『日本』という個性(7)


 

桜の人モード

小学生のときに学校主催の「高原教室」があって、何泊か忘れたけれども山奥の小学校へ出向きキャンプファイヤーを楽しんだ。

『もえろよ、もえろ』などの歌をみなで歌った。

特に記憶に鮮明なのは、「星かげさやかに、しずかにふけぬ」を歌いながら見上げた夜空の美しさ。空気が澄みきって灯りがなにもないなかでの星空に感動した。

この、「さやか」という感覚から入ります。

 

人間の生き方について基本的な自覚は、民族によって異なるものがある。世界史の代表的な民族をみると、歴史のはじめから、ギリシア人やインド人は宇宙を貫く理法の実現を考え、ヘブライ人は、人格的な神の命令としての立法の実現を考え、中国人は、天の道の地上での実現を考えている。

これらはいずれも何らかの客観的な理法・規範の存在を認め、それに従い、それを実現することを人間の生き方の基本とするものである。

ところが、これに対して日本人は、歴史のそのはじめから、ひたすら主観的な無私清明な心を追求し、それを十全な人間関係を実現する倫理として捉えてきた。客観的な理法・規範を追求する姿勢は、今日なお、十分な成熟を見ないでいる。

ひたすら心情の純粋性を追求する日本人の倫理意識は、諸民族との比較においてきわめて特殊なものであることが理解される。

(中略)

伝統的な純粋、無私の追求は、今日は、おもに「誠実」という言葉で捉えられている。

(中略)

誠実、あるいは誠という言葉で生き方の核心をおさえることになったのは、さほど古いことではない。おもに近世以降のことである。しかしそれは、近世以前から、さらにいえば歴史はじまって以来、日本人が求めつづけてきた心である。

古くは「清き明(あか)き心」として捉えられ、中世においては「正直(せいちょく)の心」として捉えられていた。そしhてそれが近世以降において「誠」さらに「誠実」として捉えられたのである。捉える言葉が違うように、「清き明き心」と「正直の心」と「誠」とが、まったく同じ心であるということはできない。時とともにある変化を示している。

しかし、変化の底に、それを貫くものがある。貫くものをわれわれは明らかにしなくてはならない。

(ペリカン社 相良亨著作集 『日本人論』 第三章 純粋性の追求 p63-65 )

※相良亨 (1921-2000) 金沢出身の倫理学者。東京大学文学部卒。東京大学文学部名誉教授。和辻哲郎に師事した。

 

5月の記事で、「きよきあかきこころ」について少し触れました。相良氏の同書から別の引用文もあります。

日本人の「きよし(清し)」「さやか(清か)」の根源は、大自然の神聖なありかたにあります。自分も大自然の一部であると捉え、わが身のありかたとして生き方の規範とした。ここから日本人の純粋性の追求が始まりました。

中世の「正直(せいちょく)の心」は現代で言う「正直(しょうじき)」とは異なります。偽らない、嘘をつかないという現代の正直(しょうじき)よりも広い語義が正直(せいちょく)にはある。

相良氏の言葉を幾つか抜粋して借ります。

「正直は単なる無私ではなく、その無私無欲は状況状況の是非善悪を捉え、そこに生きる心としての無私無欲である。」

「無私無欲としての正直は、是非善悪の決断、慈悲、したがってまた情(なさけ)の根本に求められるものだったのである。」

「中世の人々が、道理にかなった生き方を求める時、彼らはひたすら自己の内面の無私性としての正直の心の確立を求めた。」

「正直は、“正直の頭に神やどる”という仕方でしばしば登場する。これは正直が神に随順する心であることを意味するものではない。正直は根源的には天地と一体の心である。」

(同書 p68 )

以上が「正直(せいちょく)の心」のイメージとなります。

「誠実」「まこと(誠)」については今回立ち入りません。

「無私」と「無欲」が登場してきますが、清明心や正直心での無私は仏教の無私ではありません。俗にいう「私情をはさまない」や「理法をすべてとする仏教」、「自己を空として達観する無私」ではない。むしろ大いに、その人自身の「情」が入るのが日本の清明心です。

「情(なさけ)の根本に求められるもの」とあるとおり、日本人が扱う「道理」や「道義」には、相手の心情をおもんばかることのできる「私」が必要であり、同書では「ときと場合によっては悪事を知って知らぬふりをすることも道理である」という北条家家訓の例を挙げつつ解説しています。

 

「理」や「法」に普遍性をもたせ、これに従うべしとしたのが(今もそうですが)、欧米の価値観であり、インド哲学から仏教への流れ(すべての情は煩悩)、そして中国の人民支配です。日本にも理や法が根付きましたが、情(なさけ)の比重が高かった。その情は清明心から生まれるものだった。時代劇でみる「大岡裁き」に、すかっとするだけでなく罪人に情けをかけるシーンに心の潤いを感じるのは私だけではない筈です。

単純に理や法に従うだけならばロポットと同じです。白か黒か、イエスかノーしかない。そこに情を絡めて統合的判断をする、しかも道理にかなっているというのは、非常に高度な人間の営みだとは思いませんか。

 

インフラが整備され自動電化製品に囲まれ、宅急便がすぐに物を運んでくれる。手紙を書いてポストに入れずメールで済ませられる。電話での声のやり取りも少なくなり、何かあればすぐに法に訴えればいい。何もかもが便利になって、人間が自力で行うことがどんどん少なくなる。疲れることの回避、労力を使うことの回避、面倒なことの回避、人間力を使うことの回避、最近では結婚リスクの回避もあります。確かに、生きることが次から次へと楽になっていって良いことなのかもしれません。

しかし反面、自己の人間力を使って自力で解決する能力、依存なく自立していく能力、忍耐力や反骨心といった人間の底力はどんどんやせ細っていきます。

欧米発のグローバルスタンダードが本当に優れているのか。合理的で楽なことは人間にとって本当に良いことなのか。むしろ日本人が培ってきた、高度な、情を絡めた道理が世に染み渡るほうがグローバルスタンダードとなるべきではないか、という問いを常に持ちつづけたい。楽の道ではなく、相当に人間力を養い発揮せねばならぬ困難な道をあえて歩むことについて、どう思いますか。嫌ですか。

文明の進化によってモノが便利になるのは歓迎しますが、人間が便利になっては駄目だと思うのです。

 

日本人の純粋性の追求は、スポーツの国際大会におけるフェアプレーの精神によく現れています。ともすれば勝利至上主義で結果ばかりを追う欧米や東アジア他国の価値観に感化されそうになりますが、目に見えない本当に大切なことをこれからも大切にしていきたい。

個人的な「情」ありきのちょっと変わった日本流の無私の道理は、「いき」という文化を編み出しました。次回は「いき」について考えてみたいと思います。

 

最後に岡倉天心の言葉に純粋性の追求をみます。

 

It is the icy purism of the sword-soul before which Shinto-Japan prostrates herself even to-day. The mystic fire consumes our weakness, the sacred sword cleaves the bondage of desire. From our ashes springs the phoenix of celestial hope, out of the freedom comes a higher realization of manhood.

今日でも、神道日本がその前にひれふすのは、剣の魂の氷のような純粋主義である。

その神秘の火はわれわれの弱点を焼きほろぼし、その聖なる剣は欲望の奴隷を斬る。

われわれの屍灰(しかい)から天上の希望の不死鳥が翔(と)び立ち、欲望から解き放たれた自由から、より高い人間らしさの自覚が生まれる。

(講談社学術文庫版 岡倉天心著 桶谷英昭訳 『茶の本』 英文p149-148 和文p85 )

 

読んでお解りのとおり、悟り達観した純粋主義ではなく、熱情に満ち、気合の入った純粋性の追求であり、求めるところは「より高い人間らしさ」です。

 

※岡倉天心(1862-1913)は日本の思想家(個人的には美学者と位置づけています)。アメリカ留学中、街の中を闊歩していた際に1人の若いアメリカ人から冷やかし半分の声をかけられた。「おまえたちは何ニーズ?チャイニーズ? ジャパニーズ? それともジャワニーズ?」。そう言われた天心は「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」と流暢な英語で言い返したという逸話をもつ。(wikiより)

※『茶の本』は1906年5月にニューヨークで出版された。引用した講談社学術文庫版は岡倉の英文を桶谷が翻訳したものである。それ以前にも1903年に『東洋の理想』をロンドンで、1904年に『日本の覚醒』をロンドンとニューヨークで、いずれも英文で出版している。

※同時代に活躍した新渡戸稲造(1862-1933)の『Bushido(武士道)』は1900年にアメリカで出版されている。アメリカに渡った仏教学者の鈴木大拙(1870-1966)は、1900年にアメリカで仏教書(主に禅について)を英文で出版し禅文化を広めた。21世紀の軽佻浮薄な日本政府は「クールジャパン」などと言って表面上だけの「型」や「形」、「単なる流行」「自己礼賛的思い込みの文化自慢」を海外に紹介し恥をかいているがその恥にも気づいていないようだ(苦笑) 例えば「おもてなし」を宣伝することがいかに恥ずかしい行為なのか解っていない日本人はデービッド・アトキンソンを読んだ方がいい。