元旦にあたっての幸福論


幸福であることが他人に対しても義務であることは、十分に言われていない。幸福である人以外には愛される人はいない、とは至言である。しかし、この褒美が正当なものであり当然なものであることは忘れられている。不幸や倦怠や絶望が、われわれすべての呼吸している空気のなかにあるからだ。そこでわれわれは瘴気(しょうき)に耐え、精力的な手本を示していわば共同生活を浄化する人々に対し、感謝と戦士の栄冠をささげる義務がある。それゆえに、愛のうちには幸福たらんとの誓い以上に奥深いものはなにもない。自分の愛する人たちの倦怠や悲しみや不幸以上に、克服しがたいものがあろうか。男も女も、そのすべてが絶えずこう考えるべきであろう。

つまり、幸福というものは、といっても自分のために獲得する幸福のことだが、もっとも美しく、そしてもっとも寛大な捧げものである、と。

(白水社版 アラン著作集2『幸福論』)

 

アランは感情は周囲へ伝染するものだと言います。憎悪の感情も幸福の感情も伝染するものであると。ゆえに、愛する人や周囲の人たちを幸福にしたいのならば、幸福を捧げたいのであれば、みずからが幸福になることは義務なのだと。

幸福とは心が満たされることだという広義の意味では、『老子』の「足るを知る」がそうなのかもしれない。しかし足るを知ったところで自己満足の域を出るものではなく未来への希望とはならない。老子のこの言葉は戒めの金言です。

幸福という名詞を「停止した状態」のごとく西洋風に使うよりも、私たち日本人は「幸せになる」や「幸せな気持ちになる」という心の動きを幸福という言葉の語感に感じとるのではないでしょうか。

そこには必ず比較対象となる過去の自分のこころがあって、知らず知らずのうちに相対化して幸せの感情を創りだしているのです。

アランの幸福論にそって言うのならば、私のこころは昨日よりも幸せでなければならない。いや、昨日よりも幸せであろうとする、その命運はみずからの主体性にあるのです。他の誰かが、社会が、白馬に乗った王子さまが突然現れて自分を幸せにしてくれるのではない。もし仮に偶然宝くじに当たったとしても、それはホンモノの幸せではない。

 

元旦にあたって私がまず手に取ったのはアランの幸福論でした。

多くの人が元旦には気分を一新し新年の誓いを立てたりする。今年はこうしようああしようと、自分の心のなかから湧き上がってくる志に前を向こうとする。ところが去年も同じではなかったかという疑惑が生じてきます。いったい去年の今日のあの志はどうしたのかと内省する。

アランは幸福になることは義務であり、「礼儀」だとも言います。

礼儀の優雅さはダンスのようなもので、一朝一夕にして礼儀を身に着けることはできない。習慣化してこそ礼儀を身に着けることができる。人が見ていない自分一人だけのときにこそ礼儀が試されると。

日本伝統の「カタチ(形)・型・作法」を大切にする文化には、アランの幸福論に通底するものがあることに気づきます。優雅な型の習慣化が礼儀となり、みずからの心に美しさをはぐくみ、愛する人へのもっとも寛大な捧げものになる。

 

昨年にはなかった「新しい型」を、今日より実践し習慣化していこうという新しい試みが、私のささやかな新年の決意であるとともに、みずからへの希望となりました。

皆さまにおかれましては、本年が幸多き一年となりますように。

 

平成三十年 元旦

 

 

前時代的な「人づくり」思想を粉砕しよう


現政権はアドバルーンを上げるのが得意らしく、次は「人づくり革命」というスローガンを掲げました。「日本を取り戻す」「美しい国、日本」「アベノミクス」「一億総活躍社会」などなど、エッジの効いたキャッチコピーに我々国民はその都度期待を寄せてきたのですが、例えば「一億総活躍社会」のアドバルーンの真下に行ってみたら何も造られていない空き地があっただけだった、という事実を目の当たりにし、不信を募らせてきたのでした。

「人づくり革命」という今回のスローガンは、コピーとしての切れ味も悪い。「革命」や改革から最もほど遠い政権が掲げても、ただただ、空しさだけが漂っている感があります。

 

そもそも論なのですが、「人づくり」という観念についてどう思いますか?

 

「人材育成」「人材教育」や、「人的資源」などという、ちょっとインテリっぽい言葉を我々は何の疑問も持たずに聞かされ、そしてみずからも表現使用してきたのではないでしょうか。

人は、材料なのか?

人は、資源なのか?

あなたは材料で良いですか? 資源で良いですか?

あなたの子どもや孫が社会や企業の材料や資源で、それで良いのですか?

 

私はまっぴらごめんであります。

自分としてもそうですし、子孫たちがそういう扱いをされれば怒りを覚えます。

 

国家の人材が必要だと、企業の人材が必要だと、そうした文言に鈍感になっている人たちが、その意味を深く掘り下げずに浅薄な表層価値として、人を材料や資源扱いしているわけです。なぜ疑問を持たないのでしょう。

人が「モノ」扱いされるようになったのは、産業革命以降の思想だと思います。

「モノ」扱いが高じて、「プロフェショナル」という何となく響きよい言葉に美化されて、仕事はプロフェショナルであることが良いとされることに、何の疑問も持たないのと同じ現象が生じていると考えております。

サラリーマンはプロフェショナルであれと企業から思想を叩き込まれます。

それは、「能力」であり、「利益を上げられること」であり、「個人的心情を棄てて仮面に徹すること」であり、つまるところ、お金を与えてくれる需要元の欲求を満たす「モノ的存在」であるのです。

自分はプロフェショナルとして仕事をしているんだから、プライベートでお客の立場になって自分が金銭を払うときには、提供する側は自分に対してプロフェショナルであるべきだという堅い堅い信念が、「消費者モンスター」を次から次へと生み出している時代でもあるわけです。

すべてにおける「モンスター化」は、プロフェショナル思想と「人のモノ化」に遠因があります。

 

最近は「正社員」になるために、或いは正社員であり続けるために、「他の人とは取り換えがきかない社員を目指せ」みたいなことが平気で語られています。経営者の立場からすれば、取り換えのきかない歯車なんて一つもないのです。いざとなれば簡単に交換できる。正社員でありたいと願い続ける人の心理欲求、安心感だけを満たすために、コンサルタントや評論家はそう語ってみずからの利益としているわけです。本気でそう思っている経済界の人がいるとすれば、尋常では無いおめでたい人です。

「人づくり」や「人材」などというコピーや思想は、20世紀の後半に流行しました。かくいう私も20代30代前半の頃はよく使用しました。「社員教育」なんていう、今となっては死語にあたるべき言葉も。なので「お前の口がそれを言うか」と言われても仕方ないのですが、それでは価値観を変えた人は何も言えなくなってしまいます。

 

いつまで、人の「モノ扱い」をやっているのか。

 

 

人は、つくるものなんかじゃない。

人は、みずから、おのずから「成る」のです。

「教えて育てる」「人をつくる」という前時代的な考えかた、しなびて活力のない価値観を破壊し、新しい価値を打ち立てていこうではありませんか。

 

 

 

自己責任と偶然性


2002年にアメリカ主導によって始まったイラク戦争。2004年に日本人が人質となって解放されたり殺害されたりしたことがあった。

あのとき、日本政府は退避勧告を発令しイラク周辺国への入国を禁止した。にもかかわらず留まったり入国したということで、人質となった日本人に対し、日本社会の世論は自己責任論でバッシングした。私も当時は、無謀な活動をする人たちは自己責任なのだから、救出しなくていいと考えていた。

 

雪山登山での遭難の際にも、自己責任論が巻き起こる。

或いはごく身近で、例えば肝臓を悪くして医師から飲酒を止められているにもかかわらず、飲酒し肝臓がんや肝硬変となって死んでしまう人に、それは自業自得だと突き放す。

この自己責任論、自業自得論は、原因と結果が必然性によって結び付けられてる。

因果応報、善因善果、悪因悪果は仏教の教説にあり、インド哲学も西洋哲学も必然性によって論理を展開する。また宗教も必然性によって物語を創る。

運命の赤い糸も仏教の縁も必然である。

 

当事者個人として、人質になったり雪山で遭難した時に、飲酒で肝硬変になった時に、「ああ自業自得だから仕方がない」と思うのは当然だと思う。「政府や社会、家族は私を助けるべき。救うべき。」というふうに思う人は甘えているし思いあがっていると今でもそう考える。

けれど、当事者がどう思うかは別として、自己責任でも自業自得であっても、手を差し伸べてあげるべきではないかと、最近はそう考えるようになった。ただ、あまりに依存を当然のこととして反省も感謝もなく、何度も繰り返すような人は別として。

確かに因果関係によって不幸が必然的に起こったのかもしれない。

けれど、100%の必然だろうか。

過去に起こったことについて、必然だと考える癖がついてしまっているのではないだろうか。

もし原因と結果を完全に分断し細切れにしたらどうだろう。一つ一つの経過はすべて偶然のつながりによって成り立っていると言うこともできる。過去の因果関係がわからずに、目の前で途方に暮れている人、死にかけている人がいれば助けようと思うでしょう。

 

明確な答は出ておらず、考えています。

ただ少なくとも家族・親族にかんして、「だから言ったこっちゃない」「何度も注意したのに強情を張ってやったのだから自己責任」「自業自得」というふうに突き放すのは一切やめようと、去年あたりからそう考えるようになりました。

一切、匙(さじ)を投げない。

 


 

仏教のお寺で手を合わせて拝むのは因果です。感謝もそうですし。

けれど神社で手を合わせて拝むときには、良いことがありますようにだとか、家族が健康でありますように(病気や事故に遭いませんように)だとか、よく考えてみると偶然の願掛けをすることが多くないですか。

お正月などでは神社でおみくじを引きますよね。大吉が出たとか凶が出たとかで偶然を楽しんでいるわけです。

日本人って、未来に対し偶然性を自然に、無意識的に介入させている不思議な民族ではないのだろうか。

運命は決定している(自分が知らないだけで)、なにごとも必然、因果応報というふうに考えて生きるよりも、自分が生まれたのも偶然、明日起こることも偶然がほとんど、出会いも偶然というふうに考えたほうが、驚くことも笑えることも多くなるし(もっとも悲しむことも多くなりそうですが)、彩り豊かな人生を楽しめるのではないかと私は思います。

 

未来をみるときには、偶然性を希望の光としてもいいじゃないですか。

 

 

夢を食べなければ私は死ぬ


20代最後の頃、知人と酒を酌み交わしたときに彼はこう言いました。

「夢を見続けても現実的に食っていけるもんか!」

目の前の現実に対処して稼がないと食っていくことはできないと。綺麗ごとでは生きてはいけないと。

私は彼にこう言いました。

「夢を食わないで生きていけるもんか!」

 

どっちかと言えば当時はバブル全盛期で、私のほうが現実的に脂っこい仕事をしていたのですが。

今でもまったく変わりません。

「夢を食わなければ、私は死んだも同然!」

しばらく死んだも同然の時期があって、今は夢と希望に満ち溢れて行動していますので、余計に「夢を食べる」ことがいかに自分にとって重要なことなのか、よーくわかります。もちろん人それぞれでしょうけれど。

 

気概というのは、「あるべき姿」に対して理不尽を感じ、強い怒りを覚え、それを使命感に導くものです。心意気とも言う。そこに志が生まれる。

「政治は公平・公正であるべきだ」

「貧困にあえぐシングルマザーを、本来あるべき母子の生活に」

断固とした強い意志・信念を持たねば解決はありません。流されてゆくばかりです。

時間がかかることだからと「柔軟な姿勢と思考で」、次の世代へと先送りにされてされてされて、ずっとそうされて、今の社会問題がある。少子高齢化社会もそうです。そこには何の希望も見えない。

元大阪市長・橋下徹さん、Twitterでたまに発言を読むけれど、彼の良いところは常に「~すべき!」と明確に自分が正しいと思う方向を示す姿勢。建設的なディスカッションには不可欠な「争いを怖れない提言」をバシッと述べる。(勿論間違ったことも言うし、彼は後でそれが分かった時に自分の意見は間違いだったといつも認めている)

もともと反論大歓迎なのだ。彼は「正」しいと思ったことを提言し、その意見に対して「反」論があって、そこから「合」が生みだされるトリアーデ(3価値が1組)、ヘーゲル哲学の弁証法を意識しているのだろうと、以前から私はそう見ている。

 

いろいろな性格タイプの人がいて、いろいろとエッジの効いた意見を言う人がいて、それで言論と民主主義が活性化されるのだろうと思う。なんでも緩く許容していく平らな世相では、右肩下がりの斜陽な国になっていく一方だと思います。そこに希望はない。

上野千鶴子さんは、「みんな平等に貧しくなっていく社会でいいじゃないか」と言っていますが、こういう発言があればこそ、「ふざけるんじゃねえ!」と気概をもって希望の灯をともしていこうとする志士が生まれるというもの。だと信じたい。口だけ反発するんじゃなくて行動しないとね。

 

自分で夢を創って、夢を欠かさず食べながら現実にも対処して、人生の荒波を渡っていこうではありませんか。

気概をもとう。

 

 

明日はハレの日


明日、新しい法人を登記します。

昨年9月から取り組み始めた「希望創り」への挑戦ですが、ようやく大海へ出航できる船ができます。試行錯誤しながら、というより右往左往しながらでしたが、今回は株式会社ではなく、一般社団法人として登記し公益社団法人を目指すことに決めました。

と言っても、ボランティアではなく、慈善事業でもなく、法人の運営費は売り上げによってまかなっていくつもりです。そしてここから、いろいろな個人の営利法人/非営利法人を立ち上げていきたい。今回立ち上げた法人は非営利ですが、「生み出していく法人」という位置づけです。

 

大きな目的としては、はたらく個人が、特に若者たちが、労働や雇用によらずに、業務受託や法人創業によって継続的に所得を得ることができる、そうした仕組みをつくっていきたいと思います。特に、国外の需要に国内から目を向けること(単純な輸出ではなく)、スタートアップする事業がたとえ最初は国内で始まっても、国外に広まる可能性があるかないかを最初から考えていきたい。個人が世界に躍動する場をつくっていきたい。私はそんなに躍動しなくていいです(苦笑)

もうひとつは、中高年の人たちが今後ますます増えるなか、「貢献欲求」のある元気な60~70代の人たちに、何かの形でその「欲求」を開花させることのできる、道を開いてみたいと思っています。単なるボランティアではなく、学術の分野、職能に秀でている分野、或いはチャレンジしてみたい分野など、経済活性化につながることもあるかと思います。

70歳でも80歳でも貢献欲求をとおして、社会の希望(自己実現ではなく)へ向かってチャレンジできるって良いと思いませんか。活動が生き甲斐となる人もいるのでは?

質的にも量的にも、潜在的に凄く大きなエネルギーが眠っているのではないかと考えています。なによりも若年から見て、「生き生きとした高齢」という新しい将来モデルになる可能性があると思います。(組織内での老害と言われる人は困りますが)

 

進路変更は柔軟にやっていきます。

私には才能がないので、仕組みというか流れというか突破口というか、そういうところに携わることしかできませんが、社会活動としては人生最後の「船」になるかと思います。

がんばります。

 

ブルーオーシャンへ行こう


昨日の記事ではチクセントミハイ(ハンガリー出身のアメリカ人心理学者:現在82歳)のフローついて書きました。今日はフローと活動を併せ希望へと昇華させることについて書いてみます。

チクセントミハイは現代人について、「社会化されてしまった人」が多いと嘆きます。社会化されてしまった人とは、社会の隷属状態にある人のことを言います。

完全に社会化された人とは、望むはずであると周囲の人々が考える報酬 ― それは遺伝的にプログラムされた欲望と結びつくことが多い ― だけを望む人である。彼は生き甲斐となる可能性を秘めた無数の経験に遭遇するだろう。しかし彼はそれを望まないためにその可能性に気づかない。彼にとって問題なのは、現在自分が何をもっているかではなく、他者から望まれたことをすれば何が手に入るかなのである。

(中略)

しかし我々は本能的欲望に身を委ねることによって社会の統制から自由になるのではない。苦痛と快楽は意識の中に生じ、その中にのみ存在する。人間の生物学的性向を利用する社会的に条件づけられた刺激~反応のパターンに従っている限り、我々は外から統制される。

(世界思想社版 M.チクセントミハイ著『フロー体験 喜びの現象学』)

 

「望むはずである周囲からの報酬」とは、周囲の人たち(他者や社会)が、「あなたにこの報酬を与えて喜ぶことが当然、私たちもそうだから」という報酬のことを言っています。それ以外の報酬を求めないし、考えつくこともないのです。

社会化されてしまった人というのは、要求に対してのみ応答する人で、その応答によってどのような、どれだけの利益を手にすることができるかが、彼の関心事なのです。

言葉を変えれば、ニーズ(オファーや募集)に対して自分の労働を供給し、その労働によって受けられる金銭的利益はどれくらいなのかが関心事であって、もしニーズがなければ彼は何もできないし、もしニーズがあっても金銭的利益が割に合わないならば、そのことのみをもって彼は労働をしません。

これをあたりまえのことじゃん、と思うのなら、もう隷属根性が染みついてしまっていて、かなり社会化病の重症患者になっています。なんとか抜け出しましょう。

ミハイは、学校や教会などの公的制度から始まって、ありとあらゆる周囲の環境は我々を社会化に導き、我々のエネルギーを搾取する社会システムに我々を依存させるようにはたらきかけるのだと言います。

要するに、社会や会社が面倒見てやるから気楽だよ、という誘惑によって他律志向の人間にさせられてしまうのです。与えられるのを待つのみの受け身の人間へと。

刺激を与えられて初めて反応する。みずからが刺激となろうとなんて露ほども考えない。まして何もないところにニーズを作ろうなんて夢にも思わない。みずからの手で金銭以外の価値を仕事に与えようという発想がない。仕事は苦痛にこそなれ快楽になどなるわけないと思っている。

という心理的監禁状態にもしあるのならば、なんとか脱獄してください。

 

他律による生産性は自律による生産性の3分の1以下と言われることがあります。そして、単なる自律による生産性は、フローの状態の生産性の5分の1以下です。仕事に置き換えるとするならば、他律によって自分がする仕事は、自律&フローによって自分がする仕事の15分の1以下なのです。生産性と達成感が天と地ほどの開きがあるということです。収入はもしかしたら変わらないのかもしれませんが。

フローの状態で仕事ができるというのは、単に好きだから、単に得意だからというレベルとは全く違います。我を忘れて没頭するほど夢中になってしまう、生き甲斐になってしまう、そんなレベルのことになります。

希望の塊となって、全身から四方八方にオーラが出て輝いているフロー状態で仕事ができる自分を目指してみませんか。

 

世界は広大なブルーオーシャンです。

 

未知なる世界に希望を抱くために


今日1月14日は、初めて知ったのですが「愛と希望と勇気の日」だそうで、理由は調べていただくとして、まあ、ずいぶんと豪勢というか欲張りな日だなあというのが第一感でしたが。

 

さて、私たちが希望へ向かって第一歩を踏み出せないのはリスクをとろうとしないからだと、そうした記述を目にすることがよくあるのですが、これは少し違うのではないかと考えています。

話が飛びますが、私たちは宇宙の外側はなんだろう?という疑問を抱くことができる。そこは未知なる領域です。死んだら私はどうなってしまうのだろう?、これも未知ですよね。翻って3000年前の人類を想像してみましょうか。あの光っている空の玉のようなものはなんだろう?という未知があったはずです。けれどもその時点では、宇宙の外側はなんだろう?なんて疑問を抱く人は一人もいなかったはずです。未知であることをも知らないというレベルです。

エルンストブロッホ(ドイツの哲学者 1885-1977)『希望の原理』から引用します。ちょっと難解な部分を含みますが。

 

あらゆる人間の唯一の率直な特性である願望が、探求されていないのである。未だ意識されないもの(das Noch-Nicht-Bewuβte)、いまだ成らざるもの(das Noch-Nicht-Gewordne)は、すべての人間の感官とすべての存在の地平に一杯になっているにもかかわらず、言葉としてすらも、いわんや概念としては、一貫して見通されたことがない。この花ざかりな問題領域が、従来の哲学ではほとんど口もきけないでいる有様である。

(中略)

人間のなかの未だ意識されないものは、こうしてどこまでも世界のなかの未だ成らざるもの、未開発のもの、未だ顕在していないものに属する。未だ意識されないものは、未だ成らざるものと連絡し、相互作用をおこなう。(白水社版 エルンスト・ブロッホ著『希望の原理』)

 

哲学者の文章表現というのは、まったくもってまどろっこしい!同じことを別の表現で何度も述べていてうんざりする!のですが、辛抱して読み解いていくと、上記の言説はとても大切なことを簡略して(これでも!)述べています。(ここの場面では論理に飛躍を含みますが、ずっと後のページにぎっしり一週間かけて読まねばならないほどの量で解説が書かれています)

まず、哲学として「希望・願望の解明」は誰も足を踏み入れていない原生林であるということ。冒頭で私が書いた、未知のことと、未知であることさえも知らないこと、この二つの領域が相互作用をおこなうとブロッホは言うのです。

 

ちょうど昨日のブログで私が書いた、「こうして時代が流れるにつれて、“Good” という価値はどんどん変わってゆく。なのに私たちは今日までの “過去のGood価値” しか追いかけていないのです。ああなりたい、こうなりたいという、追いかけるモデルは過去に出来上がったモデルであって、・・・」に関連することをブロッホも以下のように述べています。

 

哲学的にも未来形は今日までまだまったく適切に書き留められてはいない。そのあげくに、おそろしく静的な思考がこうした状態を名指しで呼ぶこともなければ、理解するしないで、ただくり返し既成のものの話をつけることばかりに終始する。それは、定義どおり観察的な知として、もっぱら観察可能なものの、つまり過去の知だけがあって、成らざるもの(das Ungewordene)の上に、既製品完結篇の形式内容というおおいをはりめぐらす。おかげでこの世界は、歴史的にとらえられるばあいでも、一貫して反復の世界、ないし大きな輪回の世界となる。(同)

 

ブロッホが言いたいのは、未来に予想されることを過去の知見からしかもってこれないのであれば、われわれの想像する世界はすべて同じことを繰り返すような世界でしかないということでしょう。でも実際には今まで一度も起きたことがないことが現にたくさん起きているわけです。偶然か必然かは別として。

 

あの世界は何だろう?と、未知なることにチャレンジしてゆく際に、私たちはそこに「新しい未知」への畏怖を無意識のうちに感じ取っているのではないでしょうか。ちょっと頭がこんがらがってしまう表現ですみません。

A.H.マズローに説明の手助けをしてもらいましょう。

 

彼らは未来を怖れており、予想外の事態に遭遇した場合に、即興的に適切な行動を取るという自信がもてないらしい。つまり、自分を信頼できないという気持ちと、自分には、予想外の事態や予測が不可能なできごとを正面から受け止める力が備わっていないという不安感が入り混じっているのだ。(日本経済新聞出版社版 エーブラハム・マズロー著『完全なる経営』)

 

予想外の事態に、自分が未だかつて経験したことのないことが含まれていることが予想できるとき、人間は向かっていく目的を怖れるというよりは、現時点で予測不可能な出来事を怖れるのです。

例えば、人間は古来より死を恐れてきました。それは死後の世界が未知だから怖いというよりは、「何も見えない、何も聞こえない、意識もない」ような、現時点では予測不可能な状態に自分が置かれることに対する不安感なのではないかと。なので天国や極楽浄土という感覚できる死後の仮想世界を人間はねつ造した。それによって人間の、死後が怖いという感情を薄めたのは宗教の大きな成果だと言えます。

 

しかしながら私が思うに、死という瞬間を新たな未知の世界への旅立ちだ、冒険だとする勇気、予測不能な自分の状態とはいったいなんだろうかという好奇心、その2つがあれば宗教は必要なく、エイヤー!と飛び込んでいけるのです。まさに死後への希望はここにあるのです。(人との別離の悲しみを克服することは横に置くとして)

すみません、持論を少し熱く語ってしまいました。(18年ほど前に癌告知を受けたその日に、一晩じゅう独り天井を見つめつつ、暗黒の恐怖に苦悶しながら片を付けることができた。よし、死のう!と。その後に寛解し今もしぶとく生きられている理由は、その一晩の覚悟が自己催眠効果を生み出したからなのではないかと思っているわけです)

 

生きているあいだに、未知なる世界に希望を抱くことも同様ではないでしょうか。

リスクを取るというのではなく、(未だリスクともわかっていない)不可知を怖れず、かえって好奇心で楽しもうと一歩ずつ前へ進んでいこうとする心の内面に、希望の道がぶわっと開けていくような気がしてなりませんが、いかがなものでしょうか。

勇気と好奇心と希望の日ということで。

 

やりたい仕事で2倍稼げる仕組みを社会に


今日は新しく作った希望モードです。

私たちの人生の中で「仕事」や「労働」の占める価値割合はかなり高いと思います。

「仕事」や「労働」はお金を稼ぐ手段ですが、お金もまた手段にほかなりません。そもそも手段であるお金が目的となってしまっていないか、というふうに自問自答してみたことはありますか。お金の収入が安定していることを人間は求め、それは労働が安定して供給されていること、つまり安定企業の正社員で終身雇用されていることを望んだのが20世紀でした。

ところが現代社会と言えば終身雇用制が崩壊し、年功主義から能力主義へと完全にシフトされ、安定企業と言われ続けてきた大手も、SONYや東芝の例を出すまでもなく経営が傾いてゆく企業が増え続けています。

それでも「正社員」雇用の促進が政府の方針らしいのですが、私はピントがずれていると思っています。正社員はむしろハイリスクで、リスクヘッジができていない職業的立場の筆頭のように見えています。

安定収入がある、健康保険と年金を半分会社に払ってもらえる、退職金があるなどの利点と引き換えにわが身の自由を差し出している、はっきり言わせてもらいますが会社(公務員ならば国や地方自治体)の奴隷ですよ。労働関連法をよく読めば対等でないことは明白です。

このテーマについてはまた改めて書こうかと思いますが、労働だとか、雇用だとか、正社員だとか、もうそういった概念自体が古くさく、死にかけている老人(失礼!)のように感じています。

じゃあお金を稼ぐにはどうしたら良いか。

もちろんファウンダーとして創業する手はありますが、そう無理せずとも「業務受託」があります。それも常に一個人が複数の業務受託契約を結んでいることによってリスクヘッジできていて、しかもやりたいことを、自由な時間を使って仕事をし、それで今より2倍以上の収入になっている、という状態は十分に可能なのです。そういう仕組みを私は造っていきたい、そのために新規事業をスタートアップしました。がんがんやっていくつもりです。

 

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