時間を主とし空間を従とする世界


私たちは空間(物質)を主体とする世界観のなかで生きています。これはおそらく、視覚的感覚に過度依存していることと、幼児のころからの教育と慣習によってだと考えています。空間を主とし、時間は従の立場。この構図では空間における運動を時間で計測することしかできません。それがガチガチの固定観念になってしまっている。

 

いま私は、時間を主とし、空間を従とする世界観を創ってみています。

もしかすると植物はそういう世界観で生きているのかもしれない。

 

空間が主である限り、太陽の周囲を回る地球の公転活動が一年、自転活動が一日で、その一年と一日は「同じ時間」とされてしまうわけです。ところが、時間を主とした場合には、人間(人知の物理学)が計測する空間運動を、「毎年も毎日も異なる時間だ」と言うことが出来る。「時間が仮に停止しても人間にはわからない」と言うことが出来る。

宇宙の外側には、異なる時間世界が多数存在しており(地球人類が宇宙と呼ぶほかの宇宙という意味)、「ブラックホールには時間がないだけ」と仮説を立てることもできる。

宇宙の開闢は時間の開闢であり、時間が広がりをもつために空間が引き伸ばされるという論。

ここでいう時間は、個人の主観における「観念的時間」ではありません。地球人類科学の「時間」でもありません。形而上学的(哲学的)な「ザ・時間」です。

宇宙が出来て137億年と地球人類科学では言うけれど、ちゃんと計算して見なければ確かなことは言えませんが、それよりも相当短いと思います。逆に、太陽があと約50億年で活動を終えると言うのは、もっとずっと長い時間(地球人類科学上の時間)がかかると思います。

地球人類は、寿命が延びているように感じているようですが、寿命が延びているのではなく実質時間の伸縮が原因かもしれません。

加齢によって一年があっという間に過ぎるという感覚は、心理学上ではジャネの仮説が現在のところ最も説得力があるものとなっていますが、生物学的に言えば、加齢とともに細胞分裂のスピードが遅くなってくるわけで、細胞が破壊され生まれ変わる、そのひとつの細胞が「自律感覚」するスピードは若い時よりも逆に速くなるわけです。頭や脳の感覚ではなくて、全身感覚で速く感じたものが脳に伝達されているという可能性もあるわけです。

まだ全然まとまっていないのですが、前記事に書いたとおり、「ザ・時間」に私が乗り移って(つまり物理的な自分はここに取り残され)、そうして「ザ・時間」から「地球物理学的自分」を観察すると、確認できないほどミクロの世界の塵なのですがそれは別として、自分の一生どころか古代の海洋植物の時代から魚類時代を経て、両生類や爬虫類の頃の記憶も一団となって、私の中の遺伝的要因すべてが二次元の「絵」のようになって、他のすべての「絵」と複合的に関係しあい、死後、そのどこからでも(ザ・時間の手によって魚からでも)運動を再開させることができる。ただし過去は一切変更できない。

ぶっ飛びトンデモ論なのかもしれませんが、いやもうかなりのトンデモ論でしょう。地球人類の皆さまからすれば。それは私には無関係なので、誰に迷惑をかけることでもないしもっと感性体験してみたい。

ザ・時間が主として、空間(物質)を従とする世界は、はたして人類科学で記述できるのかどうか、もしかしたら論理化できるのか。上記の自分のイメージもおそらく修整が必要だろうし。言語化はできないだろうな、たぶん。

おりをみて考えてゆきます。

 

なお、こんなことばっかり考えていると本当に気が狂ってしまいそうになりますし、現在生きているすべてのことがとんでもなく小さいものに矮小化され、社会とか平和とか5000年後の人類とか、まるでくだらないことにように思えてしまうので、いい加減にやめておかねばならないと思いました(苦笑)

 

 

 

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