれている事実。
(2)理性の地平でルールとして同一のもの、つまり論理的普遍性としての思考。
(3)あらゆる思考の対象にそなわるA=Aという事実。
(4)認識論的に主観と客観とが合致すること。

「私」の同一性が成り立たなければ、少なくとも現行の法体系においては、契約も所有も権利も義務もその根拠を失うことになる。同一性の問題は、人格、神、世界の存立の根拠ばかりか、人々の日常的実践にも深く関わっている。

近代の国民国家も同一性の原理によって構成されている。国民、領土(国境)、主権の概念は同一律と排中律によって規定されていて、そのために国民国家は、一国語・一民族・一国家の神話に傾斜しやすい。

(中略)

哲学用語のアイデンティティを精神分析の用語に転用・再定義したのは、E.H.エリクソンである。

(1)私の斉一性と連続性、(2)他者による私の中核部分の共有・承認、という2項によって再定義した。アイデンティティとは、さまざまな私をとりまとめる、より上位の新しい「私」のことだ。彼はアイデンティティの問題は青年期に鋭く顕在化すると考えた。青年は幼年期からの自分と未来展望との間に、「自分は何者か」の自己定義と、取り替えのきかない自己の存在証明を見いだそうとする。

アイデンティティの理論は、青年期に限らず、老年期、女性、エスニシティ、障害者などへ理論的な射程を拡大してきた。これら全てのカテゴリーにおいて、「アイデンティティへの自由」と「アイデンティティからの自由」が交差している。

(岩波書店版『岩波哲学思想事典』)

 

後半のエリクソンのアイデンティティ論においては特に、人間の心理状態のなかでの自分自身を「メタ認知」し、水平的には現実世界のなかで常に自分が固有の存在としての確固たる自覚をもてること、垂直的には自分の記憶の中での、過去の自分自身と現在の自分自身が確実に繋がっており、すべての過去における私は現在の私と同一の存在であることに疑いを抱かないことが挙げられます。

上記引用文では、さまざまな私をメタ認知し、人格統合する私自体がアイデンティティのように書かれていますが、正確には、「メタ認知し人格統合する私の”原理”がアイデンティティである」と解釈しています。

 

 

帰属意識(5)アイデンティティ


『HINOMARU』を歌うRADWIMPSは若者に人気のグループであるらしく、批判に対しての批判として若者の擁護が大きな声となっているようだ。ますます「近頃の若者は右傾化している」と言われるかもしれないが、反左傾が実態ではないだろうか。そしてこれは世界的傾向にある。

つまり、右傾化への流れを作ったのは皮肉にも、左派メディアと左派運動家のポリティカルコレクトネスだと私は考えている。

国境のない世界、男女の別の無い世界、個性だ多様性だと言いながら個性について言及すればすぐに差別だハラスメントだと批判される世界、平等は「命の価値」に留まらず何でも平等にと人間価値を画一化しようとする指向性。それが抑止力としてはたらいているうちは良かった。現代はそこを過ぎて全体主義化へ向かってしまっている。

 

いったい「私は何者なのだ」と問う。

「いや君は地球人のひとりなんだよ。なんの別もなく。」との答えには、「そうか、私は世界73億人と同じなんだ。」という、”のっぺら感”をもち、じゃあ自分は誰とも同じ者なんだとなる。親が誰でも国がどこでもどの宗教を信仰していても、そこに帰属意識も誇りも持たず「らしさ」もなく地球人としての一個人。

帰属を地球人だけとするのならば、「私は何者なのだ」のなかに自分の生物としてのルーツも、自分の意思も思想も、価値も欲望も何も組み込むことができない、ロボットと同じ存在になってしまう。

アイデンティティは混乱し自我喪失の危機を無意識に抱え込む。

人間は「私はこれこれこういう者だ」というアイデンティティをしっかり確立しなければ精神の不安定を招く。ポリコレによって失われていくアイデンティティを呼び戻そうと、帰属意識をもてる何かに無自覚に依存しようとする心理が芽生えるのは健全かつ必然である。全世界的にうつ病が急増しているのは、ポリコレ運動によるアイデンティティの混乱と危機がその一因となっているのではないかとさえ思える。

そうしたアイデンティティの混乱に最も敏感なのは若者であり(アイデンティティ確立の真っ最中)、『HINOMARU』の歌詞を肯定的に共感をもって受け止めるのは世界の趨勢からみて健全で自然な心のはたらきだと思う。

 

アメリカ人は子どもの頃にアメリカ合衆国への忠誠を誓う。それに加えて8割以上の国民はクリスチャンとして、親に言われるまま子どもの頃にキリスト教および聖書への忠誠を誓う。二重の忠誠の誓いによって子どものアイデンティティは強固に確立されてゆく。

アイデンティティという言葉を心理学に導入した心理学者エリク・エリクソンの著書『洞察と責任』のなかで彼は、「自分は何者か」というアイデンティティの確立過程における青年時の一時期、帰属意識をもてるもの(アメリカで言えば国家とキリスト教)に対し忠誠心をもち、そこから湧き上がる「尽くす心(フィデリティ)」の発達と、尽くす心を与えたり受けたりする能力を得ることが、若者の心の健康の条件のひとつであると述べている。

確立の「過程」に留意すべきは言うまでもないだろう。

青年時を過ぎ社会体験を深めてゆくことによって、忠誠心を踏み台にした自律と自由の意義や人間個性への省察が深まり、次の段階のアイデンティティの確立へとステップアップしてゆくのである。

 

翻って日本の事情を顧みれば、敗戦後に「国家に忠誠を誓うこと」「天皇に忠誠を誓うこと」をアメリカによって厳に禁止され、子どもの忠誠心をはぐくむ場を取り上げられてしまった。

そうした日本人をかろうじて救ったのは、現代で悪徳のように言われている「先輩や監督に忠誠を誓う」学校時代の体験や、終身雇用制による「会社等の組織への忠誠」の誓いだったのだと思う。それが日本人のアイデンティティ確立の一助となっていたのは間違いない。名刺に刷り込まれる所属団体(会社等)と肩書、役職が「自分」だった人がマジョリティを形成していたのではなかったか。妻はその夫の社会的地位を自分のアイデンティティに援用していたのではなかったか。

その是非がどうのこうのではない。「自分は何者か」に迷わない、アイデンティティの確立として「役に立っていた」はずだということを言いたい。

今ではその忠誠心を利用して従順にさせようとする管理職や経営者・各団体トップが跋扈している世のなかになってしまった。これほど管理職にとって楽なことはないという手法で。まことに情けない。

さて、これから社会へ飛び立とうとする現代の若者に、入社したての新入社員に、アイデンティティ確立のための「尽くす心」を発達させる環境は一体どこにあるのか。

この点については単に正悪の価値を決めてしまうのではなく、柔軟に考察を深めてゆくことのほうが優れた道だろうと思う。

 

ところで、見返りを求めない尽くす心、献身の美学は、国家や天皇への忠誠心によらずとも日本文化に深く根付いていた。日本という国家に対するナショナリズムは比較的新しく生まれたもので、長きにわたった封建社会における武士の城主(藩主)に対する忠誠心がロールモデルとなって、町人や農民などの一般国民に対しては、忠誠の美学が一途(いちず)の美学と献身の美学となって浸透していったのではないかと、丸山眞男の『忠誠と反逆』を読みつつ、そう私は考えました。

アメリカでは国家とキリスト教に二重の忠誠を誓うことを例として上述しましたが、イギリスでは国王に忠誠を誓います。ドイツにも忠誠宣誓があった。各国での忠誠の誓いは秩序として機能しただけでなく、対外的なプライドとして、また、アイデンティティとして個人が社会に根を張る確かな要因となった。

 

日本では城主(藩主)に忠誠を誓う武士(奉公人)の立場は上下関係の厳しい秩序としてのみ理解されがちではありますが、実際のところ、その「忠誠を誓った自分自身」の生をまっとうするという極めて個人的な美学に貫かれていることは、丸山眞男の『忠誠と反逆』だけでなく倫理学者の相良亨など多くの先学が指摘するところであります。

「忠誠の美学」というテーマは歴史的にも心理的にも奥が深い。とてもとても、一つの記事でまとめ切れるものではありませんでした。帰属意識と切っても切れない関係である忠誠心とそれに伴う美学。そして忘れてならないのは、忠誠心を転倒させた「反逆の美学」もあるのです。考察を今後も続けます。

 

次の記事では本記事の続きとして『アイデンティティ』を予定しています。

 

 

帰属意識(4)ナショナリズム


『HINOMARU』の歌詞が注目を集めている。批判することも擁護することも歌詞内容に同感することも、議論となることについて言えば国民意識は健全というべきだろう。そのほとんどがナショナリズムに直結させての考察であり、これは作詞者のブログを読んでみても同じである。まずはナショナリズムについて考え、次に別の側面からも光を当ててみたい。

例によって批判する立場の日本型リベラル左派の人たちやメディアは「詩の切り取り」を行い問題化する。文章だけでなく言論というのは一部の切り取りではなく、その全体の意図を把握し、全体に対しての見解を述べることが人間における高度知能が試される場面ではあるまいか。

『HINOMARU』の歌詞は以下から始まる。(全文引用は著作権の関係から避けます)

風のたなびくあの旗に 古(いにしえ)よりはためく旗に
意味もなく懐かしくなり こみ上げるこの気持ちはなに

 

曲タイトルの『HINOMARU』のとおり、日の丸(日本の国旗)に対する言葉にならない非合理的な感性と感情の正体は何かという問いから始まる。

他方では両親から始まるルーツの過去への広がりと、その過去の上に立つ自分自身は次のように表現される。

胸に優しき母の声 背中に強き父の教え
受け継がれし歴史を手に 恐れるものがあるだろうか

 

全体を貫いているのは、サッカーワールドカップを意識した、日の丸を背負って戦う選手への応援とサポーターである日本人全員の応援意識を高めようとする、「応援する感情」である。それを主旨として受け取るのが自然ではないだろうか。

重箱の隅をつつくように文言を切り取り、その切り取った文言に引用符を付けるようにして批判する文化は、現代人の知性の劣化を表していると言ったら言い過ぎだろうか。歌詞の一部を切り取り軍歌だとか国粋主義だとかの批判はピント外れであり、左派の右派叩きとしての我田引水ではなかろうか。

そもそもワールドカップにせよオリンピックにせよ、国別対抗のスポーツ競技という色合いが濃い。なかには選手個人に光が当たることもあるけれど。

選手は当然に自分の国を意識する。日の丸の国旗を意識する。

応援する日本国民も、日本チームを応援する人がほとんどだろう。日本チームに負けて欲しいという人も中にはいるだろうけれど極めて少数だと思う。応援する側も、日本の国を意識する。日の丸を意識する。日本という国に長い歴史の中で形成されてきた「流れ」を意識する。その流れの最先端に私たちは今いる。

グローバルでリベラルな考察や思想も大切で、しかし、それはナショナリズム(国家主義的意識)と常に反発するものではない。一個人のなかに、グローバリズムもナショナリズムもインディビデュアリズム(個人主義)もあるのがあたりまえだ。一個人の中に多様性を併存させることは何度も書いてきて、私のこのサイトの主旨の一つでもある。

国別対抗の世界大会では、自分の中のナショナリズムを昂揚させることが自然ではないだろうか。何ゆえに、自分の先祖の歴史の上に自分が立っていること、自分の内面にナショナリズムがあることを認めようとしないのか。日本という国家に対しお蔭さまでという感謝の心があれば、ナショナリズムは自分の中に必ず在るはずである。

 

 

帰属意識(3)愛と協働


ある集団への帰属意識は多様な形で愛情を生みだす。

前の記事では所属する集団の分類と価値について考えました。さまざまな集団が所有する価値に対して私たちは欲求を覚えます。価値に対する欲求をかなえて所属することで、その後に生じる帰属意識の愛と協働行為の素晴らしさと、注意しておくべきデメリットについて考えてみたいと思います。

 


 

■ 帰属意識による愛

1.自己アイデンティティの強化

帰属先は自己アイデンティティの一部になりえる。愛国心や愛社精神、民族愛、宗教愛、あらゆる集団の一員としての帰属意識が高まれば高まるほど、その所属先への愛情は強く深くなる。所属集団への愛は間接的に自己を愛する行為となるが、これは正常な感情であり、基本的にはポジティブに考えるべき心理。

2.連帯意識による互助愛

互いに助け合おうとする土壌が自然にできる。人には愛されたいという受動的欲求だけでなく、愛したいという能動的欲求もあり、協働することで自然に仲間への愛情を培える。生涯を通じた財産としての交友関係や恋愛関係が生まれることが多々ある。

3.ブランド的価値の共有

国や所属する会社、信仰する宗教などのブランド的価値が高まれば高まるほど、自分の価値も高まる。(というふうに無自覚に感じる。快の感情が生まれる。)自分の所属体に競争相手がいれば対抗意識が強くなり帰属愛は深まる。所属体の一員としての矜恃が己れの姿勢を正す。

4.希望を共有し生き甲斐とする帰属愛

所属体の目的や目標を自分自身の価値観へ同化し希望の価値へと昇華させることができる。大きな志に情熱を燃やし皆でやり遂げようと団結する。苦楽をともにし、目的を達成すれば独力のそれよりも大きな達成感を得られる。多くの場合、所属体と自分との目的一致(価値観一致)の帰属愛は、自己の生き甲斐・働き甲斐に通じる。

 


 

以上、ざっと良い面だけにスポットを当てて書いてみましたが、他にもあるかもしれません。
そしてもちろん、所属することによるデメリットもあるので同時に押さえておかねばならない。

 


 

■ 所属によるデメリット

1.帰属意識をもてない所属

利害関係での繋がりが強い場合、互いの利益のために利用し合うだけの関係になりやすい。組織としても個人としても所属による価値は半減する。

2.帰属意識を利用されてしまう所属

政治家が敵対勢力を敢えて作り内部求心力に代えて利用するように、帰属意識やナショナリズムは利用されることが往々にしてある。帰属意識と忠誠心については次の記事でとりあげる。

3.奢りと空疎

自己のアイデンティティを帰属体へ投影させたときに起きる弊害。
依存度が高まると人格が空疎になる、所属体の価値観、理論、思想、教義など借りものの知識によってモノの価値や自分を表現することが多くなる。虎の威を借る狐。張り子の虎。威光を笠に着て特権意識を持つようにもなる。帰属体の後ろ盾がなければただの一個人であるのに修養を怠り、奢り高ぶり、自己評価が高いように勘違いをする。

4.所属体の価値の下落

所属先のブランド的価値や経済的価値が下がったとき、アイデンティティへのモチベーションも下がることが多い。所属体が批判されれば落胆し、怒り、無力感に晒され、やがて帰属意識などどうでもよくなる。自分個人の生活や金銭のため打算的に帰属を続けるか、その所属体から抜けるかという選択になってしまう。

5.連帯感の閉塞感と退化

連帯を強化しようとすれば全体主義に繋がりやすく、表現の自由や行動の自由が制限され大きなストレスとなる。得てして組織内では団結の名のもとに秩序至上主義に陥る人が増え、彼らの意見は強い求心力を発揮するのでたちが悪い。価値観の画一化は、組織も個人も退化へと繋がる。

6.人間関係のストレス

逆に連帯感が弱まり組織の自由度が高くなれば、自由に振舞う人たちによって横の人間関係に軋轢が生じやすく、ストレスは大きくなる。また、絆の裏返しはしがらみとなる。

 


 

所属することで生じる幻滅やストレスは多々あります。組織の価値観が期待外れだったり変容してしまったり、大きなストレスを感じる人が所属体に存在していることなどのデメリットや、所属体のうまく機能しなくなって解散・倒産してしまうリスクもある。

昨今は個人主義で「会社に雇われるのは収入を得るためだけ」というドライな労働的価値観も世間には散見されますが、帰属意識が希薄なのであれば個人として自立し生き甲斐となる仕事をすべきであって、いくら営利目的でも組織体に所属する意味は半減します。

 

しかしデメリットやリスクについて理解を深め、注意を怠らず、一員として所属体の軌道修正にもポジティブに参加してゆくことで、所属による大きなメリットを享受することができる。

 

いま所属している限りは、これから所属する限りは、帰属意識による所属体への愛を強くもって活動することのほうが、組織にとっても自分にとっても、お互いに良い関係となるのは自明です。日本という国家に帰属していることについても同様で、わが国を良くしていきたい、良くすることに自分が何らかの貢献をしたいという愛国心が有った方が、それが無いよりも、充実した人生をおくれると思います。会社にお勤めの方も然りで、何か趣味やスポーツのチームに所属するというのも同様です。

共通の目標を定め、ともに力を合わせて活動をする、オーケストラのように作品を奏でる、目的の価値を創造してゆくという、「協働行為(コラボレーション)」は素晴らしい価値を内蔵している。

 

次の記事では、帰属意識と忠誠心の美学をテーマにし、歴史的意義、欲求への心理、是非について考えてみたいと思います。

 

 

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