寛容にたいする批判


寛容という概念は、社会の多様性を支える美徳として広く称賛される。しかし、現代社会ではその過剰な適用が、逆説的に害を招く場面が増えている。寛容が強制的に押し付けられ、被害者の権利が軽視されるケースは少なくない。以下では、こうした過剰な寛容の具体例を挙げ、その問題点を明らかにしていこうと思う。

 

近年、ハーバード大学やイェール大学、オックスフォード大学といった名門校から、一般企業に至るまで、DEI(多様性、公平性、包摂性)を掲げるポリシーが制度化されている例が増えている。ポリシー自体は脆弱な立場を守る目的をもつが、運用過程で「非寛容」と断定される基準があいまいである場合、懲戒や降格、採用差し止めといった人事的制裁につながる事例が報告されている。たとえば大学の学内委員会や人事部が、ある教員や学生の発言を「差別的」や「害悪を助長する」と判断して、調査と同時に職務排除的な措置をとるケースがある。〔※事例1〕

ここで問題となるのは、手続きの透明性や反証の機会が十分に担保されないまま即時的に処分が進む点である。

 

次に、学校教育での、いじめ問題の具体例を挙げる。
近年、加害者に対する過剰な寛容が、被害者を二次的に追い詰める事案を目にすることが増えた。いじめ加害者の行動を「個性の違い」や「成長過程の過ち」として扱い、被害者に耐え忍ぶことを強いる教育方針が横行している。これにより、被害者は孤立し、精神的・身体的なダメージが深刻化する。

例えば、2021年に北海道旭川市で発生した旭川女子中学生いじめ凍死事件では、被害者女性(当時14歳)が自慰行為の強要やわいせつ画像の拡散などの性的いじめを受け、凍死した。学校側は加害生徒の行動を軽視し、調査を怠り、説明会で教頭が「10人の加害者の未来が大切」と発言したことが明らかになった。〔※事例2〕

この過剰な寛容は、加害者の更生を名目に被害者の救済を後回しにし、学校という空間の安心を崩壊させる。文部科学省の報告でも、いじめ認知件数は増加傾向にありながら、加害者への厳格な対応が不足している事例が散見される。結果として、子どもたちの信頼関係が損なわれ、教育現場全体の規範が揺らぐことを招いた。もちろん、学校側の保身の一面は少なからずあるだろうが、ここで問題としているのは「寛容」の免罪符的側面である。

寛容は容易に権力の道具へと転用される性質を持つ。寛容という高潔な言葉が政治的レトリックに取り込まれると、基準を定める主体が恣意的な力を行使できるようになる。特定の価値観を「寛容の主流」として確立することで、対立する文化や意見を持つ人々を「不寛容」と烙印し、社会から排除することが可能になる。

こうした言論権力の行使が、手続き的正義や法の下の平等を蝕み、結果として社会的分断を深める。寛容が倫理的免罪符として使われるとき、その道具化は被害を見えにくくし、公共の議論を貧しくする。この道具化は、規範の名の下に寛容を強いる構造を生み、結果として安心の基盤を揺るがす。

 

また、寛容を掲げる側が道徳的優越感に陥ることも問題を大きくする。自らを「寛容な側」と位置づけることで、相手を容易に道徳的に裁断し、吊るし上げる論理が働きやすくなる。
これが「高潔さの独善」であり、寛容の語が逆に不寛容を正当化するパラドックスを生む。被害を訴える当事者であれ、反対意見を唱える学者であれ、寛容なる社会規範の中で瞬時に抹消されうるという不均衡が生じると、公共性の場は安全な討論の器ではなく、感情的な裁判所へと変質する。

最後に制度設計の難しさについて述べる。寛容を守るために用意した仕組みが、同時に寛容を侵食することがある。表現の自由を守る法制度が、被害を受ける集団の安心を奪うこともあり得る。こうした価値間の衝突は容易に一義的な解を持たず、制度は永続的な調整と再検討を前提に設計される必要がある。寛容を成熟させるということは、単に美徳を称揚するのではなく、その運用と帰結を慎重に見通し、手続き、救済、説明責任を組み入れていく営為を意味する。

擁護者は「寛容は社会の多様性と創造性の基盤であり、否定すべきでない」と主張するだろうが、その主張を受け止めたうえで強調したいのは、問題は「寛容を否定するか」ではなく「寛容をどう設計し運用するか」に尽きるという点である。

こうした批判を踏まえ、自由・寛容・規範・安心の相互力学の全体構造を明らかにし、自由と同様、寛容も条件つきの実践として再設計する必要がある。
しかし私は、どのような寛容が良いのかという「善」や「正しさ」の社会的価値観には踏み込まない。ゆえに実践としての再設計を行わなず、他者の手に委ねたい。もっぱら、自由・寛容・規範・安心の相互力学の全体構造を明らかにすることにつとめる。

 


〔事例1〕

大学・企業におけるDEI政策と寛容批判

参考資料1 要約

    • Yale大学 — 教員Bandy LeeがTwitter上でトランプ前大統領らの精神状態について発言後、大学は「専門職倫理違反」と判断して契約解除。発言の自由と大学倫理基準の衝突をめぐる訴訟へ発展。
    • Oxford大学 — 大学のハラスメント/SNSガイドラインが「敬意を払う」といった曖昧な基準を義務化。学者たちは「合法的な発言が処罰対象となる」と懸念を表明。
    • Harvard大学 — DEIタスクフォース設置後、学生から「差別や嫌がらせに対する保護が不十分」との声が上がる一方、自由な発言の抑制を指摘する意見もあり、学内で対立が深まる。
    • 企業分野(ソフトウェア工学) — DEIへの反動を示す研究。制度化が摩擦を生む事例。

参考資料2 リンクURL

参考資料3 反論

一部の記事および報告では、DEIプログラムは批判されつつも「完全に言論を抑圧する装置ではない」と論じている。むしろ制度内外で調整や対話が進み、持続的に運用されている点に注目すべきだとされる。たとえば「Harvard’s DEI Complex Is Stronger than Ever」は、制度が批判や反動に直面しても依然として強固であり、崩壊や全面的な縮小には至っていないという見方を提示している。
https://manhattan.institute/article/the-harvard-dei-complex-is-stronger-than-ever?utm_source=chatgpt.com

 

〔事例2〕

旭川女子中学生いじめ凍死事件

参考資料1 要約

  • 事件概要: 2021年2月13日未明、旭川市立北星中学2年の女子生徒(当時14歳)が自宅を出たまま行方不明となり、同年3月21日に同市内の公園で凍死体で発見された。検死で死因は低体温症(凍死)と判定された。
  • いじめの報道と調査開始: 文春オンラインは、被害生徒が2019年に別の中学校で上級生から性的ないじめ(わいせつ行為の強要)を受け、その後学校対応が不十分だったと報じた。これを受け、市長は「大きな疑念が広がっている」として教育委員会に第三者調査を指示し、事実確認に乗り出した。
  • 加害内容: ビジネスジャーナル(2021年4月)などは、上級生グループが被害生徒にわいせつ動画の撮影を強要し、画像をSNSで拡散するなど凄惨ないじめを報じた。当初、学校側は「男子生徒らのいたずらに過ぎない」と説明し、対応が杜撰(ずさん)だったと伝えられている。
  • 学校・教育委員会の対応: 2021年8月30日、市教育委員会が記者会見で調査状況を説明し、教育長は遺族対応について「一つ一つの取り組みをより丁寧にしたい」と述べた。その後、第三者委員会は2022年9月にいじめの存在を認定し、「いじめがなければ自殺は起こらなかった」と結論付けた(注:再調査で認定)。
  • 謝罪と公式見解: 2022年4月8日、第三者委報告を受けた旭川市議会で黒蕨教育長が謝罪し、「いじめを認知できなかったことを深く反省し、お詫び申し上げます」と遺族に謝罪した。これにより市教委は公式にいじめの存在を認め、再発防止策を検討している。

参考資料2 リンクURL

参考資料3 反論

  • 共同通信配信(2025年8月24日付)では、当時の中学校校長であった金子圭一氏が記者集会で「再調査委報告には事実誤認がある」と主張し、加害生徒とされた子どもたちも「過剰な報道」や中傷の被害に遭ったと述べているnews.jp
  • 月刊『北方ジャーナル』(2024年11月号)は、本事件に関する大手メディア報道に「事実と異なる記載」があったと指摘し、市教委の最初の第三者報告書で多数の記載が黒塗りにされた点など、真相が隠蔽されていた可能性を報じているhoppo-j.comhoppo-j.com

 

寛容について


「寛容」ということばは、日常では美徳のように語られることが多い。しかし、このことばもまた多面体であり、単純に「やさしく受け入れる」だけでは説明できない。まず語源を手がかりにすると、英語の”tolerance”はラテン語の”tolerare(耐える・こらえる)”に由来する。つまり元々は「耐えること」「我慢すること」に近い感覚だった。そこから発展して「異なるものを受け入れる態度」へと言葉の重心が移ってきた。

歴史的な流れも興味深い。宗教間対立や宗教迫害の時代には、寛容はしばしば政治的選択の一部だった。近代になると、啓蒙や自由主義の文脈で寛容が理想化されるようになり、異論や多様性を認めることが社会の成熟のしるしと見做された。しかし近年は、寛容の呼びかけが逆に社会的緊張を生む局面が見られるようになった。自発的に育つ「相互のゆるし」と、外から命じられる「寛容の強要」とでは、結果がまるで違うからである。

ここで幾つかのタイプを区別しておきたい。ひとつは、日常的な信頼や互恵に支えられた自然発生的な寛容である。これはコミュニティの厚みや社会資本と結びつき、安心を増す方向に働く。もうひとつは、制度や言説によって外から押しつけられる寛容である。例えば「多様性の名のもとに異論を抑える」「形式的な寛容を義務化する」といったやり方である。こうした外発的な寛容は、規範の正当性を傷つけることがあり、結果的に逆効果を招く危険がある。

寛容の逆説的性質についても触れておく必要がある。カール・ポパーが指摘した「寛容のパラドックス」——無制限の寛容は不寛容な勢力の台頭を許し、結果的に寛容な社会そのものを破壊する——は現代でも重要な論点である。これは単なる理論的問題ではなく、極端な思想や暴力的な行為に対してどこまで寛容であるべきかという実践的な問いを投げかける。 

また、寛容は文化的文脈によって大きく異なる表れ方をする。西欧的な寛容観は個人の権利と自由を基盤とするが、東アジアの文脈では「和」や「調和」の維持という集団的価値と結びつく。中東やアフリカの一部では、部族や宗教共同体の慣習法における「許し」の概念が寛容の基盤となることもある。これらの差異は、グローバル化の中で寛容を議論する際の複雑さを生む。

寛容の機能は二面性を持つ。ポジティブには、対話と共生の基盤をつくり、多様な生き方を許容することで社会の創造性を高める。ネガティブには、無制限な容認は、被害の放置や権利侵害の温床になるという問題を生む。ここで重要なのは「寛容の条件」を問うことである。誰に対して、どの程度、どのような文脈で寛容を要求するのか。要求の仕方が権力的だと、寛容は形骸化し、被害者の安心を損なう場合がある。

また、寛容は権力と切り離せない。寛容を宣言する側がどのような立場にあるかで、同じ「寛容」という語がまったく違う政治的意味を帯びる。支配的な言説が「寛容であれ」と市民に押しつけるとき、それはしばしば反対意見の抑圧装置に転用される。だから寛容を論じるとき、倫理的な美辞麗句だけでは不十分で、力関係の分析が欠かせない。

寛容と安心の関係も複雑である。適度な寛容は社会の緊張を和らげ、多様な人々の共存を可能にすることで安心を生む。しかし過度の寛容、特に強制された寛容は、既存の共同体の規範を揺るがし、予測可能性を損なうことで不安を増大させる。例えば、急速な移民受け入れに対する「寛容であれ」という要求が、受け入れ側コミュニティの不安を増幅させる事例は各国で見られる。 

さらに、デジタル時代における寛容の新たな課題も浮上している。SNS上での「キャンセルカルチャー」は、表面的には不寛容への批判だが、その手法自体が新たな不寛容を生むという指摘がある。オンライン空間での寛容は、匿名性、拡散速度、文脈の欠如といった特有の条件下で機能するため、従来の寛容論では捉えきれない側面を持つ。

 

最後に、今後の論考での扱い方を定める。
「寛容」を、
(1)自発的に生まれる寛容
(2)外から課される寛容
という二つの形に分けて分析する。両者を区別することで、寛容がいつ社会の安心を育むのか、いつ逆に安心を蝕むのかを見分けやすくなる。

私の論考での定義は次のように置く──「寛容とは、異なる他者や表現を許容する態度や制度であり、その機能と帰結は、その起源(自発的か外発的か)と、それが作用する権力構造および規範の正当性によって決まる」。


次の稿では、寛容に対する批判を展開してみよう。

 

 

規範と自由


私たちは大量生産された衣服を買って身にまとう。どのような衣服が良いかの選択基準を、私たちはどう決めているのだろう。情報の洪水の中、機能性やデザイン、価格、ブランド、それら外部の価値観が自分のなかに取り込まれ、無自覚に物語化された選択基準が密かに生じている。

そうして「既製品」の衣服を身に着ける。

この原理は、私たちの「生きかた」にも、ほぼ同じように働いている。

 

現代の多くの人は自ら、「どう生きるべきか」をゼロから構築する能力を持たない。というよりも、時間・エネルギー・知能・精神的強靭さが要求されすぎる。既存の宗教教義や既に市民権を得ている道義は、「生き方の地図」としてすでに完成されているため、安心や帰属を提供してくれる。人にとっては迷わないこと自体に大きな価値がある。

しかし、既存の教義や道義に従うだけでは自己の独自性が失われ、他者の作った枠組みに従属することになる。それは主体的な生の創造という観点からは不自由な生き方である。思考停止は自己の可能性を閉ざす。

もし人が迷いを恐れる存在ならば、自ら生きかたを編んでいく者は、迷いそのものを生の糧に変える存在だとも言えるのではないか?

 

宗教や武士道のような規範は、たとえるなら「大量生産の服」であり、誰が着ても一定の形に整えてくれる。だからこそ、社会的秩序や連帯が保たれる。規範に従うことで他者との共通言語が生まれ、安心して他者と関係を築ける。

ただし、それは「自分の体に合わない服」を無理に着ることにもなる。結果として、本当の自己と他者に見せる自己が乖離し、内面的には「窮屈さ」や「偽り」を抱える。

秩序と安心を得るために「窮屈さ」を引き受けることは、合理的な取引なのか?それとも人間個性を失うことの表れなのか?

 

ニーチェが「自分の価値を創造せよ」と言ったのは、まさにこの「既製品の服を着るな」という批判と同じ構造だ。しかし彼自身は「超人」の実践者になれなかった。つまり、思想としては到達しても、生存戦略としては極めて過酷すぎた。

だが、「実践できなかったから無価値」とは限らない。むしろ、実践の困難さを自覚した上でなお思想を提示した点に、哲学としての力がある。

実践できない思想は虚構なのか?
それとも、人間を挑発し続けることで次世代に火をつける「挑戦の種」なのか?

 

根底には「死の意識」と「不安」がある。動物は本能的に生きるが、人間は自分の生が有限だと知るため、「正しい生き方」という問いが必然的に生まれる。既製の宗教や道義はこの不安に即答を与えてくれる。

しかし不安から逃れるために規範を選ぶのだとすれば、それは「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム的な構造)であり、主体性を放棄した選択になる。

「安心を得るために規範に依存する生きかた」と「孤独に耐えながら自分で美学を築く生きかた」、どちらが良いのかという相対的価値判断は可能なのか?
そうして優劣のレッテルを貼ることに、どのような意義があるのだろう?

 

規範を原理的に採用すると選択肢は狭まり、精神的エネルギーの消費は抑えられる。その結果、内的な「迷い」や葛藤(=心理的エントロピー)は小さくなる。一方、自ら美学を築く道は試行錯誤を伴い短期的に不安が増すが、長期的には独自性と成熟をもたらす。

習慣的な内省、失敗と反省、実践(=インプット・アウトプット・休息の循環)を繰り返すことで「不確実さに耐える能力」は成長する。

低いエントロピーの状態はストレスが小さい。共同体規範(宗教、武士道など)は強い連帯感と行動的一貫性を生み、その教義や道義に従っていれば良い。しかし個人の創造性や批判精神は強く抑えこまれ、規範の牢獄に自由な精神が閉じこめられる。

 

では次に、自由な精神であることへの批判を始めよう。

 

自由を賛美する言説は多い。だが、自由が常に善であるとは限らない。まず単純な批判から入ると、「自由の誤用」がある。自由を放擲すると、それは自己中心性、無責任、さらには他者への無関心へと容易に転じる。規範を放棄した結果としての無為や怠惰は、個人の尊厳を守るどころか、むしろ他者の尊厳を侵害することすらあり得る。

次に、「高潔さの独善化」である。自由を理念的に掲げる者は、しばしば自らの生きかたを倫理的優位のしるしとして振る舞う誘惑に囚われる。自作の美学は真摯な自己表現であり得るが、それが他者の選択を「未熟」「怠惰」「偽り」と軽んじる口実になれば、自由は排他性へと変質する。つまり、自己の自由が他者への不寛容を隠す覆いになる危険がある。

さらに実際的な問題として、「成果責任」の所在があいまいになる点がある。規範に従うことで生じる不自由は確かに窮屈だが、一方で社会的保障や相互扶助という形で安全網も提供する。完全に「自由な我流」を貫徹した者が失敗したとき、誰がその困難のケアを担うのか。自由は美徳であるだけでなく、責任と補償を伴う制度を必要とするのだ。

最後に、自由を放擲することの文化的・歴史的影響を指摘したい。

個々がすべて自作の価値を貫く社会では、共通の言語や慣習が失われ、公共的合意の基盤が脆弱になる。合意形成のコストが跳ね上がれば、共同体は分断され、協調行為が困難になる。その結果、生産的な公共性や長期的な政策継続が損なわれるリスクがある。

しかし、ここで重要なのは「批判=否定」ではない。
自由の問題点を指摘するのは、自由を放棄させることが目的ではなく、自由を成熟させるためだ。つまり、自由は責任と節度、そして共感と結びつくときに真価を発揮する。

自由を育てるとは、単に“好き勝手をする”ことではなく、他者の存在を前提にしながら自己の美学を磨くことである。
これができたとき、自由は自己の栄養であると同時に、社会の維持にも寄与する成熟した力となるのかもしれない。

 

 

 

 

 

理想主義が全体主義化する力学


なぜ「理想」は暴走するのか?
〜社会が“過激な全体主義思想”に染まる仕組みをモデルで解き明かす〜

 

あなたの信じる「理想」が、世界を窮屈にするかもしれない

「みんなが幸せになるべきだ」「格差のない平等な社会を作ろう」。 こうした言葉は、誰もが善意だと信じる「理想」だ。しかし、歴史を振り返ると、このような純粋な理想が、時に自分たちと違う意見を持つ人々を排除し、社会全体を一つの考えで染め上げる「全体主義」という恐ろしいものに姿を変えてしまうことがあった。

なぜ、善意から始まったはずのものが、これほどまでに暴走してしまうのか?

本論考では、この複雑で難しい問題を、物理学や感染症の分析で使われる「モデル」という道具を使って、その本質をシンプルに解き明かしていく。この論理によって、SNSでの炎上から国家レベルの大きな変化まで、社会の動きの裏側にある「仕組み」が見えてくるはずだ。

 


1. なぜ人は「みんな」と同じ行動をとるのか?——雪崩を起こす「最初の一人」の法則


社会が大きく変わる最初のステップは、ごく少数の意見が、ある瞬間を境に爆発的に多数派になる現象について。これは一体どのようにして起こるのだろうか?

その鍵を握るのが「閾値(しきいち)」という考えかただ。 難しく聞こえるかもしれないが、これは非常にシンプルで、「一人ひとりが『周りの〇割がやり始めたら、自分もやろう』と心の中で決めているライン」のこと。

例えば、ある新しいファッションがあったとしよう。

    • Aさんは「クラスで1人でも着ていたら、自分も着る」(閾値が低い)
    • Bさんは「クラスの3割が着始めたら、自分も着る」
    • Cさんは「クラスの8割が着るまで、自分は様子を見る」(閾値が高い)

このように、人によって行動を起こすためのハードルの高さはバラバラである。このモデルが示すのは、劇的な社会の変化がどのように起きるかということ。

【例え話】教室で最初に立ち上がるのは誰?

先生が難しい質問を投げかけ、誰も答えられずに静まり返った教室を想像してみよう。ほとんどの生徒は「誰かが立ち上がったら自分も…」と思っている。

    1. そのとき、一人の勇敢な生徒(閾値が極端に低い生徒)が、意を決して立ち上がる。
    2. それを見た「一人でも立ち上がったら自分も」と思っていた数人の生徒が、それに続く。
    3. すると、教室の雰囲気は一変。「何人か立ち上がっているなら…」と思っていた生徒たちが次々と立ち上がり始め、あっという間にクラスの大多数が立ち上がるという現象が起こるのだ。

このように、ある点(臨界点/ティッピング・ポイント)を超えると、まるで雪崩のように一気に現象が広がっていく。

このモデルから得られる重要な洞察は、「社会の変化は、多くの人が同時に心変わりすることで起きるのではなく、ごく少数の『閾値が低い人』の行動が引き金となって、連鎖的に発生することがある」ということである。

では、そもそも「やってみよう」と思う人の心に、その考えはどのようにして広まっていくのか?まるでウイルスのように広がる、思想の「感染」モデルを見ていこう。

 


2. 思想は「ウイルス」のように広がる——社会の“感染”モデル


ある特定の思想やイデオロギーが社会に広まっていく様子は、まるで感染症の流行によく似ている。そこで、社会を一個の身体に、過激な思想を「ウイルス」に見立てて考えてみよう。

このモデルでは、社会の人々を以下の3つのグループに分ける。

    • S (Susceptible): 未感染者
      まだその思想に染まっていない人々。ウイルスに感染する可能性がある。
    • I (Infected): 感染者
      その思想を信じ、積極的に他者へ広めようとする人々。ウイルスを他者にうつす存在。
    • R (Resistant): 免疫保持者
      その思想を受け入れない、あるいは批判的な人々。一度ウイルスに感染したけれど回復した人や、ワクチンを接種した人のように、免疫を持っている。

このモデルで重要なのが、ウイルスの広がり方を決める3つの力である。

    • β(ベータ):ウイルスの自然な感染力
      これは、思想そのものが持つ「魅力」や「分かりやすさ」。感染力が高いウイルスほど、思想は口コミで広まりやすくなる。
    • γ(ガンマ):社会の免疫力
      これは、思想の広がりを抑える力。「多様な意見に触れる機会」や「情報を鵜呑みにしない批判的思考を促す教育」、そして「自由な議論ができる環境」などが社会の免疫力を高める。
    • δO(デルタ・オー):組織による増幅力
      思想の広がりは、自然な口コミだけに限らない。同じ思想を持つグループが組織化されると、SNSやメディアを通じて思想を効率的に拡散できる。彼らはいわば「スーパースプレッダー」として機能し、ウイルスの感染率を劇的に高めるのだ。

このモデルが教えてくれるのは、「思想の流行は、思想自体の魅力(感染力β)と社会全体の免疫力(抵抗力γ)のバランスだけでなく、組織的な活動(増幅力δO)によって大きく加速されうる」という事実だ。

一人の行動が連鎖する仕組みと、思想がウイルスのように広まる仕組みがわかってきた。次に、この二つを組み合わせて、社会全体で思想の「増殖」と「抑止」がどのように綱引きをしているのか、その力関係を見ていこう。

 


3. 社会の運命を決める綱引き——「思想の増殖力」 vs 「社会の抑止力」


これまで見てきたモデルを統合し、理想主義が全体主義へと変わってしまうメカニズムの核心に迫る。社会における思想の拡大は、巨大な「綱引き」に例えることができる。片方のチームが「思想を広げようとする力」、もう片方が「それを抑えようとする力」である。

思想を広げる力(アクセル役)

    • 自然な口コミ(β)
      友人との会話やSNSの投稿など、人から人へと自然に考えが伝わっていく力のこと。これは思想の「自然感染力」そのものである。
    • 組織による増幅(αO)
      同じ思想を持つグループが、メディアや集会、SNSキャンペーンなどを通じて、効率的に思想を広める力。個人の声を集めて大きな拡声器で叫ぶような「メガホン効果」と考えると分かりやすいだろう。

思想の広がりを抑える力(ブレーキ役)

このブレーキは、2つの異なる要素で構成されている。

    • 社会の免疫力(γ)
      これは社会に元々備わっている「しなやかな強さ」。多様な価値観を尊重する文化、情報を批判的に吟味する教育、自由な対話の場といった、いわば社会の基礎体力にあたる。
    • 制度による抑止(I)
      こちらはより積極的で強制力のあるブレーキ。「どんな思想も自由だが、他者を傷つけてはいけない」といった社会のルールや法律、独立した司法やメディアなど、社会の暴走を食い止めるための具体的な仕組み

この綱引きの勝敗が、社会の方向性を決定づける。 モデルが示すのは、「口コミの力と組織の増幅力(アクセル)の合計が、社会の免疫力と制度的抑止力(ブレーキ)の合計を上回ったとき」、思想は一気に社会全体へと広まり、もはや誰にも止められない状態になってしまう、ということだ。 この瞬間こそが、社会が後戻りできなくなる「転換点(ティッピング・ポイント)」なのである。

この綱引きのバランスが、いかに重要かがわかってきた。では最後に、私たちがこの社会で「ブレーキ役」を強め、「免疫力」を高めるために何ができるのかを考えてみよう。

 


4. 私たちの社会の「免疫力」を高めるために


この論考では、社会が過激な思想に染まる仕組みを3つのステップで見てきた。

    1. 閾値モデル:社会の変化は、少数の行動が引き金となり、連鎖反応で起きる。
    2. 感染モデル:思想の広がりは、「感染力」「組織の増幅力」「社会の免疫力」のバランスで決まる。
    3. 綱引きの力学:思想の「増殖力」が社会の「抑止力」を上回ったとき、ティッピング・ポイントが訪れる。

これらのモデルから得られる最も重要な教訓は、過激な思想の広がりを防ぐためには、その思想を信じる個人を非難するだけでは不十分だということだ。本当に大切なのは、私たち一人ひとりが属する社会全体の「免疫力(γ)」や「ブレーキ(I)」を日頃から強化しておくことなのである。

では、社会の免疫力を高めるためには、具体的に何が必要なのだろうか。

    • 多様な価値観に触れること
      自分とは違う意見や背景を持つ人々の声に、意識して耳を傾ける寛容さ。
    • 批判的に考える力(クリティカル・シンキング)
      流れてくる情報を鵜呑みにせず、「本当だろうか?」と一度立ち止まって考える習慣。
    • 自由な言論空間
      少数意見や反対意見であっても、安心して表明できる健全なメディアや議論の場を守ること。
    • 分権的な仕組み
      権力が一つの場所や個人に集中しすぎないよう、社会の様々な場所に権限を分散させるシステム。

これらのモデルが示すのは、健全な社会とは情熱的な理想がない社会ではなく、いかなる思想の暴走をも防ぐ、強力な「負のフィードバック」が機能する社会だということです。そのフィードバックとは、批判的思考、制度的な抑制、そして対話の文化に他なりません。私たちの課題は信念を捨てることではなく、その信念を内包する社会システム全体のしなやかな強靭さを、不断の努力で維持していくことなのです。

 


 

数式化(方程式化)への試み

A. 全体方針(モデリングの目的と方法)

    1. 目的:理想(normative driver)がどのような経路・条件で「絶対化→排除→権力化→全体主義」へ変容するか、そのメカニズムと臨界条件(tipping points)を明らかにする。
    2. 手段:複数レベル(個人/グループ/制度)を分離しつつ相互作用を扱う。簡潔モデル(微分方程式、閾値モデル)で臨界挙動を把握し、エージェントベースで微視的機構を検証する。
    3. 評価軸:a) 絶対化度(ideology absolutization)、b) 組織化度(organizational capacity)、c) 制度化(institutional capture)、d) 社会的耐性(pluralism resilience)などを指標化。

B. 層構造(レイヤー)と主要変数

レイヤー1(個人)

    • 信念強度 si(理想へのコミット)
    • 絶対化志向 ai∈[0,1] (相対主義か排他主義か)
    • 社会的影響力(フォロワー数、ネットワーク係数)

レイヤー2(集団・運動)

    • 組織化率 O(集団が持つ動員力・資源)
    • 勢力比 p(不寛容派・寛容派の比率)
    • 凝集力(排他性の強さ)

レイヤー3(制度/国家)

    • 国家執行力 I(司法・治安・情報操作能力)
    • 法的・制度的ロックイン度 L(制度化の硬さ)
    • 外部ショック(戦争、経済危機、移民等) E

共通パラメータ

    • 伝播係数(社会伝播/感染) β
      抑止・緩和係数(教育、自由市場競争、対話) γ
    • 臨界閾値(tipping threshold) θ

C. 具体的モデル候補(説明+式の雛形)

1) 閾値/臨界モデル(Granovetter型) — 定性的・簡潔

    • 各個人は「社会で一定割合 p が支持すれば自分も支持する」閾値を持つ。
    • 不寛容派の累積がある閾 pc​ を超えると、急速に多数派化(臨界転移)。
      用途:なぜ小さな少数がある条件で突然支配的になるかを説明。

2) 感染モデル(SIR類似) — 流行・伝播観点

    • S:未絶対化(susceptible)、I:絶対化者(infected)、R:回避・免疫化済み(resistant)
    • 方程式(単純化版):

 S+I+R=1S + I + R = 1S+I+R=1

ここで δOI は組織化による増幅(Oは組織化率)。
用途:伝播速度、組織化による増幅効果、制御(教育・法制で γ を上げる)を見る。

3) 複数レイヤーの連鎖微分方程式(マクロ)

    • 状態変数:x(t)= 社会全体で「絶対化志向」を持つ比率。
    • 典型式(単純モデル):

ここで F は外的ショック・資源等で増幅する関数、 G は制度的抑止を表す関数。
用途:制度(I,L)がどの程度で成長を抑えられるか、臨界条件の解析。

4) ゲーム理論モデル(協調 vs 絶対化)

    • プレイヤーは「相対主義(協調)」「絶対化(支配)」を選ぶ。報酬は社会対応(多数派・少数派)と制度による罰/報酬で決まる。
    • 均衡分析(Nash)+進化的安定戦略(ESS)で、どの戦略が安定化するかを調べる。
      用途:戦略的選択、政策インセンティブの評価。

5) エージェントベース・モデル(ABM) — 細部機構を検証

    • 個々のエージェントに心理パラメータ(絶対化傾向、閾値、影響力)を設定。ネットワーク上で相互作用。
    • 追加要素:資金・メディア操作(ソロス的資本投与のシミュレーション)、弾圧(国家の介入)、外的ショック。
      用途:局所的相互作用(リーダー効果、対話の効果、情報操作)からマクロ現象が生じる過程を再現。

D. 臨界条件(tipping)とフィードバック構造

    • 正のフィードバック:組織化 O と資源(資金、情報)→ 効率的伝播 → 支持率上昇 → 臨界越え → 制度占有。
    • 負のフィードバック:寛容的制度のレジリエンス(教育、分権、独立メディア)→ 伝播抑制(γ 上昇)。
    • 重要な臨界変数:初期支持率 x0、伝播係数 β、制度抑止 I,L、外的ショック E、リーダー・ハブ(高影響ノード)の有無。

E. 実証可能性・データ指標(モデルと結びつける)

    • 個人レベル:世論調査のイデオロギー分布、極端支持者比率、SNSでの拡散速度。
    • 組織レベル:団体数、動員力(デモ参加者数)、資金流入量、メディア露出。
    • 制度レベル:法改正件数、司法独立度、警察予算、検閲・メディア規制指標。
      これらを用いてモデルのパラメータを推定・キャリブレーション可能。

F. 次の実務的ステップ

    1. モード選択:まず「どのモデルを優先するか」を決める(例:理論的臨界分析なら微分方程式/実践的検証と叙述ならABM)。
    2. 最小モデルの構築:まずは最も簡潔なSIR類似モデルか閾値モデルで臨界条件を解析。
    3. 拡張:組織化・制度化パラメータを導入し、感度分析で重要パラメータを特定。
    4. ABMで微視的検証:代表的シナリオ(資金注入、検閲、対話キャンペーン、外的ショック)で挙動を比較。
    5. 実証化:公開データ(世論調査・SNSデータ・法改正履歴)でパラメータ推定、検証。

G. 例:単純な「直観的」微分方程式

    • x:絶対化支持率
    • β:自然伝播(社会接触)
    • αO:組織化増幅(Oが大きくなるほど増殖)
    • γI:制度抑止(警察・司法等の介入で減衰)
      臨界条件:増加が持続するのは β+αO>γI。ここが直感的な“転換点”。

 


 

新生、すなわち偶然の物語へ


2025年 元旦。

多くの人は一年の抱負を考え決める日である。一年のうち、心機一転を図り昨日までの過去をできる限り断絶し、新たに心を切り替える日の代表は元旦と誕生日である。しかし心機一転と言っても一カ月もたてば忘れてしまう人が殆どのような気もする。そうならないように、元旦ということもあるので「新生」について考えてみよう。

 

ハンナ・アーレント

女性の哲学者として最も光を放ったドイツ生まれのハンナ・アーレントは、人が生まれることに人間たる本質があると述べている。人の生は不可逆的であり死をもって終わる。誕生した瞬間、その子には何の目的もなく予測可能性も一切ない。人生において最も可能性の自由度が高い瞬間が出生時である。やがて自由度は失われていき雁字搦めとなる。そんな自縛を解き再び新生することは可能だろうか。アーレントの言葉を引用してみよう。

新たに始めるというこの力能なしには、つまり中断し干渉するという力能なしには、人間の生のように誕生から死へと「急ぐ」生は、特異に人間的なことの一切を、何度も繰り返し引き裂いては朽ちさせ没落に追いやるべく宣告されている、ということになろう。(略)しかしだからといって人間は、なにも死ぬために生まれてきたのではない。そうではなく、何か新しいことを始めるためにこそである。生まれてきた人間とともに世界にもたらされた真に人格的人間的な基層が、生のプロセスによって摩滅してしまわないかぎりは、これが事実なのである。(みすず書房 『活動的生』34節)

アーレントは死が目的であるかのようなニヒリズムを力強く否定する。人間が主体的に社会へ「行為」することは、網の目のような関係性を構成している人間社会に波紋を広げ偶然性を生成する。そうでなければ人間も人間社会も機械のように閉じた必然性の中で無意味な活動を繰り返すだけになる。偶然性の象徴である出生は人間の奇蹟であり、一人の子の偶然の出生によって人間社会に別の力動が生まれる。これこそが人間の実存の現れだとアーレントは述べる。

なるほど。それならば人生のある時点で、中断し新しく始めることで死への一直線の機械的プロセスから解放され人間らしさを取り戻すことが出来るのではないか。もちろん出生時のような最も高い可能性の自由度はないにせよ。或いはどれほど老いたとしても。

例えば、これまでに全く経験のないボランティア活動に参加することも、新しい道を切り拓く一歩となるかもしれない。アーレントが指摘するように、私たちには「中断し新しく始める」力が備わっている。

 

目的と手段の価値転換

「手段が目的になってしまっている」という批判がよくある。これは本来の目的を忘れ、手段それ自体が目的となってしまった状態である。例えば、教育の本来の目的は、個人の知識やスキルを深め、思考力や創造性を育むことにある。しかし、しばしば「テストで良い点を取ること」が目的化されることがある。結果として、生徒がテストで問われる知識に偏り、本質的な学びや創造性を失ってしまうという問題が生じる。

私の新たな発想は、上述のような手段の目的化ではなく、手段を目的化するために目的をつくって新たに始めるというものだ。例えば、良い人との出会いを求めたい、良い縁をもちたいと、多くの人は望んでいるだろう。そのために出会えそうな場へ自らが踏み込んでいこうとする。しかしなかなかそうはいかない。なぜなら、良い出会いは意図的よりも偶発的に起きることがほとんどだからだ。

仮に、世界中の貧しい子どもたちに教育的な絵本を創るという目的でボランティアで参加してくれる人を集めるとしよう。または参加することにしよう。そこでの偶発的な出会いに良縁が生まれる可能性が考えられる。この場合は手段が目的化され、本来の目的は目的かつ手段になる。これにより、一生の親友となった人と出会えたり、やがて結婚し子どもを授かった人と出会えたならば、結果的に本来の目的は手段となり、手段は目的となったという逆転現象が起きる。

そのようにして新しいことを始める、自分自身を新生させることは、アーレントが「行為」として述べているとおり、偶然性と予測不可能性の海にみずからを投げ入れることであり、真に人格的で人間的な活動であると言えよう。

大きな偶然性が期待できること、過去の自分の経験が通用しない予測不可能性が高い道を目指すことが新生となる。必要なのは能力ではなく、固い信念と逞しい勇気だけである。

2025年が新生した。彼はこれから一年間、時間の場を提供してくれる。この場に、現存する人類全員が自分自身の物語をつくる。私は、上述の目的と手段の価値転換を応用し、2025年という場の全体をプロセスとして、偶然性の物語化を新春の抱負として考え、実践することにした。

もしあなたが共感してくれるのならば、
これからの一年間、あなたはどんな偶然を探しに行きますか?
どのような新しい挑戦を始めますか?
偶然の波紋を広げるために、まず一歩を踏み出す場所はどこでしょうか?

 

 

思想について


今日は2024年の大晦日。
最近は日々の断想を書くことを怠っていた。思いついたことはSNSプラットフォーム (エックス:旧Twitter)に独り言として書くことが多かった。手軽である一方、ここにしっかりと残す作業がわずらわしく感じていた。また、「人類哲学の独創」と「私の美学建設」というライフワークの本論に注力していたことも一因である。
せっかくの大晦日なので、久しぶりに断想を一稿したためてみたいと思う。

 

テーマは「思想について」

まず、思想と哲学の違いについて述べてみる。この二つは、それぞれの言語から連想される観念上の概念であり、私の個人的なものである。他者とは異なることがあって当然だということを前提に置く。

私にとって、「哲学」は価値判断を一切含まない。善悪、優劣、損得、美醜といった色付けを排除した、無色透明の純粋な論理であり、根本原理を考え抜く学問である。一方で「思想」は価値判断を含む。「良い」という色付けが加わり、それを基盤に体系化されたものだ。個人では実存主義や倫理学、社会では自由平等主義やナショナリズム、さらには宗教も「思想」に含まれる。

哲学の本質は考えることであるから動的であり、思想は既に出来上がったものとして静的である。しかし近年では、単に論理的に一貫した理屈や態度を示す人を「彼には哲学がある」と表現するのをよく見かける。「政治哲学がある」といった言い回しも同様だ。これには「良い」という価値判断や「こうすべきだ」という信念が伴っている。私にとってこれは哲学ではなく思想信条である。

 

思想とは何か

宗教信条を含め、思想信条なくして人間は生きていけるのだろうか。この疑問が最初に思い浮かぶ。思想の根本から考えてみよう。

幼児は価値を覚え、親や社会から多様な価値観を学びながら、自己の価値観を形成する。しかし価値観が混在したままでは安定せず、他者や社会と関わる中で「社会的信用」の重要性を学び、それを獲得するために「変わらないこと」を社会の側から求められることに気づく。

言動が整合性を欠いたり、態度を容易に変えたりする者は信用を失う。一方、柔軟に価値判断を行う人間も、ときに疎まれる。人は他者に一貫性を要求し、それによって自身の内的世界の安定を図るのである。こうして社会的信用を重視することが、自分に統一的な思想信条を欲する理由の一つになる。思想信条は、自己を律する基準として有益であるが、同時に柔軟性を失い固陋となるリスクも忘れてはならない。

思想は個人が自己を形成するための重要な基盤ともなる。特に若年期において、人は外部から取り入れた価値観や思想信条を通して、自らのアイデンティティを模索し、自分が社会の中でどのように位置づけられるべきかを考える。しかしこの過程では、外部から与えられる思想に依存する一方で、それに批判的視点を持つこともまた必要である。思想は、個人が無意識的に従属してしまう罠となり得るが、自分自身の思考による訓練を通じて、外部の影響を超えた「自己の思想」を構築する力となる。人間が自己の思想を持つとは、外部の価値観に影響されつつも、それを咀嚼し、自らの内的世界で再構築する能力を指す。

 

思想の多様性

人間は苦悩し、恐れ、迷う存在だ。宗教は教義によって迷える人々を包み込み、苦悩や死への恐れを軽減する。また、同じ信仰をもつ者同士で価値観を共有し、共感の世界を提供する。しかし、宗教共同体の同調圧力や洗脳、精神的依存が生じることも忘れてはならない。

ところで、思想は社会基準を提供し、治世的秩序を構成する道具としての側面もある。民主主義、資本主義、社会主義、ヒンズー教のカースト制、儒教思想、プロテスタンティズムなど、歴史上さまざまな思想が生まれては消え、残り続けている思想がある。今後も人類は理想の社会像を追求し、その手段として思想を活用し続けるだろう。

思想の世界を哲学として捉えれば、それはプラグマティックに創造された観念上の空間である。本質的には想像的世界であることに留意しておこう。

最後に、私のライフワークである「人類哲学の独創」の「思想」にかんする項目については、さらに熟考を重ね原理論構造の中にまとめていく旨を誓い、本年の断想は筆を擱くこととする。

 

 

自由な思考への哲学的な旅


7年ほど前にリベラリズムについての論考を書いたことがある。「リベラリズム考(1)―多義性」から連続11回。今回は「思考」という違った角度から「自由」について少し掘り下げてみたい。哲学的思考の旅を楽しもう。

リベラルという言葉の第一イメージには「自由」がある。しかし言葉の概念イメージは、個々によって異なる。リベラリズムは多義的であり「自由」も多義的だ。前者にはイズムが付いているので理念的であり、その理念を善しとする思想である。一方で「自由」は理念でも思想でもなく、形容表現である。

形容表現を本質とする「自由」概念については、私は、まだ哲学的に取り組むことをしていない。今日のタイトルは「自由な思考への哲学的な旅」だが、本来は「自由」概念を明らかに、否、ある程度は「私は定義として自由という言葉をこのように使う」ということを先に提示すべきだろう。他者に文意を伝えるためには。今回はそれを飛ばし、自由な思考について自己の探究の一部として考えてみたいと思う。

というのも、私は本当に自由な思考をしているのかという疑問を強くもったからだ。そこには根本的なテーマである自由意志がある。これは一つ前の断想で「偶然性と自由意志」について書いた続きでもある。ただし今回は思いつくまま、エッセイのごとく徒然に綴ってみたい。

 


日本に暮らす私たちには、自由と民主主義の価値観に基づいてさまざまな「自由権」が憲法の基本的人権として保障されている。表現の自由、言論の自由、移動の自由、判断の自由などがそれである。もちろんここには思考の自由も含まれている。良い国に、良い時代に生まれたことに感謝しよう。

では、思考する材料はどこにあるのだろうか。外部世界の情報の真偽を判断し、真実を取り込み虚偽を捨てる。しかし巧妙に情報を操作され、虚偽情報を真実としてインプットしてしまうリスクについては認識しておくべきだろう。特に「物語化」された情報の真偽判断には注意すべきであるし、自分で情報を組み合わせて虚偽の物語を創作してしまう危険性もある。

これらも自由だと言えばそれらしいが、本当は不自由に強制されているかもしれず、思い込みによって頑迷に思考の自由を閉じてしまっている状態かもしれない。無反省であってはならない。

ところで、私たちが真偽判断に使う自身の機能には、頭脳と心、身体的感覚、第六感などがある。それらは身体内にある。外部情報についても身体内に入力される。記憶や価値観、感情をもとにして、私たちの内面である観念世界にそれを再創造する。この創造には想像力がたぶんに含まれる。

そのように考えると、ニーチェが述べていたように、私たちの内的世界には事実はなく、解釈と考察、想像によって創造された観念世界があるだけだ。外部世界に観点を転じればカントのいう「もの自体」を措定することも可能だが、今回はそこに立ち入らない。私の観念世界には実体験を基にした「私の人生の物語」がある。任意の誰かの観念世界には「その人の人生の物語」がある。

「人生の物語」が創造される基となる実体験は、意識上で思い出せないことを含め、記憶にその全体が存在する。無数の実体験により価値観形成が行われ、価値観は別の実体験によってその都度書き換えられる。実体験には身体的な感覚や感性的なクオリアも含まれる。知性的および感情的、身体的な価値観はその都度欲求や感情を生じさせ実体験化される。知性的には人間のもつ想像力が観念世界を創造し、創造した観念世界が実体験化される。また、社会や他者と自己との関係性や相互作用は人間的に喜怒哀楽を生じさせ実体験化される。そうした実体験のすべては、結果として「人生の物語」に豊饒な意義を与えている。

ひと一人の「人生の物語」は唯一無二の物語であり、人類全体に広げても誰一人として同じ「人生の物語」は存在しない。

個人の内面に創造された観念世界は個々それぞれ唯一無二の「人生の物語」に依拠するが、その「人生の物語」の些細な全てを言語で表現することは到底かなわない。99%以上が言語から欠落する。しかし、身体性を含めた私たちの観念世界、いわば「自己本体」には100%内蔵されているはずだ。だが意識はそれを知り得ない。

さて、このように意識上での自分はこの構造と力学を知り得ない状況のなか、私たちは自由に思考し判断を下していると思い込んでいる。実際には、自分の「人生の物語」と自分の「観念世界」に基づいた価値観と訓練された思考方法によって意識上の思考を行っている。ということは、意識上の思考に自由意志はない。そうではなく、「自己本体」にこそ、唯一無二のオリジナルな自由意志があるのではないか。

批判的に吟味してみよう。

「人生の物語」も「観念世界」も、外部情報の影響を受ける。社会的価値観と倫理観、あらゆる人間関係、生活活動をする環境の文化的価値観、成育時の教育環境、宗教や思想の情報、精神美学的憧憬の的となるような対象との接触、そのような環境は、ある時は必然的に、ある時は偶然的に、ある時は目的的に、自己の周囲に形成される。身体性もそうで、栄養は外部から摂るほかない。遺伝的気質や先天的能力について言えば、親や先祖の遺伝子はもともと私の外部に有ったものだ。

そう考えてゆくと、私の本性である「自己本体」のすべては、外部を因として形成されていると言えるのではないか。すべてが外部を因として形成されているにもかかわらず、私の「自己本体」に自由意志があると言えるのか。

 

結論もまとめもない。何度も繰り返し深く考え続けることで、意識上の私が知らない私の「自己本体」では自由な思考が展開されていると信じ、哲学の旅を続けよう。旅路をする知の窓は、いつでも広く開け放っておこう。

 

 

偶然性と自由意志


 

1.偶然性と必然性

私はこれをまず、自分が主体として捉える場合と客体として捉える場合とに分解したい。偶然性の議論をする上で、偶然と必然の対照性について考えることが糸口になると考えるからである。対比構造の議論によって理解が深化し、新しい本質的な知見が得られるのではないかという期待もある。

そしてこのテーマの向こう側に、自由意志の有無の議論があることを見据えている。世界決定論的な世界観ではすべてが必然であり人間に自由意志はない。一方で偶然性を有する未来について予測不可能な世界観では、人間の自由意志によって思考し判断する。よって自由意志を考察する上で、偶然性と必然性の議論は有意義である。

 

2.客体として

主に現代物理学からの科学的見地であれば、この宇宙の活動すべてが必然であると考えることができる。偶然性はないとするのが科学的な立場になる。例えばサイコロを振って「3」の目が出る事象について考えてみよう。サイコロを転がすときの手と指の角度や力加減、気温、気圧、ミクロの空間状態、テーブルの凹凸と摩擦などすべてが影響し、それらが物理法則にしたがう結果、必然的に「3」の目が出ると考えることができる。例外はない。

私たちはこうした科学的見地からものごとを思考し判断する知性をもつ。この観かたを客観と呼ぶ。客観を使って自分自身を客体として捉えれば物理法則に包摂される人間としてのあらゆる活動は必然になる。身体的な活動、例えば血液の流れや呼吸、内臓のはたらきも病気も必然であり、思考や感情、理性も倫理判断も、人間のあらゆる精神活動も必然であり、人間には自由意志がないとなる。

但し、自由意志を考察していくうえでは「意志」という概念と、その本質的な生成原理を明らかにしなければならないため、現在の私の知的力量では手に余る。自由意志についての詳論は後日、あらためて取り組んでみたい。

 

3.主体として

私たち人間は、科学に対するように客観としてものごとを捉える観点をもつが、現実を理解する上では主に主観によって捉えることが多い。身体に熱や痛みがなければ体内で癌細胞が育っていることは認識できない。自分を客体として検査をしなければわが身の詳細な健康状態はわからない。また、サイコロを振って「3」が出るのを必然として捉えることはできない。ミクロの物理現象を認識できないからだ。主観として論理的に説明できない交通事故に偶然性を感じるのも、天気予報にない突然の雷雨を偶然と感じるのも、人間主体としては自然な解釈である。客観的に論理をもって推測しても、自分のなかにそれを裏付ける根拠をもたない場合に、偶然性が混入された解釈が生じる。

他方、仮説として「これは運命で必然である」というふうに非論理的に幻想の必然性をつくりだし信じることもできる。運命の出会いや運命の赤い糸を必然であったかのように語り、それが非論理的であることを承知で夢見ることにロマンを感じることもまた、人間ならではの想像的世界を楽しむ情緒的ワンシーンである。

このように、論理的か非論理的かにかかわらず、私たちは客観の必然性をさも理解しているかのように主体として捉えることもできる。しかし論理的な正しさを徹底的に重視するのならば、周囲の環境変化や事象、自分自身の生命活動すべてについて完全な論理性を証明する能力が一人間にはないため、解釈に非論理的な偶然性を補完し、必然性に偶然性が伴って起きていると認識するほうが精確である。偶然性が伴えば、その事象は偶然となる。

主体として主観のみをはたらかせての認識は、すべて偶然であると言えよう。よって主体としての自由意志は有る。否、すべての思考と判断は自由意志だと言える。

 

4.自由意志について

ここで自由意志について少し掘り下げ、触れておくことにする。通常、私たちは必然性を考えながら計画や予定を立てたり危険を回避したりしながら生活している。必然性によって未来の事象を推測する能力が人間にはある。犬や猫、カラスにも推測する能力を認めることができる。しかし何もかもが計画や予定どおりには行かないことも知っている。買い物に出かける予定を立てていたが、家を出る直前におなかが痛くなったり、急用の電話が入ったり、買い物に行ったはいいが店が閉まっていたり、店に目当ての商品が無かったりなど、計画どおりに行かないことは日常茶飯事だ。

そうした主観的必然性を超えて生じる事象について必然だと解釈せず、私たちは偶然にそうなったから仕方ないとか、他者や自分に対して腹を立てるとか、今後はこういうことのないようにしようとか、計画の論理的欠落部分および偶然性を認識し、学習し、頭脳と心を整える。そのような習慣から、世界は必然性だけではなく偶然性が伴っていると認識しているからこそ、選択に迷い、判断に迷い、その上で意思決定を行っている。自由意志によって生じた責任の大半は自分にあると。

おなかを壊さないように朝食は何にするか、愛する人の誕生日プレゼントに何を贈ろうか、他人の迷惑にならずに電車に乗ること、社会のために何かをしたいので自分にできることをしよう、などを自分で思考し自分で判断するのは自由意志によると私たちは考えている。

しかし一方で、客観的な視座によって科学的に世界の解釈を試みれば、先天的な遺伝的要因と後天的な社会環境がもつ価値観の学習要因によって、自らの価値観や性格が自動的に形成され、すべては人間の心的欲求を原理とした必然であると解釈することもできる。

偶然性と必然性を対照的に捉え、両者が同時に存在することで生じる論理矛盾を積極的に受け容れることで、新たな知的パラダイムへの転換が可能になるのではないだろうか。

 

5.偶然性と必然性のアウフヘーベンと融合

偶然性と必然性を企図的にコンフリクトさせることでアウフヘーベンが起き、新しい第三の何かが生成される予感がある。偶然性と必然性は対立はしていても、相互に影響を与え合っている。私たち人間の認識における解釈は通常、主観と客観を無自覚的に混在させて行う。このとき、主観と客観は行ったり来たりを繰り返し、相互に関係しあう状態にある。関係は反発しあう場合もあるが、融合する場合もある。主観は偶然性を感じ非論理的解釈を生じさせ、客観は必然性を基に論理的解釈を追求する。

私たち人間は意識上では、一度に一つの文脈でしか思考することができない。同時に別々のことを並行して思考することができない。主観で事象の解釈に偶然性を介入させ、次に客観の必然性を考え解釈する、というふうになる。ところが意識上ではなく自己本体では、同時に複数の思考を並行して行っている。だから突然の閃きが起きる。自己意識では認識できない活動結果そのものを、自己本体の自由意志と定義することは可能だと思う。

難問であるので、引き続き考察を深めていきたい。

 

6.時間の不可逆性

さらに、自由意志を考える上で、時間の不可逆的性質を議論に含める必要がある。過去の出来事が未来の出来事に影響を与えるのは因果律によって当然だが、時間の不可逆的性質は未来に起きる事象が過去の事象に影響を与えることはないことを示している。物理的に、過去から未来へとエントロピーが増大することで時間の不可逆性が生じるのか、時間の不可逆性によってエントロピーが増大するのか、いずれにしても、時間の不可逆性によって過去と未来は非対称となる。

未来の事象によって人間の過去解釈は変わることがあるが、事象そのものは変わらない。現在の事象は過去の結果として必然的に決定されたと解釈することができるが、現在以降の未来の事象は現在において決定論的世界観をもって予測することはできず、偶然性が常に存在すると言える。

偶然性が常に存在するのであれば、思考し判断する自由意志は、必要不可欠と言えるのではないだろうか。

 

まとめ

偶然性と必然性、主体と客体、主観と客観、自由意志と世界決定論、自己本体と意識体、これらのテーマについての考察を深めることは、私の自己本体の中で閃きと洞察の化学反応が起きることに繋がる可能性があると考えている。

 

 

『正法眼蔵』から学ぶ


道元の大著『正法眼蔵』。今までは気が向いたとき断片的に、原典に軽く触れるだけだった。しかし原典は難しい。もし任意の一巻だけでも真剣に自力で解釈しようと思えば2-3日では済まない。解釈も日々変わる。

今回、思うところがあり、現代語訳の書物の手を借りながら真剣に読んでいくことにした。巻の数え方は諸説あるが「七十五巻」として進めていく。第一巻から読み始めるということではない。各巻には題が付いているので、その時々に興味を感じた巻を読んでいく。『正法眼蔵』だけにかかりきりにはなれないので、週に最低一度は触れる予定とし、サイトコンテンツ《断想》に、考察したものを著述していくことにする。数巻まとまってきたら、サイトコンテンツ《研鑽の足跡》の《「こころ」と「すがた」の涵養》に整理していく。

『正法眼蔵』の原典は、岩波書店『日本思想体系13 道元(上)/同14 道元(下)』を使用する。(上)には『辯道話』が、(下)には『十二巻 正法眼蔵』が所収されている。
『正法眼蔵随聞記』にあたる場合の原典は小学館『日本古典文学全集27 正法眼蔵随聞記』を使用する。

現代語訳として参考にする本は、河出書房新社 石井恭二訳『正法眼蔵 全四巻』、理想社 高橋賢陳訳『全巻現代訳 正法眼蔵 上下巻』、角川書店 増谷文雄訳『現代語訳 正法眼蔵 全八巻』、誠信書房 中村宗一訳『全訳 正法眼蔵 全四巻』、佼成出版社 木村清孝訳『『正法眼蔵』全巻解読』を使用する。

 

 

《断想》はプラクシス


《断想》を書くのはひさしぶりだ。約三か月ぶり。最近はインプットがほとんどでアウトプットが出来ていなかった。サボりだ。インプットは楽だからねえ。でもインプットだけでは全然身につかない。忘れてしまう。あまり意味がない。本来、アウトプットのためのインプットのはずだ。読書で学んだことを使っていくことで、はじめて身についていく。そういうものだろう。

ところで、このウェブサイト全域をリフレッシュしようと思い立ち、ひとつひとつの記事について見直しをしている。今ここに書いている《断想》は「投稿ページ」になり、サイト全域の記事は「投稿ページ」と「固定ページ」の二種類に分かれる。この一週間で、「投稿ページ」のすべてにチェックを入れ、リンク切れや誤字脱字の修正、文字の大きさやカラーの統一、ページURL統一のための変更、ごみ記事の削除などを行いすっきりした。「固定ページ」のほうは創造と変革が随時行うことになり自然に修正される。

「投稿ページ」コンテンツは《断想》であり、その日その日に想ったことについて書く。《断想》がブログと異なるのは、ブログの場合は日常の具体的な日記のような感じになるのに対し、《断想》は主に抽象的で論考的な文章になるか、詩作的文章になる。ほとんど詩はまだ書いていないけれど。コラムは社会的なことにたいする論考なのでこれも違う。とはいえ、今日のようなブログ的なエッセイを書くこともあるし、コラム的なことを書くこともある。それも含めて《断想》ということで。

過去7年間での《断想》は250記事でそれほど多くはない。でも一記事ずつチェックを入れていく作業はけっこうハードだった。集中したので時間を忘れフロー状態となりいつのまにか朝になっていた日が何度もあった。数年前に書いた記事は、未熟な見識のものもあったが熱意に溢れていた記事もあり、概ね、よく頭を使って書いていたなと過去の自分に感心したりもした。リベラリズムや subject の連作は力が入っていたし、日本の個性や日本文化の連作も忘れていたことを思い出させてくれた。星の王子さまの連作は「固定ページ」に移そうかなと考えている。「固定ページ」は現在150記事。どちらのページも増え続け、減ることはないだろう。

言うまでもなく、私の集大成は「固定ページ」にまとめられる。「固定ページ」全域を「人生の作品」とすることがライフワークである。

《断想》は「人生の作品」を創造するためのプラクシス(練習的実践)だと言ってよいだろう。どんどんプラクシスを行っていこうと改めて思う。

 

 

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