『天籟の妙音』 安岡正篤先生


ITバブルの始まり2003年頃は小泉構造改革もあって、米国を中心に日本への金融投資が活発化していました。そこで起きたのが2007年の米国サブプライム・ローン問題。これが引き金となり、2008年9月にリーマン・ブラザーズが破たん、リーマンショックと呼ばれる金融危機が起こりました。

リーマンショック以前に米国の投資家は徐々に日本から引き揚げ始めており、2007年の半ばから融資市場は硬直化しました。銀行をはじめとする金融機関が企業の設備投資に融資を渋り出したのです。私の仕事にも大打撃となって、もう「経済」という魔物に失望、いや絶望したのがこの時期でした。

その頃に出会ったのが「安岡教学」です。

 


 

安岡正篤(1898-1983)先生は、Wikipedia に載っているとおり、軍人では山本五十六元帥ら、政治家では、廣田弘毅、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳ら、財閥では三菱、住友、三井、近鉄、東電など、広範囲にわたって日本の精神の柱となっていた碩学であります。昭和天皇による昭和20年8月15日終戦の玉音放送の文章に最終的に手を入れたのが先生で、皇室からの信頼も篤かった。しかし終生に渡り学者として号をとることもなく、大学に所属して教授となることもなく、叙勲はすべて辞退しており、「社会的名誉」を自ら遠ざけていました。

「名士は名士になるまでが名士であって、名士になるに従って迷士になる」などというが、本当にそうだ。そうなると意外に早く進歩が止まって、根が浮き上がり、倒れてしまう。実業家、政治家、学者、芸術家と称するものを見ても、およそ名士というようなものはそういうものである。

名士になるに従って、「名」の字は、「迷」という迷士になるからいろいろ失敗をやる。やはり人間は無名であらねばならない。無名にして有力になるのが本筋であり、「無名有力」になるのが、人間成功の秘訣である。

(三笠書房版 安岡正篤『「こころ」に書き写す言葉』)

名前は売れない方が良いのです。自分にとっては。
「知る人ぞ知る」がいい。肝に銘じております。

 


 

このブログのタイトルの一部「天籟の風」。「天籟」は中国の『荘子』に由来しますが、「天籟」という言葉を初めて知ったのは、安岡先生の言葉を連ねた小冊子『天籟の妙音』を書籍化した『「こころ」を書き写す言葉』(絶版)という本からです。たまたま書店で手に取って購入したのが安岡先生との出会いの契機となっています。

もっと若い頃から安岡先生のことを知っておけばよかった、と思うかと言えばそうではなく、年齢的にも、人生経験的にも、「書かれていることが実感として、体験を伴った連想としてわかる」時期にようやく入った頃でしたので、今なお先生の語っていることについて深まらない部分がまだまだあるほどです。ですので出会う時期が、例えば20代や30代でなくて良かったとさえ思います。

「天籟」とは、「風の音などの自然の音のこと」や「詩歌などの絶妙なこと」を表わします。先生の文章は、いずれも心の高鳴りに溢れたもので、格調が高く豊かな韻律があります。日常の瑣事に憔悴した心を浄化し、思索を深め、これからの自分の行くべき道を示唆するものばかりです。(同書「はじめに」より)

 


 

安岡先生の著書では、中国の四書五経(大学・中庸・論語・孟子・詩経・書経・礼記・易経・春秋)をはじめ、老荘思想、儒教諸派、陽明学、禅など、日本では中江藤樹や大塩中斎、佐藤一斎、道元らから引用されることがあります。

古典を扱う学者の著書では古聖先哲の主張が主となることがほとんどで、学者は研究者として従の立場での評論解説ばかりですが、安岡先生の場合は古聖先哲にまったく負けていない。自らの人生や世相に連関させて、より一層深いところの話に醸成させているのです。安岡先生の言説が主になっています。《六中観》などの独創思想も多く、《万燈照国一燈照隅》は、当ブログでも微力ではありますが実践しているつもりでおります。

 

ひとくちに学問と言ってもいろいろあります。欧米から輸入された近代教育システムで教わる学問は、「自分の外」のことだけです。なぜなら欧米や中東では、「自分の内」のことは教会(宗教)の教条主義によって強制的に造られることが多いように思われるからです。もちろん無宗教のかたも欧米にいらっしゃると思いますが。

日本は歴史上どうしてきたかと言えば、「自分の内」の学問のほうが長いあいだ主流だったのです。明治、大正、昭和前半にはその影響が残っていました。しかし戦後教育では、わずかに一週間に一度「道徳」の授業がある程度で、その内容も社会ルールが主体です。欧米の影響もあります。どうしたら良いのか。

「己をどのように作っていくか」「己が生きる意義とはなにか」

普遍的な人間の生きる意味などではなく、まさに実存している己をどうするのかという、当事者としての本質的な学問をやってこなかった人が現代では多いのではないでしょうか。私もそのひとりでしたが。

 

中斎先生(大塩中斎※大塩平八郎のこと)を人として、個人として考察する時に気がつきますことは、先生の学問・思想の跡を辿ってみるとよく分かるのでありますが、自分というものをいかに把握するか、自分という人間をいかに正しくするかということに、つまり本当の自己をつくるということに徹底しておる。

人間というものの本質はどこにあるか、人間の人間たる意義・価値・権威というものはどこにあるか、ということに実に徹底した考察をしております。

(中略)

大抵の人は、相当に出来ておるようであっても、まだどこかに功利的なものがある。中斎先生の真剣に学ばれた陽明学、特に「抜本塞源論」を読みますと、言を極めて功利主義の弊害というものを痛論しております。

人間は功利主義・打算・ソロバン勘定・欲得、これを超えなければ本物にならないということを力説しております。(PHP文庫版 安岡正篤『人生と陽明学』)

 

耳が痛いです。

リーマンショックで経済に絶望し、ようやく自利優先から抜けかけているとは言っても、功利主義や打算、そろばん勘定を理性で駄目だ駄目だと思いつつ、ついつい無意識のうちに計算してしまっているときがあります。

これを超えていきたい。

 

今まで私のブログを数年にわたってご覧になってこられたかたはお気づきかもしれませんが、私は生存している人には主に「さん」付けをし、亡くなっている先人に対して敬称を付けることは今までありませんでした。しかしもう10年ほど書物からとは言え訓えられることばかりで、安岡正篤先生は、先生と呼ばせていただくことにしました。私淑させていただきます。

今後は、(「安岡先生だったらどう考えるかな。安岡先生に今の私の言行は叱りつけられるかな。」)といった内的対話の対象とさせてもらうことにします。

 


 

聖賢の学問はただ一筋に基づいて王道を行った。ところが後世の学問は己れを修めると人を治めるとの二つに分かれて、しかも肝腎の己れを修めることをしないで、ひらすら人を治めようとする。

『論語』にも「古の学者は己れをおさむ。今の学者は人をおさむ。」と書いてありますが、これは後世の学問の悪いところで、人を治めようと思ったならば、まず以って己れを修めなければならない。王道に即するとは天徳に基づくということである。つまり自然と人間を一貫する真理に立たなければならぬということであります。(致知出版社版 安岡正篤著『呻吟語を読む』)

 

江戸時代、士農工商の上に立つ武士は率先して儒学(朱子学)を学びました。僧侶でさえも儒学を学んだ。西郷隆盛などの英傑らもそうです。人の上に立つ人ほど、己を修めるための学問をし続けていました。

今はどうでしょうか。

政治家らは自己修養のための学問をし続けているでしょうか。企業経営者はどうでしょう。教育関係者、学校の先生がたは己れを修めるための学問をしてますか。

他方、一般社会において、子どもたちの親はどうでしょう。中高年者の方がたはどうでしょう。頭がしっかりしているうちは老いれば老いるほど、己れを修養するために古聖先哲から新しい知見を学び、言動と行動が立派な人ととして社会のお手本になるべく自己研鑽に務める。これは当たり前のことのように思います。

今までの経験や学問知識に依存し、ただそれを引き出しから出してくるだけで新しく学ぼうとしなければ固陋の人であって、人物としての魅力も光もありません。劣化していく一方のデータストック装置です。そうはなりたくない。

 

幾つになっても己れを修めるための学問をし続けてきた日本人は、東南アジアをはじめ世界から「日本人は信頼できる」として評価されてきた。その信頼が日本を経済大国にしたのです。しかしそうして先人が苦労して作ってきた「信頼という名の貯金」は、残念ながらもう使い果たされる寸前だと言える。東芝の例、安倍総理の「福島は完全にコントロールされている」発言を挙げるまでもない。

でもこれから信頼という名の貯金を再度つくっていけば、まだ「日本人」というブランドの神通力は世界に通用するかと思います。

「経済大国」や「軍事大国」は短期に栄枯盛衰の波がありますが、「信頼大国」は長寿です。これだけは間違いありません。

 

 

雑学せず。故に明らかなり。


あちこちに手を付けまくって、さらにそのほとんどについて深く掘り下げ手を加えなければならない、そうした課題が山積している、この宙ぶらりん状態が創造力を生み出す状態として相応しい。というのはひらめきを体験している経験上なのですが、それでも抱え込み過ぎてしまって積載オーバーかなあ、と感じることがあります。それが昨日までの状態、ということに気づいたのが昨日でした。

こうしたときに、その解決方法も心得ています。

昭和の碩学、安岡正篤(1898-1983)の書を読むというのが私のその方法です。

ちょうど良い訓戒の文章がありました。

タイトルの「雑学せず。故に明らかなり」は、中国の『文中子』から安岡先生が引用した言葉の一部です。

広く求めるとどうしても散漫になる。その一例が雑学であります。雑学すると、頭がこんがらがって雑駁になる。生命の一つの重要な特質は純一ということ、統一調和ということであります。

だからわれわれの栄養にしても、よく消化するということが第一で、消化するとは、食物が身体や生命に統一調和することでありますから、消化を無視して摂取すれば、胃腸障害を起こして却って生命をおびやかすことになります。

それと同じで、雑学は精神の消化不良を起こす。過ぎると脳酸過多、脳潰瘍を起こす。酷くなると人格破産、精神分裂ということになる。

(PHP文庫版 安岡正篤著『人生と陽明学』)

 

散漫になって脳が疲れ、忘れてしまうことを脳が強制し、忘れてから数日後に雷光のように閃くのがクリエイションなのですが、20代のときと同じように何でもかんでもどんどん情報を入れ込み、次から次へとどんどん消化してくれると過信していたのでしょう。悔しいけれど、脳の疲労回復に少し時間がかかるようになりました。

さて、宙ぶらりんに散らかしまくった作業テーマの、どこから手を付けようかと全体的に俯瞰するとうんざりしてどうでもいいかとなる。いやまあ、どうでもいいんですけどね(苦笑) いやどうでもよくない!他人さまが絡んでいることは先行してちゃんとやらないとと、深く反省したふりをしている次第です(苦笑)

それは冗談としてまじめにちゃんとやります。

 

21世紀は情報が洪水のようにあふれていて、なおも洪水の量が増えている感じがします。情報の取捨選択というよりも、強い意志をもって「好奇心よ、静まれ!」と。

特に、自分の魂が汚れてしまうようなイメージの情報は避けた方が良い。

雑事に思考を使わない。節約し、その分を大切なところに注力する。

言うは易く行うは難し。自力では難しい時があります。

ここ数日は一日20分くらい安岡先生にお世話になり、改めて自分に一本の筋を通そうと思っている次第です。同時に、鼓舞されようと。

 

 

《心のすがた》のブランディング


小林秀雄の文学的表現、「すがた」について引用します。

「論語」はまずなにを措いても、「万葉」の歌と同じように意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。

その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。

(中略)国語伝統というものは一つの「すがた」だということは、文学者には常識です。この常識の内容は愛情なのです。(新潮文庫版 小林秀雄・岡潔 対談共著 『人間の建設』)

 

国語教育における素読について述べているわけですけれども、内容自体ではなく、ここで使われた「すがた」という文学的表現が、私の脳裏に印象深く刻まれていました。

いったん話は飛びますが、創造的な企画の仕事をしているとアイデアを盗用されることは日常茶飯事です。特許や著作権に守られない構造のアイデアや新しいシステムなどは、すぐにライバルや資本の大きな会社に真似されてしまいます。

特許や著作権も必要なく、絶対に盗まれない創造物はないのだろうかと考えたとき、絶対にコピーが作れないものがあるじゃないかと閃きました。いや、地球だとか宇宙だとかそうしたものではなく。

それは、《私の心》です。《あなたの心》もそうですよね。

 

ここから読者さんには、ご自身の《私の心》と置き換えて読んでみてほしいのですが…。

物理的に脳と体をコピーすればと思われがちですが、私の心は、私の生きた体験によって造られています。例えば10年前の2月16日に体験したこと(覚えていませんが)によって、私のなかで何らかの変化がおきているはずで、そうした一秒も途切れることのない連続した経験によって私の心は造られている。10年前を再現することも、私の誕生を再現することもできない。今ここにある私の心は、私の経験のなかにおいてさえ唯一のものでありコピーできません。

 

なんだかあたりまえのことを書いてますね。

一方、「私の心とは何か」を誰かに説明しようと思ってもできません。いや、自分自身に対して説明しようと思ってもできない。でもこれには特許も著作権も必要なく、誰にも真似されない宇宙の歴史上で唯一無二のものであり、しかも私が現に手中にしているものでもあるのです。

ま、私が、私の心に所有されているのかもしれませんし、手中にしているという表現は不適切かもしれませんが、ややこしくなるので横に措きます。

 

唯一無二である私の心は何でできているのでしょうか。その外側を形成しているさまざまなものを考えてみます。

獲得した能力(知性・感性など)、価値観、気質(性格)、感情、身体、こうしたものが心を取り囲み影響を与え、一秒も休むことなく心を変化させているのです。心の何を変化させているかと考えるとき、視覚的な形状をイメージするのは適切とは思えません。

そこで、冒頭に引用した小林秀雄の「すがた」なのです。

《心のすがた》

全世界で唯一無二の存在である《私(貴方)の心のすがた》こそ、私(貴方)のブランドなのです。

このブランドに自分自身で誇りをもてているのか、自信をもてているのか、その誇りや自信は何に由来しているのか、ブランド価値を傷つけること、歪めることとは何か。

 

上記で見てきたとおり、《心のすがた》を変化させる要素は能力や価値観、気質、感情、身体であり、直接的に自力で努力できるものは能力と身体、間接的に影響が与えられて創られ育つものが価値観です。感情はそれらから二次的に変化してくるもののように思いますし、気質は生得的な影響もあるかと思います。この内容についてこれから深く考察していくことが私のひとつのテーマになっています。

ともかく、その全要素は、すべて経験から造られています。

いまこうしてコンマ一秒前の世界を体験しつつこれも経験として、能力や価値観、身体を変化させ、それと同時に《心のすがた》が変化している。習慣的に何度も同様な刺激を加えることによって、長期的な《心のすがた》に影響が与えられる。

 

現代の私たちは、私たち自身の外にあることを現象として科学的に、そして合理的に思考していくことに馴らされています。「経験」は無視して合理的に判断することを、特にITなどの業界では求められているようです。

しかし皮肉なことに、経験からしかその人の創造力は発揮できないのです。

なぜならば、新しいアイデアは、既存の経験のマッチングからしか生まれないからです。ジェームス・W・ヤングの有名な小冊子『アイデアの作り方』にもそうあります。創造研究の第一人者である心理学者のチクセントミハイによれば、経験の蓄積によって年齢が上がれば上がるほど、人によっては90代でも結晶性知能は上昇し、マッチングの機会に恵まれ新しい創造ができるということです。

 

経験は素晴らしいもので、上手に活用すればクリエイティブ能力は上昇し続けます。

そして最も重要なことは、経験は、その人の《心のすがた》を造るすべてだということです。

しばしば経験が悪役とされるのは、過去の経験に頼り過ぎ、視野狭窄で頑迷固陋になり、新しい選択を持とうとしなかったり、頭ごなしに他の価値を潰してしまうといった姿勢に原因があります。つまり知恵を使うことのサボタージュです。一つの真理めいたものに依存するのは楽ですから。

 

《心のすがた》の(自分にとっての)ブランディング、難しいけれど、「生」のプロセスのテーマは、究極的にはこれだと思います。

 

 

夢を食べなければ私は死ぬ


20代最後の頃、知人と酒を酌み交わしたときに彼はこう言いました。

「夢を見続けても現実的に食っていけるもんか!」

目の前の現実に対処して稼がないと食っていくことはできないと。綺麗ごとでは生きてはいけないと。

私は彼にこう言いました。

「夢を食わないで生きていけるもんか!」

 

どっちかと言えば当時はバブル全盛期で、私のほうが現実的に脂っこい仕事をしていたのですが。

今でもまったく変わりません。

「夢を食わなければ、私は死んだも同然!」

しばらく死んだも同然の時期があって、今は夢と希望に満ち溢れて行動していますので、余計に「夢を食べる」ことがいかに自分にとって重要なことなのか、よーくわかります。もちろん人それぞれでしょうけれど。

 

気概というのは、「あるべき姿」に対して理不尽を感じ、強い怒りを覚え、それを使命感に導くものです。心意気とも言う。そこに志が生まれる。

「政治は公平・公正であるべきだ」

「貧困にあえぐシングルマザーを、本来あるべき母子の生活に」

断固とした強い意志・信念を持たねば解決はありません。流されてゆくばかりです。

時間がかかることだからと「柔軟な姿勢と思考で」、次の世代へと先送りにされてされてされて、ずっとそうされて、今の社会問題がある。少子高齢化社会もそうです。そこには何の希望も見えない。

元大阪市長・橋下徹さん、Twitterでたまに発言を読むけれど、彼の良いところは常に「~すべき!」と明確に自分が正しいと思う方向を示す姿勢。建設的なディスカッションには不可欠な「争いを怖れない提言」をバシッと述べる。(勿論間違ったことも言うし、彼は後でそれが分かった時に自分の意見は間違いだったといつも認めている)

もともと反論大歓迎なのだ。彼は「正」しいと思ったことを提言し、その意見に対して「反」論があって、そこから「合」が生みだされるトリアーデ(3価値が1組)、ヘーゲル哲学の弁証法を意識しているのだろうと、以前から私はそう見ている。

 

いろいろな性格タイプの人がいて、いろいろとエッジの効いた意見を言う人がいて、それで言論と民主主義が活性化されるのだろうと思う。なんでも緩く許容していく平らな世相では、右肩下がりの斜陽な国になっていく一方だと思います。そこに希望はない。

上野千鶴子さんは、「みんな平等に貧しくなっていく社会でいいじゃないか」と言っていますが、こういう発言があればこそ、「ふざけるんじゃねえ!」と気概をもって希望の灯をともしていこうとする志士が生まれるというもの。だと信じたい。口だけ反発するんじゃなくて行動しないとね。

 

自分で夢を創って、夢を欠かさず食べながら現実にも対処して、人生の荒波を渡っていこうではありませんか。

気概をもとう。

 

 

天網恢恢


法律はなぜ必要だと思いますか。否、なぜ必要になったのだと思いますか、と聞いた方が良いかもしれません。

法の成り立ちは、共同体にとっての「悪」をその集団の構成員(もしくは長)が決める「掟/秩序」という側面(抑止も含)と、争いを「解決」するための側面(応報感情も含)の二つが端緒です。

「最終判断を法に委ねる」という趣旨が法治国家の理念になります。

ここでは、「個人がしっかりと善悪の判断をし、共同体生活をする」が先にきます。

 

ところが最近では、「法で悪と決まっているのだから、法に触れずに共同体生活をする」というふうに考える社会になってしまいました。

違いは一目瞭然だと思いますが、「法で悪と決まっている」を根源価値とするのならば、その国民は法の奴隷であり、その国家は法圧国家であります。

なぜならば、自分の知性で善悪を考えることなく、法で悪と決まっているからと、頭脳を使わずに反知性的に決めつけてしまっているからです。一方で、国家は法によって従属圧力をかけていることになる。法の威嚇による抑止目的が過剰に表れているのです。

これは、数学の公式がどのようにして成立しているのか、自分で公式を作る努力を一切せずに、単に答えを出すために公式を丸暗記する、テスト結果偏重主義の教育と同じです。テストができない子ども=悪、の圧力。

こうした反知性の法圧国家は国を滅ぼします。

 

古代中国哲学『老子』の第七十三章の最後に有名な言葉があります。

天網恢恢疎にして漏らさず

上記は『魏書』編纂上の誤記とされ、本来の『老子』は以下になります。

天網恢恢疎にして失わず

この訳のほとんどは以下となっています。

「天の網は広大に拡がっていて、その網目は粗いように見えるがそうではなく、悪人・悪事を決して漏らさない」

私はこの章の全文(特に「而」の使い方)と、第五十七章、第五十八章、第五十九章、第六十章、第六十八章、第七十四章、第七十五章の意図するところを総合的に判断して、次のように意訳しています。

「天の網は広大に拡がっていて、その網目が粗いからこそ、人(の心)を失わない」

天の網が一点の悪も見逃さないような細かさになってしまえば、人は自らの心で悪を判断しないようになり、強度に威嚇された人心は閉塞感に苛まれ、暗鬱とした世の中になってしまうと。

『老子』の良さは「水」を象徴として、柔らかくどんなものにも姿を変えられる応用性があるというところだと思います。そこから考えると、悪人・悪事を見逃さないという翻訳には強い違和感を覚えるのです。

 

「法律としてはどうなの?」を考えるうえでは、『弁護士ドットコム』のようなサイトは確かに有用だと思います。

けれども、「法律でそう決まっているから」を単純な正義の剣にしてはならないのではないか。

まずは自分で善悪を考える、それが法律と矛盾していなければよいし、矛盾しているときにはさらに考える。納得できなければ調べたり誰かに聞いたり議論するなりして、知性的な努力をする。

国民みんなが知性的な努力をしていくことで、現代人の脳の劣化を防ぎ、その時代にあった法律に変えていける。

そして、法に最終判断を委ねているのですから、罪と罰については冷厳な司直の手のみによって下されるものだということです。大衆は圧力をかけてはならない。

 

法圧国家になってしまえば、それこそ全体主義政治が機能しだすようになってしまうのです。

その国の国民にとって、「法」をどのようにとらえ、「法」をどのように運用していくのかは、国民知性が上がっていくのか下がっていくのかの、バロメーターの一つだと言えるかもしれません。

 

 

「いのち」の縁、同じ血を通ずる士


29年前、最後の昭和である63年に出会い、細く長くですがずっと心で繋がれてきた(私にとってですが)という方がいらっしゃいまして、昨日はその方のオフィスにお邪魔し1時間半ほど話をしてまいりました。2月1日に設立した法人の趣旨を説明し、意見を拝聴したかったことが主目的でしたが。

私にとって「師」なのかどうかはわかりません。ただ知り合った頃も今も変わらず「士」であり、「ピン」で生きている方であります。70代半ばで社会の第一線でご活躍されているかたなのですが、近年は体のお加減があまりよろしくないようで、「そろそろ」という言葉を話の最後に挟んでいらっしゃいました。

9月にお会いした際に、その方が著した一冊の書を頂戴したのですが、昨日はその書を持参し、なにかお言葉をいただきたいと願いましたところ、ご本人の即興の造語だと思いますが四文字熟語の言葉を自筆で書いてくださいました。いつかこの言葉の本当の意味が心にできたときに、ここに書きたいと思います。

書の名は、『人生を豊かにする「歎異抄」』。

タイトルのとおり、その方は親鸞に気づきを得られています。熱心な信仰徒なのかどうかはわかりません。そういう話は出ませんので。その書のまえがきには、次のように述べられています。

本書は宗教学的な立場を離れ、むしろ四十年に近い弁護士生活を通して多くの人々と接した私の経験をもとに『歎異抄』を理解しようとするものです。

親鸞の言説を引用する部分の理解に関しては、「超意訳」だと述べられており、著者ご本人の人生観、人生哲学、ご自身の思想を表している部分が際立ち、その部分にこそ宝石を散りばめた価値があるように私には感じられます。

一部引用します。

自己と他者との関係は、人格(パーソナリティ)同士の対話です。対話者間において相手から発せられる言葉は、その相手の全人格から発せられる言葉として受けとっているのです。

例えば、哲学であれ、社会思想であれ、その学者の著作を読む時にその著作者と一度も会ったことがなくても、その著作者の思想大系を読みとることができるものです。だから、その著作に記載されていない事柄であったとしても、その著作者だったらどのようにその問題を考えるのかを理解します。いわゆる行間を読むということです。

このようにして一度も会ったことのない著作者との間にも対話が成立し、連帯感を共有することができるのです。

人間同士の連帯感をこのように感じることができるのであれば、その相手が現在生きていようがすでに死亡していようが同様に対話をすることが可能であると考えます。この意味で、死者との対話も可能ということが言えるのです。

すなわち、他者との対話は、「いのち」の存在を根源とする全人格的な連帯感のうえに成り立つと考えるからです。

(PHP文庫 髙城俊郎著『人生を豊かにする「歎異抄」』)

 

上記文章の前後では「いのち」について述べられているのですが、そのまままるごと私の人生観と同じで、柔らかく潤いのある内容でありながらも、凛とし毅然とした文体ですっきりと書かれています。自分の心をわかりやすく説明していただいてる気分になります。

私のこのブログも、恥ずかしげもなく自分をさらけだし、全人格で書いているつもりですが、連帯感を共有していただけるかたも、多少はいらっしゃるようで大変ありがたいことです。

一時間半ほどの歓談の内容には、世間の浮薄な俗事にかんする個人的見解の意見交換なども含まれましたが、そうした「頭」で理解し考える内容の価値よりも、互いの「いのち」を分かり合うといいますか、そこに生まれている、血が通じ合った「いのち」の連帯感がすべてです。その連帯感には「言語的意味」はまったくありません。

年齢も離れていますし、私はいつも「髙城先生」と慕って敬意を払っているのですが、髙城先生も常に私に対して敬語をつかって敬意を払ってくださり、オフィスの出口まで見送ってくださります。

その別れしなに昨日は、「また伺います」というこちらの言葉に、「お元気で」という言葉を返されました。一気に涙があふれました。

 

 

 

やらなくちゃね。

 

 

 

 

絶対的空間感と相対的空間感


人間は見たもの聞いたもの五感すべてで捉えたものを、自分の脳内でアレンジし、変化させてしまうことが往々にしてある。

過去の体験に頼り、判断能力を過信し、自己内に築いてある価値観と照らし合わせ、そのときの体調や感情、欲求によって、自分の手で事実を歪めてしまう。

こうして正直な自分の気持ちを表して書いているつもりで、自我が「私は正直に心のうちを書いている」と思っていても、無意識層にある人格多面性が自我を騙しているかもしれない。

またある時は、悪魔の代弁者的な偽悪を書かせていることがあるかもしれない。

本当の正直はあり得るのだろうかを考えることは哲学的思惟ですね。

事実という概念はなにかを考えることも哲学的思惟だと思う。

 

「見る」「聞く」は能動的行為ではなく受動的行為である。感覚器官に受動させるために意志し行為しているために能動行為と錯覚してしまうけれど。いや、能動行為としての「見る」「聞く」がある、という見解も一側面からはアリだなあ。

いずれにせよ、例えば「見た」のは平面像であり、立体空間像に組み立てているのは脳内においてだ。脳は事実を事実化せず不事実化していると言える。

盲目の人の立場になれば、彼らは脳内で自分が今いる周囲を「相対的」空間イメージとして感覚していると同時に、「絶対的」空間イメージとしても感覚しているとしか思えない。機会があれば聞いてみたいと思う。

前者は自分が今いる地点が絶対位置で、自らが移動することで相対的に空間が変わる。

後者は空間が絶対空間感としてぴたりと動かない。

 

よく方向音痴の人は空間認識ができないとか弱いとか言うけれど、違うように思う。自分の視点固定の相対的空間感が優位で、動かない絶対的空間感というイメージをつくれないのではないだろうか。

単純に街を歩くのでも、相対的空間感と絶対的空間感を混合させたなかで私は歩いていて、それが普通だと思っている。絶対的空間感によって自分の今いる位置と向きが(頭の中の地図上に)はっきりとわかるので、方向音痴にも迷子にもならない。もし、相対的空間感しか持ちえないとすれば、ちょっと恐ろしくて道を歩けなくなるかもしれない。

相対的空間感しか持ちえない人に、絶対的空間感の話をしても体験がないのだからさっぱりわからないということになりそうだ。とすれば、ようやくひとつの謎が解けたように思う。亡くなった従姉は頭が良いのに方向音痴で迷子になりやすく、車のバックでの車庫入れと縦列駐車が大の苦手だった。

絶対的空間感は生得的なものではなく習得的に訓練されたものだと思います。

サッカー選手は自己視点のイメージと、サッカーコートの高さを含めた動かない空間イメージの両方を混合しなければポジショニングを上手く取れないだろうし、体操選手の鉄棒演技は、演技する空間を不動のものとしてイメージしなければ、とても自己視点のイメージだけでは高難度の技を演技できない。いや、バク転さえできないかもしれない。

絶対音感と相対音感も同じような関係だと思う。

絶対的時間感と相対的時間感もあり得ると思う。

味覚や臭覚、触覚もまた然り。

冒頭に書いたように、自己視点を中心とした相対的感覚は脳内で変更されたイマジネーション(想像の産物)であり、絶対的感覚もイマジネーション、両方とも内的なイマジネーションである。その複雑性を自在に自分の中で活用している。まるでサーカス。

 

個人差も大きいし、自己内の変化も大きいのだから、人間関係に摩擦が生じるのは当然なのでしょう。

脳内でサーカスのようなことをやっているのだから、間違うことがあって当然であるし、正直なつもりが嘘をついていたということがあっても当然であるし、知らないうちに観点を変えて話をしているし、自分の意見もどんどん変化していくわけで、それは他人も同じ。

独立独歩で自己主張をする人同士であれば、6割くらい共感できればすごく相性が良いほうだと思います。

直接会って話すことと比べると、電話でやりとりするときでさえ齟齬が生じることが多々ある。テキストでの表現ややり取りにはメリットもあるけれど、受け取る側(認識し解釈する側)への依存度がけっこう高いように感じる。

 

やはり私的には、ブログは自分自身との対話であり、アウトプットされた自分像の観察と内省が主目的にならざるをえないのか。

いや、今日がそんな気分のモードだからなのでしょう。

 

まとまりもなく徒然に書いた長文に付き合わせてしまいましたね。

いつもありがとう。

 

 

ぐんぐん伸びるホームラン


今日はまず、野球のバッティングフォームを例にとります。

プロ野球のホームランバッターのバットスイングは、ただ一人の例外もなく(私の知る限りですが)、「前」が非常に大きいです。この「前」というのは時間的な前ではなく(時間的には後になります)、ピッチャー側のスイングのことを言います。プロゴルファーの飛ばし屋も同じように「前」が大きい。この「前」のことをフォロースルーと言います。ボールをミートした後のスイングです。

 

野球で言えば、ピッチャーが投げたボールが、内角(バッターである自分の体の近く)に来た時に対処できるようなスイングを覚えることによって、フォロースルーの大きいダイナミックなバッティングフォームが出来ていきます。

具体的にどのような練習をするかというと、野球をやったことのない人、女性のかたでも簡単に始められます。家のどこかに柱(の代わりに棒を立てるとか)があれば、まずその真正面約20cmに顔が来るように接近します。足は肩幅より少し広いくらいで自然に立ちます。両手で30~80cm程度のほうきでも物差しでも良いのでバットのように握ってください。

その状態で野球のバットスイングをします。柱や棒に当たりますよね、そもそも手が当たってしまいますよね。ひじをたたみグリップエンドを抜くように訓練していくと、手どころか長さ84cmのバットも柱(棒)に当たりもせずかすりもせずとなり、全力でスイングができるようになります。こうして大きなフォロースルーのバッティングフォームが手に入ります。

 

なお極めるならば、自分のバットスイングの音が、右バッターであれば左耳の後ろ、左バッターであれば右耳の後ろで聞こえるようにスイングの練習をします。その音がぶわぁっと言う太い音から、ツーンという細い音になるまで一日何百何千の素振りをします。(これはバットが波打たないよう、空気を切り裂くようなスイングを音で確認・判断していくわけです)

プロ野球で活躍できるレベルになるには、それ以上にテクニカル的な訓練に次ぐ訓練が必要なのは言うまでもありません。

 

大きなフォロースルーのフォームで、バットの芯に当たったボールはぐんぐん伸びてゆくのです。しかも当たった時の手ごたえが「え?」って思うほど軽い。

逆に、悪いスイングの代表として、「ドアスイング」があります。

これは、体の真正面でボールを捉えようとし、ボールに当たる瞬間に最も大きな力が入るような、当たる前のスイングと当たった後のスイングが同じような大きさになってしまうイメージです。当たる前のバックスイングに力が入ってしまうため、フォロースルーが小さくなってしまう。インパクトの瞬間は手ごたえありますが、打球は死んでいます。

 

物理的、科学的になぜそうなるかを説明すればできるとは思いますが、不思議なことは意識を集中するポイントです。目はピッチャーの投げたボールに集中していますが、体(の意識か神経かはわかりませんが)は、フォロースルーの方に集中している感覚があるのです。

スポーツジムなどにいくと壁のいたるところに鏡が貼ってあって、知らない人はマッチョのナルシシズムだと思うかもしれませんが、あれは、鍛える体の部分を鏡に映し、その部分に意識を集中させるための鏡です。例えば上腕二頭筋を鍛えるときに、神経と意識を上腕二頭筋に集中させるかさせないかでは、トレーニングの効果に雲泥の差が生まれるのです。

もうこうなると、体のチャクラの存在を信じるほかないのではないかと思えてしまう。

 

そこで今日のひらめきなのですが。

目はピッチャーの投げたボールに集中し、体は無意識のうちにフォロースルーに集中している、それによってミートした打球がぐんぐん伸びてゆく、という原理は、いろんなことに当てはまるのではないかと考えた次第です。

スポーツのような物理的なことだけではなく、空間認識、時間軸認識、国家と民族、知恵、精神、行動など、バックスイングは小さく力を入れずに、フォロースルーを大きくとるイメージ。

現実をミートした感じが軽~いイメージ。

それでいてどこまでもぐんぐん伸びてゆく場外ホームラン。

 

 

 

心が最強の力となる日


トランプ大統領がアメリカに混乱をもたらしている。彼の価値観は経済力こそがパワー。オーストラリアの首相との電話会談で悪態をつき喧嘩をしても、ビル・ゲイツの主張には耳を貸し友人となり、ソフトバンクの孫さんにも愛想を振りまく。トランプは金の力で権力を得て、金を国民にばらまくと約束をし、彼にとっての世界観は金による階級社会である。ゆえに、ゲイツや孫などのIT企業の金にトランプはひれ伏す。

戦後のアメリカはユダヤ財閥の金で政治が動き、一時的に左派リベラルの「情報力」が対抗権力にのし上がったと思われたが、また金が最も高い価値として政治をも動かし最強権力に戻った。ITでの成功者はITだけの成功者であって、金を持っているだけなのに政治を動かしますます大金をキープする。

経済がまわるということは、人間社会にとってなくてはならないことであることは言うまでもない。金は善でも悪でもない。ただの交換道具である。この交換道具が人類最強価値となった社会に今は有るというだけだ。

 

話は変わるけれども、多くの人たちは現実に執着する。だから、今なにが世界で起きているのか、今なにが自分の周りに起きているのか、自分の仕事のこと家族のこと、自己実現のこと、そうしたニュースや価値に強い関心をもつ。

常に「今、ここ、自分」が最も大事なのですね。

目の前にある現実が大事で今得ている権利を守ろうとし、消費税が上がるとなれば反対する。徴兵制が復活することに反対する。グローバル経済によって農作物の輸入が自由化されることに反対し、移民推進政策に反対する。自分が死んだあとの100年後に生きる子どもたちのことなど考えない。

 

けれど、「未来、地球、人類」を時空的に俯瞰し、どういう流れで200年後、500年後の地球や人類、生物がどうなっているか、その程度はイメージしたほうが良いのではないか。

そうして俯瞰すれば、トランプ大統領という4年間の実験は、アメリカにとってこれ以上ない、むちゃくちゃ有意義な試験期間となる可能性がある。「これじゃダメだろ!」という声は既に上がっているけれど、じゃあなんでトランプが選ばれたのかという分析と反省は、まだ同時に声として上がってこない。行き過ぎたリベラル(自由・平等・グローバル)の反省があって初めて、トランプを批判/否定できる。

 

このブログのサブテーマは「5000年後に暮らす世界中の子どもたちの笑顔のために」です。私は常に今後5000年間をイメージしてます。普通の人から見たらトンデモな人で頭おかしい変な人と思われてもしかたない。でも私にとってそんなのは全く関係ない。

ふつうは未来という暗闇に向かって、懐中電灯で足元を照らしながら慎重に歩いてゆくんだろうけど、私は直感で「あっちだ!」という決めた方角へまっすぐ歩いてゆく。

少なくても5000年後には、人間において、心が最強のパワーとして社会を動かすエネルギーになっていると、それが「あっちだ!」の方角だと私はそう信じています。

数十年や数百年では、金が最強の権力という構図を変えることは難しいと思う。でも1000年、2000年という時の流れがあれば変えられると思う。

 

人類は3000年前からとっくにそのことに気づいていたんです。今はその面影もない古代中国では、人倫に最も高い価値を置いていました。日本人は中国から儒学と仏教を輸入し、もともと日本にあった人の心情に重きを置く国学と調和させて心の文化を築いてきました。

近代に入り欧米の影響を大きく受けた。工業化の産業革命、教育革命、そして近年では情報革命が起きた。コンピューター社会、ロボット社会、そうして心の価値が失われていった。いや、過去形ではなく現在進行形です。

でも、少数の人は気づき始めているのではないでしょうか。

情報よりも、テクノロジーよりも、お金よりも、人間にとって一番大切なのは心の価値だってことを。

人類は大きく回り道をしているだけだと思うのです。

3000年前の価値観の確認作業を、今までずっとしてきた。

まだ、あと2000年くらいかかるかもしれないけれど、2017年の現代に生きるみんなの力で、それをちょっと早めることはできないものでしょうか。

 

人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き、死んで行った。私もその一人として生まれ、今生きているのだが、例えて言えば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前(さき)にもこの私だけで、何万年さかのぼっても私はいず、何万年経っても再び生まれては来ないのだ。しかもなおその私は依然として大河の一滴に過ぎない。それで差し支えないのだ。(岩波書店版 志賀直哉著『志賀直哉全集第10巻』)

 

「人間ひとりの力などあまりに無力」と嘆くよりは、大河の一滴としての矜恃をもって、陸地がまったく見えない大海原のなか、真っすぐ船をこいでいくことにします。才能のない私にはそれくらいのことしかできないので。

自分で書いて自分を励ましています。

がんばるぞ。

 

幾つになってもこころざし


荒川区南千住にあるスサノオ神社へ行ってきました。

昨日記事に書きましたが、今日の午前中、無事に公証人役場で定款認証が終わり、法務局へ出向き登記申請を完了しました。設立です。2月1日という日がなんか好きなんですよね。生まれ月の始まりの日だからかもしれませんし、2、1、0、どっかーん!のカウントダウン的雰囲気が好きなのかもしれません。12か月の中で2月の1日が特に好きなんです。

無信仰なので神頼みはしないのですが、なんとなくモチベーションが上がる気がして、約1時間かけて荒川区南千住へ。

なぜかと言えば、ネットで友人となったかたに、私の印象はスサノオだと言われたことがあって、たしか人格が多面的だからと。(いや、破壊的だと思っていてもそうは口に出せないよね、苦笑)

というわけでずっとスサノオが気になる存在になっていたのでして、じゃあ、スサノオの神社ってどんな感じなんだろう、この機会に行ってみようかなと。

さすがスサノオだけあって神社の雰囲気が力強かった。

誰かと一緒であれば、お賽銭入れて拝むのを付き合いますが、独りだったので拝みませんでした。いろいろと写真を撮ったりしてましたから、タダってわけにもいかないなあと思い、記念品として勝守を買いました。黒のお守りって珍しくないですか? かっこいい! 思わずこれを!

 

静かな船出ですが、心の内面は炎で燃え盛っております。スサノオ魂注入してきましたし。

大志を抱く権利は少年にだけあるものではなく、万人にある。昨年101歳で亡くなられたむのたけじさんは、反骨の炎を死ぬまで絶やさずに志をもっておられたと思います。心理学者のカール・グスタフ・ユングは85歳で病床の身にありながら死の直前まで著書を書き続けていた。

なぜ老いてなお、そうまでして頑張るのか。頑張ることができるのか。

それは、「伝えたい」からなのだと私は思う。

自分の死後に生きる人たちに伝えたい熱い志、伝えたいことば、伝えたい哲学、伝えたい気概。

命の灯が細くなりながらもなお、大きな炎として燃えさかる。燃え尽きるまで全力で伝えきろうとする。

 

80歳にして新たな志を抱き立ち上がる人がいていいじゃないですか。

昭和までのロールモデルは年寄りになれば盆栽をいじって、ラジオ体操に出て、旅行を楽しんで、若者たちから離れ隠居して余生を暮らすスタイルだったのでしょう。

耄碌して認知症になってしまったり病弱になってしまったり、気力が萎えてしまったりした人は仕方ありません。

けれど今の時代、まだまだ気力充実していてエネルギーが余っているにもかかわらず、隠居常識へと自分で自分を押し込めてしまっている60代70代の人、多数おられるんじゃないかと思うんですよねえ。それは社会損失ではないですか?

 

人生80年と言われていましたが、最近では人生100年へと徐々にシフトしています。70歳になったとしても、まだ30年間あるんですよね・・・。

世を憂い社会変革を思うのならば、まずは自分変革ではないかと、世間の古いロールモデルに追従することはないと、今日スサノオが私にそう耳打ちしてくれました。

 

こころざしはできています。

がんばります。

 

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