しつけと体罰/刑罰論からのアプローチ


 

谷の人モード

体罰の是非が問われるのは良い機会だと思う。世界的にも教育に体罰が必要か否かについて賛否が分かれ、問題として取り上げられている。ヨーロッパで特に躾の厳しいドイツやイギリスにおいてさえも、体罰を禁止する動きが加速しているが、一方で、イギリスの学校では一旦は体罰を禁止したものの、あまりの秩序の乱れにクリスチャンらが業を煮やし、「体罰を復活」の訴えが最高裁に出され、以降2006年からは条件付きでありながらも体罰を復活させた。

現代の日本では、「何があっても体罰はだめ」という基本的にすべての暴力反対する立場の人、「子どもの体が危険」「子どもの心も傷つく」と子どものことを心配する人、「体罰を行う親や指導者は身勝手な支配的欲求でそれを行使する」とし体罰を行う人に悪者のレッテルを問答無用で貼っていく人、などがいる。

一方で、体罰は必要だとする、主に中高年男性が主体だと思うが、体罰容認派と呼ばれる人たちがいる。

ここで何の議論もなく、ただ単に体罰は良いことか悪いことかの白黒をはっきりさせようとするのは、反知性的な思考停止であると言わざるを得ない。なぜならば、「罪」に対する「罰」というテーマは、人類文明はじまって以来の、未だ検討課題の域をでない深いテーマであるからだ。そう簡単に決着のつくことではない。立法化して体罰を禁止すれば一気に思考停止が加速する。法に依存すれば人間の理性はどんどん衰える。

 

「罰」とは何か。

私たちはここから始めなくてはならない。

 

現代までにつちかってきた人類の叡智のひとつに刑罰論がある。刑論での罰に対する理念とロジックは、学校教育の現場や家庭における躾の現場にいろいろと応用できるし、大いに参考になると思う。

理屈でいくら言っても改善しない、悪いことをやめないという人や子どもは一定数存在する。人類史上、刑罰が無くなったことが無いことを思えば、「人間を法秩序に組みこまなければ自然に悪いことをする」という、荀子や韓非子が主張した性悪説を無視することはできない。理屈で諭して悪事がなくなるのであれば、警察という暴力も必要ない。死刑や懲役という法の強制権力も必要ない。

 

まず、刑罰論を分ける。

 

1. 応報刑論

A 絶対的応報刑論・・・悪い行為を行ったのだからその報いを受けなければならないという、正悪絶対論からの制裁。一神教の国々では神が念頭にある。

B 相対的応報刑論・・・刑罰があることで社会目的が達せられるという立場。以下の目的刑論が現代では主流となっている。法律的応報刑論については省く。

 

2. 目的刑論

A 共同体秩序を保守するための一般予防論・・・法秩序が十分に機能していることによって安心できる社会を形成する。個々みずから法を破らない意識をもつ。

B 威嚇による抑止効果を目的とする一般予防論・・・法を破ったらこのような罰を受けるという威嚇によって、抑止効果を期待する。

C 罪人を隔離する特別予防論・・・社会秩序維持や社会不安を増幅させないために、罪を犯した者の自由を束縛し一般社会から隔離することによって、社会の安全と安心を保守する。

D 罪人を更生させるための教育的特別予防論・・・今後の再犯防止を目的とし、罰をもって教育を行い、その人の将来の罪を予防する。

 

私たちは日本の法律を守る。なぜ法を守るのか。2-Aの目的を皆で保守していこうというポジティブな発想で法を守ることもあれば、2-Bの法の威嚇によって、過ちを犯すと辛いというネガティブな抑止効果によって法を守っていることもある。聖人君子などいないのだから、誰しも2-Bを否定することなどできないはずだ。

私たちは国家だけでなく、複数の共同体に重複して所属している。その共同体それぞれに法(おきて)がある。会社には社則があり雇用契約上の罰則が定められている。学校の校則には停学、退学の要件が定められているし、学校によっては条件付きで体罰を許可している。正座やグラウンド一周などの罰も体罰の範疇だ。家庭の家族共同体の場合も、小さいながらその家の法(おきて)が無意識のうちに存在しているはずだ。趣味やスポーツのクラブにも法がある。法には罰がある。

 

罰には、正の罰と負の罰がある。

1.正の罰は制裁を加えること。

2、負の罰は権利を取り上げること(例えば子どものスマホを取り上げること)。

制裁には体罰だけでなく、経済罰(罰金や財産没収)、社会罰(悪事を公表し信用を失墜させる。社会からの批判にあう)などがある。

日本の文化の特徴として、本人の内罰を求める(自主的に自分が悪いことを反省する)傾向がある。内罰的に自省しないと反省の色が見えないと言われることがある。内罰はとても大切なことではあるけれど、内罰と外罰のバランスも教えていくべきだ。

子どもからの外罰には親や指導者の至らないことへの指摘がある。大人は自分の立場と心を守りたいがために、指摘にかんする子どもの言論の自由を封じ込めてしまうきらいがある。もし指摘が的外れであれば、的外れな内心の反抗心を氷解させる効果もあるので、恐れずにすべての言い分を聞いてあげた方が良いと思う。

 

学校や家庭における子どもの教育やしつけは、法と罰によって悪いことをしないようにさせるという基盤の上に、立派な大人になることを目指すという目的が立っていることを忘れてはならない。

法と罰の運用は公正でなくてはらなない。恣意的に気分で罰を変えるようでは法への信頼が薄れる。

 

このように刑論からのアプローチで罰を考えることは有益だと思う。

罰の論理を原理からロジカルに考えることで見えてくるものがあるはずだ。罰の方法論には多様性があることを知ることもできる。

 

自身の体験に基づいたイメージも結構だけれども、それは、視野狭窄になりやすく抜け落ちたものが必ずある。頑迷固陋な持論と先入見によって認識を改めることができなくなる。しつけや人間教育は個々の場面によっても、親や指導者の個性によっても、子どもの個性によっても、その相関関係によっても、価値観と手段は大きく異なって当然である。「しつけと教育はこれだ」というふうな、すべての子どもをターゲットとしたステレオタイプの正解などあるはずもない。

おとなしく聞き分けのよい子どももいれば、やんちゃくれの悪ガキもいるのだ。

例えば、反抗期に暴力的行為を繰り返す子ども、いじめを繰り返す子ども、親や教師をなめきって反抗的態度をとりつづける子どもを殴りつける体罰は否定されるべきだろうか。口で言っても一向に悪行を繰り返し、他の子どもに迷惑をかけ続ける子どもは放置するしかないのか、それとも少年院送りとして排除するほうが面倒がなくて良いのか。それは教育の死ではないだろうか。

私は、愛の鞭という綺麗ごとの言葉は大嫌いだが、個々の場面と個々の相関関係、そして手法の条件付きでの体罰については、先入観を排除した議論の俎上にあげるべきではないかと考えている。

 

さて最後に、嫌われる感情論であるけれど、つまり感情的に怒ることは厳に慎まなければならないということについてだが、他者の怒りを知ること、他者の怒りが自分へ向けられた怖さを知ることはマイナスの体験だけではないように思う。絶対に理性的に振舞わなければならないという縛りは相当な心理的抑圧になる。理性的に振舞うことは正しいとしながらも、たまには、感情的に怒ってしまうこと(やっちゃったという反省付)も有って良いのではないか。どうだろう。完璧な親や指導者を目指すよりも、自分が至らない人間であることを自覚し(自己正当化に甘えるのではなく)、この程度の余裕はもっていたほうがよいのではないでしょうか。