今日1月14日は、初めて知ったのですが「愛と希望と勇気の日」だそうで、理由は調べていただくとして、まあ、ずいぶんと豪勢というか欲張りな日だなあというのが第一感でしたが。
さて、私たちが希望へ向かって第一歩を踏み出せないのはリスクをとろうとしないからだと、そうした記述を目にすることがよくあるのですが、これは少し違うのではないかと考えています。
話が飛びますが、私たちは宇宙の外側はなんだろう?という疑問を抱くことができる。そこは未知なる領域です。死んだら私はどうなってしまうのだろう?、これも未知ですよね。翻って3000年前の人類を想像してみましょうか。あの光っている空の玉のようなものはなんだろう?という未知があったはずです。けれどもその時点では、宇宙の外側はなんだろう?なんて疑問を抱く人は一人もいなかったはずです。未知であることをも知らないというレベルです。
エルンストブロッホ(ドイツの哲学者 1885-1977)『希望の原理』から引用します。ちょっと難解な部分を含みますが。
あらゆる人間の唯一の率直な特性である願望が、探求されていないのである。未だ意識されないもの(das Noch-Nicht-Bewuβte)、いまだ成らざるもの(das Noch-Nicht-Gewordne)は、すべての人間の感官とすべての存在の地平に一杯になっているにもかかわらず、言葉としてすらも、いわんや概念としては、一貫して見通されたことがない。この花ざかりな問題領域が、従来の哲学ではほとんど口もきけないでいる有様である。
(中略)
人間のなかの未だ意識されないものは、こうしてどこまでも世界のなかの未だ成らざるもの、未開発のもの、未だ顕在していないものに属する。未だ意識されないものは、未だ成らざるものと連絡し、相互作用をおこなう。(白水社版 エルンスト・ブロッホ著『希望の原理』)
哲学者の文章表現というのは、まったくもってまどろっこしい!同じことを別の表現で何度も述べていてうんざりする!のですが、辛抱して読み解いていくと、上記の言説はとても大切なことを簡略して(これでも!)述べています。(ここの場面では論理に飛躍を含みますが、ずっと後のページにぎっしり一週間かけて読まねばならないほどの量で解説が書かれています)
まず、哲学として「希望・願望の解明」は誰も足を踏み入れていない原生林であるということ。冒頭で私が書いた、未知のことと、未知であることさえも知らないこと、この二つの領域が相互作用をおこなうとブロッホは言うのです。
ちょうど昨日のブログで私が書いた、「こうして時代が流れるにつれて、“Good” という価値はどんどん変わってゆく。なのに私たちは今日までの “過去のGood価値” しか追いかけていないのです。ああなりたい、こうなりたいという、追いかけるモデルは過去に出来上がったモデルであって、・・・」に関連することをブロッホも以下のように述べています。
哲学的にも未来形は今日までまだまったく適切に書き留められてはいない。そのあげくに、おそろしく静的な思考がこうした状態を名指しで呼ぶこともなければ、理解するしないで、ただくり返し既成のものの話をつけることばかりに終始する。それは、定義どおり観察的な知として、もっぱら観察可能なものの、つまり過去の知だけがあって、成らざるもの(das Ungewordene)の上に、既製品完結篇の形式内容というおおいをはりめぐらす。おかげでこの世界は、歴史的にとらえられるばあいでも、一貫して反復の世界、ないし大きな輪回の世界となる。(同)
ブロッホが言いたいのは、未来に予想されることを過去の知見からしかもってこれないのであれば、われわれの想像する世界はすべて同じことを繰り返すような世界でしかないということでしょう。でも実際には今まで一度も起きたことがないことが現にたくさん起きているわけです。偶然か必然かは別として。
あの世界は何だろう?と、未知なることにチャレンジしてゆく際に、私たちはそこに「新しい未知」への畏怖を無意識のうちに感じ取っているのではないでしょうか。ちょっと頭がこんがらがってしまう表現ですみません。
A.H.マズローに説明の手助けをしてもらいましょう。
彼らは未来を怖れており、予想外の事態に遭遇した場合に、即興的に適切な行動を取るという自信がもてないらしい。つまり、自分を信頼できないという気持ちと、自分には、予想外の事態や予測が不可能なできごとを正面から受け止める力が備わっていないという不安感が入り混じっているのだ。(日本経済新聞出版社版 エーブラハム・マズロー著『完全なる経営』)
予想外の事態に、自分が未だかつて経験したことのないことが含まれていることが予想できるとき、人間は向かっていく目的を怖れるというよりは、現時点で予測不可能な出来事を怖れるのです。
例えば、人間は古来より死を恐れてきました。それは死後の世界が未知だから怖いというよりは、「何も見えない、何も聞こえない、意識もない」ような、現時点では予測不可能な状態に自分が置かれることに対する不安感なのではないかと。なので天国や極楽浄土という感覚できる死後の仮想世界を人間はねつ造した。それによって人間の、死後が怖いという感情を薄めたのは宗教の大きな成果だと言えます。
しかしながら私が思うに、死という瞬間を新たな未知の世界への旅立ちだ、冒険だとする勇気、予測不能な自分の状態とはいったいなんだろうかという好奇心、その2つがあれば宗教は必要なく、エイヤー!と飛び込んでいけるのです。まさに死後への希望はここにあるのです。(人との別離の悲しみを克服することは横に置くとして)
すみません、持論を少し熱く語ってしまいました。(18年ほど前に癌告知を受けたその日に、一晩じゅう独り天井を見つめつつ、暗黒の恐怖に苦悶しながら片を付けることができた。よし、死のう!と。その後に寛解し今もしぶとく生きられている理由は、その一晩の覚悟が自己催眠効果を生み出したからなのではないかと思っているわけです)
生きているあいだに、未知なる世界に希望を抱くことも同様ではないでしょうか。
リスクを取るというのではなく、(未だリスクともわかっていない)不可知を怖れず、かえって好奇心で楽しもうと一歩ずつ前へ進んでいこうとする心の内面に、希望の道がぶわっと開けていくような気がしてなりませんが、いかがなものでしょうか。
勇気と好奇心と希望の日ということで。