「時間(私)」から観た世界


今、「時間」 に成りきる感性実験をしています。これは4月半ばころに気づいて暇を見つければやっているのですが、新しい哲学の地平が開けるような予感があります。

私が「時間」になるのではなく、「時間」に私がなるのです。この違いは大きいのです。「時間」に乗り移ってしまう感覚で、そこでの体験が目的です。

現代科学の物理学では、時間は、空間という「物質」の運動に付随したモノサシでしかないのですが、それゆえビッグバン以前はどうなのかだとか、宇宙の外側はどうだとかという人知では想像を絶する空間が生まれてしまうのですが、「時間(私)」から観る世界では宇宙だとかすごくちっぽけな事象に過ぎないことになってきて、すべてが自明になってしまいそうなんです。

ただまだ体験度が足りていない。

ヒントはニーチェ哲学の「永遠回帰」(永劫回帰という感覚ではない)だったのです。哲学者の解釈や知識人のあいだで言われているような物理学的な円環的世界観を「永遠回帰」とするような、そんなベタなことを、あのニーチェが発見した時に感激するほど喜んだというのは有り得ない。物理学的な円環的世界観のなかで何回も同じ人生を繰り返すことを全肯定する?、喜びも悲しみも?、あまりにベタ過ぎる。そんなことは誰でも考えつく。ニーチェは100%違うことを言っている、というのは私のニーチェに対する信頼です。

「永遠」に対して求婚する「超人」は、限りなく「時間属性」に近いものじゃないかと仮説を打って見当をつけたのが始まりだったのですが、この思考実験中に中島義道さん近著の『時間と死』を併読(というか並行乱読)しており、そこから重大な閃きが生まれたのです。

「時間(私)」の世界ではあらゆる偶然性が消滅する。

「時間(私)」が時間属性をすべて独占しているので、空間(物質)は非時間属性的な対象になるわけですね。

視覚的世界観と言語的世界観は全削除しないとイメージできません。

これね、すごい世界です。

 

ただ、あまりやり過ぎると息苦しくなって発狂しそうになります。(なりかけた)

離人症、精神分裂症気味の人は絶対に真似しないようにしてください。

自己催眠の世界に入ってしまう感じなので。

 

その「時間(私)」から、視覚的を含めた総合的に、「現在する私」を観察すると、どう感じると思いますか?

 

 

若者よ、孤高となれ


最近の風潮に、「ものわかりのよい人になりなさい」というのがある。他者の個性を認め、自由を尊重し、その個性や自由に対し批判してはならないと。批判された者の傷つく心情を考えろと要求する。

かような負荷のかからない、ひょろひょろとした軟弱な精神を育てるような母性社会からは一目散に退散した方がよいだろう。

若者よ、やわな母性社会から逃げよ。孤独へ逃げよ。

 

名著と言われる精神科医アンソニー・ストー(英・1920-2001)の著書『孤独』より引用する。

何年か前に、友人のある哲学者が、古代ギリシアの時代から西洋の偉大な哲学者の大多数は個人的に親密な人間関係や家族関係をもとうとしなかった、と指摘した。このことは私に、孤独と、抽象的な思考において何かを創造することの間に、ある種の関連性があるのではないかと疑問を抱かせたのである。

ニュートン、デカルト、ロック、ヒューム、パスカル、スピノザ、カント、ライプニッツ、ショーペンハウエル、ニーチェ、キルケゴール、ヴィトゲンシュタインとった哲学者たちは、もし妻や家族があれこれと要求することに悩まされていたならば、おそらく彼らの偉大な哲学を創造することはできなかったであろう。創造的な思考はおそらく、誰からも干渉されない孤独な長い期間と情緒的な要求が何もない状態を必要とするのである。

(中略)

そして、とりわけアメリカ人たちは、子どもはいつも友達と一緒に遊ばねばならないし、もし子どもが独りでいたいと望むならば、それは奇妙か異常であると信じて疑わなかった。そして、そういう確信のもとで子どもを育てる傾向があり、それは今も認められるのである。

(中略)

本書は、とりわけアメリカ合衆国の人々に好評を博している。多くの読者が、本書によって自らを正当化することができたといって、著者の私に感謝の言葉を寄せている。これらの人々は、かなりの時間を独りで過ごして楽しんでいたが、家族や友達からは、そうすることが反社会的あるいは異常だと言い聞かされていたのである。

(中略)

先に挙げた偉大な思想家たちは自己中心的で、他者の相いれない、要するに「自己愛的」な人であり、他者の福利よりも自分自身のなかで進行することに心を奪われていた人といってもよい。

同じことが多くの作家、作曲家、画家にも当てはまる。創造的な人は、自分が創造するものを通して自己発見、主体性の変革、そして宇宙に意味を見出すことに絶え間なく努力している。

創造的な人はこのことが貴重な統合過程であることに気付いており、その統合過程は瞑想や祈祷と同様に、他人にはほとんど関係がないが、それ独自の有効性をもっていることを知っている。

創造的な人にとって最も重要な瞬間は、何か新しい洞察を得るか、あるいは新しい発見をする瞬間である。

そしてこのような瞬間は、必ずとは言わないまでも、主として独りでいる時なのである。

(創元社版 アンソニー・ストー著『孤独』)

 

ここで勘違いしてはならないのは、やむを得ず孤独に暮らしているのではなく、無気力なニートのようにこもっているのではなく、人と接触するのが煩わしいからというのでもなく、孤独を自分自身にとって有用化するために、自分の精神の健全さを保つために、積極的に孤独の状態を自らつくっている、ということである。

いや、彼らの本能が群れることを否定し直観的に孤独を選択する、ごく自然な行為なのかもしれない。

 

現代日本の母性社会は創造者タイプを生成できない。

なぜならば、創造とは常に、抵抗や負荷を自力で克服しようとする精神に宿る生成物だからだ。壁無くしてどうして壁を乗り越えようとする精神が生まれると言うのだ。筋力は破壊され再生されることでより強くなる。傷つかない精神はいつまでたっても軟弱なままだ。

現代の風潮に染まってならない。そうしたコミュニティーがあればすぐに離れよう。

孤独は自己中心的だという。そのとおりで良い。他者中心で他律によって自分の背骨が融解し、いつのまにか軟骨になっているよりはよっぽど良い。

孤独は自己愛的だという。そのとおりで良い。自分を愛するからこそ自分への負荷を求めるのだ。まったく耐えられないほどの強い負荷をかける必要はない。ぎりぎり耐えられない負荷をかけ自ら傷を負おうとするのが正しい自己愛だ。ぎりぎり乗り越えられない壁を乗り越えようと意欲することが正しい自己愛だ。

 

善人たちに、高潔の士は邪魔者だ。

そして彼らが、高潔の士をひとりの善人と名付けるときでも、それは、そうすることで、彼の性根を抜いてしまおうとする魂胆なのだ。

(白水社版 ニーチェ全集 ニーチェ著 『ツァラトゥストラはこう語った』)

 

みずからを “謙虚に” 善人になろうとする者としてこの軟弱な母性社会に馴染もうとするよりも、若者よ、孤独にあってみずからを《高潔の士》と位置づけ孤高となれ。

牙を抜かれるな。

社会に迎合しようとせず要求をはねつけろ。

主体的に自分を正しく愛そうじゃないか。

善い人だと褒められてはならない。

ものわかりのよい人になれば反骨精神は死ぬ。

それは社会の奴隷としての一歩目だ。

 

君の高潔な精神の手によって、人の目に光が宿らない現代社会を破壊してくれ。

健全で骨太な未来社会を創造してくれることを願う。

そのために、若者よ、孤高となれ。

 

 

なぜ「哲学・思想」なのか


現代の世情をながめれば、政治の軽薄化、格差社会、経済偏重主義、心無き時代、人々の無表情化、核戦争の危機、宗教活動テロ、地球温暖化など、「人類の危機」が訪れている感さえあります。

現実に対処していくことは大切です。しかしそれだけでは根本的治療にはならず、表面的かつ場当たり的でつぎはぎだらけの、原型をとどめない醜い人類文化がどんどん歪んでゆくばかりです。

 

人類の延命治療をするのではなく根治を目指し、我々の子孫たちにより良い世界を残すためにはどうしたら良いのでしょうか。

 

宗教はどうでしょうか。

異教徒との争いが世界各地で起こり、信仰依存によって信徒の心は隷属化し、宗教教団の多くが権力化するのはなぜでしょう。現に今もそうなっているのではありませんか。どんな宗教も必ず「派」が生じます。原理主義に至っては排他性が強く、紛争や戦争、テロの源です。

 

教育はどうでしょうか。

教えるおとなの先生の人格資質が現代社会のままであれば、子どももそのままです。まずおとなの人格教育から始めなければならない。ではそのおとなの教育を誰がすると言うのでしょう。国家(文部科学省)も人で出来ている限りレベルは変わりません。人間性を養うには、トップダウン型では無理だということに早く気づくべきです。学校は知識を教えることに特化し道徳には手を出さないほうがむしろ良い。

おとなも子どもも一緒になって、哲学・思想・倫理を学ぶ機関をつくってみてはどうでしょうか。教えられるのではなく、みずから学び、常に「次世代の哲学・思想・倫理を創造していこう」とする永久機関として、全国各地の公民館を利用した塾のようなものを。

 

科学はどうでしょうか。

物理科学がどれほど発展しようと、それによって更に心無き時代となることはあっても、心の幸せにはつながることはありません。テクノロジーの進化は後戻りができない。この後戻りができないことを軽視し過ぎていると思います。

更に科学的水準を上げていく欲求に人類は勝てません。核のレベルは天井知らずに上がってゆきます。人類が核を作れなくなることはもう無いのです。地球という星自体を消滅させることのできる核兵器は、間違いなく今世紀中に開発されると思います。

 

私には、どう考えても「哲学・思想」の手によるほかはないと思えます。じわじわと数十年、数百年かけて地道に、地球人類の意識がおのずから変わっていくほかに道は無いのではないでしょうか。

 

私ひとりが沈潜しても、微々たるもので無関係レベルなのかもしれません。

しかしながら、「一燈照隅、万燈照国」という言葉があります。

この言葉の意味は、一隅を照らし続けていれば、それを陰から見て、どこかの誰かが自分もと思って一隅を照らしてくれるかもしれない。やがてそれが万燈となって国を照らすことにつながるということです。

地道に一つの隅を照らしてまいります。

 

 

 

絶対的空間感と相対的空間感


人間は見たもの聞いたもの五感すべてで捉えたものを、自分の脳内でアレンジし、変化させてしまうことが往々にしてある。

過去の体験に頼り、判断能力を過信し、自己内に築いてある価値観と照らし合わせ、そのときの体調や感情、欲求によって、自分の手で事実を歪めてしまう。

こうして正直な自分の気持ちを表して書いているつもりで、自我が「私は正直に心のうちを書いている」と思っていても、無意識層にある人格多面性が自我を騙しているかもしれない。

またある時は、悪魔の代弁者的な偽悪を書かせていることがあるかもしれない。

本当の正直はあり得るのだろうかを考えることは哲学的思惟ですね。

事実という概念はなにかを考えることも哲学的思惟だと思う。

 

「見る」「聞く」は能動的行為ではなく受動的行為である。感覚器官に受動させるために意志し行為しているために能動行為と錯覚してしまうけれど。いや、能動行為としての「見る」「聞く」がある、という見解も一側面からはアリだなあ。

いずれにせよ、例えば「見た」のは平面像であり、立体空間像に組み立てているのは脳内においてだ。脳は事実を事実化せず不事実化していると言える。

盲目の人の立場になれば、彼らは脳内で自分が今いる周囲を「相対的」空間イメージとして感覚していると同時に、「絶対的」空間イメージとしても感覚しているとしか思えない。機会があれば聞いてみたいと思う。

前者は自分が今いる地点が絶対位置で、自らが移動することで相対的に空間が変わる。

後者は空間が絶対空間感としてぴたりと動かない。

 

よく方向音痴の人は空間認識ができないとか弱いとか言うけれど、違うように思う。自分の視点固定の相対的空間感が優位で、動かない絶対的空間感というイメージをつくれないのではないだろうか。

単純に街を歩くのでも、相対的空間感と絶対的空間感を混合させたなかで私は歩いていて、それが普通だと思っている。絶対的空間感によって自分の今いる位置と向きが(頭の中の地図上に)はっきりとわかるので、方向音痴にも迷子にもならない。もし、相対的空間感しか持ちえないとすれば、ちょっと恐ろしくて道を歩けなくなるかもしれない。

相対的空間感しか持ちえない人に、絶対的空間感の話をしても体験がないのだからさっぱりわからないということになりそうだ。とすれば、ようやくひとつの謎が解けたように思う。亡くなった従姉は頭が良いのに方向音痴で迷子になりやすく、車のバックでの車庫入れと縦列駐車が大の苦手だった。

絶対的空間感は生得的なものではなく習得的に訓練されたものだと思います。

サッカー選手は自己視点のイメージと、サッカーコートの高さを含めた動かない空間イメージの両方を混合しなければポジショニングを上手く取れないだろうし、体操選手の鉄棒演技は、演技する空間を不動のものとしてイメージしなければ、とても自己視点のイメージだけでは高難度の技を演技できない。いや、バク転さえできないかもしれない。

絶対音感と相対音感も同じような関係だと思う。

絶対的時間感と相対的時間感もあり得ると思う。

味覚や臭覚、触覚もまた然り。

冒頭に書いたように、自己視点を中心とした相対的感覚は脳内で変更されたイマジネーション(想像の産物)であり、絶対的感覚もイマジネーション、両方とも内的なイマジネーションである。その複雑性を自在に自分の中で活用している。まるでサーカス。

 

個人差も大きいし、自己内の変化も大きいのだから、人間関係に摩擦が生じるのは当然なのでしょう。

脳内でサーカスのようなことをやっているのだから、間違うことがあって当然であるし、正直なつもりが嘘をついていたということがあっても当然であるし、知らないうちに観点を変えて話をしているし、自分の意見もどんどん変化していくわけで、それは他人も同じ。

独立独歩で自己主張をする人同士であれば、6割くらい共感できればすごく相性が良いほうだと思います。

直接会って話すことと比べると、電話でやりとりするときでさえ齟齬が生じることが多々ある。テキストでの表現ややり取りにはメリットもあるけれど、受け取る側(認識し解釈する側)への依存度がけっこう高いように感じる。

 

やはり私的には、ブログは自分自身との対話であり、アウトプットされた自分像の観察と内省が主目的にならざるをえないのか。

いや、今日がそんな気分のモードだからなのでしょう。

 

まとまりもなく徒然に書いた長文に付き合わせてしまいましたね。

いつもありがとう。

 

 

内在するものと共鳴するもの


右を見ても左を向いてもテクノロジーの時代。

物議をかもした「人文系学部は役に立たない」系の政府発言。
これは理数・物理・化学・医学・工学系と比較して経済に繋がりづらいことからくる、現安倍政権・政府の国家観であると思う。或いは社会思想か。

一理は認める。
ただし現代の今がテクノロジーの時代だからという条件を付けさせてもらう。

 

合理性は万能か、人間の理性は万能か。であれば先のアメリカ大統領選で、ヒラリー・クリントン候補はトランプ候補に圧勝したに違いない。

エリートで立派な人のお手本であるはずの文科省高級官僚が、なぜあっせんによって天下りするのか。科学的数値で安全性が証明されても、豊洲市場の生鮮を食べるのが嫌だという都民がなぜいるのか。

人間とはまことに非合理かつ、理性で欲求を制御しきれない動物であり、科学は信じるか信じないかの点で人間にとって宗教と同じである。

 

テクノロジーの発展はそれはそれで素晴らしく文句のつけようがない。

こうして私は今、テクノロジーを利用して文章を書き、インターネットを使い、ウェブサイトに記事投稿しようとしている。すべてテクノロジーのなせるわざだ。

しかし、テクノロジーは私の外部にしかない。今更あたりまえなのだが、テクノロジーは私にとって道具でしかない。情報をインプット・アウトプットする道具だ。移動するための乗り物の道具だ。

私の頭の中にも心の中にも、テクノロジーは一切ない。

 

音楽を聴きながら書を読む。音楽を奏でているのはステレオで、本もそうだが、それ自体はモノであって道具に他ならない。
けれどもなぜか心が動かされる。

それは、芸術や文学が、私の内にあるからだ。

私の心の中にある芸術や文学が、ステレオや本を通じてインプットされる外部の芸術や文学と、共鳴するのだ。

 

ほとんどの歴史家が述べているとおり、人間の内的価値を創りだしてきたのはいつの時代も人文・芸術系だった。

哲学であり、思想であり、文学であり、美術や音楽などの芸術であった。

テクノロジーはエモーションを創らない。

 

大自然もまた、私の内にあって、外の大自然と共鳴する。

 

 

 

わが道を独り行く


私がここで「希望」について書いているのは光の人格と言えると思うが、陽極には陰極、長所と短所が同じ位置に同居しているように、光には影がある。希望を力強く打ち出す自分の源泉には「どうせ失う命だから」というニヒリズムが基盤としてある。

このニヒリズムが逆転作用すると影の人格が発動し、「どうせ失う命だから、もうどうでもいいじゃないか」と投げやりとなって、光として急上昇した自分は一直線真っ逆さまに深淵の暗黒へ墜落していくのである。そのことが最近自覚できるようになってきた。

それゆえ、書いてアウトプットすることで、或いは誰かに熱く語ることで、影に落ちない自動調節を無意識が行っているようだ。影は睡眠中にもわっと立ち上がっているのかもしれない。目覚めは陰のニヒリズムが心に漂っていることが多い。

毎日、なんらかの刺激を自分に与え、陽のニヒリズムのVolumeを上げていこう。

 

エルンスト・ブロッホ(哲学者 1885-1977) の『希望の原理』という大著を読み始めている。彼は「希望を学ぶ」ことが大切だという。以下、引用する。

希望がやる仕事はあきらめることがない。希望は、挫折にではなく、成功にほれ込んでいるのである。希望は、恐怖よりも上位にあって、恐怖のように受け身でもなければ、ましてや虚無に閉じ込められることもない。希望という情動は自分の外に出ていって、人間を、せばめるどころか、広々とひろげていき、内側で人間を目指す方向に向けさせるものが何なのか、外側で人間と同盟してくれるものが何であるのかについて知ろうとして、飽くことがない。(白水社版 エルンスト・ブロッホ著『希望の原理』)

 

ニヒリズムとは虚無感のことであり、その虚無に閉じ込められるとき「もうどうでもいいじゃないか」という投げやりな心が発動する。彼が述べているとおり、希望は受け身ではなく自ら積極的に生成するものであり、未来の可能性(成功)にほれ込み、予想されるリスク(失敗)に対し「それでもよし」という覚悟のもと、勇気によって実践される。その実践は希望がある限りあきらめることはない。

内省的に希望を考えたときには、いったい希望とは何であるのか知的欲求が首をもたげ哲学になってくる。「外側で人間と同盟してくれるものが何であるのか」という言説についてはもう少し考えてみることにする。

彼は以下のように続ける。

この情動の仕事は、生成するもの ― 人間自身もそれに属している ー のなかにとびこんで働く人間を求めている。

存在するもの、見るもあわれな型にはまった、お定まりの、不透明な、存在するもののなかにただ受け身に投げ込まれているだけの、犬のような生活には、この仕事はとても耐えられない。生の不安と恐怖の策動に抗するこの仕事は、それらの元凶、大部分ははっきりそれと示すことのできる元凶どもに抵抗する仕事であり、この世界のために役立つものを世界そのもののなかに求めようとする。それはたしかに見つかるのだから。(同)

 

まったく同感でブロッホとはウマが合いそうだ。(もう亡くなっているけど)

これを読んで、「そうは言っても」とか、「なにを暑苦しいことを」とか、もしかするとそのような日本人が今は多いのではないかとも思いますが、同じ耳をもつ人もいるのではないかと期待しています。

元凶、元凶どもは自分の心の中にある別のキャラクターなのだと思います。外の元凶など大したものではない。

誰になんと言われようと、白い目で見られようと、そんなものはまったく無関係でありまして、死んでゆくのはひとりきり、自分が何のために生きたのかという責任を、誰もとってはくれません。

 

どうせ失う命なのだから、燃え尽きるまで大いに燃やす。

 

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