深淵から見られる自分


「自分探し」という言葉があります。

私にはどうしても実感できないのですが、この言葉を用いるかたは、「本物の自分」があると考えているのではないかと思います。この、「本物の自分」ということが私にはわからない。多面的な人格はあるのですが、どれもこれも本物ではなく全てを統合して「自分」になっている、という考えかたをしています。ただ、その「心の核」となる魂のようなモノはあるんじゃないかと仮説を立てています。しかしそれは人格ではなく「質(クオリティー)」みたいなイメージです。本物の自分ではない。

「自分探し」として本物の自分を見つけたいというかたは、逆に言えば、現状の自分は本物ではなく偽であり、本物の自分はこんなもんじゃない、もっといいモノのはずだだとか、もっと長所があるはずだだとか、つまり、現状の自分に不満足だと言えるのではないかと思います。

では、その現状の自分に不満足だという心の風景はどこから現れているのでしょうか。

不満足に思うのも、満足に思うのも、自分の自由です。そこには明らかに内心の自由がある。自分のことを不満足に思ってしまう、その性格の一面にこそ不満足を抱くべきであって、自分には是も非もないのではないでしょうか。

では、そうした性格はどこから造られるのか。

ズバリ言えば、潜在意識(深層の無意識)だと思います。

 

ニーチェのアフォリズム(箴言)に以下の有名な言葉があります。

怪物と戦う者は、その際に自分が怪物にならないように、注意するがいい。

また、君が長いこと深淵をのぞきこむならば、深淵もまた君をのぞきこむ。

(白水社版 ニーチェ全集 ニーチェ著『善悪の彼岸』146番)

(原文) Wer mit Ungeheuern kämpft,mag zusehn,dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird.Und wenn du lange du lange in einen Abgrund blickst,blickt der Abgrund auche in dich hinein.

(英訳) He who fights with monsters should be careful lest he thereby become a monster.And if thou gaze long into an abyss,the abyss will also gaze into thee.

 

主著『ツァラトゥストラ』でもよく使われている『Abgrund』(深淵)を、私は、潜在意識(深層の無意識)の比喩として解釈しています。自我(意識)から自分の深層無意識を覗き込もうとするとき、無意識のほうも自我を見ている。このことから何が言えるのか。

無意識の根源は、すべて、経験したことです。(遺伝も含めて)

当然ですが「未来」は無意識にはないし、未来の想像もありません。それどころか、「今」も無意識にはない。「今」から「過去の自分の結晶」を覗き込んだとき、「過去の自分」が「今」の自我(未来の想像も含む)を見ている。そうして無意識が自我に影響を及ぼすわけです。

「本物の自分」は無意識のなかにあるのだから探し出そうと。それではどうしても、過去の自分の価値観や観念でしか「本物の自分」について考えることができなくなる、ということになります。未来に大きな可能性があるのにもかかわらず、です。

怪物も自分の無意識の中にいる。自我が自分のなかの怪物と戦おうとしたとき、自我が怪物にならないように注意しなさいと、ニーチェの言葉はそのように解釈することが出来ます。

 

どなたか、もし「自分探し」をするのならば、未来に描く自分を探してみてはどうかと思います。

そして、「怪物と戦う」よりも「怪物を味方につける」ことのほうが、圧倒的にパワーアップできそうだと思いませんか。

 

 

 

無意識の混沌から生まれる創造


心理学というジャンルが本格的に学究されだしたのは18世紀後半頃からで、とても若い学問です。なかでも無意識の心理学については、ピエール・ジャネ(1859-1947)、ジークムント・フロイト(1856-1936)、カール・グスタフ・ユング(1875-1961)らが道を開き20世紀に開花したばかりです。

 

近代自我は、合理性、効率性、計画性、整合性、論理性などによって、20世紀の科学を劇的に発展させました。

一方で無意識の研究が進むにつれ、まだぼんやりとですが、創造力についていろいろな仮説が立てられ始めています。

著名な精神分析医や心理学者の知見をもとに、いま私は次のように考えています。

無意識領域内に自覚なく潜在している、無計画、無目的、無秩序、非合理、非効率、非真理、不整合、不安定、不確実、未完成、未成熟、未解明、なるもの(私はこれを三無三非三不三未~無非不未独創論と名付けました)が、混沌たる心の深層で勝手にマッチングし、閃きや創造に繋がっているのではないか。

 

人間がただ単に生きるだけならば創造力は必要としませんし、可能性を追わず冒険を求めずに、現実的に確実な人生を送ったほうが安定します。安全で安心ですね。

私は逆に、不安定や危険な冒険を好む性分で、未知なるなにか、偶然の出会いによるなにかにわくわくすることが人生の醍醐味だと思っています。

無意識と創造について、考えを深めてまいります。

 


 

以上は新設したコンテンツ「無意識と創造」からの転記です。

私たちは睡眠の中身を計画することはできません。夢は無目的的に現れます。ふだん覚醒しているときの自我は夢に対しあまりに無力です。

夢の中で体験することは無秩序・不整合であり、非合理・不安定の状態に置かれ、未成熟・未完成のままストーリーは幕を引いて起床します。ほどなく夢を忘れてしまう。

夢は人間にとって必然的な出来事なのでしょうか。

 

 

 

《心のすがた》のブランディング


小林秀雄の文学的表現、「すがた」について引用します。

「論語」はまずなにを措いても、「万葉」の歌と同じように意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。

その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。

(中略)国語伝統というものは一つの「すがた」だということは、文学者には常識です。この常識の内容は愛情なのです。(新潮文庫版 小林秀雄・岡潔 対談共著 『人間の建設』)

 

国語教育における素読について述べているわけですけれども、内容自体ではなく、ここで使われた「すがた」という文学的表現が、私の脳裏に印象深く刻まれていました。

いったん話は飛びますが、創造的な企画の仕事をしているとアイデアを盗用されることは日常茶飯事です。特許や著作権に守られない構造のアイデアや新しいシステムなどは、すぐにライバルや資本の大きな会社に真似されてしまいます。

特許や著作権も必要なく、絶対に盗まれない創造物はないのだろうかと考えたとき、絶対にコピーが作れないものがあるじゃないかと閃きました。いや、地球だとか宇宙だとかそうしたものではなく。

それは、《私の心》です。《あなたの心》もそうですよね。

 

ここから読者さんには、ご自身の《私の心》と置き換えて読んでみてほしいのですが…。

物理的に脳と体をコピーすればと思われがちですが、私の心は、私の生きた体験によって造られています。例えば10年前の2月16日に体験したこと(覚えていませんが)によって、私のなかで何らかの変化がおきているはずで、そうした一秒も途切れることのない連続した経験によって私の心は造られている。10年前を再現することも、私の誕生を再現することもできない。今ここにある私の心は、私の経験のなかにおいてさえ唯一のものでありコピーできません。

 

なんだかあたりまえのことを書いてますね。

一方、「私の心とは何か」を誰かに説明しようと思ってもできません。いや、自分自身に対して説明しようと思ってもできない。でもこれには特許も著作権も必要なく、誰にも真似されない宇宙の歴史上で唯一無二のものであり、しかも私が現に手中にしているものでもあるのです。

ま、私が、私の心に所有されているのかもしれませんし、手中にしているという表現は不適切かもしれませんが、ややこしくなるので横に措きます。

 

唯一無二である私の心は何でできているのでしょうか。その外側を形成しているさまざまなものを考えてみます。

獲得した能力(知性・感性など)、価値観、気質(性格)、感情、身体、こうしたものが心を取り囲み影響を与え、一秒も休むことなく心を変化させているのです。心の何を変化させているかと考えるとき、視覚的な形状をイメージするのは適切とは思えません。

そこで、冒頭に引用した小林秀雄の「すがた」なのです。

《心のすがた》

全世界で唯一無二の存在である《私(貴方)の心のすがた》こそ、私(貴方)のブランドなのです。

このブランドに自分自身で誇りをもてているのか、自信をもてているのか、その誇りや自信は何に由来しているのか、ブランド価値を傷つけること、歪めることとは何か。

 

上記で見てきたとおり、《心のすがた》を変化させる要素は能力や価値観、気質、感情、身体であり、直接的に自力で努力できるものは能力と身体、間接的に影響が与えられて創られ育つものが価値観です。感情はそれらから二次的に変化してくるもののように思いますし、気質は生得的な影響もあるかと思います。この内容についてこれから深く考察していくことが私のひとつのテーマになっています。

ともかく、その全要素は、すべて経験から造られています。

いまこうしてコンマ一秒前の世界を体験しつつこれも経験として、能力や価値観、身体を変化させ、それと同時に《心のすがた》が変化している。習慣的に何度も同様な刺激を加えることによって、長期的な《心のすがた》に影響が与えられる。

 

現代の私たちは、私たち自身の外にあることを現象として科学的に、そして合理的に思考していくことに馴らされています。「経験」は無視して合理的に判断することを、特にITなどの業界では求められているようです。

しかし皮肉なことに、経験からしかその人の創造力は発揮できないのです。

なぜならば、新しいアイデアは、既存の経験のマッチングからしか生まれないからです。ジェームス・W・ヤングの有名な小冊子『アイデアの作り方』にもそうあります。創造研究の第一人者である心理学者のチクセントミハイによれば、経験の蓄積によって年齢が上がれば上がるほど、人によっては90代でも結晶性知能は上昇し、マッチングの機会に恵まれ新しい創造ができるということです。

 

経験は素晴らしいもので、上手に活用すればクリエイティブ能力は上昇し続けます。

そして最も重要なことは、経験は、その人の《心のすがた》を造るすべてだということです。

しばしば経験が悪役とされるのは、過去の経験に頼り過ぎ、視野狭窄で頑迷固陋になり、新しい選択を持とうとしなかったり、頭ごなしに他の価値を潰してしまうといった姿勢に原因があります。つまり知恵を使うことのサボタージュです。一つの真理めいたものに依存するのは楽ですから。

 

《心のすがた》の(自分にとっての)ブランディング、難しいけれど、「生」のプロセスのテーマは、究極的にはこれだと思います。

 

 

ぐんぐん伸びるホームラン


今日はまず、野球のバッティングフォームを例にとります。

プロ野球のホームランバッターのバットスイングは、ただ一人の例外もなく(私の知る限りですが)、「前」が非常に大きいです。この「前」というのは時間的な前ではなく(時間的には後になります)、ピッチャー側のスイングのことを言います。プロゴルファーの飛ばし屋も同じように「前」が大きい。この「前」のことをフォロースルーと言います。ボールをミートした後のスイングです。

 

野球で言えば、ピッチャーが投げたボールが、内角(バッターである自分の体の近く)に来た時に対処できるようなスイングを覚えることによって、フォロースルーの大きいダイナミックなバッティングフォームが出来ていきます。

具体的にどのような練習をするかというと、野球をやったことのない人、女性のかたでも簡単に始められます。家のどこかに柱(の代わりに棒を立てるとか)があれば、まずその真正面約20cmに顔が来るように接近します。足は肩幅より少し広いくらいで自然に立ちます。両手で30~80cm程度のほうきでも物差しでも良いのでバットのように握ってください。

その状態で野球のバットスイングをします。柱や棒に当たりますよね、そもそも手が当たってしまいますよね。ひじをたたみグリップエンドを抜くように訓練していくと、手どころか長さ84cmのバットも柱(棒)に当たりもせずかすりもせずとなり、全力でスイングができるようになります。こうして大きなフォロースルーのバッティングフォームが手に入ります。

 

なお極めるならば、自分のバットスイングの音が、右バッターであれば左耳の後ろ、左バッターであれば右耳の後ろで聞こえるようにスイングの練習をします。その音がぶわぁっと言う太い音から、ツーンという細い音になるまで一日何百何千の素振りをします。(これはバットが波打たないよう、空気を切り裂くようなスイングを音で確認・判断していくわけです)

プロ野球で活躍できるレベルになるには、それ以上にテクニカル的な訓練に次ぐ訓練が必要なのは言うまでもありません。

 

大きなフォロースルーのフォームで、バットの芯に当たったボールはぐんぐん伸びてゆくのです。しかも当たった時の手ごたえが「え?」って思うほど軽い。

逆に、悪いスイングの代表として、「ドアスイング」があります。

これは、体の真正面でボールを捉えようとし、ボールに当たる瞬間に最も大きな力が入るような、当たる前のスイングと当たった後のスイングが同じような大きさになってしまうイメージです。当たる前のバックスイングに力が入ってしまうため、フォロースルーが小さくなってしまう。インパクトの瞬間は手ごたえありますが、打球は死んでいます。

 

物理的、科学的になぜそうなるかを説明すればできるとは思いますが、不思議なことは意識を集中するポイントです。目はピッチャーの投げたボールに集中していますが、体(の意識か神経かはわかりませんが)は、フォロースルーの方に集中している感覚があるのです。

スポーツジムなどにいくと壁のいたるところに鏡が貼ってあって、知らない人はマッチョのナルシシズムだと思うかもしれませんが、あれは、鍛える体の部分を鏡に映し、その部分に意識を集中させるための鏡です。例えば上腕二頭筋を鍛えるときに、神経と意識を上腕二頭筋に集中させるかさせないかでは、トレーニングの効果に雲泥の差が生まれるのです。

もうこうなると、体のチャクラの存在を信じるほかないのではないかと思えてしまう。

 

そこで今日のひらめきなのですが。

目はピッチャーの投げたボールに集中し、体は無意識のうちにフォロースルーに集中している、それによってミートした打球がぐんぐん伸びてゆく、という原理は、いろんなことに当てはまるのではないかと考えた次第です。

スポーツのような物理的なことだけではなく、空間認識、時間軸認識、国家と民族、知恵、精神、行動など、バックスイングは小さく力を入れずに、フォロースルーを大きくとるイメージ。

現実をミートした感じが軽~いイメージ。

それでいてどこまでもぐんぐん伸びてゆく場外ホームラン。

 

 

 

チクセントミハイのフロー


脳科学者の茂木健一郎氏が絶賛しているチクセントミハイのフロー体験とは何だろうかと思い、2冊の彼の著書『クリエイティヴィティ』(2016.10) 『フロー体験・喜びの現象学』(1996.8)を読んでみた。正直言って前者はほとんど得るところがなかった。成功者のエピソード体験が9割以上だろう。

後者の書は良かった。もう少し丁寧に読み直そうと思っている。

ちょっと拍子抜けしたのは、彼のいう「フロー体験」というのが、日本人にとっては一般的なことではないだろうかということ。柔道や剣道、弓道などで意識せずに自然に体が動いていることを、彼はフローの特殊型だと書いている。日本の忍術にも触れている。

ふつうにフローはどこにでもある。例えば卓球選手はフローの状態でなければ球を打ち返せないと思う。目で認識してから反応するのではスピードが間に合わないのだ。同様に、野球の内野手(特にサード)では、強烈なライナーやゴロが飛んできたときにフローの準備が無ければキャッチできない。特にオフェンスよりもディフェンス時には、自我意識の頭で考えてなどやっていたらスピードに間に合わない。全身を信頼して、ぜんぶを身体の反応に委ねる。

自我の「気」を全部抜く。この状態には子どもの頃から簡単に入れる。息をほとんど吐き、ごく浅い呼吸に任せる。不思議なことに相手からは自分の気配が消えるらしい。ただし私の先祖に忍者はいない。

 

逆に私が驚いたのは、西洋人の特徴なのかどうかはわからないが、常に自我がはたらいている状態にあるということだ。例えば、何も考えず目を開けていても何も感じず、ただ、ぼーーーっとしていることが彼らには無いようだ。読者の方々も、ぼーーーっと放心してることなんてしょっちゅうあるでしょう? テーブルに頬杖をついて、何も考えずに壁の一点というか全面をぼーっと見ていたり、しますよね?それの動いてる版なのですが。

常に何かしら考えていて、自我を失うということがどうやらないみたいで、しかも言語を中心に頭脳が活動しているらしい。疲れてしまわないのだろうか。日本人の「おのずから」という精神文化をたぶん彼は知らない。自我で自分をコントロールしようとする、自我で自分の感情をマネジメントしようとする、このやり方のみに拘って書かれています。

私と同じ日本人の茂木さんがフローに強い関心を抱くのも不思議だ。左脳を遮断し右脳だけがはたらいている感覚をつくるイメージですが、日本人ならば作りやすいのでは?テキストをこうして書いているときもふと気づけば時々そんなふうになっているけども。

 

皆さんはどうですか?

 


― 永遠の香り、永遠の匂いだ。うっとりと薔薇のような、濃い黄金色の葡萄酒にも似た香り、年老いた幸福の香りだ。

― 真夜中の酔い痴れた死の幸福の香りなのだ。その幸福は歌う。

「世界は深い、昼が考えたよりも深い!」と。

わたしの肌は、お前の手に触れられるには、余りに清浄だ。構わないでくれ、お前、愚かで、粗野で、陰気な昼よ! 真夜中の方が、もっと明るいのではないか?

最も清浄な者たちが、大地の主人となるべきなのだ。最も知られない者たち、最も力強い者たち、どんな昼よりも明るく深い真夜中の魂を持つ者たちが。

(白水社版 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』)

 

夜に愛された女たち  夜に捨てられた男たち

いつか夜を主人公とした物語をつくってみたい。

 

 

TOP
Copyright © 2017-2025 永遠の未完成を奏でる 天籟の風 All Rights Reserved.