リベラリズム考(5)―個人主義(ⅰ)


 

水の人モード

リベラリズム考(4)―Liberty からのつづき。

 

今回は前回の流れからリベラリズムの批判と吟味についての論考を書く予定をしていたけれども、まだ批判には早いと考え直した。リベラリズムの別の側面についてを更に考究するために路線変更をし、今回は、個人主義についての考察をしてみようと思う。

リベラリズムの性格の中核には個人の尊重がある。

日本人は海外からの評価的にも自己評価的にも、「個人」として成熟していないと思われ思いがちであるところは皆が知るところだろう。いったい「個人主義」とは何か、日本人がよく使う「個人的にはなんとかかんとか」という表現。正しくは私的にはなんとかかんとかを使うべきで、個人と私人の使い分けをしっかりしよう。この表現の「個人」(私人)とは異なる西洋思想に根付く個人主義への理解を深めよう。

あらかじめ書いておかねばならないのは、個人主義が確立されている欧米が優れているだとか、進んでいるだとか、あまり確立されていない日本文化が劣っているだとか、相対的に優劣是非を判断するものではない。前記事の後半に山口真由さんの論考を引用したが、日本社会の連帯性や曖昧調和性、全体のためならば個を抑えるという態度は、もしかすると彼女が述べているように、アメリカの限界を超えうる価値があるかもしれないのだ。

「個人主義」という日本語的な先入観をもたずに、西洋のインディヴィデュアリズム(個人主義)について考えてみたい。

 

■ 個人主義 [英] individualism

個人主義は、(1)個人と社会の関係や存在性格についての〈存在論的主張〉、(2)社会現象・構造の分析・記述は、成員諸個人の選択行動のそれに還元されるという〈方法的主張〉、そして、(3)個人の生き方や価値の選択の仕方についての〈規範的主張〉という、密接に関連するが相対的には独立の、複数の主張の複合体である。

(『岩波哲学思想事典』 p523)

上記のとおり、個人主義は大きく3つの要因から成立していることが定説となっている。おそらく日本人が描く個人主義のイメージは、私人主義、孤高主義、利己あるいは自己主義という感じではないだろうか。

西洋思想での個人主義をざっくり私なりに表現するならば、「人間の一人として」を重要視する「個体主義」である。個人主義はコミュニタリアニズム(共同体主義)に対立しない。むしろ融合する。対立させるとすればトータリアニズム(全体主義)だが、基本的な性格が異なる(上がっているステージが違う)ので対立概念とするのは不適切である。相対的見地の先入観および対立二元論は足かせとなるので捨てる。

まず、どのようにして西洋のインディヴィデュアリズムが成り立ってきたかである。少し長い引用になるけれど丁寧にやります。上記の引用をつづけよう。

【個人概念の生成と特質】

したがって個人主義を考えるにあたっては、〈個人〉という概念が、〈社会〉と〈規範〉の双方にかかわる基礎概念として登場してきた歴史を確認する必要がある。

古代の神話・悲劇に明らかなように、集団と個人との軋轢は、太古からの倫理学の根本問題であり、その意味では、個人という概念は、言語・意識と同世代である。

しかし、近代以前では、個人(individual)という概念は、集団を分割(divide)していくと、それいじょう分割できない(in-)部分=基本要素、でしかなかった。しかし近代化とは、そうした集団ー部分(要素)という図式によっては、イマ・ココなる自己であるということが把えきれなくなる、という出来事であった。

西欧にそくして言えば、一方では、囲い込み、ペスト、農民蜂起という大規模な死・流血と相互不信をも伴って共同体が解体し、他方ではむしろ「共同体が果てる」ところ=市場における匿名の個同士としての交換が、生活物資の調達の基本回路となることによって社会関係が再編されるとともに、個人であること、共同体に属していることとの乖離の意識もまた強まっていく。

こうして「集団の部分=要素」としては同定できない存在として、個人という概念が形成されてくる。

個人の決断を最優先させる宗教改革や、自己意識の明証性を唯一の基盤とするデカルト哲学は、こうした個人概念の生成の重要な里程標である。

このように個人という概念は、共同体が解体して、社会全体が人のいかんを問わない諸機能システムの複合体として自律化することと相関的な概念である。

(上記同事典 p523)

 

一読しただけではイメージを掴みきれないが整理していこう。

 

(1)存在論的主張

これは古代ギリシャ哲学から連なる「全体」と「個」の相関的テーマである。いわば人間を物質(物体)として捉える、アトミズム(原子論)的主張。

個人は個体(原子)として自律的運動を行うが、個の集合体である社会もまた有機体のように自律的運動を行うという考えかたである。したがって存在論的主張としては個人主義と全体主義は同根に扱われる。

個人が全体を利用するのか、全体が個人を利用するのかは、どちらか一方を優位に立てることはできない。なぜならば、個人の利益のために社会があるとするときに、その社会は個人の集団を全体として扱わなくてはならなくなるから。社会を運動させるのが特定の個人になるのならば、政治的には独裁政治へ向かうし、全ての個人が納得できるような社会の運動は不可能である。

よって個人主義の存在論的主張においては、哲学的考察は続けるとしても、個人の自律と社会の自律が存在すると述べるにとどめるべきだろう。

この「自律」については次の記事でとりあげる。

 

(2)方法論的主張

個人を運動体として捉えるところで、社会を記述する方法論として個人主義を使うという、社会学の範疇にある、客観視点をもとにした主張。

社会契約論が絡む。

「個人」に焦点を当てるのではなく、「個人主義」そのことに焦点を当て、個人主義ありきで、社会を個人主義と個人主義の契約から説明しようとする理論。

リベラリズムとの関連性が無いわけではないが、今回はこの部分を掘り下げることは省く。

 

最も重要であると思われる(3)規範的主張については、稿をあらため次の記事で連続して書いてゆく。

 

リベラリズム考(6)個人主義(ⅱ) へつづく。