規範と自由


私たちは大量生産された衣服を買って身にまとう。どのような衣服が良いかの選択基準を、私たちはどう決めているのだろう。情報の洪水の中、機能性やデザイン、価格、ブランド、それら外部の価値観が自分のなかに取り込まれ、無自覚に物語化された選択基準が密かに生じている。

そうして「既製品」の衣服を身に着ける。

この原理は、私たちの「生きかた」にも、ほぼ同じように働いている。

 

現代の多くの人は自ら、「どう生きるべきか」をゼロから構築する能力を持たない。というよりも、時間・エネルギー・知能・精神的強靭さが要求されすぎる。既存の宗教教義や既に市民権を得ている道義は、「生き方の地図」としてすでに完成されているため、安心や帰属を提供してくれる。人にとっては迷わないこと自体に大きな価値がある。

しかし、既存の教義や道義に従うだけでは自己の独自性が失われ、他者の作った枠組みに従属することになる。それは主体的な生の創造という観点からは不自由な生き方である。思考停止は自己の可能性を閉ざす。

もし人が迷いを恐れる存在ならば、自ら生きかたを編んでいく者は、迷いそのものを生の糧に変える存在だとも言えるのではないか?

 

宗教や武士道のような規範は、たとえるなら「大量生産の服」であり、誰が着ても一定の形に整えてくれる。だからこそ、社会的秩序や連帯が保たれる。規範に従うことで他者との共通言語が生まれ、安心して他者と関係を築ける。

ただし、それは「自分の体に合わない服」を無理に着ることにもなる。結果として、本当の自己と他者に見せる自己が乖離し、内面的には「窮屈さ」や「偽り」を抱える。

秩序と安心を得るために「窮屈さ」を引き受けることは、合理的な取引なのか?それとも人間個性を失うことの表れなのか?

 

ニーチェが「自分の価値を創造せよ」と言ったのは、まさにこの「既製品の服を着るな」という批判と同じ構造だ。しかし彼自身は「超人」の実践者になれなかった。つまり、思想としては到達しても、生存戦略としては極めて過酷すぎた。

だが、「実践できなかったから無価値」とは限らない。むしろ、実践の困難さを自覚した上でなお思想を提示した点に、哲学としての力がある。

実践できない思想は虚構なのか?
それとも、人間を挑発し続けることで次世代に火をつける「挑戦の種」なのか?

 

根底には「死の意識」と「不安」がある。動物は本能的に生きるが、人間は自分の生が有限だと知るため、「正しい生き方」という問いが必然的に生まれる。既製の宗教や道義はこの不安に即答を与えてくれる。

しかし不安から逃れるために規範を選ぶのだとすれば、それは「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム的な構造)であり、主体性を放棄した選択になる。

「安心を得るために規範に依存する生きかた」と「孤独に耐えながら自分で美学を築く生きかた」、どちらが良いのかという相対的価値判断は可能なのか?
そうして優劣のレッテルを貼ることに、どのような意義があるのだろう?

 

規範を原理的に採用すると選択肢は狭まり、精神的エネルギーの消費は抑えられる。その結果、内的な「迷い」や葛藤(=心理的エントロピー)は小さくなる。一方、自ら美学を築く道は試行錯誤を伴い短期的に不安が増すが、長期的には独自性と成熟をもたらす。

習慣的な内省、失敗と反省、実践(=インプット・アウトプット・休息の循環)を繰り返すことで「不確実さに耐える能力」は成長する。

低いエントロピーの状態はストレスが小さい。共同体規範(宗教、武士道など)は強い連帯感と行動的一貫性を生み、その教義や道義に従っていれば良い。しかし個人の創造性や批判精神は強く抑えこまれ、規範の牢獄に自由な精神が閉じこめられる。

 

では次に、自由な精神であることへの批判を始めよう。

 

自由を賛美する言説は多い。だが、自由が常に善であるとは限らない。まず単純な批判から入ると、「自由の誤用」がある。自由を放擲すると、それは自己中心性、無責任、さらには他者への無関心へと容易に転じる。規範を放棄した結果としての無為や怠惰は、個人の尊厳を守るどころか、むしろ他者の尊厳を侵害することすらあり得る。

次に、「高潔さの独善化」である。自由を理念的に掲げる者は、しばしば自らの生きかたを倫理的優位のしるしとして振る舞う誘惑に囚われる。自作の美学は真摯な自己表現であり得るが、それが他者の選択を「未熟」「怠惰」「偽り」と軽んじる口実になれば、自由は排他性へと変質する。つまり、自己の自由が他者への不寛容を隠す覆いになる危険がある。

さらに実際的な問題として、「成果責任」の所在があいまいになる点がある。規範に従うことで生じる不自由は確かに窮屈だが、一方で社会的保障や相互扶助という形で安全網も提供する。完全に「自由な我流」を貫徹した者が失敗したとき、誰がその困難のケアを担うのか。自由は美徳であるだけでなく、責任と補償を伴う制度を必要とするのだ。

最後に、自由を放擲することの文化的・歴史的影響を指摘したい。

個々がすべて自作の価値を貫く社会では、共通の言語や慣習が失われ、公共的合意の基盤が脆弱になる。合意形成のコストが跳ね上がれば、共同体は分断され、協調行為が困難になる。その結果、生産的な公共性や長期的な政策継続が損なわれるリスクがある。

しかし、ここで重要なのは「批判=否定」ではない。
自由の問題点を指摘するのは、自由を放棄させることが目的ではなく、自由を成熟させるためだ。つまり、自由は責任と節度、そして共感と結びつくときに真価を発揮する。

自由を育てるとは、単に“好き勝手をする”ことではなく、他者の存在を前提にしながら自己の美学を磨くことである。
これができたとき、自由は自己の栄養であると同時に、社会の維持にも寄与する成熟した力となるのかもしれない。

 

 

 

 

 

Spread the love
TOP
Copyright © 2017-2025 永遠の未完成を奏でる 天籟の風 All Rights Reserved.