明日はハレの日


明日、新しい法人を登記します。

昨年9月から取り組み始めた「希望創り」への挑戦ですが、ようやく大海へ出航できる船ができます。試行錯誤しながら、というより右往左往しながらでしたが、今回は株式会社ではなく、一般社団法人として登記し公益社団法人を目指すことに決めました。

と言っても、ボランティアではなく、慈善事業でもなく、法人の運営費は売り上げによってまかなっていくつもりです。そしてここから、いろいろな個人の営利法人/非営利法人を立ち上げていきたい。今回立ち上げた法人は非営利ですが、「生み出していく法人」という位置づけです。

 

大きな目的としては、はたらく個人が、特に若者たちが、労働や雇用によらずに、業務受託や法人創業によって継続的に所得を得ることができる、そうした仕組みをつくっていきたいと思います。特に、国外の需要に国内から目を向けること(単純な輸出ではなく)、スタートアップする事業がたとえ最初は国内で始まっても、国外に広まる可能性があるかないかを最初から考えていきたい。個人が世界に躍動する場をつくっていきたい。私はそんなに躍動しなくていいです(苦笑)

もうひとつは、中高年の人たちが今後ますます増えるなか、「貢献欲求」のある元気な60~70代の人たちに、何かの形でその「欲求」を開花させることのできる、道を開いてみたいと思っています。単なるボランティアではなく、学術の分野、職能に秀でている分野、或いはチャレンジしてみたい分野など、経済活性化につながることもあるかと思います。

70歳でも80歳でも貢献欲求をとおして、社会の希望(自己実現ではなく)へ向かってチャレンジできるって良いと思いませんか。活動が生き甲斐となる人もいるのでは?

質的にも量的にも、潜在的に凄く大きなエネルギーが眠っているのではないかと考えています。なによりも若年から見て、「生き生きとした高齢」という新しい将来モデルになる可能性があると思います。(組織内での老害と言われる人は困りますが)

 

進路変更は柔軟にやっていきます。

私には才能がないので、仕組みというか流れというか突破口というか、そういうところに携わることしかできませんが、社会活動としては人生最後の「船」になるかと思います。

がんばります。

 

クリエイターに対する評価とは


キングコング西野さんが定価2000円で紙媒体として販売している自作の絵本を、インターネット上で無料公開したことで様々な価値観の意見が飛び交っていました。

こうしたことで熱くなる意見というのは、白か黒かの二極論なんですよね。結局、彼を支持する派と彼を支持しない派、あなたはどっち?みたいな。

今と10年後では意見が変わるかもしれない。それは3か月後かもしれない。私なんか支持派と反発派が自分の中に共存していることを自覚してるので答えようがない。西野さんの親しい友だちだったら全力で擁護しますけど。

でも反発受けようとも堂々と前へ進んでいく勇気は評価されるべきではないかと思います。

彼の作品が芸術としてどう評価されるかというのはあまり関係ない。芸術評価は人が判断するものだから、人によって価値観も違えば審美眼も違うし、嫉妬感情だってあるでしょう。

また、芸術への指向性はある人ない人けっこう差が激しいしかもしれないですね。

 

話は飛びますが、私、近年は図書館をよく利用してるんです。

というのも、お金がたくさんあるときにはしょっちゅう書店へ行っては、10冊くらい大人買いして9冊捨てるみたいなことを平気でやっていて、まあ消費に貢献してたわけですけど。その反省から、何度も読みそうな書は一度図書館で借りて、ざっくり読んでからアマゾンで購入とうい方法を取るようになりました。先日のWebライティングのような本は書評を読んで買ってしまいますけどね。仕事関連だし。

『チクセントミハイのフロー』で紹介した、ハンガリー出身で米国在住の心理学者チクセントミハイの書なんですが、一冊を高評価して、もう一冊は低評価しました。

で、私も自分で自分自身の心がなんでこんなふうになるのか、すっごい疑問だらけなのですが、低評価の方の本を買ってしまいました。なんででしょうね?こちらのほうが価格は高いです。どちらも半分仕事関連です。

ひとつ言えるのは、茂木さんが「ゾーン」にご執心で、私は「ゾーン」ってふつうだろと思って白けてしまった。

でも、「クリエイティブ」というテーマであれば、もっと読みこんでみてもおもしろいかもと、無意識の左下角度32度くらいのところにもやもやがあったような気がします。

冒頭のキングコング西野さん絡みで引用してみます。

 

人々に理解されづらい課題への深い関心や関与は、多くの場合、報われることがなく、嘲笑の的になることさえある。

拡散的思考はしばしば、大多数の人々に規範からの逸脱と受け取られ、その結果として、創造的な人は孤立と誤解を感じることがあるかもしれない。
(世界思想社版 M.チクセントミハイ著『クリエイティヴィティ』)

 

大多数ではありませんが、多くの人から西野さんは、「規範からの逸脱」と捉えられたと思います。作品性どうこうではなく、彼の価値観に対してです。彼は作品を創りましたが、著作権を一部放棄するような価値観を大々的にあらわにしたわけです。勇気ある行動と言える。

一方、同じように思っても、出来なかった人はたくさんいると思います。だって最初から知名度が違いますよね。勝負にならない。だから西野さんが自分の吉本興業で漫才師である知名度に乗っかって、「ええかっこしい」をやってることに反発する人はたくさんいるでしょう。

私が上記に引用したのは、西野さんのことではなく、むしろ目立たなくて独立独歩で自己表現している、クリエイターさんたちが念頭にあります。「きれいごとじゃ食べていけない」というクリエイターさんが99%です。アート関連の業界では。

 

私の主張としての結論はありません。

 

 

大阪との縁


2日ほど空けてしまいました。

と言っても毎日書くぞ宣言はしていませんし、毎日チェックしに来てくださる方がどれだけいるのかわかりませんし、でも、言い訳させてください!

 

実はインフルエンザにかかり重症となって病院に運ばれ、集中治療室でべっぴんの看護師さんに看取られつつ、意識が遠のき・・・

三途の川がひたひたと流れるなか、一歩一歩とわたっていると、は!くじらがいるじゃないか!

で、目が覚めたというわけで健康体だけが取り柄です。写真はずいぶん前の日赤の写真です。ここで大変お世話になって、今も二年に一度くらい検査に出向いています。

 

言い訳第2弾!

実は警察に留置されていました。そう、俗称よんぱち、四十八時間拘束の留置で4畳半ひと間の牢屋で暇をつぶし、ぐだぐだと長ったらしい調書をあくびしながら書いている刑事に付き合わされていたいう。

というのも真っ赤なウソで安心してください。

でもね、写真のところへ26日に行ってきたんですよ、これはマジ。

以前は近所だったんですが、今は離れたところに住んでいるので超久しぶりで。でも、なーーんも変わっていませんでした。

なにしに行ったかと言えば、運転免許証の更新手続きで。しかしねー、立派な警察署の裏手にある写真のようなプレハブですよ!ここで数十年前に住所移転(転入)手続きしたんですけど、まーーったく変わってなかった。

天下の田園調布警察署ですよ。

大田区って競馬場があったり競艇場があったり、高級住宅街があったりで地価も高く、23区のうちでもかなり税収に恵まれている区なのですが、いい加減プレハブやめれー!(苦笑)

ここで30分の講習を受けて手にしたものは。

初めてのゴールド免許です。

私にとって天然記念物です。2月が誕生日なんですけど、前回はうるう年記念で2月29日に講習受けに行ったのですが、今回は1月に。生まれて初めての1月更新。だって次回はゴールド無理でしょ、たぶん。だから長く持っていたいなと。5年後の更新は3月ですね。

で、皆さん知ってましたか?

12桁の免許番号に意味があるんですよね。ネット検索すればわかるけど。

最初の二つの数字、私は「62」なんですが、これは大阪府公安委員会が初回発行した免許だってことなんです。東京は「30」です。次の二つの数字は1980年に取得したから「80」ということです。

しかし、平成34年まで有効って書かれていて、もうその時は平成ではなくなっているので、もしかしすると忘れてしまうかも?

 

運転免許証って滅多なことがなければ再試験を受けて取り直すことはないですよね。つまり、この「62」は一生涯私の身から離れないわけです。大阪の門真っていうところの試験場で免許取得したんですけど、今もその時のシーンを覚えてますよー。

仮免は東京府中で取って、仮免有効期間が1年あったんです。でも、休みなしで一日15時間くらい働いていたので教習所へ行けず、一発試験です。3回落ちました。受験にもなかなか行けず3か月に1度くらい。

で、4回目、これで落ちると仮免が失効になるという背水の陣。土壇場も土壇場。そして、あああああ、なんかミスした。でもね、横に乗っていた係官の人も最後だって知っていたんだと思います。

おお!黙って合格にしてくれた大阪の人情係官!

 

東京で仮免取ったのも一発試験で、その時は6回目で合格したんですけどね(苦笑)

だってほぼ練習しないんですよ。未公認の練習教習所みたいなところへ数回行っただけだし。ふつう無理だろ。

でもお金は掛からなかったかな。総額で5~6万くらいかなあ、未公認練習代入れても。

 

一生、大阪との縁が切れない、ずっと大阪が肌身離れずここにいるっていうことがね、なんだかすごく嬉しいんです。

 

かならず大阪へ恩返しに行くで~!

待っといてや~!

 

内在するものと共鳴するもの


右を見ても左を向いてもテクノロジーの時代。

物議をかもした「人文系学部は役に立たない」系の政府発言。
これは理数・物理・化学・医学・工学系と比較して経済に繋がりづらいことからくる、現安倍政権・政府の国家観であると思う。或いは社会思想か。

一理は認める。
ただし現代の今がテクノロジーの時代だからという条件を付けさせてもらう。

 

合理性は万能か、人間の理性は万能か。であれば先のアメリカ大統領選で、ヒラリー・クリントン候補はトランプ候補に圧勝したに違いない。

エリートで立派な人のお手本であるはずの文科省高級官僚が、なぜあっせんによって天下りするのか。科学的数値で安全性が証明されても、豊洲市場の生鮮を食べるのが嫌だという都民がなぜいるのか。

人間とはまことに非合理かつ、理性で欲求を制御しきれない動物であり、科学は信じるか信じないかの点で人間にとって宗教と同じである。

 

テクノロジーの発展はそれはそれで素晴らしく文句のつけようがない。

こうして私は今、テクノロジーを利用して文章を書き、インターネットを使い、ウェブサイトに記事投稿しようとしている。すべてテクノロジーのなせるわざだ。

しかし、テクノロジーは私の外部にしかない。今更あたりまえなのだが、テクノロジーは私にとって道具でしかない。情報をインプット・アウトプットする道具だ。移動するための乗り物の道具だ。

私の頭の中にも心の中にも、テクノロジーは一切ない。

 

音楽を聴きながら書を読む。音楽を奏でているのはステレオで、本もそうだが、それ自体はモノであって道具に他ならない。
けれどもなぜか心が動かされる。

それは、芸術や文学が、私の内にあるからだ。

私の心の中にある芸術や文学が、ステレオや本を通じてインプットされる外部の芸術や文学と、共鳴するのだ。

 

ほとんどの歴史家が述べているとおり、人間の内的価値を創りだしてきたのはいつの時代も人文・芸術系だった。

哲学であり、思想であり、文学であり、美術や音楽などの芸術であった。

テクノロジーはエモーションを創らない。

 

大自然もまた、私の内にあって、外の大自然と共鳴する。

 

 

 

ライティングについて(2)


・・・つづきから。

ということで、ブログ上で自分の問題点を書きながら整理していきます。と同時に、こんなふうな問題が私のブログにはあるので大目に見てね、という読者さんへのほのかな釈明が隠されていたりもします。

 

1.単語の語義を正しく記憶していない可能性がある。

まずは上記のことをしかと心得ておくことにします。

他にどのような問題があるのだろうと、ちょっと悪乗りというか興味が湧いてきたので、最新のWEBライティングについて30代後半の人が書いてる本をアマゾンで発注して買ってみました。

うん。漫画がちょっと入ってます。こういうのって気楽に読めるからいいよね?

けっこうためになりましたよ。

「SEO」は、Search Engine Optimization の略で、要は、どうすれば Google などの検索サイトで上位に表示されるかというテーマです。このテーマ化によってSEOが既に職業ジャンルにもなっていて、携わる人は高収入を得ているらしい。もちろん私はSEOの職に携わろうなんて爪の先ほども思っていませんし、この「永遠の未完成を奏でる天籟の風」サイトを検索上位にしようだとか、アクセス数を伸ばしたいだとか、そういう目的で読んだわけではありません。

仕事のウェブサイトも、一般消費者向けに何かを販売しようとか、インターネットで顧客を集めようとか、そういう類のものではないのでSEOはあまり関係ないのですが、「なぜ理解されないのか」というポイントの発見にはなるかなと思って、・・・・・・実際、なりました!

2.論理をショートカットしてしまっている。

3.一般の人が単語の意味を調べなければならない言葉を使っている。

4.論点が拡散してしまっている。(多くのことを伝えたいと思い過ぎている)

まだまだテクニカル的には他にも指摘はあるのですが、自分の悪癖関連で目立つのは上記の3点でした。

いかに私が他人に対し誤解を与える文章を書いてきたのかが、けっこうあぶり出されてきたように思います。誤解を与えてしまったことが明確になっていても、「ま、しゃあない」で放置してしまう悪癖もあるのですが。

特に論理のショートカットについて、自分が書いた文章を2度3度と読み直しても気づくことのできないケースが多いのです。途中を平気ですっ飛ばして、そういうときって書き手である自分の内面に読者不在なんですよね。

 

私のここ最近のブログでは他律批判を書いてきましたが、このWebライティングの本では一切が他律、すなわちウェブを読んだ人の視点がすべてです。いかに読者に合わせるか、いかに読者を「誘導するか」というテクニカル書です。ビジネスなんだからあたりまえ、なのかもしれません。ま、そこには私の異論というか持論が反論としてあるのですが、それはそれとして。

仕事のほうのサイトでは、素直に取り入れるべきところは取り入れてみようと、さっそく手を入れ始めたところです。

 

こうやって自然にSEOスキルや文章表現スキルが上がっていくんでしょうね!

そうそう、「マインドマップ」についても書いてあって、これにも興味が湧いたので、これから当たってみることにします。

 

ライティングについて(1)


言語の意味(語義)って皆さんどうやって覚えますか?

「辞書をひいて」が普通なんでしょうか。

むかし英単語カードってのがありました。今もあるかどうかわかりませんが。表側にスペルを裏側に意味を「自分で書いて、何度もそれを見て記憶して覚える」というタイプの、100語くらい束になっている感じだったかなあ。あれね、私、ぜーんぜん!まったく覚えられなかったんです。だから放り出した。ちなみに中1でIQ170超えてましたけど、結局知能指数っていうのは「ある特定の能力(たぶん法則性の発見が中心)しか測っていない」んですよね。IQ高い=知性が高いのではない!

私の言語の覚え方は、文脈でどのように使われているかでのイマジネーションでしかなかったんです。これね、すっごい悪い癖で、他人が話してたり文章に書いてたりしているのを聞いたり読んだりして、「辞書で確認せずに」覚えているんです。(私もそうだ、って人いるんじゃないかな?)

インターネット用語でいえば、「IT」という言葉が使われ出してしばらく私はずっと、「InTernet」の略だと思っていたんです。ああ、恥ずかしい。Information Technology ですよねー。次に「ICT」が登場して、これについては Information and Communication Technology だとすぐに確認した。

一昨年、昨年あたりから「IoT」という言葉が氾濫しだしました。ソフトバンクの孫さんなんかが「これからはIoTの時代だ」と言っていた。これ見て私は愚かにも、「新しい顔文字だ」として意味を調べることをしなかったんですよ。なんか電柱の陰から顔を少し覗かせ、こっちを見て泣いている感じ、そうか、陰で悲しむ時代がやってきたのか!と。それでずっと放置してました。馬鹿でしょう?ほんっと馬鹿。調べれば一分もかからないのに。Internet of Things の略だと気づいたのは昨年年末あたりだったという。

この悪癖は漢字の熟語などもそうで、読んだ文脈上の自分の価値観だけで語義を決めてしまい、しかもそれを平然と使ってしまうわけですね。最近はこの悪癖にだいぶ気づくようになって、今まで平然と使ってきた言葉にも「大丈夫かな?」と思って確認するようになりました。これはいかに文学と接してこなかったかってことと、IoTを顔文字だと判断してしまう馬鹿っぽさ、辞書をひく癖のない面倒くさがり屋の相乗効果ということで、天下無敵かもしれない。

 

・・・つづきます。

 

 

大海にひとり


何日も陸地が見えない北太平洋の海にひとり、船で旅をしているとすると、いったいどういう心境になるんだろう。

おだやかな海ばかりではないし、船底と鯨が接触するかもしれないし。

子どもの頃に『海のトリトン』っていうアニメがあって、歌詞がよかったんだ。知ってる人いるかな?

 

水平線の終わりには~、虹の橋があるのだろう~

 

水平線ってロマンチックなんだよね、なんで向こうが見えないんだろうってなる。

トリトンは誰も見たこともない未来の国を探し求めて、ひとり旅立つんだ。希望の星を胸に。夢の国があるかもしれないと。

不安だとか心配ごとだとかリスクだとか、少年にはそういうのゼロなんだよね。

確かに子どもの頃は、未来に対するネガティブ感情ゼロだったかなあ。宿題をやってなくて先生に怒られることを前提に登校していくときでさえ、まあなんとかなるさと思っていたし。

おとなになると失いたくないものができちゃうからなのかも。
それがモノじゃなくて、感情そのもののこともある。

残る命が短くなったかなと実感するとき、やっぱり、少年となって大海へ冒険に旅立ちたいって思ったんですよ。体が動けるうちに。

 

 

ブルーオーシャンへ行こう


昨日の記事ではチクセントミハイ(ハンガリー出身のアメリカ人心理学者:現在82歳)のフローついて書きました。今日はフローと活動を併せ希望へと昇華させることについて書いてみます。

チクセントミハイは現代人について、「社会化されてしまった人」が多いと嘆きます。社会化されてしまった人とは、社会の隷属状態にある人のことを言います。

完全に社会化された人とは、望むはずであると周囲の人々が考える報酬 ― それは遺伝的にプログラムされた欲望と結びつくことが多い ― だけを望む人である。彼は生き甲斐となる可能性を秘めた無数の経験に遭遇するだろう。しかし彼はそれを望まないためにその可能性に気づかない。彼にとって問題なのは、現在自分が何をもっているかではなく、他者から望まれたことをすれば何が手に入るかなのである。

(中略)

しかし我々は本能的欲望に身を委ねることによって社会の統制から自由になるのではない。苦痛と快楽は意識の中に生じ、その中にのみ存在する。人間の生物学的性向を利用する社会的に条件づけられた刺激~反応のパターンに従っている限り、我々は外から統制される。

(世界思想社版 M.チクセントミハイ著『フロー体験 喜びの現象学』)

 

「望むはずである周囲からの報酬」とは、周囲の人たち(他者や社会)が、「あなたにこの報酬を与えて喜ぶことが当然、私たちもそうだから」という報酬のことを言っています。それ以外の報酬を求めないし、考えつくこともないのです。

社会化されてしまった人というのは、要求に対してのみ応答する人で、その応答によってどのような、どれだけの利益を手にすることができるかが、彼の関心事なのです。

言葉を変えれば、ニーズ(オファーや募集)に対して自分の労働を供給し、その労働によって受けられる金銭的利益はどれくらいなのかが関心事であって、もしニーズがなければ彼は何もできないし、もしニーズがあっても金銭的利益が割に合わないならば、そのことのみをもって彼は労働をしません。

これをあたりまえのことじゃん、と思うのなら、もう隷属根性が染みついてしまっていて、かなり社会化病の重症患者になっています。なんとか抜け出しましょう。

ミハイは、学校や教会などの公的制度から始まって、ありとあらゆる周囲の環境は我々を社会化に導き、我々のエネルギーを搾取する社会システムに我々を依存させるようにはたらきかけるのだと言います。

要するに、社会や会社が面倒見てやるから気楽だよ、という誘惑によって他律志向の人間にさせられてしまうのです。与えられるのを待つのみの受け身の人間へと。

刺激を与えられて初めて反応する。みずからが刺激となろうとなんて露ほども考えない。まして何もないところにニーズを作ろうなんて夢にも思わない。みずからの手で金銭以外の価値を仕事に与えようという発想がない。仕事は苦痛にこそなれ快楽になどなるわけないと思っている。

という心理的監禁状態にもしあるのならば、なんとか脱獄してください。

 

他律による生産性は自律による生産性の3分の1以下と言われることがあります。そして、単なる自律による生産性は、フローの状態の生産性の5分の1以下です。仕事に置き換えるとするならば、他律によって自分がする仕事は、自律&フローによって自分がする仕事の15分の1以下なのです。生産性と達成感が天と地ほどの開きがあるということです。収入はもしかしたら変わらないのかもしれませんが。

フローの状態で仕事ができるというのは、単に好きだから、単に得意だからというレベルとは全く違います。我を忘れて没頭するほど夢中になってしまう、生き甲斐になってしまう、そんなレベルのことになります。

希望の塊となって、全身から四方八方にオーラが出て輝いているフロー状態で仕事ができる自分を目指してみませんか。

 

世界は広大なブルーオーシャンです。

 

チクセントミハイのフロー


脳科学者の茂木健一郎氏が絶賛しているチクセントミハイのフロー体験とは何だろうかと思い、2冊の彼の著書『クリエイティヴィティ』(2016.10) 『フロー体験・喜びの現象学』(1996.8)を読んでみた。正直言って前者はほとんど得るところがなかった。成功者のエピソード体験が9割以上だろう。

後者の書は良かった。もう少し丁寧に読み直そうと思っている。

ちょっと拍子抜けしたのは、彼のいう「フロー体験」というのが、日本人にとっては一般的なことではないだろうかということ。柔道や剣道、弓道などで意識せずに自然に体が動いていることを、彼はフローの特殊型だと書いている。日本の忍術にも触れている。

ふつうにフローはどこにでもある。例えば卓球選手はフローの状態でなければ球を打ち返せないと思う。目で認識してから反応するのではスピードが間に合わないのだ。同様に、野球の内野手(特にサード)では、強烈なライナーやゴロが飛んできたときにフローの準備が無ければキャッチできない。特にオフェンスよりもディフェンス時には、自我意識の頭で考えてなどやっていたらスピードに間に合わない。全身を信頼して、ぜんぶを身体の反応に委ねる。

自我の「気」を全部抜く。この状態には子どもの頃から簡単に入れる。息をほとんど吐き、ごく浅い呼吸に任せる。不思議なことに相手からは自分の気配が消えるらしい。ただし私の先祖に忍者はいない。

 

逆に私が驚いたのは、西洋人の特徴なのかどうかはわからないが、常に自我がはたらいている状態にあるということだ。例えば、何も考えず目を開けていても何も感じず、ただ、ぼーーーっとしていることが彼らには無いようだ。読者の方々も、ぼーーーっと放心してることなんてしょっちゅうあるでしょう? テーブルに頬杖をついて、何も考えずに壁の一点というか全面をぼーっと見ていたり、しますよね?それの動いてる版なのですが。

常に何かしら考えていて、自我を失うということがどうやらないみたいで、しかも言語を中心に頭脳が活動しているらしい。疲れてしまわないのだろうか。日本人の「おのずから」という精神文化をたぶん彼は知らない。自我で自分をコントロールしようとする、自我で自分の感情をマネジメントしようとする、このやり方のみに拘って書かれています。

私と同じ日本人の茂木さんがフローに強い関心を抱くのも不思議だ。左脳を遮断し右脳だけがはたらいている感覚をつくるイメージですが、日本人ならば作りやすいのでは?テキストをこうして書いているときもふと気づけば時々そんなふうになっているけども。

 

皆さんはどうですか?

 

アビリティー・スキル・テクニック


現代の経済社会では仕事における「能力主義」がよく言われます。この「能力」はスキルを指すことが多いです。でも人間が生きていくために、社会生活をする上で本当に必要な能力は、アビリティーであるように思います。ロボット化が進む社会では、仕事においてもスキルよりアビリティーが求められるようになるのではないかと。

能力や技能を表現する英単語には、アビリティー(Ability)、スキル(Skill)、テクニック(Technique)があって、最近の日本で最も使われているのがスキルです。「スキルを磨く」というふうに使われていますよね。テクノロジーに光が当たっている現代はなおさらです。で、テクニックを磨くこととどこが違うんだろう。また、あまり使われないアビリティーとはどういう種類の能力を指すのだろう。今日はそのオリジナル的な探究です。

 

「能力」は四層に分けられるのではないかと考えました。

アビリティーとは、その人間全体に帰属する表現かと思います。たとえば判断力ですが、これはスキルとは言いませんよね。その一つ下層にサブ・アビリティーというカテゴリーを作ってみました。たとえばメイン・アビリティを創造力とした場合、サブ・アビリティーには、発想力、連想力、表現力、企画力、構想力、想像力などがあって、これらもスキルと呼ばれることはほぼありません。

サブ・アビリティーの下層にスキルが位置します。例えば、創造力―表現力の下層には、文章力や画力、創作力、演奏力、演技力などがあって、これらスキルについては努力することによって能力を獲得できる。学校で教えられるのはスキルについてです。上の例でのスキルがアップすると、表現力が豊かだねと評価されるようになる。でも、文章力や演技力のスキルが上がっただけでは創造力にはまだまだ足りません。発想力や構想力などが必要になってくる。

 

一方でスキルアップをするためには、細かなテクニックを覚えていくことになります。ここが能力の最下層。文章力や画力などを想像してみれば、なにがテクニックにあたるのかはすぐにわかるかと思います。たくさんありますよね。これは逆も言えることで、テクニックを無意識のうちに真似ていくことで自動的にスキルが身についていた、なんてこともあります。子どものころから純文学に触れて多くの書物を読んできた人は、語彙力が高いですし文章表現力も豊かです。(ここで、ああ、人生やり直したいと思った方は私と同類です、苦笑)

表現力に難があっても頭の中でイメージ構築できていれば、他者や社会から認められなくても創造力が高い人はいます。幼児なんてまさに、表現力下のスキルはないけどクリエイティブです。

 

で、何を言いたいのかというと、言いたいことがまだ考えついてない段階なのです。すみません。無目的的に、ただ「能力」を分解し分析してみようと好奇心が湧いただけで、何の役にも立たずでごめんなさい。

めげずにもっと書いてしまうと、メイン・アビリティには判断力・創造力のほかに、思考力・実践力・適応力・情感力・統率力・補佐力などがありそうだなと(補佐力って新しいでしょ?)。

ずらずら~っとアビリティやスキルを並べていくと、愕然とするほど自分に足りないものばかりで困るのですが、欠けてる能力をまともにしようと頑張っているうちに時間切れで死んでしまいそうなのでやめておこうと決断しました。(決断力高いです、苦笑)

人間の意思決定には価値観だけでなく、能力もかなり影響を与えていますよね。そして柔軟性と硬直性、消極性と積極性、気が短いと気が長い、などなど個人の気質(キャラクタリスティック)は、能力にも価値観にも意思決定にも影響を与えています。

 

死ぬまでにやりたいことは、上記に書いた認識→意志論のほか、脳科学での左脳・右脳・大脳辺縁系などとの関連性、生理学での内分泌系、遺伝学でのエピジェネティクス、深層心理学、心の哲学、地球一体論、人間の情緒性、このあたりをなんとかして幾つもの連立方程式に組んで、それを解き明かし、ひとつの数式のようなもの(かなり複雑になるとは思いますが)にすることです。まだまだ道のりは長い。

 

 

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