前の記事で予告したとおり、西洋哲学の「基礎構造」を明らかにしてゆきます。
その前になぜ構造なのか、構造をどうやって明らかにするのかについて触れます。
哲学には難解な哲学用語がたくさんでてきて、それも哲学者によって語義が異なることもあり、その誤解を避けるために持論構造の説明用に新しい概念の造語を創り出した哲学者も多いです。「私の持論上でこの言葉はこの語義として使いますよ」という哲学者からの親切な説明はありません。
哲学にとって言語で表現されているほとんどは前景でしかありません。このことは二つ前の記事 『仮説ロジック』 の後半に「仮説ロジックの表現」として少し触れました。何を言いたいのかというと、難解な言語の語義・語感に惑わされずに、その背後にある「ロジック構造」全体にフォーカスするということです。乱暴な言い方をすれば言語などどうでもよい。記号として扱えばよい。哲学は文学ではないのだから。
私たち日本人が明治維新以降、先進の西洋文明から輸入した最も重要な舶来品は、物質的なモノではなく、言語の意味や概念の意味でもなく、(学問的および科学的・技術的)「思考の構造」でした。
しかしまだまだ日本人の多くは「思考の構造」に弱い。
前世紀の碩学の一人、国語学者の故大野晋氏は次のように指摘しています。
日本とは何かを考えるうえで、日本人の弱点と思われることを一つ挙げたい。
それは日本人が「体系的な思考」に弱いということである。人間界についても、自然界についても、分析を重ねていって原理・原則を求め、それを全体として観察して構造的に、体系的に把握する力が弱い。(大野晋著『日本人は日本語をどう作り上げてきたか』/新潮選書『日本・日本語・日本人』所収)
短所・弱みはそのまま裏返して長所・強みになるという反論は抑えて、大野氏からの訓諭を真摯に、且つ積極的に、課題として受け止めたい。もちろん、日本人の全てがそうというのではなく、歴史上でいえば、藤原定家、契沖、本居宣長など、体系的、構造的に全体を把握する能力、表現する能力のあった先人もいると氏は述べています。
少し逸れますが、2014年にノーベル生理学・医学賞を受賞した グリッド細胞 の発見は、人間の新たな可能性を示唆しています。グリッド細胞は物理的空間を把握する能力を持ちますが、私は、「意味的世界」を全体的に把握する能力もまた、人間に内在しているのではないかと考えています。何故なら全盲の人にも空間的把握能力があるからです。グリッド細胞の展開力にかんして言えば、むしろ晴眼者よりも優れている可能性が高いと思います。彼らには「意味的世界」の立体地図しかないのです。そこに「視点」は存在しません。
頭脳内に内在している、数千万数億かはわかりませんが膨大な数の、精密なグリッド細胞に意味的世界のロジックを立体的に展開してゆくこと、それはまさに、哲学の構造を明らかにしてゆくことと同義であります。
話を戻します。哲学論の構築を建設に喩えると、subject 概念にかんするロジックは、土を数メートル掘り下げて鉄筋鉄骨を打ちコンクリートで固めた基礎工事にあたります。地表に現れる建築は唯物論であったり独我論であったり、或いは、自由や平等、科学や芸術、民主主義や共産主義といったイデオロギーでもあったりするのですが、肝腎かなめの基礎は subject 概念に集約されるというのが私の見立てです。
その基礎中の基礎がギリシア哲学にあるわけです。
英語の subject は、ドイツ語の Subjekt を英訳したものであり、Subjekt はラテン語の subiectum,substratum,substantia,suppositum,subjectum 等、複数の哲学的語義を統合したものと事典にはあります。ラテン語は古代ローマ帝国の公用語でした。古代ローマ帝国が古代ギリシア文明を継承した際、ギリシア哲学で使用されていたギリシア語 hypokeimenon (ヒュポケイメノン)をラテン語訳し、それが巡り巡って英語の subject になったということになります。その過程で語義の変容はありますが、哲学的構造においては西洋文明の基礎であることに変わりはありません。
まず哲学事典から下記に引用します。
ヒュポケイメノン [ギ] hypokeimenon
アリストテレス哲学の用語。受動の動詞「下に置かれる」(hypokeisthai)の現在分詞中性形で、「下に置かれている(もの・こと)」を意味する。また能動ないし中動の動詞「下に置く」とその分詞形、さらにその名詞形(hypothesis)との連関により、文脈に応じてこれらの語と同じものを意味する。一般に「基体」と訳されるが、これらの多様な連関とその動詞的な性格をよく映しているとは言い難い。
(略)「ヒュポケイメノン〔の「何であるか」〕について述べられる」と「ヒュポケイメノンのうちにある」という、〈本質述定〉と〈内属性〉の二規定を通じて展開されるが、とくに「任意のある人」「任意のある馬」という形で表現される〈かけ替えのある〉個体としての第一実体が他のすべての存在のヒュポケイメノンであると主張されるところから、ヒュポケイメノンとは次のようなものとして理解されることになる。
つまり、われわれが言葉によってなにごとかを語り、明からしめるとき、その言葉の発語に先立って、そのなにごとかとは別のあるものがすでに何らかの仕方で措定され、了解されている、と。これより、ヒュポケイメノンは「先言措定」と訳されよう。
(岩波書店版『岩波哲学思想事典』)
hypokeimenon とその訳語 subiectum は、古代から近代初頭までは一貫して「基体」と「主語」を意味していた。そこにはカント以降の「主観」という意味はまったくふくまれておらず、むしろ「基体」という意味での subiectum は心の外にそれ自体で自存するものである。
(同書)
同事典では subject と object(和訳は客体・客観)を併せて解説を試みている部分も見受けられますが、ギリシア哲学の時点では、hypokeimenon を「下に置かれたもの」、object 概念の根源である antikeimenon (ラテン語 obiectum)は「向こう側に置かれたもの」とし、現在の主体と客体(主観と客観)のような対立関係は全くありません。
「基体」も哲学用語です。goo国語辞書によれば「物の性質・状態・変化の基礎をなしていると考えられるもの」。Googleによれば「種々の作用・性質の基礎にあってそれらを支持する実体。また、主体の精神活動の基礎にひそみ、客観的存在の根源をなす実在。」。
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- 下に置かれたもの
- 物の性質等の基礎となっているもの
- 主語
- 心の外に自存するもの
- 動詞的な性格
- 先言措定
以上の6つがキーワードになっています。「先言措定」は難しい概念です。
アリストテレスは、ヒュポケイメノンは述語にはなり得ないと言い切っているのですが、それと「動詞的な性格」はどう整合させたら良いのだろう。「動詞的な性格」と「先言措定」を外した4つのキーワードからならば、全体ロジック構造における、ヒュポケイメノンの位置や役割などのイメージをつくれそうです。
上記事典の二つ目の解説文は「主観」項目のなかにあり、故木田元氏によって書かれています。一つ目の解説文は今後の課題(アリストテレス研究課題)として、今回は参考にとどめておきたいと思います。
ところで、現代では subject を「人間の主観」として哲学ロジックに使用することが多いなか、その淵源たるヒュポケイメノンの語義には人間の影がとても薄いのはなぜか。それは、アリストテレスが、「実体のロジック」を構築していたなかから創造制作した概念であるからだと思います。実体のロジックを構築しようとすれば、人間よりも考察固定し易い物質から入ることは当然だからです。
この「基体」概念は、アリストテレスを出発点とした存在論の基軸となり、普遍学、実在論、唯物論、現代科学全ての基礎となりました。
そして現代では、「人間その一個人の基体とは何か」について、従来からある霊魂や神の創造物といった形而上学的な思考停止ではなく、アリストテレスのような哲学的思考のロジックによって明らかにされるべきテーマになっているのではないでしょうか。