無意識の混沌から生まれる創造


心理学というジャンルが本格的に学究されだしたのは18世紀後半頃からで、とても若い学問です。なかでも無意識の心理学については、ピエール・ジャネ(1859-1947)、ジークムント・フロイト(1856-1936)、カール・グスタフ・ユング(1875-1961)らが道を開き20世紀に開花したばかりです。

 

近代自我は、合理性、効率性、計画性、整合性、論理性などによって、20世紀の科学を劇的に発展させました。

一方で無意識の研究が進むにつれ、まだぼんやりとですが、創造力についていろいろな仮説が立てられ始めています。

著名な精神分析医や心理学者の知見をもとに、いま私は次のように考えています。

無意識領域内に自覚なく潜在している、無計画、無目的、無秩序、非合理、非効率、非真理、不整合、不安定、不確実、未完成、未成熟、未解明、なるもの(私はこれを三無三非三不三未~無非不未独創論と名付けました)が、混沌たる心の深層で勝手にマッチングし、閃きや創造に繋がっているのではないか。

 

人間がただ単に生きるだけならば創造力は必要としませんし、可能性を追わず冒険を求めずに、現実的に確実な人生を送ったほうが安定します。安全で安心ですね。

私は逆に、不安定や危険な冒険を好む性分で、未知なるなにか、偶然の出会いによるなにかにわくわくすることが人生の醍醐味だと思っています。

無意識と創造について、考えを深めてまいります。

 


 

以上は新設したコンテンツ「無意識と創造」からの転記です。

私たちは睡眠の中身を計画することはできません。夢は無目的的に現れます。ふだん覚醒しているときの自我は夢に対しあまりに無力です。

夢の中で体験することは無秩序・不整合であり、非合理・不安定の状態に置かれ、未成熟・未完成のままストーリーは幕を引いて起床します。ほどなく夢を忘れてしまう。

夢は人間にとって必然的な出来事なのでしょうか。

 

 

 

先賢とのおもしろ対話


昨日記事では「笑いながら哲学する」をテーマにニーチェをいじりましたが、今日は、わたし流の先賢との対話をおもしろく綴ってまいります。

上の写真は「考える人/ロダン」でありますが、やはりどうしても、トイレの最中に考えるふりをしているだけなんじゃないかという不安がよぎります。不安って?(苦笑)

なんか哲学だとか何とか学だとかという学問っぽい書を読むときって、みなさん、ロダンとなって真面目に読むだけですか? リラックスして著者と掛け合い漫才しながら不真面目に読むことはありませんか? たぶん誰も見てないし知らないし、いま話題のテロ等準備罪で捜査されることもないと思うので、私は楽しんでおりますよ。

 

ちなみに、前記事でもそうで、すべての記事でそうですが、(苦笑)と書いて、けらけらと大笑いしているときもあるので、あしからずご了承くださいませ。実はかなりの笑い上戸の一面があるのですみません(苦笑)

 

前置きはこれくらいにしまして。

まず私は読書するときには、著者の声で文章を「聴き」ます。声を知らない著者は(がほとんどですが)声をイメージして。

そのときに、著者キャラクターが出来てるんです。

で、何度も同じ著者の本を読んでいると、赤の他人の関係ではなくなってくる。気楽に対話をしだすわけです。(実際に声を出すわけでなく、心の声です)

 

ニーチェの場合、もうすっかり家族でありまして、私の弟という設定になっています(苦笑) 実際は妹しかいないので、弟や姉兄がどんなもんかわからないのですが。

ニーチェの言葉を目で追い耳で聴きながら、対話をします。

「なあ~、ここの部分は読者をおちょくっとるやろ~」

という気楽な感じで、

「おまえちょっと、しつこいんちゃうかぁ~」「そのめんどい性格どうにかならんの?」 と苦情を言い、

「なんでこんな文章書けんねん。あたま良すぎやろ~!」と褒め、「まあ、そんなにいじけたらあかんで~」と励まし、「そっかぁ、おまえにはずいぶん苦労かけたなあ。よしよし。」と彼の嫌いな同情をかけてやるわけです。

はい、おまえ呼ばわりで、かつ、関西弁ってところがキモです、ニーチェの場合。理由はなんとなくですが(苦笑)

 

舞台はパーンしまして、老子の場合、中国の奥深い山の頂上で、あごひげの長い爺仙人が釣りざおに糸を垂らしている光景になります。

私「何を釣ってるんですか?」

老子「足るを知るじゃ」

私「よくわかりませんが、山に水がどこにもありませんよ?」

老子「上善は水の如し」

私「はあ。。釣り針もエサもついてないのに掛かるんですか?」

老子「天網恢恢、疎にして失わずじゃ」

私「頭のうしろ、つんつんして良いですか?」

老子「大道すたれて仁義ありというではないか」

というふうに、会話が成立しないのでありますが、ふむふむと聞くわけです。

 

陽明学や東洋思想の碩学である安岡正篤先生(1898-1983)は、先賢で唯一、先生と呼び姿勢を正しながらお話を聞くかたです。

この場合、舞台は教室のようなところで、私は17歳の高校生、安岡先生は教壇に立っていて長身痩躯の60歳くらいで、広い教室に生徒は四人、机四台です。居眠りもぼんやりもできません。安岡先生の講話はYouTubeなどに少しだけ残っているので、気品があってよく通る声は知っています。

常に、「喝」を入れてくれる、私にとって唯一の存在であります。

対話と言っても、「はい!」がほとんどなんですけどね!

 

あと例えば西郷隆盛(1828-1877)と対話するときには、「西郷どん」と呼んでおります。でっかいギョロ目から目を離さないように、鹿児島弁に変換して話をしたり。

ハンナ・アーレントさん(1906-1975)は女性ですが、女性扱いしちゃうと睨まれて怒られそうなので、丁寧語で(お互い)冷たい会話をしております。言わないでほしいんですが、たばこくさいのに閉口してるんです(苦笑)

 

まだご健在のかたでは、哲学者の中島義道さん(70歳)。最近よく読んでいるのですが、ごめんなさい。「中島ちゃん(失礼!)」と呼んでいます(苦笑)

なぜかというと、「中島ちゃん(失礼!)」だから(苦笑) というのも、『カイン』『人生に生きる価値はない』『私の嫌いな10の人びと』『差別感情の哲学』などを読めば、「そっかそっか、中島ちゃん(失礼!)、今までよく辛抱したよな。。。」って声かけたくなりますよー!

でも脳みそは特級品のようで、近著『時間と死』を今読んでいるんですけど、けっこう難解で読み進むのに時間がかかってます。「中島ちゃん(失礼!)さすが!やればできるんだね!でもボクの頭じゃちょっとついていけないかも。」と会話しながらですが、でも、すごく貴重なヒントをもたらしてくださって、この本、実は知的革命の本になるんじゃないかとさえ思いながら読んでいます。でも、中島ちゃん(失礼!)なんですけどもね。

 

まだまだ書き切れないくらい対話している先賢はいらっしゃいます。

そうそう、35歳の若さで亡くなった母とは、誰にも打ち明けられない決断をした時に、「これで良かったんだよね」などと会話しますし、3年前に他界した愛猫とも、胸が熱くなる対話をしています。(これは書くと泣けてくるので内容は伏せます。)

他界した人で縁が深かったかた、好きだったかたと会話する機会が多いですね。

生きてる人では、中島ちゃん(失礼!)くらいかな~(しつこい!苦笑)

 

というわけで(どういうわけなんだかしりませんが)、ホームページのコンテンツを新設しました。「テーマ」も大幅改定し、「哲学・思想」、「無意識と創造」を作りました。5月スタートですしね!

『ツァラトゥストラ』 を少し書きましたので、ご興味とお時間がお有りのかたは上部のコンテンツメニューからお探しください。

 

 

ニーチェの茶目っ気ぶりご紹介


ニーチェをよくご存知ない人は、ニーチェと聞くとどういう想像をされますか?

哲学者で気難しい感じの人、天才と狂人は紙一重で遂に気が狂ってしまった人、『ツァラトゥストラはかく語りき』での「超人」を発明した人、よくわからない人(苦笑)などでしょうか?

 

いえ、私もそれほど詳しいことは知らないのですが、ブログでちょくちょくニーチェを引用している手前、今日はご存知のないかたに少しニーチェのご紹介をば。WIKIに載っていないような一面を。

ニーチェの主著は『ツァラトゥストラはこう語った』ですが、以下、ニーチェ本人による自著紹介を引用します。

ちなみに、ニーチェが発狂してしまったのは1889年1月で、それまでは、ニーチェの評価は低く、『ツァラトゥストラ』の評判も良くなかった時期です。

結局、ニーチェは自分が正常な時代に無名であり続け、発狂後、一気に有名になってしまったのですが。以下の引用は1888年10月~12月頃に書かれた最後の著作『この人を見よ』からです。

 

私の著作の中ではツァラトゥストラが独自の位置を占めている。私はこの一作を以って、人類に対し、これまで人類に与えられた中での最大の贈り物をささげたことになるだろう。

数千年の彼方にまで響く一つの声を持つ同書は、この世に存在する最高の書、文字通り高山の空気を湛(たた)えた書というだけにとどまらない。

――人間という事実全体がこの書の途轍(とてつ)もなくはるか下の方に横たわっているのだが――これはまた、真理の奥底にひそむ豊饒潤沢(ほうじょうじゅんたく)の中から誕生した最深の書であり、その中へ鶴瓶(つるべ)を下せば、必ずや黄金と善きものとが満載して汲み上げられて来る一つの無尽蔵の泉である。

(新潮文庫版 西尾幹二訳 ニーチェ著『この人を見よ』)

大袈裟でしょ!!(苦笑)
出版から3年以上経って、さっぱり売れていないのに。

だいたい本のタイトルからして『この人を見よ』ですよ?
中二病ですか(苦笑)

この本をどう読むかも人それぞれだと思いますが、私は、5分の1くらいは笑いながら読んでいました。というのも、ニーチェ自身、リラックスして皮肉を混ぜながら自虐的に書いていると思われる部分が多いからです。

私は他人に反感を持たれるようにする術がどうしても呑み込めない。(中略)自分で自分に対し反感を抱いたことさえついぞないのだ。

ダウト(嘘だ)!(苦笑)

誰よりも私が女性の理解者であると、彼女たちは感じるだろうと思われるのだが?

と言った同じ口で、

女は男より、言いようもないほどに邪悪である。

と言い(苦笑)、また、

ひょっとすると私は「永遠に女性的なるもの」の機微に通じた最初の心理学者かもしれない。女という女はみな私を愛してくれる。――これもべつに今さらの話でもあるまい。

ダウト(嘘だ)!(苦笑)

ニーチェ(38歳)が片思いで恋したルー・ザロメ(21歳)にプロポーズを断られた以外(ザロメはロシア出身の将校の娘ですのでカトリックの可能性が高く、婚前に性的関係にはなっていないと思われます)、ニーチェの女性恋愛歴はゼロでした。風俗へは行っていたようですが。(写真右端がニーチェ、左端がザロメ)

そんなニーチェなので、ニーチェの女性観について女性読者のかたがたは怒らないで憐れんであげてください(苦笑) まあ19世紀のヨーロッパですしね。

 

この書におけるニーチェの自虐っぷり、自著と自分の大げさな評価については、巻末の解説で西尾幹二さんが、ニーチェの演技に読者は騙されないように と書いています。

『ツァラトゥストラ』についての、ニーチェからのヒントも多く書かれていますので、『ツァラトゥストラ』に中途挫折した人、何を言っているのかほとんどわからなかった人、一度だけ読んで「ふーん」で終わってしまった人に、『この人を見よ』をお勧めしておきます。

税込みで497円。

私の知る限りですが、翻訳者の西尾幹二さんは日本人で最もニーチェを研究された碩学ではないでしょうか。名訳だと思います。

 

ニーチェは他の自著についてもPRしていますので、最初の入門書としても良いかもです。

『曙光』という本については、

この本をもって私の道徳撲滅キャンペーンが開始される。

撲滅キャンペーンって(苦笑) ほかにもありまして、簡略抜粋しますと、

『人間的な、あまりに人間的な』は一つの、危機の記念碑である。

『善悪の彼岸』は一つの、貴人の学校である。

『道徳の系譜は』を構成している三論文は、表現、意図、人の意表を衝く技において、おそらく過去に書かれた本の中で、最も不気味なものであろう。

『偶像の黄昏』は一個の、笑うデーモン(魔神)である。

『ヴァーグナーの場合』を正当に理解して頂くためには、読者は口を開けた生傷に悩むように、音楽の運命に悩むのでなくてはならない。

 

エー、、、関西ふうにツッコミ入れたい気分まんまんですが、そこはちょっと遠慮いたしまして、劇画的ドラマティックに読むのもよいでしょうし、私のようにツッコミ入れながらけらけら笑いつつ読むのもよいでしょうし、紅茶やコーヒーのウンチクなどもあってエッセイ的にどこからでも読める『この人を見よ』でございます。

よほど見てもらえなかったんだなあ(苦笑)

 

今日のアイキャッチ画像は、ニーチェの最も難解な《永遠回帰思想》が閃いたとされる、スイスのシルヴァプラーナ湖を見下ろすロープウェイらしいです。

ああ、行ってみたい。

 

 

大衆の克服(4)―エリートの定義変更


前の記事からのつづき。

「大衆の隷属根性の克服」をテーマとする考察を今回もとりあげる。

その前に。

A.大衆

B.エリート

大衆批判については、上記の二つの枠組みで、BからAに対し「隷属根性」を批判されることがほとんどだ。本ブログのスタンスとしては、A+B=Cの全体的俯瞰視点から、自らもAであることを念頭に置きつつ書いてきた。

『愚民社会』という書で、宮台真司さんはAを「田吾作」と呼び、大塚英志さんはAを「土人」と呼び、B側からAを侮蔑している。宮台さんは「エリートが大衆をリードする社会が良い」というふうに、自分の社会思想を隠さず主張しているが、それはそれで意見の一つとして良いと私は受け容れている。

エリート主義についての是非は文末に少し触れる。プラトンの「哲人政治」も範疇に入ってくるし、何をもってエリートと定義するのかから始めなくてはならない。膨大なテーマであるし、「エリート」にそれほど興味をそそられないので深くは書けない。

 

以下、大衆批判(隷属根性批判)について、オルテガ、ニーチェ、安岡正篤先生の著書から引用する。

社会はつねに、少数者と大衆という、二つの要素の動的な統一体である。少数者は、特別有能な、個人または個人の集団である。大衆とは、格別、資質に恵まれない人々の集合である。

だから、大衆ということばを、たんに、また主として、≪労働大衆≫という意味に解してはならない。大衆とは≪平均人≫である。それゆえ、たんに量的だったもの―群衆―が、質的な特性をもったものに変わる。すなわち、それは、質に共通すにするものであり、社会の無宿者であり、他人から自分を区別するのではなく、共通の型をみずから繰り返す人間である。

(中略)

現時の特徴は、凡庸な精神が、自己の凡庸であることを承知のうえで、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押しつけようとする点にある。

(中公クラシックス版 オルテガ著『大衆の反逆』)

 

もっとも卑しいと見なされるのは、易々として人の意を迎える者、すぐ仰向けに寝転がる犬のような卑屈な人間。

(中略)

我欲が憎悪さえ覚える程に嫌悪するのは、決してわが身を防衛しようとしない者、浴びせられた毒ある唾や悪意の眼差しをも、黙って呑み込んでしまう者、どこまでも我慢強い者、すべてに耐え、すべてに満足する者だ。これこそ奴隷の性(さが)なのだ。

(中略)

へし折られ、ぺこぺこ頭を下げる者、仕方なくまばたきをして見せる目、抑えつけられた心、そして平べったい臆病な唇で口づけをするあの心にもない譲歩の仕方、これら一切を、幸福な我欲は下劣と呼ぶ。

またそれは、奴隷や老いぼれや疲労者が、まことしやかに語る一切を浅知恵と呼ぶ。

(白水社版 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』 三つの悪)

 

むしろ世の中が大衆化すればする程、その大衆のためにエリートが必要である。必要なばかりでなく、益々エリートが出て来る。

なんとなれば大衆というものは政治性・政治能力というものを持たない。大衆はその場その場、その日その日の自分の生活そのものに生きておる。

他人や全体との関係、或いは十年百年先の問題等に対する感覚もなければ思想もない。だから大衆をそのままに放任しておけば、その社会は大衆心理というものによって動物的になるばかりでなく、あらゆる闘争・破壊・頽廃の中に落ち込んでしまう。

その大衆のために秩序を立て、規律を作って、大衆を混乱や破壊から救い、新しい価値・光明のある人間社会を建設してゆく、そういうエリートがなければならない。

(PHP文庫版 安岡正篤著『日本の伝統精神』)

 

三者三様の大衆批判である。

「こういう言いかたされると嫌だなあ」と思うのは当然だと思う。

彼らは俗にいう、「上から目線」だ。

現代社会で「上から目線」は嫌われるが、嫌うだけで、上から目線に真っ向から反発し喧嘩を吹っ掛ける、気骨・反骨精神のある個人を最近目にしなくなっているのも事実だ。他方、上から目線で他人を寛容することは、子どもを育てた親や部下を育てた上司を経験した者ならば誰でも持つ視点であろうし、悪いことばかりではない。たんに上から目線を嫌がるのは、奴隷根性の卑屈な精神が混ざっているからという場合もある。

私はこの三人には、特にニーチェと安岡先生には特別の敬意をはらって学ばせていただいているが、「そうじゃないだろ!」と反発するところは反発する。「信者」になればそれこそ畜群・隷属になってしまう。

感情を排して読めば(エリート目線であることを無視して読めば)、上記の内容に部分的に同意できる点が多々ある。

前の記事にも書いたけれど、隷従しひれ伏す人は、同時に、見下し支配する人でもある。支配的地位にいるような人でも、人を見下すような人(例えばエリート意識の強い人)は、力関係でより強い人に必ず隷従しているはずだ。卑しき隷属根性には、エリートと大衆の差は無く、或いはエリートほどその意識が強いのかもしれない。

三者三様の批判の中から、何かヒントをつかめそうな気もする。

 

ここで、日本の政界と大衆の関係を例にとってみよう。

上述のようなレベルの低い大衆がマジョリティーとなって政治家を選ぶ、民主政治のポピュリズムが悪い作用を及ぼしていると思える現代社会。大衆の顔色をたえずうかがいながらパフォーマンスを演じる政治家俳優たちが席巻しているという事実。

当事者意識の薄い観客である大衆が支持し生み出した政治家であるから、安倍内閣を批判するのは天に唾するようなものである一方、自民党内にも野党にも安倍総理の代わりとなれる政治家は一人もいない。或いは見えない。

これは日本だけの問題ではなく、トランプとヒラリーをのどちらかを選べと問われたアメリカ大統領選、いま行われているフランスの大統領選にしても同様ではなかろうか。

ゲームのトランプのカードで言えば、エースやキング、クイーン、ジャックに値する候補者は一人もなく、3~5あたりのカードを並べられてここから選べというようなものだ。

 

大衆がエリートと思われる人を選んだ結果が、今の現代社会である。

しかし、エリートは心魂が穢れている者ばかりかと言えばそうではないだろう。

何をもってエリートとするかについて、今までほとんどの場合、「知」や「能力」「経験」の表層、表に明らかになっていることのみをみて判断されてきた。

これからの時代は、その人間の本性・性根であるとか、心魂といった一人間の根源的価値を中心に、高貴な人であるかどうかを見極めていく方向へ向かうべきであろう。それはもちろん知性の否定であってはならないが、今までの「知」の地位を、「智恵」を経て「叡知」へと昇格させていくことが一つのテーマになるのではあるまいか。

 

大衆とエリートに振り分けて考えることは従来形式の一つの視点ではあるが、社会全体、社会を構成する国民全体を大衆としてとらえることも別の一つの視点として有効であると思う。つまりエリートも大衆なのだ。

自分を含めた現代人すべての畜群性、隷属性、当事者意識の希薄性等について、克服するにはどうしたら良いかを考えつづけ行動へ移していきたい。

 

 

大衆の克服(3)―克服の決意


前の記事の最後に「内心の承認欲求をすべて廃棄し」と書いた。さらりと。

反省している。
こういう総論総括的な結論を直観的に私は書き過ぎる。軽々に。

深省すれば、ダイアモンド並みの超硬度の壁と地球ほどの重量のある、百回ほど生き死にを繰り返してようやく扉をかすかに開くことができるかもしれないというレベルのテーマであった。

他者からの社会的評価に心ひとつ動かさない、自分としても自身の社会的評価を無視することができるのかどうか。「さすがだね」と心からそう言われて心ひとつ動かさない。できるのだろうか。それに、仮にできたとしてもなんだか湿度3%くらいに乾燥していて、人間味のないゾンビのようである。声をかけてくれた人の感情を害することにもなろう。

承認欲求については継続審議中のランプを点灯させておこう。

 

さて、今日も安易に書くか(苦笑)

 

引き続き、私を含めた現代大衆の「畜群根性」について考察を重ねていきたいが、テーマが大き過ぎることもあって、小テーマに分割し分析してみたらどうかと考えた。

どのようなジャンルに、私たちの大衆的畜群根性が発揮されるのだろうかと。

    1. 前記事で扱った、政治権力
    2. お金
    3. 宗教信仰
    4. イデオロギーや思想
    5. マスメディアや世論、マジョリティー
    6. グローバルスタンダードという価値
    7. 人の社会的地位、肩書、略歴
    8. 法律
    9. 科学

まだ他にもあるだろうけれど、どういうことかを簡単に説明してみよう。

「1億円あげるから土下座して靴をなめろ」まではいかないまでも、札束で頬っぺたを張られてお金に隷従してしまうかどうか。

宗教で、「キリスト神を信じない者は人間ではなくただの下等動物だ」「アラーの神を信じない者には天罰が下る」だとか、「ほかの宗教は一切邪道で悪だ(日蓮宗ほかいろいろ)」などと教えられ、他者をそういう目で見る信仰者かどうか。教義を絶対的真理として鵜呑みにし、盲従している信者。

政治思想で言えば保守かリベラルか、左か右か、自民党か民進党、ナショナリストかグローバリストかというラベリングに異様に強いこだわりを持ち、人を振り分けようとする人、自分が隷属しているところから敵対するグループを攻撃、排撃しようとする人かどうか。

マスメディアの言論に左右され、周囲がどういう反応を示しているのかを観察し多数派にまわり、「マジョリティーはこうだ」といちいち多数派を持ち出し説得材料にする人、説得されてしまう人であるかどうか。

自由や平等など、ポリティカルコレクトネスがグローバルスタンダードとして流行しており、世間もそれを善だとしているようだという理由で、「それは正しい」と妄信している人かどうか。本質的に根を深く掘り下げて、口ばかりペラペラと動かすのではなく、その価値が湧いている源泉を自分の目で確認し熟考を重ねている人かどうか。

目の前にアメリカ大統領トランプやロシア大統領プーチンが立っていたとして、気後れせずに対等の人間として堂々と握手ができるかどうか。「警視総監」「東京大学教授」などの肩書や経験的略歴の表面価値によって、他人を威圧しない人、威圧しないよう気づかいできる人。臆せず、おもねらず、媚びへつらわずの清明心があって、委縮しない人かどうか。

法律は絶対的だとして、「法的に問題ないのならそれでよい」という意見について何の反発も感じない、或いは直ぐに法律を持ち出し法の力によって相手をねじ伏せようとするタイプかどうか。科学についても同様である。自分の思考力を使って考えようとせず、外からの他律的判断に服してしまう人。

 

大衆的畜群根性に満ち溢れているような人は、上記の価値に隷従してひれ伏し、劣等感をおぼえ、または逆に優越感にひたり、他人を見下して支配しようとする人である。

隷従しひれ伏す人は、同時に、見下し支配する人でもある。

見下している人は、どこかで誰かに、必ずひれ伏している。

嫉妬心と虚栄心、隷属欲と支配欲はそれぞれ同根だ。

 

まあ、一つや二つ、幾つかに今の自分が当てはまったとしても仕方ない。現代的価値に対して畜群であることは、大なり小なり皆あるんじゃないかと思う。

要は、「これから」である。

 

これらひとつひとつに関して、丁寧に、根本的価値を考究し、人間のこうした気持ちはなぜ起こるのか無意識心理を探究し、大衆畜群根性の解決策は何かについて今後深く考え、社会的行動を起こしていこうと思う。

それぞれについて、自律と他律、内発と外発、受容と拒否、能動と受動、内罰と外罰、自罰と他罰、主観的内省と客観的事実認識、情動と理性、過去と現在の関係性、未来と現在の関係性にいたるまで、とことん考え抜いてゆこうと思う。

大衆ひとりひとりには、凜然として聳え立つ誇り高き山のごとく、自由で高貴な精神の端緒が、たったひとりの例外もなく誰にでも必ずある。

最も重要で、絶対に無くてはならないのは、決意である。

 

 

大衆の克服(2)―畜群根性


前の記事では「大衆」をフラットに見て書きました。今日の記事では「畜群根性に陥ってしまった大衆」として、「(大衆)の畜群性」を扱います。

「畜群」とは読んで字のごとしで、家畜化された群衆です。私も含めた大衆がもつ畜群根性を棄てていかない限り、民主主義は堕落してゆく一方になる。

 

今日はニーチェの辛辣な文章を引用していく。

善意があるのと同じだけ多くの弱さがあるのを、私は見た。正義と同情心があるのと同じだけ、それだけ多くの弱さがあるのを。

(中略) 結局のところ、彼らがひたすらに望んでいるのはただひとつ、誰からも、痛い目に合わされたくない、ということだ。

そこで彼らは、誰に対しても先手を打って善意を示す。
だが、これは臆病というものだ。たとえ「美徳」と呼ばれようとも。――

(中略)

人を慎ましく、かつ温和しくさせるもの、それが彼らには徳なのだ。それでもって、彼らはオオカミを犬にした。人間自身を、人間の最良の家畜にしたのだ。

(白水社版 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』小さくする徳2)

 

世のマジョリティーの声に従順であること。当たらずさわらずの日和見主義。ことなかれ主義。そうした姿勢は、自分が痛い目に遭いたくないという保身、臆病さから出てくるもので、当事者意識を薄くし、責任逃れをしているわけです。当たっているでしょう?

集団のひとりとして紛れ込んでいれば目立たない。責任は集団に押しつけるか、集団のリーダーに押しつける。何かの抗議デモなどを見ているとよくわかりますね、「一個人(の自立と責任)」不在ということが良くわかる。デモの安全を保障され、雰囲気に酔って気分を高揚させなかなか楽しそうではある。

しかしかく言う私も、日本という国家に国としての責任を押しつけ、首相をはじめとする政治家に責任を押しつけている大衆のひとりです。国のために、日本国民の一個人として、自己責任をしっかり負える形での行動をしなければ畜群のそしりは免れない。

始めてはいますが、まだまだ道遠しであります。

 

結局、畜群根性の大衆が、畜群根性の親玉を政治家として選んでしまう。

ニーチェは次のようにそれをつく。(文意を壊したくないために少し引用が長くなりますが、ニーチェのなかでは比較的解りやすい文章だと思います。)

(人間は) 要するに「なんじ為すべし」と命じるものへの欲求を、生まれながらにしてもっている。

そしてその際、その強さと性急さと緊張に応じて、粗暴な食欲のように、ほとんど選り好みをせずに手を伸ばして、誰か命令する者――両親とか、教師、法律、身分上の先入観、世論など――によって耳に吹き込まれるものがありさえすれば、それを受け入れる。

(中略)

この本能が放埓(ほうらつ)の極にまで達する場合を想像してみると、ついには命令する者や独立した者がまさにいなくなってしまうか、あるいは、これらの者が内心、良心のやましさに悩んでいて、命令しうるためにはまず自分自身をごまかしてかかる必要がある、つまり、自分たちもまたただ服従しているにすぎないかのように見せかける必要がある、という状況にたちいたるのだ。

このような状況が今日のヨーロッパには事実生じており、私はこれを、命令者たちの道徳的偽善と呼んでいる。

彼らは良心のやましさから身を守るために、自分たちがより古くより高い(祖先や、憲法や、正義や、法律や、神すらも)命令の実行者であるかのように振舞うか、あるいは、畜群的考え方から畜群的な格率を借りて、たとえば「自らの民族の第一の僕」とか、「公共の福祉の道具」といったようなふりをする以外の道を知らない。

他方において、今日ヨーロッパでは、畜群的人間が自分こそ唯一の許された種類の人間であるかのような顔をして、自分を温良で協調的で、畜群にとって有用なものにする自らの性質を、本来の人間的な美徳として賛美する。すなわち公共心、好意、顧慮、勤勉、中庸、謙遜、寛容、同情などである。

しかし、指導者や先導者なしではすまされないと思うような場合には、今日では試みに試みを重ね、賢い畜群的人間を寄せ集めて、命令者の代理をさせる。たとえば、すべての代議制度がこのような起源をもっている。

(白水社版 ニーチェ著『善悪の彼岸』199番)

 

人間には「確たる何かからの命令に従いたい」という欲求があるとニーチェは言う。

19世紀のヨーロッパの民主主義と大衆の関係を例に挙げていますが、21世紀の日本やアメリカの政治にも見事に当てはまる。「独立自尊」の政治家など一人もいません。なぜなら高貴な大衆がマジョリティーとなって選んでいるのではなく、堕落した畜群の大衆がマジョリティーとなって選んでいるからです。そうして今の日本の超軽量政府がある。しかも代わりがいないから他が担当するよりマシだと判断するしかない。自省を含めて書いている。

政治家は国家の第一の僕としてふるまい、大衆ファーストのふりをして大衆に責任を押しつける。それが現代の民主主義の惨状だ。まさに政治家自身に畜群根性が染みついている。

公共心や中庸、勤勉、謙遜、寛容、同情などが本質的に悪いのではなく、畜群たる大衆を納得させるために指導者(命令者)がそれらを表面上の美徳として飾り、道具化していることをニーチェは批判している。

欺瞞と自己欺瞞が世にはびこっている。

 

では、私たち大衆はどうしたら良いのか。

ニーチェはこう語る。

まず、意欲することのできる者になれ!
いつの時も、おのれと等しく隣人を愛せよ――だがまず、おのれ自身を愛する者になってくれ!
――大いなる愛をもって、大いなる軽蔑をもって愛するのだ!

(白水社版 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』小さくする徳3)

 

命令に対し盲目的従順にならず、自らの意志で、自ら意欲せよとニーチェは檄を飛ばす。

彼はキリスト教を批判し隣人愛も痛烈に批判したけれども、ここでは隣人愛を肯定しているのです。隣人愛の二義性がうかがえる貴重な文章です。

「大いなる愛をもって」とは、逆を言えば、小さい不十分な自己愛では自分を慰め甘やかすだけだということ。

「大いなる軽蔑をもって」とは、未来に自己克服した自分を想定し、そこに視点を置き、現在の自分を見て軽蔑することと私は解釈しています。自分に対する可能性を信じろということでもある。

ニーチェの『超人』思想というのは、自己克服した超人像を未来へ自己投企するという解釈ができると思います。神に対する単なるアンチテーゼではなく。超人像をどうするかは個人の自由。「綱渡り師」は「道化師」を超人像にしてしまい綱から落下して死んでしまった。『ツァラトゥストラ』での超人をそう考えると点が線となって全部つながってくる。ハイデガーはニーチェの超人をヒントに投企という概念を造語したと、ここも繋がる。

さて、この「軽蔑」にしても二義性があって、悪口や皮肉として批判しているというふうに表層だけを浅く切り取ってしまうと、ニーチェの深みを感じとれない。もったいない。最初は私もそうだったんですけどね。

「軽蔑」や「畜群」といった悪辣なことばの表現がニーチェの書にはたくさん出てきますが、それは単なる批判や非難ではなく、ニーチェの場合は大いなる愛なのです。「このような人間を軽蔑する」という文言は、その種の人間の可能性をみている。

「自分に対して、大いなる軽蔑をもって愛する!」

 

謙虚、自省、自らへの叱咤、そうした善人的意味、向上心的意味を一切加味せずに、未来に投企した超人像の視点から、真っすぐに軽蔑せよということと受けとります。

自分のなかにある畜群根性に対して。

 

そして、内心の承認欲求をすべて廃棄し、独立自尊、純粋な意志で意欲していこう。

 

 

大衆の克服(1)―トップダウン意識は誤り


まず始めに「大衆」のことを考えてみたい。

私たちが「大衆」という言葉を用いるとき、それは国民の集合体なのか、マジョリティーなのか、ふつうの一般市民なのか、愚民の意味を孕んだものとして若干の侮蔑の意を込めるのかなどについて、自分なりに色を付けて解釈していると思います。

書き手の文脈にも、読み手の文脈にも左右されるのですが、今日は、政治家(行政指導者の長)だけを除き、自分自身をも含めた一般市民を大衆と呼ぶことにします。

 

現代日本の政治は愚かな大衆迎合政治。

民主主義とは単なるポピュリズムなのか。

 

興味深い一文を発見したので引用する。

一人の人間が矛盾のかたまりである以上、大衆もまた矛盾の存在であって、〈大愚〉と〈大賢〉の両要素を合わせもつ。

従って「大衆の側に立つ」ということばのアヤに寛容であってはならない。

大衆の内部にある〈大賢〉の要素をつちかう努力だけが大衆の側に立っている。いかに大衆の喝采を浴びようとも、その〈大愚〉の要素に媚びたり、それを助長している行動は大衆を大衆の敵に売り渡している。

(評論社版 むのたけじ著『詞集たいまつ』)

「大衆の側に立つ」とはなにか。

大衆が〈大愚〉の要求をし政治家が大衆ファーストを推進するとき、政治家は大衆から拍手喝さいを浴びることと引き換えに、「大衆を大衆の敵に売り渡している」とむのたけじは言うのである。

ポピュリズムや大衆政治という言葉が使われるときには、たいていその愚かさを批判することが多い。しかし、大衆が「大賢」であることが民主主義の前提であるということを忘れてはならない。

 

民主主義とは本来、ボトムアップ型であり政治家は権力者ではない。大衆側に権力がある。それなのになぜ政治家が権力をもっている“ように思える”かと言えば、大衆の意識が前時代的な「政治家+官僚=お上」だからである。

民主主義がもし機能するとすれば、大衆の自己批判と、自分は大愚ではないかどうかを吟味する姿勢が必要不可欠だ。私たち大衆は大賢にならねばならない。その自覚をもたねばならない。権力者であるという自覚をもたねばならない。

政治家や官僚から大衆へのトップダウンスタイルは、大間違いなのである。民主主義において彼らは、「指導者」ではないのだ。

私たちは、真の民主主義の扉を開く歴史的地点に、今立っている。

 

 

『四季』はまだ聴けない


今日のキャッチ画像は残念な写真です。焦点はどこにあってるのかわからないし、手ぶれもいいところでブレブレな写真ですね。3年前の今日、2014年4月5日に多摩川の土手を歩きながら撮影、桜は満開でした。

この3年間、どうしても聴けない曲があります。
ヴィヴァルディの『四季』。CDはもちろん持っています。

 

雨が続いていた3年前の4月初め。

 

高さ85センチのキッチン台くらいは楽に飛び乗れるのに、君は何度も失敗した。それでもあきらめずにジャンプする。見ていられなくなって、箱で階段を作ってあげた。

あれほど体が濡れるのを嫌がっていたのに、キッチンシンクのなか、まだ水滴がたくさん残っているなかに君は気持ちよさそうに寝そべった。

最初、私はその行為を叱ったんだ。体が濡れて風邪をひいてしまうかもしれないし。

ああ、叱らなきゃよかった。なに叱ってたんだろ、まったく。
叱られた時の悲しい君の目を覚えているよ。ごめん。どうしようもない奴だ、私は。

 

お風呂に入っていると君が必ず入ってくるのはいつものことだったけれど、浴槽に張ったお湯に首を伸ばして、ぴちゃぴちゃと舌で飲み続けていたね。初めてのことだった。

歩くのもよたよたしてきて、フローリングの床を歩くたびにカチャカチャと音が鳴る。爪をしまう力がもう無くなっている。

 

パソコンで仕事をしていると、膝の上に飛び乗ってきてそのままデスクへ。キーボードの上にわざと寝ころんでいる君に、どいてもらおうと動かそうとしても、なぜだか凄く重い。軽くなってしまっているはずなのに。テコでも動かないつもりらしい。

私に仕事をさせないつもりなのだ。
ずっとボクだけを見ていてほしいって、君のまなざしはそう訴えていた。

 

4月4日は病院の帰り道、ずっと降り続いていた雨もあがって、まだ曇り空だったけど、バッグに入っていた君と一緒に多摩川土手を散歩したよね。桜を二人で観たんだった。

どうしてもご飯をたべてくれなくて、私は走って赤ちゃん用のミルクを買いに行ったんだった。お湯で粉を溶かして、スポイトで、少し飲んでくれた。

 

トイレはいつもバスルームの中にあったんだけど、君が歩くのは大変なのでリビングに持ってきた。

夜は寝室まで持ってきた。だって君はトイレじゃないとおしっこしないから。漏らしてもいいのに、もうおしっこの臭いもしない、水が出てくるだけなのに。

 

夜だ。一緒に休もうね。

私の右手のひらに頭をのせて君は寝ころんでた。うつらうつらしていたら君がいない。どこにいったのだろうかと飛び起きた。

どこにと思ったら君はトイレで用を足そうとしていた。目が合った瞬間、君はトイレの中にひっくり返って転んでしまった。もう足で体重を支えられないんだ。

なんでそこまで、ちゃんとしてるんだよ。涙が止まらないじゃないか。

それからはずっと君は私の腕の中にいた。

 

朝だ。朝日が差し込んでくる。一週間ぶりくらいの晴れだよ。

南向きのテラスから陽が差してくる、ポカポカだ。陽だまりにバスタオルを敷いて、君に横になってもらった。

 

久しぶりの太陽で、ほんとに気持ちよさそうに君は半分くらい目を開いていたね。

スポイトを使って口をお水で濡らしてあげるけど、もう舌が出てこない。

 

 

しばらくして、君は私の腕の中で、私の目を見ながら、最後に大きく息を吐きぐったりした。

時計の針は10時25分を指していた。

君を抱きしめながら私は、何度も何度も、ありがとうを連呼していた。それしか言葉がなかった。

 

そのときに、かけていた曲が、ヴィヴァルディの『四季』。

第一楽章。まさにこころ弾む、一気に春の雰囲気となった日。

 

ショルダーベルト付のクーラーボックスに保冷剤をたくさん入れて、その上にバスタオルを敷き、君を寝かせてあげて、一緒に最後の散歩に向かった。

多摩川の河口までずっと歩いて行って、羽田空港の敷地あたりまで行った。そのあと、引き返しながらお花見。たくさんの人がいて、みんな晴れやかな顔をしていた。

明るい声が飛び交っていた。

 

クーラーボックスは私だけがのぞけるような角度で肩にかけていて、君の顔を見ながら歩き続けたんだよ。

何を考えていたのか覚えていない。たぶん何も考えていなかったのだと思う。

そのときに撮った写真が今日のキャッチ画像。

残念な写真だけど、すごく大切な宝ものなんだよ。

 

君は、私が寂しがらないように、できるだけ辛くないように、久々の晴れの日、そして土曜日の午前中を選んだんだ。

だってずっと続いていた雨の日だとか、金曜の夕方だとか夜だとかだったら私の気が狂ってしまうかもしれない。君は最後の最後まで、やさしかった。

 

君は、桜が満開の日を選んだんだ。
毎年、4月5日頃はちょうど多摩川土手の桜が満開になる。

満開の桜を見たらボクを思い出してねって、君はまちがいなく私にそう伝え、私は死ぬまでけっして忘れない。

幾つもの特別な条件が重なった、奇蹟の4月5日だった。

 

17年間半つれそった君は腎不全から尿毒症をおこしていた。猫は腎臓が悪くなりやすいらしい。そんなことさえ私は知らなかったんだ。許してほしい。

君は常に水分を欲しがっている状態で、皮膚からも水分が欲しい状態だったんだよね。だからキッチンのシンクで水に濡れて気持ちよかったんだ。

病院に入院させる手もあったんだけど、そうしなくてよかった。

ずっと一緒だったから。最期までの貴重な時間を、一緒に過ごせて幸せだった。

君もきっとそう思ってくれてると信じてる。

 

 

これほど心が潤う悲しさを、これほど贅沢な悲しさを、これほど幸せな悲しさを、私なんかが味わってよいのだろうか。

恵まれ過ぎているじゃないか。

君にはありがとうしかない。

 

今まで誰にも話せなかったこと。今までブログにも書けなかったこと。

最後の数日のことを、3年たって、ようやく書き残すことができました。

 

でもまだ、ヴィヴァルディの四季は聴けません。

 

 

 

 

悠然と流れる心性


人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き、死んで行った。

私もその一人として生まれ、今生きているのだが、例えて言えば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前(さき)にもこの私だけで、何万年さかのぼっても私はいず、何万年経っても再び生まれては来ないのだ。

しかもなおその私は依然として大河の一滴に過ぎない。それで差し支えないのだ。(岩波書店版 志賀直哉著『志賀直哉全集第10巻』)

 

2月3日の記事 『心が最強の力となる日』 に引用したナイルの水の一滴を再掲しました。この文はとても魅力的なのです、私にとって。

ナイル川はまだ見たことがありませんが、イメージによる情景が動的に浮かんできます。人類の源泉と言えるアフリカ、苛酷な気候、危険、そして砂漠。ガンジス川ともアマゾン川とも違う、ナイル川ならではの情景が心を揺さぶる。

 

ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世のなかにある人とすみかとまたかくのごとし。(鴨長明著『方丈記』)

素読で音に換えると読点を付けるのが野暮に思えてならないので外しました。

日本人ならば誰もが知る方丈記の冒頭文です。多くの文化比較社会学者が指摘していますが、日本人は「歴史の流れ」というふうに歴史を大河の流れに喩えることが多く、一方西洋では歴史を建設に喩えることが一般的らしいです。

 

人類が歴史を積み重ねた上に私たちは生きている。

日本人が個人的にご先祖様を思うこととは比較できないように思います。何かが大きく違う。

西洋の歴史へのこだわりの強さは建築にもあらわれます。アントニオ・ガウディが設計にかかわったサグラダファミリア(スペイン・バルセロナ)は1882年に着工、2026年にはようやく完成するのではないかと言われています。144年かけて大聖堂を建造しているのです。

国家や文化を建設としてとらえる西洋人の感性を、私たちが「意味的」に考えて想像はできても、おそらく「感覚的」にはかなり異なっているのだろうと思います。逆もまた真なりでしょう。

 

日本人は、歴史を、流すことによって造ってきた。

世界で一番忘れることの早い国民性かもしれません。今、世を騒がしている森友学園問題も豊洲移転問題も、収束すればすぐに忘れ去られる。

ここに、忘れ去る美学、という文化の根付きをみることできます。いつまでもぐだぐだと拘るのは醜い、きれいにさっぱりと、いさぎよく、そうした心が宜しいと、男子の訓戒として体に叩き込まれた世代です。現代では多様性ということで、醜くはない、としなければならないという社会の風潮ですが、そんなことはどうでもよい。関係ない。逆に、他人に自分の美学を押しつけることも2000%ありません。

生きかたの美学としての「すがた」を教えられたわけですけれども、今考えるにこれは、処世の智恵、自分の健全な心性をはぐくむ理知的な知恵ではなかったかと、そう思うのです。

 

 

子ども同士で喧嘩をする。殴りあって蹴りあって負けて泣いて。

すると仲裁に入ったおとなが、喧嘩両成敗で水に流すように諭します。これは「何を」水に流すのかと言えば、事実を水に流してなかったことにするのではなく、「感情を」水に流すということです。

対立感情、怒りの感情、憎しみの感情、恨みの感情に至るまですべて水に流して忘れなさいと。これができなければ男子ではないと教えられるものですから、愚直な私などは微かな疑問も抱くことなく、否応なく、「ハイ」です。特に負けた時ややられ損だなあと感じる時はしぶしぶながらですよ、もちろん直後は。

でもそうして水に流し忘れ去ることが日本の男子の美学であったことは、私の心をだいぶ救ってくれたのではないかと思うわけです。それが習慣化されたことによって。

事実は残ります。歴史的事実は残っている。が、しかし、、、
感情は大河の流れに乗って大海へ行き着き、もうどこへ行ったのやらわからない。

大河の水の一滴は自分自身の感情であり、自分の一生でもある。
俯瞰的に水の一滴を日本国民ひとりひとりとみることもできる。
すると大河は日本国家ということになる。

大河の水は上に積み上げて何かを建設することはできませんが、常に新しい水が生まれ流れてくるという良さがあると思います。

私たちの心のなかにも、常に新しい水が流れこんでくる。
流された分、流れこんでくる。

 

私の子どもたちもいつかこれを読んで、実感として何かを感じ考えて、更に発展的に上書きしてくれる日がくるだろうと期待して。

 

 

美しさを看(み)て、心が観(み)る


今年の3月は6年ぶりに寒い日が続きました。桜の木はそんなことなど意に介せず、花をつけていきます。

日本人は、春の桜にさまざまな心情を重ねます。美しさを感じとる感性が歓ぶ。そこから一歩踏み込んで情を混入する。わが身と重ね合わせることもある。しみじみとしてくる。

風情。情趣。

 

いま桜 さきぬと見えて うすぐもり 春に霞める 世のけしきかな

 

この歌は式子内親王が詠んだ名歌で、春の到来と桜の美しさ、そこから霞み観る世の中の全体感を素直に表現しています。

式子内親王だから、というのはあるんじゃないのかなと、そんなふうに少し思いました。

 

別の観点からもうひとつ。

江戸後期の儒学の大家、佐藤一斎の『言志四録』より引用します。

 

月を看(み)るは、清気を観(み)るなり。

円缺晴翳(えんけつせいえい)の間に在らず。

花を看るは、生意を観るなり。

紅紫香臭(こうしこうしゅう)の外に存す。

(講談社版 佐藤一斎著『言志四録』)

 

直観に敏なるかたには「看る」と「観る」の違いで一目瞭然だとは思いますが。

月を見て満ちた欠けただとか雲の陰に隠れただとか、そうした表層の美しさだけを楽しむのではなく、月とともに流れる空気と時間、一瞬に張りつめたものから悠然と流れるものまで、その全体感に「清気」を感じとる。

花を見るときには色や香りに注目するのではなく、その花が今まさに生きている、生きようとしていること、花にわたしたちと同じ「生意」を感じとる。

生きる力とはなにか。生きる欲とはなにか。

頭で意味を考えるのではなく、心が観る。

 

みごとに咲き、みごとに散った後、みごとに忘れ去られる。

 

 

 

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