リベラリズム考(4)―Liberty


多義的であるリベラリズムの淵源が啓蒙と寛容にあることを再確認した。次は、啓蒙と寛容がいかにして「Liberty」に結びついていったのかについて、自由と邦訳されるリバティの本質とは何かを考えてみたい。

まず英和辞典から「liberty」と「freedom」を引いてみよう。

■ liberty

【自由】
1.(圧制、外国支配などからの)自由;(監禁などからの)解放、釈放
2.(権利としての)自由。信教の自由、言論出版の自由。
3.自由、許可。(出入り、使用などの)自由
4.〈特に許された自由〉。(王などから与えられた)特権、特典。

【過度の自由】
5. 勝手、気まま、無遠慮。

■ freedom

【束縛のなさ】
1.解放。免除。(例)飢えからの解放。痛みからの解放。偏見のないこと。

【自由】
2.自由。(例)自由な身分、自主独立。学問の自由。行動の自由。
3.自由。権利。自由に利用できる・・・。

【拘束のなさ】
4.のびのびしていること。自由奔放。自由自在。

(三省堂版 『グローバル英和辞典』)

 

ヨーロッパの自由は遠く古代ギリシアから始まり、様々な変遷を経て現代に至っている。よって上記のように多義的である。そのなかから近代的自由についての定説の一部を以下に引用する。

[英] freedom,liberty [独] Freiheit [仏] liberté

近代的な意味での自由の観念は、自由が、人間が人間であることに基づく権利として観念されることによって成立した。(中略)

古代以来、自由であることは、外的な干渉の排除と従属民への支配を現実に行いうる能力=権力を有するということを意味してきた。それに対して、近代的な自由の観念は、そうした個別具体的な能力=権力にではなく、人間の普遍的属性に結びつけられた。

(岩波書店版 『岩波哲学思想事典』)

 

日本の「自由」についての記述はこうなっている。

明治期には、当初、liberty や freedom の訳語として、〈自主〉〈自在〉などが用いられ、〈自由〉は否定的なニュアンスをともなうことが多いので避けられていたが、中村正直『自由之理』が現われるに及んで、訳語として定着し、自由民権運動において積極的に主張されるようになった。

(同書)

 

おそらく多くの日本人が「自由」のイメージとして描くのは、自由自在な存在のフリーダムのほうではあるまいか。福沢諭吉もリバティの邦訳は難しく適当な語が無いと述べていた。

フリーダムは既に自由になっている状態を表わす。

表現の自由、言論の自由は、既に権利として確立されている自由なので、Freedom of speech である。

一方、アメリカ建国の精神の象徴である自由の女神像は、Statue of liberty だ。

語感は次のようになるのではないだろうか。

フリーダムは、既に存在している自由、有している自由。自由な状態にあること。客観的。

リバティは、自由になろうとする、自由を獲得しようとする。動きが伴う自由。主体性がある。

 

リバティには政治的、権力的束縛からの解放を欲するといった語義が含まれており、それが「啓蒙」と「寛容」を引き込み、社会運動としてのリベラリズムへと繋がったのだろう。但し、運動としてのリベラリズムは、風潮や社会をつくることで個人にフリーダムを与えようとしているわけで、いわば「社会という権力」を使い全体の個人へ圧をかけようとするため、本来のリバティとは異なる性質のものとなる。(後述で捕捉する)

また、完全なフリーダムは無く、例えば表現の自由にしても、個人の名誉を傷つけないこと(基本的人権の優先)、公共の福祉に反しないこと、個人の自由を抑圧しないことなどの「制限付き」のフリーダムである。日本国憲法にも自由権の濫用は認めないとある。

既に確立された制限付きのフリーダムの権利を守ろうとするのはもはやリベラリズムとは呼べず、保守の領域になってくる。そのための運動やデモは保守的運動だと言える。憲法改正に反対する勢力、護憲派と呼ばれる人たちは、このテーマでは保守ということになる。

 

山口真由氏の著書 『ハーバードで喝采された日本の「強み」』 に、アメリカ生活で体験したリベラリズムをすっきりと言い当てている一文があるので紹介する。

宗教などの伝統的価値観を尊重するコンサバと、そういう伝統を打ち破り、個人の選択で自分の人生を切り拓くことを是とするリベラル

コンサバとは、[英] conservarism [仏] concervatisme 邦訳で保守主義

保守主義とは常に自己の時代をなんらかの解体の時代と捉え、それ以前のものの固有の価値を自己の時代と次の時代のために救い出そうとする思想である。

(岩波書店版 『岩波哲学思想事典』)

保守主義の歴史も古く、また現在でも多義多様であり、「旧保守主義」「青年保守主義」「制度論的保守主義」「新保守主義」「解釈学的保守主義」などがある。政治的保守、経済的保守、思想的保守、文化的保守などのジャンルに分けてもさまざまとなって、完全な保守主義だとか真の保守主義は有り得ない。それを強引にコンサバ派とリベラル派の二極対立構造に持ち込んでいるところに、アメリカの深い病い(思考停止と国民の分断)がある。

 

さて、リベラルについて山口さんは、「個人の選択で自分の人生を切り拓くことを是とする」 としている。まさしくそのとおりで、人生は自由で自主的な選択と決断の連続だ。

同書には最高裁判事の文言が引用されている。

人権の基本は「政府からの自由」であって、「政府による自由」ではない

アメリカ政府があなたに自由を与えるわけではない。政府があなたの自由を、違法行為などを除き限定的にしか束縛しないということ。自由権を行使したければ自主的にどうぞ、だ。アメリカ人の自主自立の精神、我らがリバティによって建国してきたという自負と誇りがうかがえる。

このように、現状行われているリベラリズムの一部、ポリティカルコレクトネス運動は社会が自由を個人に対し準備しようとするもので、リバティとは異なる。否、むしろ「個人の自主性による、自力で自由を勝ち取る権利」を奪いとる負の運動という矛盾をはらみ、「リベラル」という言葉には欺瞞がひそむ。

 

リベラルは未来へ向かって善い方向へ変えていこうとすることであり、人間の理性を信じ、人間が進歩していくものだという思想に支えられる。

一方のコンサバは、人間は不完全であり放っておけば悪いことをする人が多くなる。だから法や宗教、伝統的秩序での束縛が必要だ、変化は進歩ではなく退廃や混乱、不安定を招くことが多々ある、という思想に支えられる。

17世紀までは世界的にコンサバが主流だったが、産業革命や科学革命、進化論などの影響もあってリベラルの台頭がある。中国では孟子の性善説よりも荀子の性悪説、韓非子などの法家思想が主流となった。一方の日本では性善説が日本流に加工され、庶民に浸透し、社会信頼につながった。根本的に日本社会の底流には「善きものをどんどん受容して変化に対応していく」というリベラリズムがある。細かな法律を必要としない社会が19世紀まではあった。

本居宣長はこう述べている。

道あるが故に道てふ言(こと)なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり

私の意訳になるが、社会に「道」(世の善き秩序・規範・道理)があれば、わざわざ「道」を言葉として書いて広めることもなく、古来より日本には、なんの「道」も無いように思えたが、実は、全国民、庶民の空気・風土によって造られた「道」があったのだ、ということだと思う。

 

最後に、本テーマからは少し外れるけれども、山口さんの上記同書から、どういう日本の「強み」がハーバードで喝采されたのかについて、要点を簡略的に引用する。

〇 二極対立に陥っている限り、対立する両者は永遠に平行線のままだ。だからこそ、今アメリカをはじめとする世界はさらなる次元への進化を欲している。そして、そのヒントは日本の文化の中にあったというのが私の主張である。(p163)

(中絶問題に関して、アメリカの国論は悪と正に二分されているというテーマで)
〇 中絶という選択を100%悲しいというのも、100%満足しているというのも、嘘くさい。人間の複雑な両面性が見えて、私たち日本人は初めて中絶した女性の感情をリアルに感じる。ところが、二極対立構造では、この人間の複雑さを捉える術はない。どちらのウェブサイトの体験談も女性たちが嘘を語ったとは思えない。(中略)中絶を経験した女性たちの心の機微は捨象され、二極フレームに合うシンプルなストーリーに当てはめられていったのではないかと思うのだ。(p175-176)

〇 私たちの文化は白黒つけずに『グレー』をそのまま受け入れます。(p183)

〇 個人の権利を重視するアメリカに対して、日本は社会のなかの連帯と調和を重視します。家族の一員として個人がいて、家族は地域を構成し、その地域の広がりが社会を形づくっていく。家族、地域、社会と連続してより大きなものへとつながっていく。この周囲との関わりのなかに個人がいるという発想は、今でも日本に残っています。(p185)

〇 そう、アメリカの「二極対立」文化とは真逆の、「曖昧調和」文化とでもいうべき風土を日本は持っている。そしてそれは、アメリカの限界を超えうる、大きな可能性を秘めたものだった。(p186)

〇 曖昧さのなかで調和を重んじる。個人が家族を構成し、家族が地域のなかに溶け込み、そしてその地域の延長線上に社会がある。こういう発想のもと、日本社会には、対立軸を明確にするよりも、対立が表面化しないように、違いを曖昧なまま呑み込む風土があった。異なる文化を取り込みながら、固有の文化のなかに溶け込ませてきた国の知恵である。

家族や地域コミュニティという、集団のなかで生活する日本においては、他者への配慮が必要不可欠だ。相手はどういう背景を持って、どういう思考体系を持ち、表情の裏で実際には何を考えているかを想像する。他者に配慮し、同化する風土が日本にはあった。

その吸収して、同化する力を、私はハーバードで評価されたのだろう。(p206-207)

 

日本の「強み」は二つあって、白か黒かでの二極分断を避ける知恵としての、複雑な曖昧さを受け容れ育てる『グレー』の文化が一つ。(アメリカはパッチワーク、日本は中で溶け合うごちゃまぜのスープという表現を使っている)

もう一つは、妥協したくなる自分と戦って、勤勉に努力し、技を極めようとする日本の職人文化からくる気風だと述べている。(※関連コラム:日本人の己の心にかんする純粋性への追求。 『「日本」という個性(7)』 の特に後半部分。)

本書を読む限りにおいて、彼女個人にはリベラリストの傾向を感じるけれども、日本を愛し、伝統的なよき文化を見直し生かしていこうとするコンサバの心が根っこにあることがよくわかります。最後のほうに次の一文がある。

私たちは極端な自己否定に走ることも、過ぎた自己肯定をすることもなく、等身大の日本を、そのまま誇りに思うべきではないか。(p220)

 

次の記事では、本記事の中盤で少し扱ったリベラリズムの欺瞞と矛盾に対する批判を含め、リベラルの吟味をしてみたい。

次の記事では個人主義について考えます。

 

 

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