新生、すなわち偶然の物語へ


2025年 元旦。

多くの人は一年の抱負を考え決める日である。一年のうち、心機一転を図り昨日までの過去をできる限り断絶し、新たに心を切り替える日の代表は元旦と誕生日である。しかし心機一転と言っても一カ月もたてば忘れてしまう人が殆どのような気もする。そうならないように、元旦ということもあるので「新生」について考えてみよう。

 

ハンナ・アーレント

女性の哲学者として最も光を放ったドイツ生まれのハンナ・アーレントは、人が生まれることに人間たる本質があると述べている。人の生は不可逆的であり死をもって終わる。誕生した瞬間、その子には何の目的もなく予測可能性も一切ない。人生において最も可能性の自由度が高い瞬間が出生時である。やがて自由度は失われていき雁字搦めとなる。そんな自縛を解き再び新生することは可能だろうか。アーレントの言葉を引用してみよう。

新たに始めるというこの力能なしには、つまり中断し干渉するという力能なしには、人間の生のように誕生から死へと「急ぐ」生は、特異に人間的なことの一切を、何度も繰り返し引き裂いては朽ちさせ没落に追いやるべく宣告されている、ということになろう。(略)しかしだからといって人間は、なにも死ぬために生まれてきたのではない。そうではなく、何か新しいことを始めるためにこそである。生まれてきた人間とともに世界にもたらされた真に人格的人間的な基層が、生のプロセスによって摩滅してしまわないかぎりは、これが事実なのである。(みすず書房 『活動的生』34節)

アーレントは死が目的であるかのようなニヒリズムを力強く否定する。人間が主体的に社会へ「行為」することは、網の目のような関係性を構成している人間社会に波紋を広げ偶然性を生成する。そうでなければ人間も人間社会も機械のように閉じた必然性の中で無意味な活動を繰り返すだけになる。偶然性の象徴である出生は人間の奇蹟であり、一人の子の偶然の出生によって人間社会に別の力動が生まれる。これこそが人間の実存の現れだとアーレントは述べる。

なるほど。それならば人生のある時点で、中断し新しく始めることで死への一直線の機械的プロセスから解放され人間らしさを取り戻すことが出来るのではないか。もちろん出生時のような最も高い可能性の自由度はないにせよ。或いはどれほど老いたとしても。

例えば、これまでに全く経験のないボランティア活動に参加することも、新しい道を切り拓く一歩となるかもしれない。アーレントが指摘するように、私たちには「中断し新しく始める」力が備わっている。

 

目的と手段の価値転換

「手段が目的になってしまっている」という批判がよくある。これは本来の目的を忘れ、手段それ自体が目的となってしまった状態である。例えば、教育の本来の目的は、個人の知識やスキルを深め、思考力や創造性を育むことにある。しかし、しばしば「テストで良い点を取ること」が目的化されることがある。結果として、生徒がテストで問われる知識に偏り、本質的な学びや創造性を失ってしまうという問題が生じる。

私の新たな発想は、上述のような手段の目的化ではなく、手段を目的化するために目的をつくって新たに始めるというものだ。例えば、良い人との出会いを求めたい、良い縁をもちたいと、多くの人は望んでいるだろう。そのために出会えそうな場へ自らが踏み込んでいこうとする。しかしなかなかそうはいかない。なぜなら、良い出会いは意図的よりも偶発的に起きることがほとんどだからだ。

仮に、世界中の貧しい子どもたちに教育的な絵本を創るという目的でボランティアで参加してくれる人を集めるとしよう。または参加することにしよう。そこでの偶発的な出会いに良縁が生まれる可能性が考えられる。この場合は手段が目的化され、本来の目的は目的かつ手段になる。これにより、一生の親友となった人と出会えたり、やがて結婚し子どもを授かった人と出会えたならば、結果的に本来の目的は手段となり、手段は目的となったという逆転現象が起きる。

そのようにして新しいことを始める、自分自身を新生させることは、アーレントが「行為」として述べているとおり、偶然性と予測不可能性の海にみずからを投げ入れることであり、真に人格的で人間的な活動であると言えよう。

大きな偶然性が期待できること、過去の自分の経験が通用しない予測不可能性が高い道を目指すことが新生となる。必要なのは能力ではなく、固い信念と逞しい勇気だけである。

2025年が新生した。彼はこれから一年間、時間の場を提供してくれる。この場に、現存する人類全員が自分自身の物語をつくる。私は、上述の目的と手段の価値転換を応用し、2025年という場の全体をプロセスとして、偶然性の物語化を新春の抱負として考え、実践することにした。

もしあなたが共感してくれるのならば、
これからの一年間、あなたはどんな偶然を探しに行きますか?
どのような新しい挑戦を始めますか?
偶然の波紋を広げるために、まず一歩を踏み出す場所はどこでしょうか?

 

 

もはやこれは仕事


いや、もうこれは本当に仕事となった。残りの人生を賭けた大仕事と言ったら大袈裟だろうか。

さっきベッドで横になり入眠したが夢見が悪く15分で起きた。ああ、これは再び眠りに入るのに時間がかかるパターンだなと思って起きた。眠くなったら眠ればいい。今、午前4時半。せっかく起きているのだから仕事をしようとなった。哲学として人間原理論をこつこつ創るという仕事である。昨日、価値観原理論を創りながらいろいろ思うこともあって、今俺が生きている貴重さを再認識した。

同じ年齢の友人でステージ4の癌を患って闘病中のやつがいる。あとどれだけ生きられるかはわからない。イスラエルのガザ地区では大空襲のジェノサイドで次々と殺されてゆく非戦闘員の一般人が大勢いる。彼らは、一時間後に自分が生きているかどうかもわからない。自分と相対化してしまう。俺にはやり抜かねばならない仕事がある。安穏としていられない。

この大仕事をやり遂げたとしても、誰にも認められないだろう。誰にも褒めてもらえないだろう。よくやったと労をねぎらってくれる人もいないだろう。俺にはそんな期待は露ほどもない。しかし、必ずや、数十年後か数百年後か数千年後かわからないが、掘り起こしてくれる人がいるはずだと、それだけは信じて疑わない。

あらためて思う。周囲の友人たちを見渡しても、ネット上にいろいろ書いている人たちを見渡しても、死ぬまでの人生を賭けた仕事に取り組んでいる人をほとんど見ることはない。そういう仕事にめぐりあえた俺は幸せ者なんじゃないか。なんかそんなふうに思う。価値観原理を創っているとわかる。幸せや苦悩は、自分自身の観念世界に現象としてあらわれるが、それは一つの例外もなく、価値観によって生成される。つまり、俺が自分を幸せ者と感じているのは、今俺の中にある価値観が素材となって、この現象を生成しているということだ。

人間の希望はここにある。いや、ここにしかない。

 

 

 

 

可能性主義のステップ


昨年の4月13日に『可能性主義を提唱する準備として』という記事を書いた。未熟で自分の書いた文章だと認めたくないが、今書いているこの記事も来年の私にとっては認めたくない未熟な記事になるのだろう。自己嫌悪になるが仕方ない。

可能性主義の提唱を試みることについては一年たっても変わっていない。昨年と違っているのは、新たに開発した構造的思考方法が今はあるということ。可能性という概念についてどのように考えたらよいのかの、思考技術が今はある。

なぜ可能性について考えるのかという導入部分。可能性概念の起源。客観的定義と主観的定義を明確にすること。過去に対しての可能性、現実に対しての可能性、未来に対しての可能性、永遠普遍の可能性に分けること。主体としての可能性と客体としての可能性、名詞としての可能性、動詞としての可能性、形容詞としての可能性、このように可能性という概念を徹底的に分解することで、思考方法が更に更新されてゆく。

 

冒頭のとおり、私は「可能性主義」を良い価値として提唱しようとした。しかし今、考えが変わった。この断想記事を書きながら考えを変えた。突然、議論や持論を変えること、価値を変えることは私の得意技で、躊躇は一切ない。

前提として、「可能性」という概念について哲学的に「思考」することが必要で、ということは可能性の有無や状態において良い悪い等の相対評価はなく、一切の価値観の外に立たねばならない。なぜなら哲学する対象に固定価値を付ければ思想になってしまうからだ。もちろんこれは「哲学」と「思想」という概念についての個人的な定義によるものである。私は「哲学」を、無色で無価値の、純粋な論理と原理で構成される本質をとらえようとする知的行為としている。

そのような純粋な目で、まずは「可能性」という概念を、私の思考パレットに乗せて明らかにしていこう。

もはや「可能性主義」はごみ箱行きとなった。忘却だ。可能性についての議論を行う上で、「可能性主義」=良い価値という予定調和的なバイアスがかからないようにしておこう。

 

 

「未来の個人」に尽くす


かつて私は「よりよき社会」の実現を目指そうとする者であった。ここのウェブサイトの過去の断想記事に、おそらくその残骸が見られるはずだ。世界中の人たちが幸せになれる「世界」や「社会」になれば良いなと思考を巡らせた。それはごく普通の感覚だと思う。普通の人だったのかもしれない。

今はもう、「世界」や「社会」のためを思わない。一切思わない。別にぐれたわけではない。世界津々浦々に暮らす人々には、その土地それぞれ固有の価値観があり、更に、個人ひとりびとりに固有の価値観がある。宗教信仰もある。キリスト教とて一様ではなく幾つかに分かれ、近親憎悪のごとき対立もある。仏教もイスラム教も同様だ。これに社会思想が加わる。民主主義、専制主義、自由主義いろいろだ。そうした価値観の違いは戦争にまで及ぶことがあり、また、戦争に価値観が利用されることさえ日常茶飯事だ。例えば、民主主義を守る戦いだとか。

例えば、「世界平和」というのは空疎なお題目に過ぎない。平和を望まない人々もいる。平和よりも利益だとか、平和よりも宗教の布教だとか、退屈な平和よりも興奮するカオスの戦争ゲームを好むとか、挙げていけばきりがない。どうせ人類は必ず滅亡するのだから自分が死ぬまでにそれをこの目で見たいという人もいよう。しかしそうした人たちも、表向きは、平和を願うとしか言わない。

もし全地球人が平和を欲するようにしたいのであれば、たった一つの同一の思想が必要だ。価値観の完全一致が必要だ。例えば、解釈に絶対性をもつ、たった一つの宗教を全地球人が信仰することである。これはユートピアだろうか。私にはディストピアに思える。世界平和は完全実現するだろう。それと引き換えに全人類が寸分の狂いもなく全く同じ価値観となる。これ自体不可能のことと思えるが、脳に手術を施して近いことはできるようになるかもしれない。そこまで徹底できるのならば、どうぞ世界平和を目指し実現すればよい。私は賛同できぬ。

別の角度から考えてみよう。社会や人類世界という概念は実在するものだろうか。頭の中で、人の集合体をそう名付けているだけの想像物ではないのか。観念上にのみ存在する概念を形而上概念と呼ぶことにしよう。社会という形而上概念に「人格」をもたせ「人格」をより良きものにすれば、その社会の構成員が全員幸せになれると仮定しよう。相当無理があるが仮定だ。その場合、社会という「人格」に構成員全員を従わせようとする全体主義の力学がはたらくことに無自覚であってはならない。社会思想にはそういう性質がある。一元原理、一元価値観による全体主義である。

私は数年前、そうしたトップダウン型の「より良き社会」「理想的な社会」の傲慢と欺瞞に気づいた。緻密なロジックで考えればそうなる。

社会という形而上概念を成立させているのは、形而下に実在する人間ひとりびとりの個人である。ひとりびとりの個人は観念ではない。実際に、具体的存在として実在している。具体的存在として実在しているひとりびとりの個人それぞれが、高邁な思想信条と理知をもち、人に対する深い慈愛の心をもつと仮定すればどうだろう。そうした価値観や心情が世界中の隅々まで伝播し、自然に善い社会が彼ら全員の手によって形成されていくのではないか。「個」ありきである。つくるのは彼ら血のかよった生身の「人間」であり、普遍的価値観によってではない。

そう考え直した私は、「未来の個人」の皆さんに期待し、そのための一助になればと志し、このウェブサイト全体を一つのコンテンツとして残そうと企画し直した。21世紀に存在する70億人のうちのたった一人の私が行うことであり、世界の東の果てに浮かぶ小さな島国のかすかな一隅ではあるが、現存する人類を含め今後生まれてくる数千億の「未来の個人」のためにと、可能性を信じたい。

「社会」ではなく、「未来の個人」のために尽くすことを、私の残りの人生を賭けた使命としたい。

 

 

問題解決でなく希望と憧憬の創造(5)


年初から考察を始めたテーマは今回がラストです。4か月ぶりですが。人が生きてゆくことの本質を徹底的に掘り下げて考え抜きました。この2カ月でそれまでの自分に根づいていた生の哲学を大きく塗り替えることができた。表題のテーマ「未来の希望と憧憬をつくるために」これ自体を変更しなくてはならなくなった。のかもしれません。

今回のシリーズを振り返ると、(1)では「価値観を変えること」が必要ではないかと考え、(2)では「人間のモノ化」が進んでいるのは良くないと考え、(3)では「日本の古典思想」によってモノ化を乗り越えられるのではないかと考え、(4)ではビジネスの「能力主義」も人間のモノ化であると考えました。人間がモノ扱いされている現状が続けば、未来に希望も憧憬もないと思うのです。価値観の大転換を目指そうということで、今回の(5)になります。

(4)の後にぼんやりと、「個性による志向(個の人格主義)」を考えていました。パーソナリティー・ドリブンです。そうしているうちに中国でコロナ禍が発生し、あれよあれよという間に日本も世界もコロナ一色になった。でも今回を機に、「人間という生物の本質」まで掘り下げようとする「心の欲求(心の志向)」が私に生まれ、「人間のモノ化」とサヨナラできる論理ができたと思います。

もう誰も「求められる人材」や「能力のある人材」になどなろうとしないでほしい。

 

途中をいくらか端折りまして結論です。

人間は「反応」によって幸せを感じます。外部から自分への反応だけでなく、自分の内部でも反応を起こします。反応によって感情が生じます。この感情は自分独りだけの、唯一無二のものであり、他者のそれで代替はききません。

「何」の価値に対して反応した時に自分が最も大きな幸せを感じるのか。

その「何」の価値を欲求するのが人間です。

この欲求の先にその人固有の希望があるのです。その人にしかない。

「何」の価値に対して最も大きな幸せを感じるのか、感激するのか、その人固有の感情のクオリティこそが、オリジナル・パーソナリティーを象徴するものです。

反応と欲求、この二つが人間の生の営みそのものであり、何に反応し欲求するかはその人個人に内在する「価値観」で決まります。そしてその「価値観」は人類が創作してきたフィクションです。人類発祥から幾多の文明を経て現代に至るまでの人類知によって創作されてきた価値観は、自分ではなく「他者の総体」が創ったフィクションです。事象は実相ですが、価値は虚構です。

いきなり全ての価値は虚構だと言われて驚くかもしれませんが、この哲学については、本サイトでこれから肉付けしていこうと思いますので、ここでは詳細を省きます。

どのような希望をつくるのかは、どのような欲求が自分に生じるかであり、どのような価値に幸せを感じ感動するのかであり、価値を生み出す価値観はどうせ人間の他者が創作したフィクションなのだから、絶対ではないのだから、自分でそのフィクションを組み立て直して、あなた固有の、世界で唯一の素晴らしい価値観の宇宙を創造してみてはいかがでしょう。「この価値で私は感動できる。思わず感激してしまう。」を幾つか集めてみることが第一歩のような気がします。

誤解のないよう書き添えますが、これは、自分の感情が幸せを感じることをそのまま自分のために欲求し、ストレートに追求してゆくことであって、他者に共感してもらうことを求めたり、他者に押しつけたりするものではありません。社会にとって善という価値観も無関係です。

フィクション構造さえできあがって強い欲求をもてるようになれば、後は自動的に、何も目指さなくとも自分だけの「道」が開かれるはずです。

自分だけの道を歩き始めれば、自分がもっと感動できる価値観に気づき、それを更に組み込んで成長してゆくことになるのではないかと。

私自身もこれから、「フィクション構造」をこのサイトで構想してゆきます。

サイトの地図を全面的に描き直さないとなりませんが、楽しい仕事になりそうです。

 

 

問題解決でなく希望と憧憬の創造(4)


キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の一神教文化では、「人間は神によって創造された」という教義上の原点がある。両親の子どもとして生まれるが、自分の創造主は神であるとの価値観が根底にある。

自分という「人間存在」は既に神によって創造されている。一方、才能や能力といった「人間の一部分」については、個人の努力によって高められるものがあるとする。ここでも能力を対象化し「モノ」として扱う。この認識論が、西洋の(物質)科学文明のみならず、人間の知性的能力を大いに発展させた。

しかしコンピューター時代の到来とその進歩によって、知性的能力のほぼ全てをコンピューターによって代替できるようになり、AIによって人間知を超えるところまできたのだ。

ビジネスにおいて、年功序列主義から能力主義へと価値観が変わり始めたのが30年ほど前からで、今ようやく、多くの日本の各企業が能力主義へとシフトし出してはいるが、実は、もう(知的)能力主義は終局へと向かっているのだ。このことに日本のほとんどの企業やビジネスマンは気づいていない。

勘の良い人ならもう解るだろう。人間の知的能力を使う仕事のほぼ全ては、AIにとって代わられる。だから、今ごろ能力主義を掲げている鈍感な企業は終わる。

 

では、人間自体が淘汰されてしまうのではないか、コンピューターと人間の合体化から(今既に、サイボーグ化の一部テストが始まっている)、近い将来にはAIロボットが人間を使う立場になるのではないかという想像が働く。

人類は、人間とは何か、人間にとって良いこととは何か、その個人にとって良いこととは何かなどについて、人間の本質を一から考え直さねばならない時期に入ったのだと思う。

西洋文明は、モノ化した「人間」の文明として、モノ化した「能力」の文明として限界点に差しかかっている。一神教文化では、神の創造文化があったために、「人間らしい全人的人間(部分や能力ではなく)」としての、非目的的な“自分創造”をしていく文化は育たなかった。ここに可能性をみる。

科学文明の進歩、経済文明の進歩は、医療や福祉などを通じて人類の不幸を減少化させることに貢献したけれども、けっして幸福を増加させたとは言えない。

ポスト「人間のモノ化」の価値観大転換によって、私たちはこれを乗り越えて行こう。

 

 

問題解決でなく希望と憧憬の創造(3)


前の記事で、現代社会問題の幾つかは欧米の価値観依存によってもたらされているとし、人間の「モノ化」は、欧米の「言語(インド・ヨーロッパ言語)」構造と「一神教的な価値観」に原因と原理があると書いた。

まず言語構造について。

欧米の言語はメタ認知言語であるということ。私(I) という主語(一人称代名詞)を彼(He) の三人称代名詞と同じようにメタ視点から自分を指す(対象化する)ように使用する。

一方で、日本語には本来、主語は無かった。これも複数の言語学者が指摘している。

明治維新の頃、西洋から形而上学を輸入したことで、日本人に言語的なメタ認知思考が育っていった。但し、それが「メタ認知」であることに無自覚のまま、「私」という主語を(今も殆どの人が)使用している。常に旧来の日本語視点感覚で(メタ認知としてではなく)「私」を使用する人、常にメタ認知感覚で「私」を使用する人、時と場合によって、日本語視点感覚の「私」とメタ認知感覚の「私」を使い分ける人の3パターンがある。

メタ視点言語しかない西洋においては、まず、インド・ヨーロッパ言語以外の可能性についてニーチェの言及がある。次に、日本語視点感覚の「私」に気づいた哲学者は、デカルト、パスカル、フッサールなどごく少数だったとされるが、しかし、彼らにしても散々苦労したあげく、ついに西洋言語ではこれを説明できなかったのである。

メタ視点は、自分を「モノ化」してしまう。だから「私は存在している」(デカルトの、われ思うゆえにわれ在り、等)という言葉が生まれる。通常の日本語視点感覚では「私は在る」という言葉も感覚も有り得ない。この、有り得ないという感覚すら、欧米の言語価値観に慣れてしまった現代日本人は忘れ去ってしまっているのである。

日常的な日本語視点感覚では、自分を「モノ化」できない。

けれども、日本人にメタ認知が無かったわけではない。世阿弥の能についての考え方や、古典には自分をメタ認知した視座の和歌が数多くある。

現代文明の限界点の超克には、「自分をモノ化しない日本語的視点」、これが一つのポイントになると考えている。

 

 

問題解決でなく希望と憧憬の創造(2)


世界で最も先進的な科学文明を誇っていた西洋であるから、日本人が全面的にそれを是として「信仰状態」になったのは必然で、それは結果的に大成功をもたらした。当時の日本がアジアで唯一、世界の先進国入りを果たせたのは、科学文明のモノ真似よりも、西洋の形而上学的(概念的)な考え方を学び、教育に取り入れた学問的意義が大きい。

「社会」「意識」「経済」「主観」「客観」「義務」「空間」「公立」「計画」「環境」「思想」「民族」「分析」「抽象」「理想」、これらは和製漢語のわずか一部である。言葉がなかっただけでなく概念がなかった。(似た観念があったものもある) こうした概念を組み合わせて思考する、新しい大脳新皮質の誕生的変化が起こった。

明治初期に、どれほどドラスティックな知性革命が日本人を襲ったか、想像を絶する。

これによって日本人の思想的価値観は、古き良き日本道徳の伝統を残しながらも、西洋的価値観へ大きく舵を切った。昭和の敗戦後はアメリカ的価値観を強烈に押しつけられ(アメリカの国家的占領政策であるWGIP。日本人の堕落的洗脳。)、現代の日本人においても、アメリカの価値観に右へならえしようとする「習性」から脱却できていない。

日本人にとって、しかし、欧米の文化や思想、価値観、道徳を学べたことは非常に有意義だった。ところが、この欧米価値観依存によって、前の記事の冒頭に書いた多くの社会問題を抱え込むことになった。

否、日本だけではない。日本が先行しているだけで、他の先進国や東アジアの少子高齢化は進んでおり、先進国国民のニヒリズム(無力感、虚無主義)は世界中に蔓延しだしている。鬱病患者は世界的に増加の一途をたどっている。

なぜそれが欧米価値観依存に原因があると言えるのか。

我々の意識上(観念上)では、人間の「モノ」化、人間の物質化が急速に進んだ。社会を構成する「数」という考え方、政界では「議員」、行政雇用では「公務員」、会社雇用では「社員」、役に立つ人を「人材」と呼ぶ。或いは「学者」「経営者」「作者」などの「者」。ごく一般的で、何の抵抗もなく使用しているこうした言葉は、我々の無意識の深層にこびりついている。「員」は「数」であり、「材」は「役立つ材料」であり、「者」は「物」と同語源である。「自分は数だ」「自分は材料だ」と、もっと言えば「自分は数になりたい」「自分は材料になりたい」と、多くの人々が、自分自身でも自分を「モノ」化し、「モノ」として役に立つことを目指してしまっていることに無自覚なのである。

その上、あらゆる知性のAI化を前に、人間のモノ化は更に加速する。

人間が「人間」を失いつつある。

これは、欧米の「言語(インド・ヨーロッパ言語)」構造と、「一神教的な価値観」に、原因と原理がある。倫理観や道徳観にも大きな影響を与えている。

この原理を超克することなしに、現代の病いの根治は無い。そして、これを乗り越える最も高い可能性を秘めるのが、日本人だと思う。なんとしてもこれを超克し、明治維新の時の「西洋文明からの恩義」に対するささやかな回向と為すことを、日本人の使命として考えてみてはどうだろうか。

次の記事では上記の「原理」から入る。

 

 

問題解決でなく希望と憧憬の創造(1)


2020年が始まった。

現代日本では、少子高齢化問題、長期デフレによる貧困格差問題、政財官民の癒着構造による人心腐敗、犯罪の異質化、鬱など心の病気の増加など、さまざまな社会問題を抱え込んでいる。こうした社会問題にかんし対症療法的に解決しようとする試みは必要である。しかし、対症療法だけでは根治は無い。日本国と日本国民の「体質」を、長期間をかけて改善していく工夫が必要であるのに、根治療法のほうは見事に無視されている。要するに、体質とは国民の人間的欲求であり、欲求に根ざすのは個々人の自己愛(自己保存および利己心の快を求めるもの)であり、自己愛の基盤には価値観が横たわっており、価値観を変えてゆくことが根治療法であって、且つそれは、未来への「希望」や「憧憬」に結びつく。

99%以上の人々は対症療法に熱心なので、そちらの方は大多数の方々に任せ、私は(今までもそうだが)、1%未満の「根治」について考察し続けてゆく。

現代日本を生きる人々の価値観はどのように培われてきたか。これについて深く掘り下げ、その思想的大河の流れの「全体像」を俯瞰することなしに、未来への大きな流れを修整することはできない。

愛国主義者や民族主義者のなかには、戦前と戦後とを分け、戦前の道徳教育の復権が必要であると考えている人も多い。「教育勅語」の復活を望む声は一部政治家からも上がっているようだが、まず、あまりに浅い。明治後期の修身まで遡っても浅い。

そして、少し逸れるけれども、現代の世界的に情報化された社会は、既に「上から与える教育」の時代ではなくなっている。教育では情報が遅く、すぐに古くなってしまうため時代に追いつけない。子どもたちは今後ますます、インターネットを使って自主的に新しい世界基準の学問情報を手に入れ、個々に学び考える。一方、文科省と教育委員会を数年かけて通って、学校の先生から教えられる古びた学問情報は、子どもたちから馬鹿にされる未来がすぐそこに見えている。上の立場から教える「教育」はもう終わっているのだ。「自分は教えることができる上の立場」と思っている多くの大人たち及び教育者は、時代の潮流に鈍感な大いなる勘違いの人たちなのである。必要とされるのは各学問の専門研究者であり、教育者ではない。

 

閑話休題。

本題に戻すと、明治維新直前より日本が取り入れた西洋型(当初はフランスがモデル)の近代教育は、日本人に思想の大転換をもたらした。小中高の学校、大学の制度、細分化された教科、内容を学ぶにも概念言語が少なかったため大量の和製漢語が造られた。子どもたちへの学問は、当時の大人たちにとっても学問となった。歴史的に、それまでは中国から輸入した思想と、そこに日本人らしく改良を加えた思想および学問しかなかった。それが一挙に、まるでオセロゲームのごとく、形而上学を中心とした西洋思想にひっくり返されたのだ。

 

 

小さな志ですが。


もやがかかっていた自分のこれからの人生テーマが、一冊の本と出合ったことによって一気に視界が開け、形に成りはじめてきましたのでイラスト化して整理しました。

新しい、心の美学という石板を建設したい。小さな志ですが、こつこつと進めていこうと思います。

21世紀まで進んだ私たち人間の生の営みのなかでは、富と権力、名誉、そして科学の発展、その結果による成功が幸福に結びつくという価値観念が、多数の人の無意識の中に根付いていると思います。この価値観のパラダイム変革を提唱していきたい。

富を求めて結果として成功することを否定しません。権力を求めるのもいいでしょう。けれど今よりもちょっとそちらの価値は下げてもらいたい。新しい、心の美学が第一等の価値になることによって、一生涯のプロセスの充実が図れるように、個人の内発的な価値観変革を提唱していきたい。

 

こころの美学の建設構想ですが、価値マップを作ってみました。暫定的な叩き台があったほうが自分にとって解りやすいと思ったので。

ベースは分析心理学です。すべてに分析心理学を結び付けていきます。今よりももっと深く、無意識についての考察を行っていくつもりです。

美学の土台とするのは、大きく分けて西洋哲学と日本思想です。身体はこころに大きく影響を与えると考えますので、医学系(内分泌系・自律神経系・脳科学・エピジェネティック遺伝学など)の最新科学の知識も借りなくてはいけません。分析心理学、哲学、日本思想、科学をクロスオーバーさせて美学の石板を造ろうとする構想です。

独学でがんばります。

営利的な仕事は別でがんばります。認知症にならない限り生涯現役です。

新しい、こころの美学という価値の建設は、当然、私の能力をはるかに超えた遠大なテーマではあります。けれど千里の道も一歩から、世界の小さな片隅を一つの志で照らしていくことで充分だと考えています。10年や20年でできる事業ではありませんので、500年、1000年と、きっと誰かがバトンを受け取って繋いでいってくれると信じて。

皆さんもそれぞれに、人生にテーマと希望をもってがんばってくださいね!

きっといいことあるよ!

 

 

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