問題解決でなく希望と憧憬の創造(3)


前の記事で、現代社会問題の幾つかは欧米の価値観依存によってもたらされているとし、人間の「モノ化」は、欧米の「言語(インド・ヨーロッパ言語)」構造と「一神教的な価値観」に原因と原理があると書いた。

まず言語構造について。

欧米の言語はメタ認知言語であるということ。私(I) という主語(一人称代名詞)を彼(He) の三人称代名詞と同じようにメタ視点から自分を指す(対象化する)ように使用する。

一方で、日本語には本来、主語は無かった。これも複数の言語学者が指摘している。

明治維新の頃、西洋から形而上学を輸入したことで、日本人に言語的なメタ認知思考が育っていった。但し、それが「メタ認知」であることに無自覚のまま、「私」という主語を(今も殆どの人が)使用している。常に旧来の日本語視点感覚で(メタ認知としてではなく)「私」を使用する人、常にメタ認知感覚で「私」を使用する人、時と場合によって、日本語視点感覚の「私」とメタ認知感覚の「私」を使い分ける人の3パターンがある。

メタ視点言語しかない西洋においては、まず、インド・ヨーロッパ言語以外の可能性についてニーチェの言及がある。次に、日本語視点感覚の「私」に気づいた哲学者は、デカルト、パスカル、フッサールなどごく少数だったとされるが、しかし、彼らにしても散々苦労したあげく、ついに西洋言語ではこれを説明できなかったのである。

メタ視点は、自分を「モノ化」してしまう。だから「私は存在している」(デカルトの、われ思うゆえにわれ在り、等)という言葉が生まれる。通常の日本語視点感覚では「私は在る」という言葉も感覚も有り得ない。この、有り得ないという感覚すら、欧米の言語価値観に慣れてしまった現代日本人は忘れ去ってしまっているのである。

日常的な日本語視点感覚では、自分を「モノ化」できない。

けれども、日本人にメタ認知が無かったわけではない。世阿弥の能についての考え方や、古典には自分をメタ認知した視座の和歌が数多くある。

現代文明の限界点の超克には、「自分をモノ化しない日本語的視点」、これが一つのポイントになると考えている。

 

 

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