principle(1)序


観念論と実在論および直接視座にかんする subject シリーズ( 1 ~ 10 )の新たな展開として新章に入る。principle は「原理」という意味でタイトルに付けた。人間「個」の原理を追求していこうと思う。価値観、価値付与、現象の認知から解釈、欲求の生成から表現(実行)、意思と意志、意識と無意識などを根本原理から解明したい。

来年か再来年には subject シリーズと principle シリーズの融合ができるかもしれないと、ぼんやりと考えている。けっして目指す目的ではないけれども。もちろん、ブログ的意味の発信としては principle シリーズだけでなく、多様なテーマについて書き進めていく。今年は簡単に短文をアウトプットできるTwitterに表現することで満足してしまい、サイトへの論考のアウトプットが少なくなり、美学価値の創造も体系化も全く進んでおらず反省至極。

サイトの国際化にチャレンジし多言語発信をしていこうと7月1日に書いたことで、書き込み表現のハードルを上げ過ぎたのも一因だと思う。主軸はアウトプットを機会として考察し、アウトプットされた自己の文章を他者の文章として眺め更に考察することであり、表現や誰かに伝えることは二の次であった。初心に戻ろう。文章は敬体でなくなるべく常体で書こう。多言語翻訳は、時間が余って気が向いた時のおまけとしよう。

新章のプロローグは書いた。

しかし次のページに何を書くかとか全体構想などは全く考えていない。未計画、未設計、気の向くままの思いつきを綴っていくことにする。

とは言え、根本原理を考察する上では「人類知の限界」があって、未来に究極まで人類知が進歩しても、それを遥かに超える「何か」によって人類は包摂される。「何か」は言語でも数字でも表現できないことについて、まず始めに考えておいた方が良いだろうと思っている。謙虚に。

 

 

個人的無意識構造と言語の「場」


古代ギリシア哲学のプラトン、アリストテレスから始まった認識論について、以前から「subject」シリーズ (1)序 ~(10)で考察している。私独自の「観念論的視座ー実在論的視座―直接視座、のディオ・トレビスタ」の認識構造を構築し論理展開している。このシリーズの現段階での最終記事は7カ月前の (10)客観世界(改)

ここから更に新しい地図を描こうと思う。

今までは過去の哲学者全員がそうであったように、「人は」「人の認識は」を主語として「人類の認識は同じ構造をしている」が前提にあった。これを覆す。

というのも、記憶の仕方、無意識と意識の接続、そうしたものに全く異なる幾つかのパターンがあることを確信した。例えば記憶ひとつとっても、言語中心に記憶している人もいれば、イメージ中心に記憶している人、場所(場面ではない)中心に記憶している人、時間軸中心に記憶している人がいる。他にもあるかもしれない。多くはその混合だと思うが、現時点では人類の謎と言っていい。こちらは無意識領域。

もう一つは、意識上での言語の「場」の開きかたが個人によって異なること。常に意識上で言語の「場」を開いている人もいれば、私のように普段は全く開いていない人がいる。これはいったいどうしたことだろう。そして言語の「場」中心に思考を展開する人もいれば、私のように非言語のイメージ中心に思考を展開する人もいる。これは「思考の癖」どころではないと考えている。思考構造が違う。

アリストテレスもデカルトも、カント、フッサール、イギリス経験論者たちも皆、認識論を探究してきた哲学者全員が「人は」を主語としてきた。彼ら全員は間違っていたと、私はここに断言しよう。

個人によって認識論は異なる。と言っても人類数分があるわけではなく、幾つかのパターンがある。それは、段階的に、2かもしれないし7かもしれない。大別するならば10以上ということはないと思う。

この理論化は壮大過ぎて、当然、私一人の手には余るが、途中で死を迎えようともライフワークにしたい。

 

 

新しい発信スタイル


5月1日に日本では「令和の時代」が始まり、2か月が経ちました。「令和」の意味について賛否いろいろあったけれど、さすが飽きっぽい日本人らしく、もうその話題は消えました。「令和」の呼び名にどんどん馴染んでいく。「平成」はどんどん古くさくなる。これは「昭和」で体験済みですね。

「令和」を日本政府は「Beautiful Harmony」として海外に紹介しました。しかし考案者とされる中西進教授によれば、「令」は「うるわしい」とされています。

「令」はうるわしい 新元号「考案者」中西進氏が語る

一般的に訓読みをしない漢字だからなじみが薄かったのですが、『令(うるわ)しい』という概念です。『善』と並び、美しさの最上級の言葉です。

中西教授の言わんとしていることを汲み取れば、Beauty とは日本語のコンテクストが異なると思うのです。「令人」や「令婦人」「令息」などに使用される「令」のイメージは、美しいというよりも「上品」ではないでしょうか。

私が海外に紹介するとすれば、「令」は Elegance であり、「令和」は Elegant Harmony としたい。

 

ところで、「令和の時代」は情報の国際的共有が庶民レベルで本格化すると予想しています。このウェブサイトも、今回の元号変更を機に、と言っても2か月遅れなのですが、国際化することにしました。

まず手始めとして、英語、ドイツ語、スペイン語、フランス語、中国語(簡体字)、中国語(繁体字)の6か国語、日本語を含めると7か国語で発信していくことにしました。アラビア語他は今後の課題とします。

Google の翻訳アプリにお世話になりますが、同じページの全文自動変換ではなく、1ページずつ(作業としては1文章ずつ)翻訳し、別のページを手作業で作っていくことになります。この理由は検索にかかりやすくするためです。

 

7か国語で発信していく準備として、プライバシーポリシーや、 Google の翻訳アプリを利用する上での遵守すべき帰属表示や免責表示などを、7か国語で別々に表示しておかねばならないことを学びました。プロフィールも重要です。

コンプライアンスを最初に強化しておくことはビジネスもプライベートも基本です。表現の自由を実現する社会は、他者の知的所有権を尊重した上で、社会を構成する者が相互に努力し続けることで成立し保たれます。

 

作業量が膨大なので、コツコツと増やしていくしかありません。翻訳の精度はたぶん低いです。でも、Google の翻訳精度は下がることはなく上がりつづけますし、自動で翻訳ページ自体が作成されていくのも時間の問題でしょう。

まず日本語の原文を、Google の翻訳アプリを使用し英訳します。ところがその英文のままでは、ほとんどの場合、意味が全然異なってしまいます。そのため、日本文を変更しつつ英文を変更していくという作業をします。英文が完成したら、英文をその他の言語に翻訳していきます。

世界の使用言語数上、72億人のうち30億人以上の部分はカヴァーできているはずです。しかしここは個人のウェブサイトでアフィリエイトもありません。書いているのは学問的探究がほとんどで、7か国語でここまでやる人も珍しいかもしれません。

ウェブサイトの新しい発信スタイルの試みは、非目的的です。何か自分に対する利益があるとか、他人に対して利益を提供するとか、そういう功利目的の考えは一切なく、目的はありません。「なんとなく、このスタイル」のイメージです。

何も起こらないのかもしれませんし、海外からサイト内容へのコメントや問い合わせなどの、外の世界からのアクションがあるかもしれませんし、このスタイルで発信していくことで自分自身の内面の何かが変わるかもしれません。

また、このサイトの全体構造を構想し直しています。各ページのコメント欄を解放することにしました。サイトから削ったリンクもあります。マルチリンガルヴァージョンの投稿記事は、今日のこの記事からスタートです。翻訳作業は次の日になることがあるかもしれません。

 

※ サイトのマルチリンガル化にチャレンジしましたが、固定ページと断想ページを合わせると500ページを超えることになり、6か国語で3000ページについて翻訳機能を使うにしてもページ制作は自動ではなく手作業なので、あまりに労力が大きく他のことができなくなってしまい、断念しました。

今後、自動的にマルチリンガルのページが生成されるようになる時期が必ずやってくると思いますので、そのときに再チャレンジすることにします。

 

 

平成最期の日に


今日で平成が終わる。

平成に置き去りにしてゆくことと取り戻すことをまとめておきたい。自戒の念を含め少々辛口になる。

 

1.「平成」は、「昭和」を卒業し「令和」へステップアップするためのモラトリアム期間という一面があった。

敗戦国としての日本

日本政府が「戦後レジームからの脱却」を標榜しても、米国からの圧力をはねのけ米国への依存度を減らし、敗戦国体制を克服した完全な独立国であることを世界が認めないかぎり、日本の独りよがりにしかならず時間がかかることを学んだ。米国との対等な国家関係を長期に目指し、急ぐことは終わりにしよう。

高度経済成長した日本

戦後、日本経済は急成長した。1980年代後半に不動産バブルが起き89年を頂点とした高度経済成長。経済大国日本。そしてバブル崩壊から平成が始まった。失われた10年と呼ばれ、失われた20年と呼ばれ、つまるところ失われた30年となった。30年間そして今もなお勤労者の給与所得平均は下がり続けている。この30年間、政府は経済復興を提唱し続け国民はそれに期待し続け、挫折し続けてきた。過去の栄華を振り返っての「夢よもう一度」はいいかげん終わりにしよう。

日本人の優越コンプレックス幻想

戦後の経済成長は俺たちがやったんだ。高齢者はこう言って胸を張る。確かに日本の自動車産業や精密機器産業、家電産業は世界に名をとどろかせた。土木建築業界も国内経済全体を引っ張った。しかし成長の主たる要因は3つ。米軍空爆による国土破壊の反動、戦後の占領軍による腐敗した政財界体制の解体、そして何よりも人口急増ボーナスだ。各産業は消費者がいなければ潤わない、潤わなければ投資ができない。消費者が急増したことで設備投資が爆発的に進み、研究開発に十分な資金投下があればこその技術の進歩であった。もちろん日本人の勤勉性と職人気質がシナジー効果を生んだことは否定できない事実。

だが経済成長の主たる要因を「俺たちだからできたんだ」とするのは勘違いも甚だしい。もう「昭和自慢」にはご退場願おう。バブル崩壊後に社会人となった50才以下の人たちの能力が原因で、日本経済が下降したような言い方をするな。逆に「俺たちが今の低迷日本をつくってしまった」と自らの責を痛感し内省をする高齢者の方々のなかで、いまだ社会で活躍することに意欲のある人には令和新時代のために、ともに汗を流して頂きたく思う。

自らに何の責も感じずに政治家や社会、景気のせいにするのは、奴隷根性から自立できていないか、無責任きわまる人格か、自分を慰めるなさけない弱虫か、欺瞞か、あるいは無自覚な自己欺瞞だ。

 

2.IT文明への過信と偏重によって失われた、ナマの人間らしさの復権を。

IT進化に対する無自覚な信仰と病い

濁流の如く襲い掛かる大量情報の波に抗うすべもなく、流されるしかなかった。「(IT文明に)ついていく」「(IT文明に)ついていけない」という言葉の流行は、本質を見つめる目を失った「(IT文明に)流されている状態の目からの景色」でしかなかった。IT文明は進化し続け人間社会にとって善だという無自覚な信仰。情報化社会が産みだした功績は計り知れないが、一方でナマの人間の触れあいが激減した。平成後半に厳しくなったハラスメントリスクもあって仕事上の人間関係は形式的で無味簡素に。プライベートにおいてもテキスト上のやりとり主体で、どうして人間の心と心の友好関係が育めようか。日本だけでなく世界的に鬱や統合失調、心を病む人が急増している。

理系重視と人文系軽視の分断

勝ち組か負け組か、損か得か、役に立つか立たないか、このデジタル思考的二元論が表面化したのも平成の特徴のひとつだった。たった一度の表層をすくっただけの結果主義、浅薄で奥行きのない功利主義の汚染。ついには国立大学に人文系学部は不必要ではないかという短絡的な議論をも生んだ。もちろん今後も専門分野を深く掘り下げる科学分野での研究や開発が必要なのは言うまでもない。しかしAIが人間知性を超えるシンギュラリティを目前に控えていることを鑑みれば、「創造」こそが人間のすべきこととなるのは自明。今後の創造のためには分断された理系人文系の「学問分野を横断する」取組みが必須となるだろう。特に哲学(価値論・倫理)を中心とした人文系の学問、および人類にとって未だに謎である「無意識」が耳目を集めるはずだ。

自由を勘違いした未成熟な個人主義

IT文明的デジタル思考が世を席巻するにつれ、人文学的な哲学的考察を深めることなく短絡的にアメリカ発のポリコレ運動が起きた。「自由とはなにか」「個人主義とはなにか」について考えることなく単純に、秩序は悪、習俗伝統は悪、古いものは悪とし、そうしたものに「時代遅れ」の烙印を押す平成後期の風潮。「私を束縛するものは何もないはずだ」「多様性社会こそ正義」などはもはや全体主義的な信仰状態となっている。勘違いした自由主義と未成熟な個人主義への暴走が流行したのも平成の特徴だった。秩序があって初めて自由がある。無法地帯に弱者の自由はほぼない。個人主義と、社会的に自分勝手が許されることや協調をしないことは全く異なる。自由と個人主義の実践がいかに厳しいものであるかについて理解を深めていくことは、国民的課題として令和に託された。

 

3.マスメディア情報を盲目的に信じ振り回されることからの卒業

新聞やテレビという情報媒体からの歪んだ情報操作やフェイクニュースが、インターネットSNSのお陰で暴露されるようになった。平成前半にマスメディアは「権力」にまでのし上がったが、平成後半では逆に衰退の一途をたどりつづけ国民からの信頼度も激減した。平成をもって、権力としてのマスメディアはもう終わったのだ。あとは誰がとどめを刺すかだ。

まだ終わったことに気づいていない人が大多数を占めているだけで、つづく令和の時代には業態転換しない新聞社は廃業し、多チャンネル化が予想されるテレビ業界では革命的大改革が求められるだろう。特に5Gの時代に入れば、質よりもスピードの要求される報道はますますインターネット中心になる。遊撃的に軽いフットワークで活動できる個人ジャーナリストの急増は、YouTube等の動画コンテンツの活況をみれば必然だと予測できる。

以上。

 

 

subject(10)客観世界(改)


1.内面認識と外部認識

subjectシリーズの前の記事まででは、subject と object について「異なる視座」からの考察を基本としました。今回は「認識の流れ」「実在世界と客観世界の差異」に重点を置き、意識と無意識の中で何が起きてどうなっているのかについて、その構造を論理的に解明しようとする試みです。

下の図を参照してください。内面認識は自分の内部のみで起きていることで、外部認識は自分の外部がどう自分にかかわってくるか、その振り分けです。

 

2.「実在世界」「客観世界」とは何か

「実在世界」とは世界の全てです。物理的宇宙的世界(空間と時間)のみならず、概念化された意味の世界と価値の世界を含みます。実在世界には事実もありますが虚構もあります。

「客観世界」とは「自分の外部の世界はこうなっている」というふうに、客体として対象化した外部世界を主体の自分が“仮定的”事実として、または想定的に信じる世界です。「仮定的」は無自覚です。

 

3.「客観世界」をつくる目的は何か

人類は、他者や他家族と群居生活を送るようになりました。危険から身を守ることや食糧確保が主な目的です。そこでは人間同士が互いに危険分子とならないように、一定のルールを決めねばならなかった。守るべき掟(おきて)があり罰則も設けられたでしょう。

そうすると自然に「同じ世界観の共有」を目指します。他者の感情を害さないように、どういう場合に他者はどういう感情を抱くのかを元にした「共感」と、それに伴って「理性的価値観の共有」が必要になったと推測します。当然、数百年、数千年の長い期間をかけて確立していったのだと思います。

(ほぼ)「同じ世界観」を望んだ結果として、「客観世界」を自分の認識につくることは必要不可欠になります。

 

4.「実在世界」から「客観世界」への流れ

人は生まれたばかりの頃は何も知りません。親が子どもに教えてゆく。子どもは「実在世界」の情報を親から与えられ、学習し、認識していきます。疑うことなしに。

子どもの内面では、実在世界のわずかな情報を積み上げながら、“自分の内面に”「客観世界」を構築していく。膨大な無意識の貯蔵庫内部にです。そしてどんどん更新していく。童話などの虚構をもそのまま信じ、客観世界をつくっていく。その内面の客観世界を自分の外部に、確かに存在する客観世界として投影します。

意識からの要請に応じて、無意識内部の客観世界から必要な情報を取り出します。以上までをまとめたのが下の図になります。

 

5.自我の芽生え

疑いをもたないまっさらな幼な子の時期を過ぎると、自我が芽生え始めます。

自我論にかんしては、自我生成論、無意識と意識の関係性、主観との関係性などテーマが多岐にわたり拡散してしまいますので、ここでは立ち入りません。前の記事 で触れたように「メインテーマの一つ」として自我論は別にやります。

下の図は自我が芽生えたところです。

 

6.「主観」の誕生と先入見

自我はどんどん大きくなります。不安感、期待感、願望、さまざまな感情、身体的体調、遺伝的性格、価値観、倫理観などの理性、欲求などの要素が分化していき、「私の感情はこうだ」「私はこうしたい」「私はこうなったら嫌だ」など、「私」という「主観」の「主語」を会得します。「私」を対象化します。object としての「subject」が誕生する。

同時に、虚構を見抜いたり、みずから虚構で遊んだり、不安感を払しょくするために、あるいは「こうなったらいいな」という願望のために、無自覚に、無意識内に構築する客観世界へ色付けを始めます。

そこでは必然的に先入見が生じます。

実在世界と(観念的)客観世界にズレが生じ差異が生まれ、その差異を認識できるようにもなる。子どもから大人への成長段階が下の図です。

 

7.「客観世界」の修正

大人へと成長し、さらに社会に揉まれだすと経験量が増え、ますます自我は増大化します。しかし同時に、自我をメタ認知できるようにもなり、自分の価値観や欲求、感情はどうなっているのかについての内省もできるようになります。

まず第一に、自分の主観は「客観世界」を外部の実在世界だと信じます。そうしないと社会生活ができないのです。しかし実在世界との差異にも気づき、無知、事実誤認、自分の推測や妄想、未来の想定などで間違え、自分がいかに愚かであるかを理解する。

「まず事実を確認しよう」「他者の客観世界と自分の客観世界のすり合わせをしよう」「事実が不確定ならばマジョリティーはどちらだろうか」「なぜ自分は間違えたのだろうか」「自分の自我やエゴ、性格が間違えにどう影響したのか」などをほぼ自動的に無意識内で修正処理するか、もしくは意識的な内省によって修正し、実在世界と客観世界の差異を埋めようとするはずです。

 

記事はここまでとします。

冒頭に述べたとおり、相当荒っぽい仮説概論であることは承知の上ですが、ここまで相応の熟慮を重ねています。上述の「構造」にはある程度自信もあります。フッサールは他者の主観をすり合わせようとする「相互主観性(間主観性)」によって「客観世界」ができているとしましたが、私は、「客観世界」をすりあわせる「相互客観性」(私的造語です)によって、人間は社会生活を営んでいると考えました。

最後に少し逸れますが、メディアや政治家は、個人の内面の、無意識内に構築し絶えず更新されてゆく「客観世界」を彼らの利のための方向に誘導し歪めようと、報道テクニックを駆使していると思います。また個人のレベルでも他人の客観世界に関与しようとする。自分への一人の賛同者を得ようとするために有利な情報をピックアップし、或いは切り取ったりバレないように改ざんしたり、口頭でもインターネット上でも偏った情報を流すことを無自覚にやったりする。人間の習性として仕方のない面もありますが、見極める能力を身につけねばなりませんし、自分自身も無反省であってはならないと思います。

 

subject シリーズは一旦ここで終了します。

 

哲学メニューの中間整理


テーマが拡散してしまいましたので、ここで一旦整理することにします。今後、このサイトで何について考察し書いてゆくのか、です。定期的に整理していくことにします。

 

〇 価値論

このテーマが構想のど真ん中です。扱う領域が広いので中テーマと小テーマに区分けします。

1.認識論――構造論

(ⅰ)実在論、観念論、直観論の「ディオ・トレビスタ」

(ⅱ)主観、客観、相互主観性、相互客観性

(ⅲ)解釈と表現

2.自我論――生成論

(ⅰ)自我の生成メカニズム

(ⅱ)無意識の生成

(ⅲ)無意識から意識の生成

3.欲求論――生命体論

(ⅰ)細胞の養分吸収原理解明から個体欲求へ

(ⅱ)細胞の次世代継承システム(生殖や受精の“存在”の謎)解明から個体欲求へ

4.共感論――他者との価値共有論

(ⅰ)理性的共感――論理

(ⅱ)感情的共感――愛、情、侠

(ⅲ)倫理

5.美学論――純日本的情趣論

(ⅰ)悲哀美の情趣

(ⅱ)大西克禮の美学論に学ぶ

6.人生意義論――幸福論

(ⅰ)自己実現

(ⅱ)志

(ⅲ)愛、情、生きかたの美学

7.新価値観生成論――世界の永遠改革論

(ⅰ)目的的創造

(ⅱ)偶発的産出

(ⅲ)自然的生成

(ⅳ)常時生成のための承継システム

 

〇 世界論

人間の造る社会論のなかでとりわけ自由について扱います。次に多次元的(多文脈的)なそれぞれの世界観からのアプローチ。最後に時空的物理世界および人類には永久に発見できない世界の可能性について考察対象とします。

1.自由理論

まず、リベラリズムについて広範囲を網羅的にまとめ、根源へ深く沈潜します。独自のフリーダム理論(リベラルではない)の建設にチャレンジします。

2.多次元的世界観からのアプローチ

地理的国家区分、グローバル経済、宗教・思想とイデオロギー、メディア、科学、インターネット。

3.世界概念論

(ⅰ)空間と時間による物理的世界

(ⅱ)意味と価値による世界

(ⅲ)人類には発見不能な世界の可能性

 

現段階で思いつくままの整理ですが、当然、柔軟に改変していきます。

おおよその羅針盤ができた。

さあ、再出航しよう。

 

 

人生意義のセオリー(8)侠


「共感」から生成される心として「愛」と「情」がありました。いずれも重要な心で人生の意義に直結します。今回の記事では「侠」を扱います。「愛」がどちらかと言えば女性性の「思い」だとすれば、「侠」は男性性の濃い「人のために立ちあがる心」です。前の記事で扱った「情」を水の精とすれば「侠」は火の精と言えるかもしれません。

 

4.侠

〇 定義

「侠」という文字は「俠」の略字です。「俠」には「人」という字が4つも入って何をかいわんやですね。(俠はパソコン環境依存文字ということなので侠をここでは使っています)

侠気は「きょうき」と読みますが「おとこぎ」とも読みます。侠の入る熟語はその他に、義侠心、勇侠、侠骨、任侠、仁侠などがあり、強きをくじき弱きを助ける男気という意味が辞書には掲載されていますが、「強きをくじき」と「義(ただ)しい」の意味は補助的に扱います。

主旨としては、困っている人たちや弱っている人たちを見て、居てもたってもいられず、或いは頼まれて、「よし!」と、人のために立ち上がる心の「侠」です。

 

〇 ひと肌ぬぐ心意気

心意気はとても大切だと思っています。正しさの理屈じゃなく、損得勘定一切なく、なんだかよくわからないが勝手に心が動く。歯切れの良さがある。さっぱりと潔い感じの「よし!」という心映えが立ち上がってくる。色々考えてみたのですが、今のところ原理はよくわかりません。しかし心意気を失うことは自分の生命力を失うことと同じことのような気がしてなりません。

「侠」の心意気は、自己犠牲の精神だとか献身性だとか、そういった「善性」の理(ことわり)のたぐいではありません。表面上の意味としては似ているのですが。

 

〇 ありのままの「勇」

新渡戸稲造の『武士道』では、「義」と「勇」がセットで語られます。

「義」――武士道の光り輝く最高の支柱
「義」は「勇」と並ぶ武士道の双生児である

新渡戸の論拠としては『論語』の、

義を見てせざるは勇なきなり

「勇気とは正しいことをすることである」というふうに捉えるわけです。

(引用は三笠書房 奈良本辰也訳 新渡戸稲造『武士道』)

新渡戸はアメリカでアメリカ人に対して日本の「BUSHIDO」を紹介しましたが日本へ帰国したのちに日本版の武士道については書きませんでした。だからということでもないのですが、日本文化の宣伝的な「きれいごと」の粉飾が全編に見られると言っても言い過ぎではないと思います。

「勇」には大義の勇と匹夫の勇があり、武士道の「勇」は大義の勇でなければならないというわけです。「義」とは孟子曰く「人の正路なり」ですから、人の道として正しいこと、公けにも正しいことであり、義しいと書いて「ただしい」とも読みます。「正義」は「ただしい」を重ねた熟語です。

 

ところで、倫理学者の相良亨著『武士道』では、新渡戸の武士道を(儒教的)「士道」とし、『葉隠』や『甲陽軍鑑』のそれを(古典的)「武士道」として分け、両者の根柢に流れる何かを浮かび上がらせようと試みています。後者においては「ありのまま」が推奨される。

将たる者はあなどられているのではあるまいかという意識、あなどられまいという意識をつきぬけて、ありのままの自己を以って、内の者の前に立つべきなのである。勿論それは気儘に地金のままにという意味ではない。ありのままとは、いわば一つの境地であり、きびしく自己をみがきあげる努力をふまえてはじめてありのままたりうる。人の前を飾り偽ることなく、ひたすら自己自身をきびしくみがき上げつつ、そのありのままの自己を以って勝負をするというのが、ありのままをよしとした戦国武将の姿勢である。

(講談社学芸文庫版 相良亨著『武士道』)

 

相良の論を借りるならば、ありのままの「勇」とは、既に十分に自己を磨き上げたのちに自然と生まれる「勇」なのであるから、いざその段になって「義」だとか正しい理だとかを考えるようではならない、となります。

この「ありのまま」は前の記事で扱った本居宣長の「物のあはれ」論に通底するところがあり、宣長は「あはれ」の重要性を語る際、儒教や仏教の正しい理屈などは「さかしら(賢しら‥※利口そうに振舞うこと)」であると退け、また歌論においては「本情のありのままに詠む」ことを是としました。

そもそも正しいこととは何でしょうか。何をもって正しいとするのか、何をもって善とするのか、そこに独善の正義がはたらくこともある。

であれば、「義」をさっぱり抜き切った相良の言うところの「ありのまま」の「勇」こそ、(結果的にたとえ間違いや失敗だったとしても)腹を切る覚悟のある「勇」ではないかとなってくる。今日のタイトルを「義侠」とせずに「侠」としたのは、純粋な「心の侠」そのものを捉えたかったからです。

 

つまるところ、無意識下の深層でなんらかの化学反応が継続して起きており、生得的(遺伝子的)なものも絡み、「共感」が中核となってそこから純粋な「侠」が立ち上がってくる。「よし!」という心意気が生成される。「愛」と「情」にしても共感が核となって生成されている。

しかし共感だけではない。おそらく、無意識下に押し込んだ多様な理性的価値観が混合され、「侠」にせよ「愛」「情」にせよ、常に洗練され続けているのではないか。私たちはそのために、洗練されるに相応しい理性的価値観を学ぶことを継続し、考察と刺激を習慣化しているかどうか、このことに無反省であってはならない。

明確となった構造は、「共感」→「侠」「愛」「情」「心意気」+「共感系刺激の習慣化」「理性的考察の習慣化」→「志」→「企画実践」+「継続性」です。この連続要素すべてが(たとえ一部でも)「人生意義」となる。

無意識内での化学反応のメカニズムについては、仮説を立てるにしても現在の私の能力ではいささか手に余りますので、今後の課題として常に意識しておきたいと思います。

「侠」や「心意気」を立ち上げましょう。

「人生勝負」の気概を失ってはならない。

 

考察をつづけます。

 

 

人生意義のセオリー(7)情


「共感」と「愛」についてと同様に、「情」もまた、これから深く考察していこうとしている段階で、未だ十分に「情」を定義することさえできておらず準備不足は否めないのですが、アウトプットしながら考えていこうと思います。

 

3.情

〇 定義

まず、「情とは何か」との普遍的意味への問いは持ちません。「情」は「共感」や「愛」以上に多義的で文脈によって語義は変化しますが、普遍的意味を統一しようとすることに何ら意義を感じないからです。かと言って膨大な語義語感の「情」を視野に考えるのでは「愛」や「共感」との区別もつかなくなります。そこで、私の捉える「情」のイメージを元に定義づけてゆくことにします。

西洋思想で考えられてきた情は、emotion や feeling の「感情」、patos(ギ) , passion にあたる「情念」の二種に収斂されます。こうした、驚き、喜怒哀楽等の感情は当然、自我で覚知できるものです。

私は、上記の「現象・表現の情」ではなく、もっと無意識の深くに根源的にある「情」についてここでは扱います。言ってみれば「日本古典的な無意識下の情」です。自我で覚知できない「情」です。この無意識下の情から演繹的に西洋思想的な感情・情念を説明できると考えています。

以下は相良亨著『日本人の心』からの孫引きになります。

ただ人は情(なさけ)あれ 朝顔の花の上なる露の世に 『閑吟集』
たゞ人は幾度も情あるべきは浮世なり 『義経記』
たゞ人は情あれ、情は人の為ならず 『山中常盤』
去る程に、人は只(ただ)情あれ 『三河物語』

古典では「情」を「こころ」「なさけ」と読みますが、「じょう」でも良い。要はどのような文脈でどのような語義・語感として「情」が使われていたのかが肝心です。相良は上記を引用しつつ「ただ情(なさけ)あれ」という心情が日本の古典にはあったと述べています。私の定義する「情」は上記文脈での「情」=「こころ」とほぼ同義とします。

 

〇 「あはれ」と「情」

本居宣長の思想「物のあはれ」の「あはれ」は、長らく「ああ」と「はれ」を繋げたものとして語の成り立ちが考えられてきました。日本語言語学の権威であった大野晋が主として編纂した『岩波古語辞典』にもそうあります。しかしその大野が晩年、現地の学者らの協力を得て入念に調査したところ、日本語の起源(音感)が南インドのタミール語にあることを発見しました。以下に「あはれ」についての大野の最終見解を引用します。

私は以前、これを感動詞アと掛け声ハレの複合と考えていた。何故なら、日本語の単語の根本的な部分はおよそは二音節から成るもので、三音節の単語は二つの部分に分けられるからである。(略)

ところがタミル語に avalam という単語がある。『タミル語大辞典』には、それに「苦悩、苦痛、貧乏、窮乏、泣くこと、悲しむこと、幻想、心配、欠点、病気」という訳をつけてある。その最後に「悲哀の情」とあり、その後に「身体の八種の表現の一」」と書いてある。インドでいう身体の八種の表現とは「笑い、泣き、軽蔑、驚き、恐れ、剛毅、怒り、喜び」である。(略)

avalam は「悲哀の情」を意味するが、それは、1.自分自身についてのavalam、2.他人についての avalam(共感の情)をいうとある。(略)

日本語 afar-e とタミル語 aval-am とは、はじめの四音節が正確に対応し、意味も基本において共通である。アとハレとの結合とする私の見解は、日本語の中だけで考えていた結果であったことが明らかになった。賞賛の意味のアワレ、アッパレは、共感の意から展開したものと考えなくてはならない。

(岩波新書版 大野晋著『日本語の起源』)

 

大野晋氏は間違いなく昭和随一の日本語言語学の権威のひとりでした。彼がみずから著した「古語辞典」の内容を撤回する。己の権威に傷がつくことを恐れず、大きな反発や影響が予想されたにもかかわらず、自分の解釈は間違いであったと認めた学問的姿勢に感服します。

少し寄り道をしてでも私が言いたかったことは、その言葉の成り立ちを推理し、そこからの意味を正しい語義として扱ってしまうことの危うさです。『古語辞典』を何の疑いもなく信じ、語義や概念の根拠として使うことは避けた方が良いと思うに至りました。

ここで「あはれ」は「共感」を元にしていると解釈できるという大野の発見は私にとって大収穫でした。点が線で繋がっていきます。

本居宣長の「物のあはれ」についても、共感を元にしていると考えれば理解しやすくなります。

たゞ人情の有りのまゞを書きしるして、見る人に人の情はかくのごとき物ぞといふ事をしらする也。是れ物の哀れをしらする也。(本居宣長『紫文要領』)

 

宣長は紫式部『源氏物語』の愛読者でした。この『紫文要領』ではさまざまな角度から「あはれ」が語られます。全編にわたって「哀れ」「あはれ」のオンパレードです。物語登場人物の心情の哀れ、作者である紫式部の心情の哀れ、そして宣長みずからの心情の哀れ。この哀れは共感で繋がっていると考えることができます。

では、この「あはれ」は、例えば紫式部と宣長とで正確に一致しているかといえばそうではなく、そこに唯一普遍的正しさをもつ「あはれ」はありません。言ってみれば、宣長の個人的な「情」なのです。

前の記事でみたとおり「愛」は結びつきでした。人と人との愛は双方向の志向性を求めるものでした。「情」は一方通行ですみずからの無意識下に根ざす「情」が、おのずからの心のはたらきとして、対象とするものへと映りこむのです。

 

〇 「無常」と「はかなさ」

「無常」は仏教思想の概念です。すべては移ろいゆくものである、そうしたまなざしで世界をみることを「無常観」と言います。理性的達観とでも言いましょうか。

「無常観の理(ことわり)」に「哀感のはかなさの情」を織り交ぜながら表現してきた日本の中世文学は多々あります。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり 『平家物語』
ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず 『方丈記』

つづいて、竹内整一著『かなしみの哲学』からの孫引きになりますが引用します。

はじけては消える夏の夜の花火を見ていると、ふと、そこはかとない悲しみがただようことは事実である。日本人は昔からそういう「はかなさ」に心ひかれ、人生の無常に耽溺して来たと信じられている。それはたしかにその通りなのだが、しかしその同じ日本人が、ふしぎに一方で極端なニヒリズムに走らなかったことも事実なのである。人生の無常をかこちながら、われわれの先祖はそのなかにけっこう安定した自然を見出していた。(山崎正和著『混沌からの表現』)

 

上記に語られているように、日本人は「はかなさ」の哀感に酔い痴れてきたのかもしれない。そこに美学さえ感じとれます。ところで「はかなさ」の正体とは仏教の無常観なのだろうか。それとも「感」主体の無常「感」なのだろうか。いや、私はここで「無常」を思いきって除いてみたい。時代をさかのぼると萬葉集の「はかなさ」のおもむきは少し異なります。

世の中は 空しきものと知る時し いよよますますかなしかりけり (大伴旅人)

この和歌は妻を亡くした旅人の心情を表現したものです。世の中は常にうつり変わりつづけるという仏教の理法ではなく、世の中は空しきものと知ると言う。愛する人は消えてしまった。心にぽっかりと空白ができた喪失感。妻のみならず世の中すべてが消えてゆく。過去を「今」とを同じ「今」に置いたとき、ひたすら悲しくなる。対象としての「世の中」の喪失が悲しい。この悲しみに無常の理が入りこむ隙間などありません。理で納得しようとしない、否、理では絶対に納得できない亡き妻への情がある。愛する人を亡くしたとき、仏教の理法、無常観はむしろ心を傷つける凶器にさえなり得ます。深い悲しみの情は理に対し無自覚に反感を覚え牙をむく。

 

本居宣長は次のようにも述べています。

おかしき事、うれしき事などには感(うご)く事浅し、かなしき事、こひしき事などには感くこと深し。故にその深く感ずるかたを、とりわきてあはれという事あるなり。俗に悲哀をのみあはれといふも、この心ばへなり。(『石上私淑言』)

楽しさや嬉しさの心は浅く悲しさの心は深い。故に悲哀のことを「あはれ」と言うことが多いと述べています。しかしなぜ悲哀が深いのかについては掘り下げていません。

楽しさや嬉しさがやがて想い出に変わったとき、「はかなさ」に転化されるからではないかと思うのです。むしろ楽しかった故人との想い出のほうが悲しく辛いものです。愛する子どもを喪ったときには、ずっとずっと子どもの笑顔が想い出として残ることでしょう。この辛さは尋常ではない。

年齢を重ねていけば数多くの別れを体験します。身近な死別も多くなります。親、恩人、夫、妻、友人。彼らとの想い出はずっと残り続ける。私たちが過去を土台に今と未来を生きるということを考えれば、過去の楽しさや嬉しさは悲哀へと転化され、悲哀のはかなさが人生の土台として次から次へと積み重なっていると言える。

 

悲哀の体験は、幾重にも積み重ねられた人生の地層に濾過され、純粋に透きとおった地下水としてこんこんと無意識の深層に涌きでている、それがはかなさの「情」というものではないか。

無色透明な水ではあるけれどミネラルや栄養分がたっぷり含まれ、枯れることのないほどに満ち満ちている命の泉、それが豊かな「情」というものではないか。

 

「情」は己の人間成長の豊かさとして、人生の偉大な意義になると思います。

 

 

人生意義のセオリー(6)愛


前の記事では「共感」の重要性に気づいたことを書きました。人類の社会性のベースと言える共感から幾つかの重要な心のはたらきが誕生します。そのなかでも、とりわけ人間らしい心の「愛」と「情」について、哲学として考察してまいります。この二つは「人生意義」に十分になり得る。むしろこの心なき「志」や「自己実現」は他の誰かの胸を打つことはない。「愛」と「情」を「愛情」というふうに一括りにしなかった理由は「情」の項目で述べます。

 

2.愛

まず愛の意味について事典から引用します。

愛(〔ギリシア〕agapē, erōs, philia〔ラテン〕amor〔英〕love)

愛は人間理性の規定対象ではなく、逆に人間を根源的に定める領域にあるので定義できないが、次のような諸特徴を示す。愛はまず明らかに情緒・感情・意志・志向的性格を帯びている。したがって他者との関係性を示す。

(岩波書店版『岩波哲学思想事典』)

 

上記引用後の概説内容を参考に他者を対象に替え、対象別に分類してみます。(私見含む)

〇 対象=人間・・・肉親愛、友愛、同志愛、恋愛、性愛、師弟愛。

〇 対象=自分自身・・・自己愛、ナルシシズム。

〇 対象=超越者・・・神愛、神秘主義的愛、仏の慈悲。

〇 対象=文化・・・芸術への愛、哲学的愛、伝統習俗への愛。

〇 対象=自然・・・山川草木への愛、郷土愛、動物愛、地球愛。

〇 対象=共同体・・・家庭愛、祖国愛、チーム愛、法人愛。

〇 対象=物質・・・愛車や長年使用し続けた装飾品など愛着をもつ愛用品。

〇 対象=空想・・・幻想的愛、虚無的愛。

その他の分類について同書では、生命愛と向死愛、利己愛と利他愛、サディズムとマゾヒズム、融合愛と独占愛、甘えと自律的愛、偏愛と博愛・公正な愛、などを愛の対置の方法例として挙げています。続いてもう少し引用します。

こうした愛の多様な関係性・志向性は、精神科学・人間科学・社会科学などの対象としてその属性が記述されようが、愛はむしろ関係を創ったり破綻させたりする意味で言語行為論的に働く。特に愛は他者との関係の中で働きつつ、人間存在の存在論的に特別な在り方を開示する哲学的意味をもつ。(上記同書)

 

約2000頁の大著である『岩波哲学思想事典』は、思想哲学にかんして高い識見を有する専門学者606名が担当項目を執筆し、7名の編集委員と41名の編集協力者によって編纂されている。当然、編集委員らによって査読が行われているので信頼性は高い。上記「愛」の項目は神学者である宮本久雄氏が担当しています。

しかしながら正しい語義の解説との判断を私はしません。特に哲学思想事典という性質を鑑みれば、一人の学者の見識でありそれ以上でも以下でもない。いえ、けっして「間違っている」と言いたいのではないのです。

上記引用冒頭に「愛は人間理性の規定対象ではなく、逆に人間を根源的に定める領域にあるので定義できないが、」とありますけれど、「人間理性の規定対象ではない」「根源的に定める領域にある」の意味がよく解りませんし主観が入り過ぎている気もします。或いは、愛の哲学的定義を不能とする学問的態度というのは、直截に言って私には哲学からの逃避あるいは怠惰に思えます。ただし、「事典」の執筆であること、ご担当の宮本氏がカトリック教会司祭であることなどを勘案し、一つの見識としては参考にしたいと思いますし分類のヒントはいただきました。

私は「愛」の原理の解明、つまり愛は人間のどこから生まれてきたのか、そのメカニズムの全容を明らかにすべく沈潜してまいります。「共感」の重要性に気づいた今の時点では、それは十分に可能だとの確信めいたものもあります。

 

ところで、上記の対象別の分類をしばらく眺めていたところ、幾つかの構造的な法則性に気づきました。

1.愛は対象との「結びつき」に大きな価値を置いていること。その結びつきを強化したいという欲求、手放したくないという欲求が愛にはあること。

2.「結びつき」を強くしたい志向性は陽性であり、歓び、成長等への目的的欲求が内在していること。

3.「結びつき」以前に、対象に対しての共感があり、好意から始まっていること。知覚的、理性的、感性的、感情的、いずれかの好意。

4.人を対象とした場合、対象である他者と自己との相互共感性によるある程度の強い「結びつき」が愛には必須であること。

5.愛に客観性はなく、自我による主観性がすべてであること。

 

とりあえず以上ですが、これらの構造から何かが言えそうだとか、何かの原理が見えてきてるなとか、「情」との対比がわかりやすくなった等、今日の「愛」の哲学的考察は有意義でした。

「愛を哲学すること」はまだ始めたばかりで、「共感」「情」についても同様ですが、ここからが大切。光の届かない深淵への沈潜です。次は「情」についてです。

中段の対象別分類を見てもわかるとおり、人間を対象としての愛、家庭愛、郷土愛、芸術への愛…、「愛」は十分に人生意義になります。例えば、志や自己実現ではなく、「家族愛」に生き甲斐の最重点を置いて生きることも立派な人生だと思います。また、「家族愛」「素晴らしい家庭を築くこと」への啓蒙が(時間はかかるでしょうけれど)、現代日本の社会問題である少子化の最も強力な対策になると私は考えています。

 

 

人生意義のセオリー(5)共感


人生意義のセオリーとして「志」と「自己実現」を掲げました。この二つに集約できると考え、次は「何を」するのか「企画」の段階へ入ろうと計画していたのが約一ヶ月前。しかしこの一ヶ月のあいだに現代社会の問題点(少子化や「自由」について)のさまざまな考察を行った結果、この二つだけではいけないと思うに至り、考えを改めることにしました。

「志」と「自己実現」はいずれも外へ向けて形づくられるものです。一つの、或いは複数でも良いのですが、目的に照準が合わされます。ある程度、遠い未来に。ある程度、大きな社会を世界として視野に。自己実現はもちろん、志が社会善を志向するものだとしても個人的価値観(延長)上の人生意義の範疇です。

しかし人類が皆、この二つだけを人生意義として生きたらどうなるでしょう。

おそらく人類は絶滅します。というのは、子どもをつくらなくなるからです。結婚もしなくなる。志にせよ自己実現にせよ、自分の時間と労力を自分のためにのみ使う方が圧倒的に有利であり、守るものを抱えないほうが有利です。精神的なストレスも減りますし自分の自由度がなんといっても大きい。

外形上は志も自己実現も華々しく映り、誰もが憧れをもちます。目に見えるはっきりとした実在があるのでわかりやすい。けれどそれと引き換えに、「偏向した自由社会や自己実現を標榜する人たち」は子孫を遺さなくなり絶滅へ向かいます。現代日本を見ても欧米先進国の“白人”の急速な減少化を見ても、この端緒が現れているように思います。

 

今回の記事のテーマに掲げた「共感」は、主に内面において大きな人生意義となることに気づきました。いや、哲学者のマックス・シェーラー(1874-1928)が主張したように、むしろこちらを土台とすべきかもしれません。

以下では、内面的にはたらく「共感」「愛」「情」について考察します。

 

1.共感

おそらく人類の最も原初的な価値感覚のひとつです。

人類は社会を形成しました。猿人、原人、古代人の時代、一人で生きるより、一家族で生きるより、集団を形成した方が生存に有利だと、数万年数十万年をかけて気づいたのだろうと思います。敵となったのは獰猛な動物だけでなく、人間の他の集団も敵となることが多かった。食べ物の争い、なわばりの争い。

集団を形成するために、その形成された集団の一員になるために、共感を必要とした。

共感理論は、ほぼ同質の理性的価値観の共有、ほぼ同質の感情的価値観の共有、この二つに収斂されると考えています。

哲学者二人の見解を含め事典から引用します。

共感(sympathy)

共感は人間の自然的情緒であり、人間社会の基礎である近親感情や友交を生み出すものである。人間はその生存において他者に依存せざるを得ぬため、生活のごく初期から他者の動作や表情の意味を解釈することを学ぶ。

【ヒューム】人間は他者の行為を観察し、自己の経験と想像力によってその行為の動機である感情を感知する。(…ヒュームの)共感原理の説明は極めて画期的であり、共感はもはや同情や憐憫を意味するものではなく、道徳的判断を行う重要な心の作用を意味し、さらに自己の利益と直接関係しない社会的利益を是認し、正義の規則を敬重する感情も共感によって生み出されるとされる。共感は道徳的判断に際し、利己的な判断に対する被害者および第三者の非難の感情を知覚し、次第に理性に類似した穏やかにして強力な情念へと転化し、大きな変動を許さぬ公正な判断基準となっていく。

【シェーラー】共感とは通常「共歓および共苦と呼ばれる過程」、つまり他者と共に喜び、共に苦しむ体験、その限りでまた、われわれにとって他者の諸体験が直接に理解されるように見え、その諸体験にわれわれが直接に〈参与〉するような過程のことである。こうした共感は、一方では〈追感得〉、つまり感情移入の経験から区別され、また他方では単なる一体感とも区別される。直観的にいえば、死児を前にした父母の悲痛の共有、そこに見られる〈相互感得〉が、その典型的な場面の一つであるともいえよう。

(岩波書店版『岩波哲学思想事典』)

 

共感論にかんしては他にも、マクドゥガル、ボダン、シャフツベリ、ハチスン、ハートリ、スミス、カントら諸学者の研究による見解があります。

ヒュームの言説を読む限りにおいて、共感は自然感情(情緒)を基にし、社会的に協働して生活を営むためには相互の感情を損ねないことを必要とした。その共感が道徳化し、社会秩序や正義となって理性としての価値が定着した。理性としての価値が定着すると、属する共同体の一員となるために理性的価値観の共有が求められ、その共有を阻害する「悪」の価値に対し悪感情をもち、その悪感情の価値を共有することが求められる。こうして感情的価値の共有と理性的価値の共有が共感として固められてゆき、安定した社会秩序を形成する。要約すればこのような思想構造だと思います。

マックス・シェーラーは哲学者として異彩を放っています。子どもの頃に父親から推薦されたニーチェを読み、大学の卒業後はフッサールに師事し現象学を学びました。ハイデガーの兄弟子にあたります。外向的かつ社交的で、しかし何事も中途半端で放り出し次の関心事に気が向いてしまう。離婚を二回経験し結婚は三回。教授の資格を約十年間はく奪されジャーナリスト的なライターとして活動した時期もあった。いわゆる「孤独に徹する内向的な変人」といった哲学者イメージとは程遠く、ゆえに幅広い社会経験によって相互共感性の機微をよく理解していたのでしょう。

理性よりも感情を人間学の土台とするマックス・シェーラー。彼の「愛の秩序」理論について学び始めました。共感というキーワードは、私の新しい哲学的美学論において、貴重なひとつのピースとして編入されました。今まで共感について深く考えたこともなかったですし、こうして考えることになるとは思ってもみなかった。とても新鮮な気持ちです。

アイデンティティの確立にかかわる帰属欲求、社会やコミュニティで自分の存在価値を認めてもらいたいという承認欲求、社会的地位や名声を得たい、権力を得たい、金銭を得たいなどの自己実現欲求、公的な志を抱くことも含め、これらすべての土台に「社会の一員としての共感」があります。共感なくして社会的欲求は起こらず、成立しません。

 

 

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