帰属意識(2)帰属欲求の生成


生物の行動原理として人は、「価値」を付け「欲求」する。あるいは自然欲求(生理的欲求)を生得的に所有している。次の段階では対象の価値を探す。または価値を偶然に認識して欲求する。価値と欲求は切っても切れない関係にあり、「生の営み」のすべては価値と欲求によって説明できる。

ナショナリズムや所属にかんしても、人それぞれに異なる範囲と異なる種類の価値付けを行っており、その欲求の度合いや関わりかたの源泉はすべて「個人」の心理にある。一個人の心理も時と共に変化しており千差万別だ。しかし我々は所属する際に、その所属先の仲間と「同じ価値」付けをし共感できていると考える。同じ価値にあたるのが客観であり、主観と客観を結び付ける概念を「間主観」と哲学者フッサールは名づけた。帰属意識の間主観のことを「共属感覚」といい、帰属客観のことを「共属意識」という。この点を押さえつつ、所属の欲求について考察する。

 


 

■ 所属先の分類

1.国家

地図上に国境という線を引いた領土。所属するためには国籍を置く。政治的共同体でもある。統治のために法秩序を一にする。

2.物理的境界のある共同体

都道府県や市町村などの地方共同体。町内会。国家とは別の法秩序、または習俗的規範を暗黙的了解によって共通ルールとすることが多い。他方、地球を星の境界と考えた場合のグローバリズム(地球主義)も地球人としての所属先となり得る。

3.郷土

生まれ育った土地。自生的所属。特にパトリオティズムとしての郷土愛や愛国心的な帰属意識の対象となる。小さなところでは出身小学校の校区とその周辺。山や海、川など自然環境や街の風景、子どもの頃に直感した人間味などが想起されることも多い。郷土を離れて他国で生活する人にとっては祖国として対象になる。

4.民族

基本的には血縁と地縁を軸とする。同一の言語や文化・習俗に連帯意識をもつ。世界中に散らばっている民族もある。「族」の最小単位は家族。特に伝統文化的に帰属し政治的国家の枠組みに反発する集団意識(主にマイノリティ)のことをエスニシティと呼ぶことがある。関連する言葉にエスニック料理がある。

5.イデオロギー

共産主義、社会主義、自由主義などの「観念」を社会原理として、自分が積極的に認め或いは推進したいとする立場。帰属する団体。左翼、右翼などの意識的および無意識的帰属も含む。イデオロギーじたいには思想や理念(イデー)が根底にある。観念学のことをイデオロジーと呼ぶ。

6.宗教

教徒、信徒として、その宗派団体(寺社・教会)に所属する。または団体的なものには所属せず、概念上で教義そのものに対して帰属意識をもつ。

7.利益目的の共同体

利益や給与を得るための会社や団体。ドイツの社会学者テンニュスはゲゼルシャフト(機能体組織/利益を上げるための人工的な組織)と名づけた。彼の分類では、この項目以外はゲマインシャフト(共同体組織)になる。

8.非営利目的の団体やチーム

学問や趣味、スポーツにおける団体やチームに所属すること。保育園幼稚園から始まり小中高大の各学校、学校内の部活動や同好会。趣味の例で言えば茶道や華道などの流派。ボランティア団体。応援するチーム(例えばプロ野球球団)のサポーターになること。

 


 

冒頭に書いたように、私たちは所属したいという欲求によって所属する。そしてそれぞれの所属先に対して帰属意識をもちます。

所属したいという欲求をもつには、その所属先に対する価値をみずからが認識している。あるいは価値の可能性に期待をしている。後者は「何か価値あるいいことがあるかもしれないな」というぼんやりとした直感です。

国家と民族が一致する場合、国家と郷土が一致する場合が日本人には多いと思います。ですので日本人はわりとナショナリズムにかんしての共有価値をもてる。ところが、多民族国家や民族が世界に離散しているユダヤ人、移民によって国家文化が徐々に崩壊していくイギリスやドイツ、フランスのケース、イスラム教徒のように線引きされた国家という概念がもともとなかった人たち、逆に宗教国家もあります。世界を眺めれば日本という国がいかに特殊なのかが再認識される。

宗教の場合、自分が生まれる前から「価値」が両親のもとにあって、価値に基づいて育てられることが多々あります。宗教を道徳的原体験として植えつけられれば、その基準に沿って共属意識に安心を確信しながら生涯を送ることも多いでしょう。

職業としての所属では、所得(お金)が価値として大きい部分を占める。

分類をしたことによって所属する価値が見えやすくなりましたのでまとめます。

 


 

■ 所属する価値

1.自己アイデンティティの一部

国籍、民族、故郷、学歴、経歴、信仰宗教、既存思想、所属会社、所属団体(チーム)などを、自分のアイデンティティの拠りどころにできる。アイデンティティについては別記事でやります。また、自分の名刺代わりに(或いは名刺に刷り込み)、他者に対し「自分はこんな人間です」としてアピールできる。

2.精神的支柱

集団の一員であることで安心感を得られる。所属組織(例えば国家)または所属先の成員に守ってもらえる。皆と一緒に喜ぶことで幸福感は増大し、皆と一緒に悲しむことで(または皆が自分の悲しみに共感してくれることで)苦悩は軽減されるなど。所属先の権威やブランドを自己投影でき他へ利用することもできる。

3.生きかたの原理

生きてゆく道の指針にできる。イデオロギーや宗教教義によって、世界や人間、自分という存在についての解釈と、どのように生きれば良いかという原理を、共属意識の中で仲間と一緒に「その道」を歩むことができる。

4.経済的利益

所得を得ること。

5.内容学習と鍛錬

学校や趣味のグループ、スポーツチームなどでは特に、学問の研鑽、技術の習熟、精神的鍛練など。

6.帰属意識によるモチベーション

所属先への帰属意識によって生じる、所属先への愛着。誇り。所属先の名声名誉を高めることで、成員としての自分の価値が高まる(ように感じる)。そのため、所属先の価値を高めるために貢献しようとし、大きなモチベーション要因となる。生きてゆく意義、生き甲斐になる。次の記事で詳述します。

 


 

上記は今考えつく限りではありますが、これらの価値に対して所属欲求が起きます。

名もない根無し草よりも、確固とした所属先の名前があったほうが社会的に有利です。また自分が何者であるかについて迷宮に入り疑心暗鬼に陥ることも無いでしょう。アイデンティティを確立しやすくなる。

新しい価値を自分で創出するよりは、社会一般に広く普及している価値に右へならえしたほうが楽であることに間違いはありません。長い年月の批判に耐えてきた社会的な器の価値には風格さえあります。

所属することによって受ける恩恵は大きいです。しかしストレスやリスクなどのデメリットも当然ある。物理的金銭的なことのみならず精神的なことや人間関係的なことも含めて、総合的に価値判断を行って所属するかどうかを決断し、所属を継続するかどうかを、人は随時判断しています。無意識的にも。

 

価値観は十人十色で一個人の心理状態も時々刻々と千変万化しますので、どの価値に魅力を感じ、どこに所属し、どのように所属価値を生かすか、所属先のどのような面に嫌気がさすかなどについては差が大きいかと思います。

そのなかで一つ主張したいことがあります。次の記事以降で予定している「帰属意識による愛と協働」「帰属意識と忠誠心による美学」で詳述しますが、前の記事で触れた「不安定・不確実性の時代」だからこそ、個人の精神的支柱とするために、「良き所属」をお勧めしたい。それも一つではなく二つ三つ複数あった方がいい。

私個人としては所属することを好まず、何十年もほぼ「日本国籍」という帰属意識だけで生きておりますし、新しい自己価値を創造することに生き甲斐を感じる者です。不安定や不確実性、変動性、混沌は気にならないどころか、望むところでもある例外的な人(苦笑)です。自他認識での非共感(自分が嫌なことを他者が好むことが多い)は織り込み済みですので、自分の無所属的な生き方を他人に「良い」とお勧めすることは致しません。逆にこうして「良き所属」をお勧めする次第です。

 

 

 

帰属意識(1)序


この3~4年、仕事関連で VUCA (ブーカ)という経済用語が使われるようになりました。もともとは軍事用語でアルカイーダのことを主に指してアメリカ軍関係者が使い始めたとのこと。「VUCAの時代に入った」のは軍事だけでなく経済もそうで、インターネットを利用したIT事業を中心に大変革が起こった。Vucaとは、Volatility(不安定・変動)、Uncertainty(不確実)、Complexity(複雑)、Ambiguity(曖昧)の頭文字から成り立っています。

未来を予測できず不透明な時代というわけです。

インターネットによって世界の情報が結びつきました。Facebook等のSNSがグローバリゼーションに拍車をかけた。仕事のスタイルも変わり、会社のスタイルも変わりつつあり、人とお金、モノ、情報、そして「価値」が世界規模で流動的になっています。何もかもが不安定な状況で未来の予測が立たない中では、これから子どもを産んで育てていこうとする世代は特に、将来不安をずっと抱えたままの人生になる。

安定した足場の無い時代なのです。

自分の勤めている会社がいつM&Aに合うか解らないし好調が持続する保証もない。むしろ会社の寿命は大幅に縮んだと思います。真面目に勤務していても四十代でリストラに合うかもしれないし会社が倒産する可能性も十分にある。

これは相当に精神的負担が大きい状態ではないか。心を病む人が増えて当然のように思えます。

そうした状態ですので、みな無意識のうちに安定した足場となる何かを探している。インターネット上のSNSによりどころを求めたり、できるだけ安全な集団に所属して支え合いたいという欲求が生じてくるのは必然です。

 

ナショナリズムもその一つで、日本の国の一員であることに、まずは安心と安全を感じたい。できれば「日本」に誇りをもちたい。「日本って凄い!」という内容の記事や書籍がよく読まれているとのことですが、これはメディアの販売戦略で、ターゲットとなっているのは多数の現代日本人の抑圧された心理です。ささやかな慰めですが、それでも有った方がいい。

確かなものとしての依存先は、宗教、会社や官公庁行政機関または何らかの職業的団体、「〇〇の会」などへの帰属意識、あるいはイデオロギー集団(左翼だとかネトウヨだとか)にでも所属している気分を味わえることで、少しは「独りぼっちじゃない」という安心感を得られる。本来は日本の場合、三世代家族を中心とした「家」に対する帰属意識が精神安定材料だったのですが、核家族化によって「家」は壊滅状態です。

 

世界的にナショナリズムへの意識が高まっているのは、もちろんポリティカルコレクトネス運動に対する反発もありますが、「超、超、不安定な時代」だから確かなる足場への欲求もあるのではないかと、私はそう考えているということです。

そこでナショナリズムについて書こうとしていたのですが、ナショナリズムの定義が多義的でどうもすっきりと書けません。国家と民族、郷土意識、この3つをナショナリズムとしてひとくくりにしたくはない。それぞれ意識が違います。なのでナショナリズムというタイトルでの考察は断念します。別の観点から光を当て、分類から始めようと思う。

 

 

新しい哲学と美学を創造する思索のアトリエ


サイトのサブタイトルを変更しました。「五千年後を遠望し 新しい哲学と美学を創造する思索のアトリエ」としました。自分の意識の中での位置づけも少し変わりました。

最近、竹田青嗣の哲学者としての集大成『欲望論』を読み始めています。正確には昨年末に一度挫折しての、再チャレンジです。昨年10月に刊行された第一巻と第二巻はそれぞれ『「意味」の原理論』『「価値」の原理論』と銘打たれています。第三巻は準備中だそうです。一冊700ページにも及ぶ大著であり、哲学学究的に先哲の思想や哲学用語なども含まれているため、一般の人には難解かと思われます。かくいう私も昨年は数時間で放り出しました。五か月後のいま再チャレンジしたところ少し理解できるように自分が進化していて、次第に夢中になって読みふけっております。

サブタイトルの変更はこの書が刺激となっていることもある。

 

ところで今後のコラムテーマの予定ですが、近いところでは、「ナショナリズム」「所属の欲求」「アイデンティティー」「自我」「主観・間主観・客観」等についての論考を予定しています。というよりも、自分に対して何を書くかの整理をいま書いているわけですね。

アメリカのトランプ現象とイギリスのブレグジット、フランスのカトリーヌ・ドヌーヴら100人のMeToo運動に対する反対運動、これらはすべて、メディア主導によるポリティカルコレクトネス運動に対する反発だと考えています。もっともこれは、私だけの認識ではなく、知名度の高い有識者のなかにも同様の見解が散見されますので目新しいものではありません。

こうした反発をもとに、世界中で「ナショナリズム」への揺り戻しが起こっており日本も例外ではありません。「保守(コンサバティヴ)」への回帰が本格化するのかどうかわかりませんが、リベラル(日本のリベラルではない)とコンサバが両極的に偏れば社会は分断されます。感情論が渦巻くようになる。

どうしたら良いかを表面的対処的に考えるのではなく、まず、ナショナリズムの心理的な原理はなにかを考察してみようと思っています。そこには所属の欲求がついて回る。マズローの心理学から所属欲求について考察したい。おそらくここでは、自分のアイデンティティーを、所属する集団概念に置換していることが明らかになりそうです。アイデンティティーを心理学に持ち込んだエリクソンの論を見直してみたい。

アイデンティティーとは自我の確立ともいえる。自我とはいったい何なのかについて西洋と東洋のそれを比較し、自我についての哲学的見解、心理学的見解を併せて参考にしつつ考えを深めたい。自我は主観だけの問題なのか、客観世界とどのようにかかわりをもつのか、これについては「間主観性」という概念の生みの親であるフッサールの現象学にあたってみます。超越論的自我論とも言われている彼の哲学は、ちょうど、冒頭に書いた竹田青嗣『欲望論』の下敷きとなっています。竹田はフッサール現象学とニーチェの力への意志を主軸に同書を著したと自ら述べています。

 

さて、私のサイトのサブタイトル(副題)を変えたことについてです。

竹田青嗣にしてもフッサールにしても、或いはほとんどの哲学者と呼ばれる人たちは、存在とは何か、認識とは何か、自分とは何かというふうに原理解明や自己究明への指向性によって、哲学学究的に、世界を解明しようとする、人間の認識システムを解明する、或いは自分自身を究明する方向で考察しているわけです。

私はそちらの方向性ではなく、新しい価値を、つまり現代における「経済」だとか「科学」だとか「名誉」「権力」「福祉」「愛」などの価値に代わる価値を、創造していこうとするものです。ニーチェの「力への意志」は解明究明型テーマでしたが、「永遠回帰」は創造型のテーマだと私は考えています(未だ誰も正当に解釈できていないとも思っています。私も含め。)。ニーチェ自身は新しい価値創造のほうを高く評価しています。趣味の問題かもわかりませんが、私は、こちらへ向かおうとするほうが自分の性に合っています。

ほぼすべての哲学者は哲学界内だけに拘って解明究明の理論を目指します。しかし私は哲学だけに拘らず、分析心理学や医学、日本思想などをリベラルアーツ的に幅広く活用し、新しい価値を創造していきたい。これは、言わば、思想の芸術的創作ではないかと考えました。それがサブタイトルの変更に繋がりました。

私は、自分の性格が職人気質的だとようやく気付きました。サイト制作でも1ミリ、1pixel のズレが絶対に許せないほどの完璧主義の一面がある。とことんのめりこみ、他者評価よりも自分が納得できる作品を創作し自己満足するタイプなので、思想の芸術的創作を職人的にやっていきたい。人生最後にして最大の事業と自分では位置付けています。生ある限り。

 

最後に、ニーチェの言葉を引用します。

 

彼らは、創造する者を最も憎む。石板を割り、古い諸価値を打ち砕く者、破壊者を、彼らは――破戒者と呼ぶ。

それというのも、善人たちは――創造できないからなのだ。彼らは常に、終末の始まりなのだ。――

彼らは、新しい石板に新しい価値を書く者を十字架につける。彼らは、わが身を救うために、未来を犠牲にする。――人間の未来すべてを十字架につける!

 

それゆえに、おおわが兄弟たちよ、”新しい貴族”が必要なのだ。すべての賤民とすべての暴君を敵に回し、新しい石板に新しく「高貴」の文字を刻む”貴族”が。

”貴族が成立するためには”、多数の、そしてさまざまな高貴な人たちが必要だ。あるいは、わたしがかつて比喩で語ったように、「神々はあっても、ひとりの神など存在しない。それがまさしく、神というものだ!」

 

おお、わが兄弟たちよ、わたしは君たちを選んで新しい貴族に任じよう。君たちは未来を生み出し育てる人、未来の種蒔き人であって欲しい。――

 

おお、わが兄弟たちよ、君たちの新しい貴族は、後ろを振り返るのではなく、”前方を”見やるのでなければならない!君たちは、すべての父と父祖の国から追放された身であらねばならない!

おのれの”子供たちの国”をこそ、君たちは愛せねばならない。この愛をもって、君たち新しい貴族の徴とせよ。――遠い遠い海に浮かぶ、いまだ発見されざる国! ひたすらにその国を求めて走れ!と、わたしは君たちの補選に命じる。

君たちは、君たちの子供によって、”償い”をせねばならない。君たちが君たちの父祖の子供であることの。”そうすることで”一切の過去を救済しなければならない! この新しい石板を、わたしは君たちの頭上に掲げる!

(白水社版 ニーチェ全集 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』第三部「古い石板と新しい石板」11・12・26より一部引用、順不同)

 

私の場合は”貴族”などと呼べるような者ではありません。新しく創造する価値を石板に刻んでいこうとする「職人」です。上記における「遠い、遠い海に浮かぶ子供たちの国」が五千年後です。創作する作品は美学価値です。このサイトは芸術的に思想を創作するアトリエ、工房という位置づけとしました。

リアルにおいてもできるだけ早く「思想工房」をつくりたい。

そして高貴なる志をもつ有志を募っていきたい。

 

私にはそれほど多くの時間は残されていない。

 

 

リベラル・アーツの構築


今回はリベラル・アーツのお勧め記事になります。どういう人へのお勧めかというと、これから何をしたら良いのか目標が定まっていない人、テーマはぼんやりと決まっているんだけど戦略が整わない人、ひらめきでクリエイティブな仕事をしてみたい人(営利的な仕事に限りません)、他にも応用が利くと思います。特に直観を大事にしている、目の前のリアルよりも可能性を求めるタイプの人に相性が良い自己実現型戦略論です。

リベラル・アーツの淵源は古代ギリシャにあります。主に文系の3学と数学系の4科を合わせたリベラル(自由な)アーツ(思考技術)を磨くための分類分けで、自由7科とも言います。

ソクラテスやプラトンが活躍したギリシャ時代では、PHILOSOPHY(知を愛すること)が最も重要視されていました。和訳では哲学ですが、現在の哲学とは全く違っていて、学問をトータル的にフィロソフィーと呼んでいた時代です。

西洋の中世から近世にかけ哲学の領域がどんどん狭められて、現代では「主に先人の哲学を研究する専門分野の学問」のことを日本の大学では哲学と呼んでいます。本来は、好奇心いっぱいで「疑問に思って、問うて、考えること」が哲学です。ゆえにPHILOSOPHYのために、上図の7科を横断して学ぶスタイルがとられていたというわけです。(ソクラテスは修辞学に反対でしたが)

 

ダイヤモンド社 山口周著 『知的戦闘力を高める 独学の技法』を参考にリベラルアーツを考えてみましょう。

表紙をめくると黒いページにいきなり白抜き文字の言葉が目に飛び込んできます。

思うに私は、価値のあるものはすべて独学で学んだ

(チャールズ・ダーウィン)

 

コンサルタントの著者は、これからの時代は専門バカでは駄目だと言い、リベラル・アーツの重要性を解説していくのですが、とにかく解りやすい。ロジックも解りやすく、最初から最後までの筋立てが非常に解りやすく、テキストの大きさもメリハリがあって楽に読めてしまいます。「覚えたことをどんどん忘れていい(忘れるべき)」とも言っています。基本はビジネス論なのですが、ビジネス以外の「仕事」でも、趣味やスポーツにでも応用が利くと思います。

著者は独学を四つのモジュールのシステムとして組み立てます。

1「戦略」→2「インプット」→3「抽象化・構造化」→4「ストック」

各章のサブタイトルは次のようになっています。

序章 知的生産を最大化する独学のメカニズム
第一章 限られた時間で自分の価値を高める「戦略」
第二章 ゴミを食べずにアウトプットを極大化する「インプット」
第三章 本質を掴み生きた知恵に変換する「抽象化・構造化」
第四章 知的ストックの貯蔵法・活用法「ストック」

最後の第五章では、リベラルアーツを学ぶ意義として次の5点を主張しています。

1.イノベーションを起こす武器となる
2.キャリアを守る武器となる
3.コミュニケーションの武器となる
4.領域横断の武器となる
5.世界を変える武器となる

古代ギリシャの自由七科にあたる著者お勧めのジャンルは11種類。

歴史・経済学・哲学・経営学・心理学・音楽・脳科学・文学・詩・宗教・自然科学

このうちまずは、自分のテーマに応じた2種類を学んでクロスオーバーさせる。ここでのポイントは次のように書かれています。

掛け合わせるジャンルについては、「自分の持っている本性や興味」を主軸に選ぶべきで、他人が「持っているもの」で、自分が「欲しいもの」を主軸にしてはいけない。

 

ただ、全部が全部、著者の主張どおりにする必要はなく、例えば第四章には本をノート換わりにしてどんどんアンダーラインを引いたり言葉を書き込んで付箋を貼っていくことを強く求めていますが、私はそうしません。

或いは、上記ジャンルで99冊の書籍が紹介されていますが、私としては特に哲学や心理学で著者とは全く別の本を紹介するだろうなあと思いました。99冊のうち興味を惹かれたのは7~8冊でした。あくまで参考ですね。

私には6割か7割くらいの共感がちょうどいい。8割以上共感だと残りの2割以下に強い拒否反応を示すことになりますし、5割以下の共感ではストレスを抱えることになります。私はこれを友人等を選ぶときの基準にもしています。

テーマとジャンルを暫定的に決めて、リベラル・アーツのシステムを構築します。けっこう楽しい作業です。

 

ギリシャ時代と上記の本の、リベラル・アーツの考え方を基に自分でオリジナル構築したのが、前の記事『小さな志ですが。』に掲載した下のイラスト図です。

自分独自の変形リベラル・アーツです。「こころの美学を創造すること」がテーマになっていて、(大西克禮の)美学、医学系の科学、認識論と自由論系の哲学、日本思想、意識と無意識を解明する分析心理学の5つのジャンルをクロスオーバーさせる形です。日本思想の中には文学や歴史、倫理学、老荘思想なども関連付けていますし、哲学では個人主義や共同体主義等のイデオロギーを関連付けています。おそらく更に広がっていくでしょう。

私はそれほど広範囲に多くの著者の本を読みません。例えば哲学ならばニーチェとカントだけを深く掘り下げます。もちろんロールズの『正義論』やJSミルの『自由論』なども読みますがこれらは浅くて良いと思ってます。分析心理学ではユングだけを深く、ですね。

なぜヘーゲルやハイデッガーや、心理学でいえばフロイトを読まないかと言えば、独りで充分だからです。例えばニーチェを読めば、ニーチェによってギリシャ古典文献学はすべてフォローされていますし、カントやデカルトなど、19世紀半ば以前に活躍した哲学者の叡智をニーチェという天才が所有しているわけです。ユングについても同様のことが言えます。自分と相性の合う先賢を小人数で良いので深く何冊も読んで、「ニーチェならこう言うだろうな」というところまで一体化したほうがいい。『西洋流と日本流、真逆とも言える無意識への道』の記事で触れた内田樹さんが、レヴィナスだけを深く読みこんで「レヴィナスなら内田樹だ」と言われるほどまでになったと同じところを目指したい。

ニーチェにしてもユングにしても、大西克禮にしても、私とは比較にならないほどの、否、比較することが失礼なほどの天才・秀才なのですから、彼らのエッセンスを凝縮してその叡智を自分の血肉にできるのなら、ニーチェひとりの3割でも凄いことになります。

あなたも自分独自のリベラル・アーツのスタイルをつくってみてはいかがでしょうか。

 

 

小さな志ですが。


もやがかかっていた自分のこれからの人生テーマが、一冊の本と出合ったことによって一気に視界が開け、形に成りはじめてきましたのでイラスト化して整理しました。

新しい、心の美学という石板を建設したい。小さな志ですが、こつこつと進めていこうと思います。

21世紀まで進んだ私たち人間の生の営みのなかでは、富と権力、名誉、そして科学の発展、その結果による成功が幸福に結びつくという価値観念が、多数の人の無意識の中に根付いていると思います。この価値観のパラダイム変革を提唱していきたい。

富を求めて結果として成功することを否定しません。権力を求めるのもいいでしょう。けれど今よりもちょっとそちらの価値は下げてもらいたい。新しい、心の美学が第一等の価値になることによって、一生涯のプロセスの充実が図れるように、個人の内発的な価値観変革を提唱していきたい。

 

こころの美学の建設構想ですが、価値マップを作ってみました。暫定的な叩き台があったほうが自分にとって解りやすいと思ったので。

ベースは分析心理学です。すべてに分析心理学を結び付けていきます。今よりももっと深く、無意識についての考察を行っていくつもりです。

美学の土台とするのは、大きく分けて西洋哲学と日本思想です。身体はこころに大きく影響を与えると考えますので、医学系(内分泌系・自律神経系・脳科学・エピジェネティック遺伝学など)の最新科学の知識も借りなくてはいけません。分析心理学、哲学、日本思想、科学をクロスオーバーさせて美学の石板を造ろうとする構想です。

独学でがんばります。

営利的な仕事は別でがんばります。認知症にならない限り生涯現役です。

新しい、こころの美学という価値の建設は、当然、私の能力をはるかに超えた遠大なテーマではあります。けれど千里の道も一歩から、世界の小さな片隅を一つの志で照らしていくことで充分だと考えています。10年や20年でできる事業ではありませんので、500年、1000年と、きっと誰かがバトンを受け取って繋いでいってくれると信じて。

皆さんもそれぞれに、人生にテーマと希望をもってがんばってくださいね!

きっといいことあるよ!

 

 

幽玄


前の記事で、美しい心こそが人類にとって第一等の価値となるべきと書いた。何をもって美しいとするのか、なぜそれを美しいと思うのか、どんなふうに美しいのか、それは普遍的なのか個人的なのかなどについて考え、そのメカニズムをつまびらかにしていくことが今後の第一の課題です。その次に価値構造の建設、創造がある。

今は、日本の美学を掘り下げながら心理学と照らし合わせていこうと思います。

 

■ 大西克禮の『幽玄論』

ここでは幽玄の「研究」をしようとするものではありません。幽玄を感受する心とはどんなふうなのか、どうやって感受する心ができあがってきたのか、心理面が主たるテーマです。従として、幽玄とは何かになる。

大西克禮によれば、幽玄を、「知的意味契機」「感情的意味契機」「価値美学」の三つの観点から考察することが必要であるという。

以下に引用しますが、少々晦渋な文章です。しかし時間を置いて繰り返し数回読むと、かえって分析が明快であることが判り、幽玄にかんする理解が深まるかと思います。まずは前者二つの「契機」の分析から入ります。

 

第一に、「幽玄」と云う概念は一般的に解釈しても、何等の形で隠され又は蔽(おお)われていると云うこと、即ち露わではなく、明白ではなく、何等か内に籠(こ)もったところのあると云うことを、その意味の重要な一契機として含むことは、その字義から推しても疑を容れない。(略)

第二に当然一種の仄暗(ほのぐら)さ、朦朧(もうろう)さ、薄明(はくめい)と云う意味が出て来る。(略)、余り明白に理をつめない大様さ、上品さの意味が生ずる。

第三に同じくそれ等と極めて緊密に聯関(れんかん)する意味契機として、一般に「幽玄」の概念の中には、仄暗く隠れたるものに伴う静寂と云う意味も含まれるであろう。(略)

第四の意味は深遠と云うことである。これも勿論前に述べた意味と聯関するが、しかし一般的の幽玄概念に於いても、この意味の契機は単に時間的空間的の距離に関するものではなく、特殊なる精神的意味、即ち例えば深く難解な思想を蔵する様な場合(「仏法幽玄」の如き)を意味する。(略)

第五に更にこれと直接に連絡する意味として、私は一種の充実相と云うことを指摘したい。幽玄なるものの内容は単に隠れたるもの、仄暗きもの、解し難きものであるのみならず、その中に言わば限りなく大なるものを集約し、凝結させた inhaltsschwer(※重い内容?表現豊か?) な充実相を蔵し、そこからして寧ろ前に列挙したような諸性格の結果して来る所に、その本質があるのではないかと思う。(略)

第六の意味契機としては、上述した様な諸々の意味と結びついて、更に一種の神秘性又は超自然性と云うようなものも考えられる。これは宗教的ないし哲学的概念としての「幽玄」に於いては当然の事であるが、そう云う神秘的ないし形而上学的意味は又美的意識にも感受されて、そこに特殊の感情方向を成立せしめるであろう。(略)

第七の意味契機は、前に言った第一及び第二の契機と極く近いものであるが、しかし単なる隠とか暗とか云う意味とは少し違って、寧ろ非合理的とか不可説的とか微妙とか云う如き性質に関する意味である。一般的意味の幽玄概念としては、それはまたかの深淵とか充実とか云うような意味と直ちに結びついて、いわゆる言説の相を絶する深趣妙諦(しんしゅみょうてい)を指すことになるが、美的意味に転ずれば、かの正徹が好んで「幽玄」の説明の中に指摘している「飄泊(ひょうはく)」とか「縹渺(ひょうびょう)」とか云う様な、言語に表現難き一種の不思議な美的情趣を指す。かの「余情」と云う如きものも、主としてこの意味契機の発展であって、歌の直接の詞心以外に、そこに表し得ない縹渺たる気分情趣が、その歌と共に揺曳(ようえい)する趣を言うのであろう。(略)

(書肆心水出版『大西克禮・美学コレクション・Ⅰ』幽玄論)

 

次に「価値美学」の観点。

 

さて吾々は先きに和歌に於ける芸術的最高価値の概念としての意味に於いて、「幽玄」と「有心(うしん)」とが大略一致すべきことを論じたが、一方まだ上に試みた幽玄概念の意味契機の分析に於いて、「幽玄」に於ける「深遠」と云うことが、美的意味に於ける「心深さ」「有心」「心の艶」等に照応するものであろうと云うことを想定した。故にこの様な関係を辿って考えても、第三の価値美学的観点の下に取り出ださるべき、幽玄概念の最も中心的なる意味は、恐らくこの美的意味に於ける「深さ」と云うような点に在るべきことは容易に想像されるであろう。ただしかし吾々はこの第三の観点に於ける美的意味の「深さ」が、先きの第二の観点に立って考えられた美的意味の「深さ」と、直ちに同じものであり得ないことを注意しなくてはならぬ。「効果美学」或は心理学的美学の立場から言えば、この意味の「深さ」は結局「心の深さ」とか「有心」とか云う外はないであろうが、しかしそう云う意味の美的深さはやがて心自体、精神自体の価値根拠の深さ――即ち「精神」その者の内面に終始する一種の価値内容として考えられ、従ってそれがまたややもすれば非直感的、非美的、道徳的価値の方向に帰着するものとして考えられる傾向が有る。

(略)

然るに今この様な美的意味に於ける「深さ」が真に「価値美学」的立場から解釈される場合には、それはもはや単に美の主体としての心の深さと云う如き主観的方向のみが考えられるのではなく、言わば主観と客観を打って一丸とした「美」その者の「深さ」が考えられなければならぬ。それは例えば美の「脆弱性」とか「崩落性」とか云うような性格が考えられる時に、それが単なる主観的意識の流動性としての意味に止まらず、正に「美」その者の「存在」の仕方に関するものとして解釈されるのと同様な関係である。

(略)

(書肆心水出版『大西克禮・美学コレクション・Ⅰ』幽玄論 )

 

なるべく正確に文意を示したかったので長文引用となりました。

前半の「意味契機」では、観察者が、知的(知識的)な教養に支えながら美しさを感受する契機と、個人の心のなかに、体験によって醸成された感情、情操からじわじわと滲み出てくるイメージの契機とでも言いましょうか、その二つの契機を並行して考察した上での分類を行っています。

「価値美学」においては、知的なもの、感情的なものがミックスされ成熟した「有心」によって「深さ」を感受する。「美」その者の「深さ」。これを腹の中に落としこんで心で感受するにはもう少し時間を要します。

尚、仏教では有心を囚われた妄執の心として否定し厳しく批判します。無心でなくては駄目だという古代インド哲学からつづく感情の全面否定です。一方、日本の和歌や国学、伝統文化では有心が高貴な心だとされてきました。

 

まだ私も理解が追いついていませんので、引用はしたもののどうまとめて良いか思案に暮れてしまいました。

引用以降の文章では、「深さ」とは何かについての考察が、「崇高」という価値にまで昇華している。それほど多量な文章ではないのですが、岩盤をこつこつと鑿(のみ)で切り崩してゆく手作業のようなものです。

今日はここまでとします。

 

 

古くて新しい価値観「美しく貴き心」


昨日の記事につづき日本的美学観に入っていきますが、意識しているのは深層心理です。常に無意識を念頭においています。

本記事の前半では、次の記事で扱う『幽玄とあはれ』の著者である大西克禮の経歴と時代環境、学問的系譜、現代における彼の美学論の価値について簡単に記します。

 

1888年(明治21年)大西克禮(おおにしよしのり)は東京に生まれ、1913年に東京帝国大学文科大学(現在の文学部)哲学科を卒業します。1927年に東大助教授になりドイツ・イタリア・フランスに留学。1931年に東大教授。1949年(昭和24年)に退官し東大名誉教授の称号を授かる。その後は福岡に隠棲し個人的に美学研究を続け1959年に没します。享年71歳。

九鬼周三とは同い年、和辻哲郎は一つ年下です。美学者と言えば日本的美学を『茶の本』として欧米に紹介した岡倉天心(1863-1913)が有名です。大西と岡倉に接点があったか否かはわかりませんが、当然、大西は岡倉の著書を読んでいたはずです。

大西の美学論は難解のためか研究する人が少なく資料も乏しいのですが、田中久文著『日本美を哲学する』で扱っています。同書より美学についての記述を、「はじめに」から引用します。いい文章だと思います。

「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」といった言葉は、西洋の「美」よりも広がりをもった概念ともいえる。それらは、ある場合には「美」的概念というよりも「倫理」的概念であったり、「存在」論的概念であったり、さらには「宗教」的概念であったりする。しかし、だからこそ、限定的な「美」の概念に制約されない豊かな内容をもったものとして今日の私たちには映るのである。

むしろ、近代以前の日本人は、「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」といった概念によって、広い意味で「哲学」していたといってもよいのではなかろうか。中江兆民が述べたように、「わが日本、古より今に至るまで哲学なし」といった見方が一般化している。もちろん、日本でも仏教や儒教の領域に於いて独創的な思索を展開した者は少なからずいた。しかし、それらは何といっても特定の経典や教義に制約されたものであり、世界や他者と素手で格闘しながら考え出されたものではない。それに対して、「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」といった概念をめぐって展開された思索は、今日的にいえば芸術論・文学論・芸能論・演劇論などといわれる形をとりながらも、実際には人間や世界のあり方全体に関わるものであり、しかも、何ものをも前提とせずに世界を考えようとする、まさに「哲学」的なものであったといっても過言ではない。

(中略)

そうしたことを最も体系的に考えたのが大西であった。(略)こうして彼は日本の伝統的美学をその閉鎖性から解放し、普遍的な美学のなかでその意義を明らかにしようとした。

これほど体系的ではないにしても、日本の伝統的美学を捉えるこうした基本的な姿勢は和辻や九鬼などにも共通している。彼らが日本の美学の独自性を説く場合にも、その背景には常に西洋へのまなざし、さらにはそれを超えて普遍性へのまなざしが存在していた。

(中略)

こうして、日本の伝統的美学は、近代の哲学者たちのまなざしを介することによって、日本人が「哲学」する際の格好の指標として甦ったといえよう。

(青土社版 田中久文著『日本美を哲学する』)

 

美学という名称やその領域に囚われず、大西克禮を含めた近代の哲学者たちが日本伝統の美しさ観について掘り起こしてきた、考えてきたことがよくわかる言説です。

 

さてここからは心の構えを「情」に転調します。

徐々に。

上記の美しさ観についてですが、大きく分ければ、自分の心を外へ映してゆく外向的テーマと、外の世界を感受し自分の心のなかで練ろうとする内向的テーマとに分かれます。後者ですが、なぜ、私たちはそれを美しいものとして感受できるのだろうか。あるいは、なぜ、まだ美しいものとして感受できないのであろうか。

子どもに「もののあはれ」を感受しなさいと言ったってできません。私だって「幽玄」を感受してみろと言われても自信がない。こんなに生きてきても、世阿弥が晩年に著した『花鏡』の「幽玄の境に入ること」を、本質的な体感として解ってはいないし、幽玄の美を未だ浅くしか感受できない己れの未熟さを自覚しています。

 

もっと身近なところで「愛」はどうでしょうか。

子どもの頃の歌に「かあさんの歌」がありますよね。「かあさんが夜なべをして手ぶくろ編んでくれた…」の歌詞とメロディを思い浮かべてください。YouTubeで聴いてみてください。子どもが自分のこととして歌って母の愛を感受できていると思いますか。自分の子どもの頃を思い浮かべて、小学校3年生のときにこの歌を聞いて歌って感動しましたか。

子どものときに、母の愛を感受できなくていいのです。感動しなくてもいいのです。でも歌っておくのです。たくさん歌っておく。

やがて自分が母になった時に、ようやく母が自分に与えてくれた愛の深さに感動するのです。20年、30年かけて、母の愛情がわかる。母もおばあちゃんからそうして、愛情を教わってきたのです。子どものことをひたすら思って、夜を徹して編んでくれた手ぶくろ。暖かくないわけがないじゃないですか。その暖かさを、心の温もりを、20年かけてようやく感じとるのです。

今すぐに子どもが母である自分の愛情を、真の愛情を感じとれることはない。でも、ずーっと後になって感じとれてくれたらいいなあ。娘に子どもができた時に、その思いを自分の子どもに伝えてくれたらいいなあ。そんなふうに、母親は子どもに、或いは間接的に孫に、20年、30年と、その後も引き継がれる愛情の大事業を行っているのです。

そうした心の構えが自分の無意識の中にできれば、「かあさんの歌」を聴いて歌ってみたときに、胸にぐっときて、落涙しないことがあり得ない。

 

自分の母が自分に手ぶくろを編んでくれたかどうかなんて関係ない。自分の境遇にフィードバックしなくても想像力があれば感動してしまう。母の子どもに対する愛情はほかにもたくさんある。子どものことを思って料理して、ほうれん草を茹ですぎておひたしがやわらかくなってしまっても、おいしくないわけがないのです。おいしいに決まってるじゃないですか。どんな高級料理よりもおいしいに決まってます。母子に限ったことではありません。父子でもそうですし夫婦や恋人どうしでも、そんなことはあたりまえなのです。

 

愛情を感受できるこころ、愛情いっぱいの真ごころ、そんな貴い心よりも価値のあるものなどこの世にあるものか!と。

経済的に富裕であること、科学による様々な恩恵、それを幸せだとし、裕福になることが成功だと言われて久しい世の中ですが、美しく貴き心にまさるものなどこの世にはありません。過去にも未来にも永遠にありません。綺麗ごとですか。いえ、もしこれが綺麗ごとに聞こえるのならば本当に汚い世界や暴力と利権にまみれた世界を深く体験してこなかったからです。真っ暗で絶望的な悪と闇の世界を体で知れば知るほどに、そうした世界でもキラリと光って通用する、美しく貴き心にまさるものなど何もないと言い切れるのです。

古くからあるこの日本の、いや日本だけじゃなくて世界中にその素はあると思う。美しく貴き心のすばらしさを掘り起こすだけなく、更に磨きをかけ日本から世界へと発信し、新しい価値として台頭させることができたなら、どうですか。素晴らしいこととは思いませんか。子どもたちの目に希望の光が灯るとは思いませんか。100年200年かかっても1000年かかってもいい。個人の手柄なんていらない。何世代も超えた有志のつながりで、人間の最も大切なまごころを、美しく貴き心を第一等の価値にしようじゃないかと、少なくとも私ひとりはそう思ってます。

想像してみてください。人の美しく貴き心に触れて、感動して、自分も美しい心をもちたいな、あたしも、ぼくもと、その連鎖が起きる社会を想像してみてください。経済や科学は人のまごころの営みを支えるために存在しているのです。

 

 

日本的美学論と無意識論


大西克禮『美学コレクション』全3巻を購入し手元に揃いました。大袈裟な表現になりますが、この本は私に出会うのを待っていた、そんなふうに、感動を超えて感激しています。美学者・大西克禮氏(1888-1959)が生前に著した数冊の著書を現代仮名遣いに直し、3冊に纏めた著作集です。2012年~2013年に刊行され未だ初版のままですので、(たぶん人気がないため)おそらく重版はなく絶版になるかもしれず、確保できて良かったです。高価でしたが価格以上の価値ありです、私にとって。

 

 

1冊目の帯にはこうあります。

長く理論的考察がなされないまま、独特の美概念としてただ体験的に論じられてきた 幽玄・あはれ・さび の理論的様相を、美学者の立場から明かした画期的業績。

 

2冊目の帯にはこうあります。

人と自然とが対立しない美という日本人の感性の最深層を探る。知性によって自然を統御支配するよりも、生活そのものを自然の多変性、多様性に順応させる文化の息吹。

 

3冊目の帯にはこうあります。

西洋美学の枠を破り日本特有の美概念をも組み込んだ新たな普遍美学への試み!

東洋的芸術精神のパントノミー即ち本源的綜合性とは何か。生活の全面と深く一体化する芸術の心を総合的に理論化する。

 

「美学」というと芸術(美術や音楽など感覚的なもの)を想像するかと思いますが、いやまさに西洋の美学はそこが基本なのですが、日本の美学は感覚的なものにとどまらず、抒情的なものもあれば生きかたの信条的なものもある。日本人は古くから、非常に幅広く、この「美しさ」というものに、外形的にも内面的にも、生きざま的にも拘ってきたのです。『葉隠』の武士道や世阿弥の『風姿花伝/花鏡』、その他挙げればきりがないほどですが、深いところで通底しているのは、日本人的な美しさへの意識です。

大西克禮は、その日本人的美学観を体系化し、理論化しようとしました。

彼の論は実に多面的です。認識論的な哲学であり、日本人が連綿と受け継いできた無意識の美学すなわち深層心理学であり、平安王朝からの抒情的な国学の系譜であり、知性・知識に裏打ちされた想像的体験論であり、集団生活の芯とすべき道徳を扱う倫理学であり、人と人との絆の美しい人情論であり、もちろん感覚的な芸術論でもあるのですが、それらすべての基準に「美しさ」を置いた。

悲哀や悲壮・悲愴の「陰性」の美しさなどはまことに日本人らしい、独特の、無常感的な美しさの捉えかただと思います。

 

大西克禮氏も心理学に少し触れていますが、そうした美しさを感受できる心の構えは(実際に「構え」という言葉も本文で使っています)、無意識論へ伸びてゆきます。

私は、大西克禮の日本的美学論と、ユングの深層心理学的無意識論を結合させようと思っています。

 

 

西洋流と日本流の無意識への道


イギリスのタイムズ・ハイアー・エデュケーションが毎年発表している世界大学ランキング(2017-2018)によると、第1位はオックスフォード大学で日本トップの東京大学は第46位。その第14位に位置するコロンビア大学ビジネススクールで上級講師を務めるウィリアム・ダガン氏。彼は同スクールの大学院課程とエグゼグティブコース、その他世界中の企業を相手に、「第7感」についての講義を熱心に行っている。

彼の著書『The Seventh Sense』の邦訳版がダイヤモンド社から、『超、思考法/天才の閃きを科学的に起こす』として出版されている。(2017/11/15)

「第7感」とは何ぞや?

いわゆる直感的洞察の「第6感」の次のステージにある、天才的な突然の閃きに対する、著者の造語とのこと。映画で「シックスセンス」が使用済みだったことも有り得そうですが。面白そうじゃないかと思って読んでみることにしました。

『The Seventh Sense』の第一章の一部を引用する。

最新の脳科学のおかげで、この「突然のひらめき」についての解明が進み、人間の脳に秘められたこの神秘的なパワーをフルに活用できるようになったからだ。本書の目的は、読者であるあなたが、そんな脳のパワーを最大限に生かせるようになることだ。この本では、このパワーのことを「第7感」と呼ぶ。

(上記同書)

まずは批判からいこう。

彼は最初から大きく出た。まるで「突然のひらめき」が脳科学的に解明されたかのような論調であるが、同書の最後まで読んでも、脳のどの部位がどう反応して、脳に何が起こっているのかについては何も書かれていない。ゼロです。唖然とします。世界第14位のコロンビア大、大丈夫か? 要するにウィリアム・ダガン氏が「突然のひらめき」についての個人的な仮説を立て、講義をし、出版しているというだけだ。「科学的に」という言葉が随所に使われている(欧米では科学的論拠のない理論をオカルトとする傾向があるからだと思う)。ところがどこにも科学的エビデンスは見当たらない。この手の本は、仮説のストーリーに合う少ない事例をどこからか探してくる、または誰かに証言してもらうことで説得力を高める。かつてベストセラーとなったディール・カーネギー著『人を動かす』やナポレオン・ヒル著『成功哲学』などの系統と同じ手法です。スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』は「心の知能指数・EQ」という概念をつくってだいぶマシに進化していましたが流れは同じ。

それでも、幾つかは参考になることが書かれています。

〇第7感の基本的なメカニズムは、「既存の要素を新しく組み合わせること」。

脳内でのマッチングのことですが、これは100年も前にユングが無意識論で論じていますし、最近の私も同様のことを書いていて何も目新しいことではない。ですが、確認にはなりました。

〇「頭がリラックスした状態のときに、既存要素の新しい組み合わせが生じた」

〇「目の前の状況についての既存の考えを、いったん頭からすべて忘れることのできる心の状態」=オープンマインドをつくる

この2点も同様に、無意識内に「問題となるテーマを寝かせ」て醸成するということを何度も書いてきた。確認にはなりました。

忘れるために、「脳のプラグをすべて抜く」といった文学的表現も登場するのですが。大脳生理学や自律神経、脳内ホルモン分泌などの脳科学的・医学的なエビデンスがあるのかなと思いきやまったくないので残念。今後に期待。

ただ、世界の大学や世界の大企業が、「クリエイティヴ」な思考のできる人材を物凄く欲していること、とっかかりでもわずかなヒントでも良いのでダガン氏のように示唆してくれる人を求めていること、そうした時代に入ったことはよく理解できました。

上記同書については批判が中心となってしまいましたが、こうして批判されても仕方のない内容だと思います。昨日までの論考を見てお解りかと思いますが、ここではユング理論を中心に、ダガン氏よりもハイレベルな分析と論理構成によって、新しい価値創造のための考察を行っていると断言できる。

 

さてここで、コロンビア大のずっと下のランクに位置する東京大学(笑)を卒業して、「第7感」のことなど全く研究していないと思われる思想家の内田樹氏が、大ヒントとなることを述べているので紹介したい。あまりに気づく点が多かったので、超長文をA4サイズ16枚にプリントアウトして何度も読み直しています。上記の本一冊よりもこちらの方がはるかに価値もレベルも高い。レトリックを含めた高い文章力も大違いです。ベタ褒めが過ぎるので(下記のひとりごと)落としておきます(苦笑)

(でも私は内田樹氏の政治にかんするご発言とその内容は、直截に酷い表現であえて言わせていただくが、チャラいと思っております。思想家は政治にかかわるとたいてい劣化していくんですよ。左派だからということでなく右派も。尊敬する西尾幹二さんも今世紀に入った頃からそうなってしまったと思う。思想家の才能がもったいない。余談で失礼。)

 

氏はフランスの哲学者レヴィナスを翻訳する仕事に取り組んだが、全く理解できずに断念した。そして数年後に、忘れた頃にもう一回引っ張り出して読んでみるとちょっと分かるようになっていた。

驚きました。別にその年月の間に僕の哲学史的知識が増えたわけではない。でも、少しばかり人生の辛酸を経験した。愛したり、愛されたり、憎んだり、憎まれたり、恨んだり、恨まれたり、裏切ったり、裏切られたり、ということを年数分だけ経験した。その分だけ大人になった。だから少しだけ分かる箇所が増えた。

この体験を更に抽象へと落とし込んで次のように述べる。

それは頭で理解しているわけじゃないんです。まず身体の中にしみ込んできて、その「体感」を言葉にする、そういうプロセスです。(略) 身体はもうかなりわかっているんだけれど、まだうまく言葉にならないでじたばたしている」。(略) まず「感じ」がある。未定型の、星雲のような、輪郭の曖昧な思念や感情の運動がある。それが実現されることを求めている。言葉として「受肉」されることを待望している。だから必死で言葉を探す。でも、簡単には見つからない。そういうものなんです。それが自然なんです。それでいいんです。そういうプロセスを繰り返し、深く、豊かに経験すること、それが大切なんです。(略)

自分が知っているものの中にはもう答えはないわけだから。知らないことの中から答えを探すしかない。(略)

そういう明けても暮れても「言葉を探す」という作業を10年20年とやってきた結果、「思いと言葉がうまくセットにならない状態」、アモルファスな「星雲状態」のものがなかなか記号として像を結ばないという状態が僕には不快ではなくなった。むしろそういう状態の方がデフォルトになった。

 

また、氏は合気道の道場を開き師範をされているのですが、その経験を踏まえて次のように述べる。

武道の修業には目に見える目標というものはないのです。100mをあと一秒速く走るとか、上腕二頭筋をあと1㎝太くするとか、数値的に計量化できる目標は武道には存在しません。今やっているこの稽古が何のためのものなのか、稽古している当人はよくわからない。わからないままにやっている。自分がしてきた稽古の意味は事後的にしかわからない。

 

どうですか。繋がったでしょう?

ウィリアム・ダガン氏は「第7感」の閃きを得ることを目標に、目的的に、仮説を論理化しようと企図し、今も熱心に研究を続けていることでしょう。きわめて西洋的です。

一方の内田樹氏は、レヴィナスの翻訳については一度放棄して忘れてしまった。でもおそらく無意識の中にはテーマとして残っていた。長い期間の経験を含めて、アモルファスな星雲状態に無意識があって、形とならずにじたばたしていた。武道の修業においては、無目的的に、今目の前の修業を一所懸命にやる。ただただやる。そうして、あるとき、はっと気づく。

私たちの一生のことについても西洋流と日本流では全く逆なんです。西洋流では自分が生きる意味とは何かと考え、目的的に目標を定めようとする。人生設計をし計画的に生きて行こうとする。明治維新以降、現代日本でも西洋流が大流行していますね。

一方、伝統的な日本流では自分が生きた意味は死ぬ頃にはわかるのかもしれないし、わからなくても良いと考える。未来の計画よりも、とにかく「今」を大切に生きようとする。それはけっして刹那主義でもニヒリズムでもなく、「今」を大切に生きれば大丈夫だ、お天道様はちゃんと見てくれている、今をしっかりと善く生きていればそのうち良いことがきっとあるさ、といった非合理的な強い信念がある。

西洋流を否定するわけでも日本流のみを肯定するわけでもありません。どちらかに是非や優劣があるということではなく、できれば両方の考えかたを自分のなかに混在できていると良いと思うのです。それこそアモルファスな星雲状態です。

 

無意識の活用を考えた場合も、西洋流と日本流(あえて東洋流とは言いません)を混在させることによって化学反応を起こせると直感しています。ウィリアム・ダガン氏と内田樹氏の、異なった方法論ではあるが同じ方向性をもつ二論が、わずかここ数日のあいだに私の目の前に飛び込んできたことに、なにか偶然ではない、運命の流れのようなものを感じます。但し、単に混在させるだけでは駄目で、何事も深く、豊かに、徹底して掘り下げてゆかねば無意識がじたばたできない。

ユング理論の「構え」について、オリジナル応用論の考察を更に深めたい。

他方、大西克禮の「美学」を中心に、日本文化を深く掘り下げたい。

 

 

無意識を活用した医療


古代の医療行為においては積極的に無意識が活用されていた。科学医療に慣れた現代人はこれをオカルトと呼び蔑視する傾向が顕著だけれども、そのオカルトが治療成果をあげてきたのも歴史的事実である。現代心理学ではプラシーボ効果と呼ばれることもある。

アンリ・エレンベルガー著『無意識の発見/力動精神医学発達史』では、古代の呪術によって医療行為が行われ、しかも呪術者自身も患者を欺いていることを知りながら、無意識を利用することによって治療の成果をあげていた歴史が記されている。

上・下巻合わせて千ページを超えるこの大著(しかも全頁二段組)の第一章、「力動精神療法の遠祖」は次の文章から始まる。

無意識心性と心的力動の体系的研究は無論かなり新しい事柄に属するが、力動精神療法の起源は、その祖先やそのまた祖先がつくる長い一本の線を辿って遠い過去まで遡ることができる。過去の医学、哲学の教説と旧式の治療法には、すでに一部、人間心性の世界における、普通ごく最近の発見と思われている事柄に、驚く程水準の高い洞察があった。

精神科医は長い間、未開民族の呪医やシャーマンの行う治療の報告にはほとんど目もくれていなかった。そういう報告は、いわば奇談のたぐいで歴史学や人類学者だけが興味をもつものとされていた。呪医とは、迷信の虜になっている無知蒙昧きわまる連中で、放置しても治癒すること受け合いの患者だけを治せる輩か、さもなくば同族人のお人好しにつけ込む詐欺漢とみられていた。

われわれが今日下す評価はこれと違って、もっと積極的な面を認めた評価である。近代精神療法の発展とともに、心理的治癒の機転の謎が注目を浴びるようになり、心理的治癒の具体的詳細は今日のわれわれにもまだ首をかしげるばかりのものが多いことが判ってきた。

(弘文堂版 アンリ・エレンベルガー著『無意識の発見/力動精神医学発達史・上巻』)

 

古代の人々にとって病気は不思議な出来事であり、因果関係には様々な想像がなされた。悪霊の侵入、霊魂の行方不明、タブーを破ったなどの理由がまことしやかに語られ、対処として儀式や告解が行われた。その理由の中で大きな位置を占めたのが「病気という物体が体に侵入した」というものだった。

患者を横にさせて長時間におよぶ儀式を行い、呪医やシャーマンは患者の体から病気を取り出すのである。それは虫であったりミミズであったりしたが、医療行為をする呪医の長があらかじめ仕込んであったものだ。

疾病物体の摘出は、呪医が一種のトリックを使ってみせかけるのは間違いなく、この種の治療の実際を目撃したヨーロッパ人の一部が、呪医とはインチキ医者、詐欺師だと公言していたのも成程と思う。しかし、この種の治療がしばしば成功するのも事実でまず疑えない。(同書)

 

現代でも未開民族のあいだではこうした医療行為が行われている。同書では、実際に先進国の科学者や精神医学者が興味を持ち、研究にあたったことが記されている。挙げられた多数の事例の中には日本の迷信とその対処法についても書かれている。動物憑依の「狐憑き」を日蓮宗の祈祷僧侶が女性に憑いた狐を追い払った件。現代であれば二重人格の精神分裂症と診断されるかもしれないが、僧侶の腹話術と喝によって完全に治癒してしまったこと。

ここでのテーマは、医療行為にあたる人や医療方法のうさんくささをどうこう言う話ではない。患者のなかで何が起こっているのか、これである。

「病気とは罪に対する罰である」との考えに基づき、自らの過ちや非を告白(告解)することで病気が治癒してゆく例も枚挙にいとまがないということだ。

科学医療に慣れた現代日本人にとっては、にわかに信じられないことばかりではあるけれど、子どもの頃に風邪をひいて町の医院へ行き、注射をうってもらい薬を処方されなぜかすぐに治ってしまったのはなぜだろう。昔の頓服薬を思い出すと紙に包装された中に入っていた粉のほとんどは片栗粉みたいなもので、苦みがあるため砂糖を混ぜて水で飲んだ。今思えば、もしかして砂糖のほうに効用があったのかもと考えてしまう。やはり、プラシーボ効果の力を認めざるを得ない。

同書では、こうした患者の無意識を活用した未開人の医療行為について、その特徴が並べられている。

(1)未開社会の治療者は属する地域社会で現代の医者よりも枢要な役割を果たしている。(略)

(2)疾患の猛威下にある時、特に重症や危険な病いの際には、患者は、薬など治療者の使う治療法よりも治療者“その人”に希望をつなぎ信頼を寄せる。どうやら治療者の人格が治療の主役らしい。(略)

(3)原始治療者はきわめて熟練した技量と高度の知識を持っており、(略)、”高度の学位を持つ人間”である。大抵の原始治療者はやはり原始治療者による訓練を受けて育成され、秘儀的な知識と伝統を継承してゆく集団の一員となる。(略)

(4)(略)、治療者の最重要な治療法は心理的性質のものである。(略)

(5)原始治療の実際は大体集団で行われるものである。普通、患者は自分ひとりでは治療に行かない。親戚縁者が連れて行き、その連中も治療に立ち会う。(略)

(同書)

 

患者は、治療者の人格を信頼し、安心を得る。
治療者の公けの権威を信用し、未来の希望に期待する。
儀式(セレモニー)が行われ、治療をポジティブに受ける心の構えが変わる。

人間の、「信じる力」はあきらかに身体にも精神にも作用する。
これを悪用して信者を悪意に洗脳したり、悪徳商法を行ったりする悪者が世にはびこっているのも事実。

しかし、善い方向へ暗示をかけ、結果として善い成果が生まれるのであれば、嘘つきだとか詐欺師だとか咎められるだろうか。
無意識の活用は、未開人で終わったのではなく、まさに今、始まったばかりだと私は考えています。

 

今日の記事の最後に。少し逸れるかもしれませんが。

その人が何も話さなくても、自分を見ていてくれなくても、ただ、存在しているだけで自分が安心できる、あるいは勇気を奮い立たせてくれる、そういう人物が世の中にはけっこういるのではなかろうか。もっと言えば、想像力をはたらかせて、既に世に無い人であっても、今の自分を見守ってくれている、励ましてくれている、そうした故人もいるのではなかろうか。更にもっと言えば、これは私の体験ですが、一緒に長年暮らし可愛がっていて死別した猫との対話では、心の痛みと懺悔とともに感謝の心が生まれ、慰撫の潤いを感じられるのです。それは、けっしてネガティブなことではなく、素晴らしい体験だと思うのです。

 

 

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